第二十一章 おばあちゃんの魔女
第二十一章 おばあちゃんの魔女
家へ帰っても、誰を物語に足したのか思い出せなかった。
奈津は鞄から絵本を出し、机へ置いた。
夕食を済ませ、洗い物をする。
泡のついた皿をすすいでいると、祖母の家の台所が浮かんだ。
祖母が流し台に立っている。
奈津は食卓で、絵を描いていた。
色鉛筆を並べ、短くなった一本を祖母に見せる。
祖母は手を拭き、鉛筆削りを出してくれた。
誰かを描いた。
祖母と、その人の話をした。
そこまでは思い出せた。
*
翌朝、猟師は自分でシャツのボタンを留めていた。
奈津が入ると、最後の一つを通したところだった。
「できた」
「痛くありませんでしたか」
「少しな。だが、昨日ほどじゃない」
猟師は左手を開いた。
奈津は状態を確認した。
傷の経過はよかった。
戻る時期について、今日、院長から説明がある。
「服は、捜査局で調べてもらうんだな」
「はい。確認が終わったら、返してもらいます。修繕のことも、引き継いでいます」
「頼む」
猟師は帽子を手に取った。
「替えの服でも、二人を助けることはできるからな」
奈津は頷いた。
服について知りたいことが残っていても、猟師には戻ってしたいことがある。
何もかもわかるまで、ここへ留めておくわけにはいかなかった。
*
午前中は忙しかった。
狼の処置が終わると、別の病室から呼ばれた。
狸の寝具を整え、食事の準備を手伝う。
ステーションへ戻ったときには、飲もうと思っていた水が、まだコップに残っていた。
「三崎さん、先に飲んで」
森に言われ、奈津はコップを持った。
「ありがとうございます」
「私も、さっき佐和さんに言われた」
森は笑った。
奈津は水を飲んだ。
佐和は廊下で、患者の歩く速さに合わせていた。
少し前へ出て、振り返る。
急がせず、待つ。
昨日、狸に添えていた手も、同じように穏やかだった。
一つずつ。
急ぐと、かえって痛いでしょう。
祖母も、そう言っていた。
*
休憩中、奈津は携帯電話を取り出した。
母へ短いメッセージを送る。
『子供のころ、おばあちゃんの家で描いた絵って、まだ残ってる?』
すぐには返事がなかった。
奈津は弁当を食べ、携帯電話をしまった。
午後の仕事が始まるころ、返事が届いた。
『何の絵?』
『おばあちゃんと、お話を作ったときの。人を描いた気がする』
『箱にあるかもしれない。見てみるね』
奈津は礼を返した。
そこまで読んで、携帯電話をロッカーへ戻した。
*
猟師は、翌日に戻ることになった。
院長との話を終えると、少し表情が緩んでいた。
「明日だ」
「はい」
奈津は戻る前の確認について説明した。
猟師は頷きながら聞いていたが、途中で帽子へ目を落とした。
「向こうも、明日になっているのか」
奈津は院長を見た。
「こちらで過ごした日数と、物語の中の時間は、同じではありません」
院長が答えた。
「戻る場面は、来院したときの状況と合わせて確認します」
「そうか」
猟師は帽子を膝へ置いた。
「婆さんの家が、夜になっていたら困ると思ってな」
奈津は記録した。
猟師は、戻った先の家を思い浮かべていた。
寝ている狼と、その腹の中にいる二人。
傷が治れば、そこへ帰る。
*
夕方、狸は猟師が戻ると聞き、しばらく黙っていた。
「狸さんは、まだ日を決めていませんよ」
奈津が伝えると、頷いた。
「うん。わかってる」
狸は食事のトレーを見た。
「猟師は、助けに行くんだね」
「そう話されています」
「そっか」
狸は箸を持ち直した。
「僕は、助けに行くんじゃないからな」
奈津は狸を見た。
狸は少し笑った。
「お婆さん、もういないし」
奈津は何も言えなかった。
傷が治っても、なかったことにはならない。
それは、狸がされたことだけでなく、狸がしたことについても同じだった。
奈津は水の位置を直した。
「食べ終わったころに、また来ますね」
「うん」
狸は小さく頷き、食事へ目を戻した。
*
退勤後、携帯電話に写真が届いていた。
古い菓子箱。
中に入った折り紙や、色あせた紙。
その上に、子供の字で書かれた一枚が置かれている。
『おばあちゃんのまじょ』
奈津は画面を広げた。
絵の女は、黒い三角の帽子をかぶっていた。
丸い眼鏡をかけている。
髪は白と灰色で塗られ、後ろで一つにまとめられていた。
片手には長い棒。
もう片方には、小さな袋。
奈津は更衣室の椅子へ座った。
魔女だった。
祖母を、魔女にしたのだ。
*
「魔女もいたらいいのに」
赤ずきんを読んでもらったあと、奈津はそう言った。
祖母は本を閉じずに尋ねた。
「何をする魔女?」
「助けるの」
「赤ずきんを?」
「うん」
祖母は少し考えた。
「どんな魔女にしようか」
奈津は祖母を指した。
「おばあちゃん」
祖母が笑った。
「私が魔女になるの?」
「おばあちゃんなら、助けてくれるから」
祖母は、奈津ができないことを手伝ってくれた。
ほどけなくなった靴ひもをほどく。
高い棚から物を取る。
転んだ膝を洗い、服のほころびを縫う。
困っていると、来てくれる。
奈津には、それが魔女のすることと少しも違わなかった。
*
紙を出してもらい、奈津は帽子を描いた。
眼鏡は祖母が手伝った。
持っている袋に何を入れるかも、二人で決めた。
魔法の粉。
困ったときに、ひとつまみ使う。
「何でもできる?」
奈津が尋ねると、祖母は鉛筆を持ったまま笑った。
「できすぎると、お話がすぐ終わってしまうね」
「じゃあ、困ったときだけ」
「そうしようか」
魔女は優しくて、強い。
離れたところにいても、助けを呼ぶ声が聞こえる。
行きたい場所へ、魔法で行ける。
奈津が言うたび、祖母は紙の裏へ書き足した。
けれど、赤ずきんのどこへ出すかは決められなかった。
先に助ければ、猟師の仕事がなくなる。
あとから出すなら、何をするのか。
考えているうちに夕食になり、奈津は色鉛筆を片づけた。
その日は、そこまでだった。
*
母から、紙の裏を写した写真が届いた。
『森のおくに、おばあちゃんの魔女が住んでいます』
『困っている子を見つけると、助けに行きます』
『魔法の粉を、ひとつまみ』
奈津は、祖母の字を見ていた。
その下にも、二人で決めたことが残っている。
優しい声。
遠くの声が聞こえる。
魔法で行ける。
母も、この紙を見た。
そう思った途端、別の夜が浮かんだ。
*
祖母は、その夜、家にいなかった。
奈津は絵を持ち、母のそばへ行った。
「読んで」
「何を?」
「これ」
奈津が紙を差し出すと、母は裏を見た。
「おばあちゃんの魔女?」
「うん。この魔女を出して」
母は、そばにあった赤ずきんの本を開いた。
森の中で、赤ずきんが魔女に会う。
ところが、その魔女は怖い声を出した。
赤ずきんを困らせる、悪い魔女だった。
奈津はすぐに、母の腕をつかんだ。
「違うよ」
母が読むのを止めた。
「こんな怖い魔女、おばあちゃんじゃない」
涙が出た。
奈津は絵を母へ押しつけた。
「おばあちゃんは、優しいの」
*
母は、奈津の顔を見た。
それから、少し声を変えた。
「では、優しい魔女が、赤ずきんに声をかけました」
今度の声は、怖くなかった。
奈津は母の膝へ寄った。
「助けてくれるの」
「狼から?」
「うん」
魔女は、赤ずきんを狼から守った。
祖母のように、困ったときに来てくれた。
奈津は袖で目を拭き、続きを聞いた。
けれど、赤ずきんが助かったあと、魔女は大怪我をした。
奈津は母を見上げた。
「強いんだよ」
「強いから、赤ずきんの代わりになれたの」
母はそう答えた。
奈津は、魔女が強ければ傷つかないと思っていた。
赤ずきんを助けたのに、魔女だけが痛い思いをする。
それが、嫌だった。
*
「子やぎも、助けられる?」
奈津は別の本を持ってきた。
七匹の子やぎ。
母は、その話にも魔女を出した。
狼が来る前に、魔女は子やぎたちの家へ着いた。
優しい声で話しかけ、狼から守った。
けれど、やはり最後には傷ついた。
子やぎたちは無事だった。
魔女は、大怪我をした。
「また?」
奈津が尋ねると、母は本を少し下ろした。
「みんなを助けたからね」
「魔女は、どうなるの?」
そこで母は、魔女が病院へ運ばれたことにした。
怪我は治る。
ちゃんと治してもらえる。
そう言われて、奈津はようやく安心した。
その夜の話は、そこで終わった。
*
更衣室の扉が開き、森が入ってきた。
「あれ、まだいたの?」
奈津は携帯電話を下ろした。
「母が、昔の絵を送ってくれて」
「へえ。見てもいい?」
奈津は画面を向けた。
森が顔を近づける。
「かわいい。おばあちゃんの魔女?」
「はい。祖母と、一緒に作ったんです」
「優しそう」
奈津は頷いた。
「困っている人を助ける魔女なんです」
「おばあちゃんも、そんな人だったの?」
「はい」
奈津は絵を見た。
魔女の顔を、祖母が少し描き直したことも思い出した。
奈津が描いた口は、横一直線だった。
祖母は、その両端を少し上げた。
「こっちのほうが、私らしいかな」
そう言って、絵と同じ顔で笑った。
*
母から電話が来た。
奈津は森へ挨拶をして、更衣室を出た。
「見つかったんだね」
「おばあちゃん、これを大事に取っておいたのよ」
母が答えた。
「裏は見た?」
「見た。お母さんに読んでもらったことも、思い出した」
「ああ……あのときね」
母は、少し間を置いた。
「最初、悪い魔女にしたよね」
「したわね」
「私、泣いた」
「泣いた。おばあちゃんは、こんな魔女じゃないって」
奈津は壁へ背を寄せた。
「どうして、悪い魔女にしたの?」
母は小さく息を吐いた。
「その前に、おばあちゃんと喧嘩したのよ」
「そうだったんだ」
「イライラしていたところに、奈津が、おばあちゃんの魔女を出してって言うから」
母は少し困ったように笑った。
「ちょっと、意地悪をしたくなったのね」
「それで?」
「奈津が泣いたから、優しい魔女に直したでしょう」
「うん。でも、助けたあとに大怪我した」
「そこは、意地悪が残ったのね。強い魔女だから、みんなの代わりに怪我をしたことにして」
奈津は携帯電話を持ち直した。
「おばあちゃんの代わりに?」
「……そうね。そうだったのかもしれない」
*
母は少し黙ったあと、言った。
「大人げなかったわ。子供に読む話なのにね。ごめんね」
「私じゃなくて、おばあちゃんに謝っておきなよ」
奈津が言うと、母は小さく笑った。
「そうね。今度、お線香をあげるときに」
「うん」
奈津も少し笑った。
母にとっては、昔の読み聞かせの話だった。
祖母と喧嘩をした。
腹いせに、祖母に似た魔女を怪我させた。
奈津が泣いたので、病院へ運ばれ、治ることにした。
その魔女が本当に傷つき、どこかの病院へ来ていたかもしれないことを、母は知らない。
「魔女が治ったあとの話は、あった?」
奈津は尋ねた。
「いいえ。あの話は、あれきりだったと思う」
「おばあちゃんが、続きを作ったりは?」
「さあ。おばあちゃんには、私からは話していないわ」
奈津は目を伏せた。
自分も、話した記憶はなかった。
*
祖母は、その後亡くなった。
奈津は、ほかの本を読むようになった。
魔女が病院へ運ばれたことも、いつしか忘れた。
絵だけが、祖母の菓子箱に残った。
「どうして、急にこの絵を?」
母が尋ねた。
「職場の人が、おばあちゃんと同じことを言ったんだよ」
「何て?」
「一つずつ。急ぐと、かえって痛いでしょうって」
「ああ、言っていたわね」
母の声が明るくなった。
「おばあちゃん、何でも手が早いのに、人には急ぐなって言うのよね」
「そうだったね」
奈津は笑った。
祖母なら、もう片方の靴まで脱がせ終えていたかもしれない。
それでも奈津が慌てれば、急がなくていいと言った。
「写真、ありがとう」
「ほかにも出てきたら、送るわね」
「うん」
奈津は電話を終えた。
*
もう一度、絵を開いた。
優しい声。
困っている子を助ける。
魔法の粉を、ひとつまみ。
祖母と決めたことが、紙の上に残っている。
母は、その魔女を物語へ出した。
魔女は奈津の願いどおり、赤ずきんと子やぎたちを助けた。
そのあと、傷ついた。
病院へ運ばれた。
治ったら、どうしたのだろう。
森の家へ帰ったのか。
また誰かを助けに行ったのか。
奈津は、何も聞いていなかった。
*
ステーションの前を通ると、佐和が端末に向かっていた。
丸い眼鏡。
後ろでまとめた髪。
奈津は足を止めた。
佐和が顔を上げた。
「三崎さん、忘れ物ですか」
「いえ。母と電話していて、遅くなって」
「そうでしたか」
佐和は微笑んだ。
「おばあさまのお話ですか」
「はい」
昨日、祖母と同じ言葉を使っていたと話した。
そのことを、佐和は覚えていた。
「昔、祖母と絵を描いたんです」
奈津は言った。
「祖母を魔女にして」
佐和は奈津を見ていた。
「優しくて、強くて、困っている人を助ける魔女です」
「……素敵ですね」
佐和は静かに答えた。
奈津は携帯電話へ手を伸ばしかけ、やめた。
今、見せたら、何を尋ねてしまうだろう。
「写真が残っていて。懐かしくなりました」
佐和は頷いた。
「大切にしていたんですね」
「祖母が、取っておいてくれたみたいです」
佐和は、少し目を細めた。
「よかったですね」
*
廊下を歩きながら、奈津は猟師の話を思い出した。
傷が治ったら、戻る。
二人を助けるために。
おばあちゃんの魔女は、もう助け終わっていた。
赤ずきんも、子やぎたちも、無事だった。
だから、その先を考えなかったのかもしれない。
病院へ運ばれ、治してもらえる。
子供の奈津には、それで十分だった。
けれど、治ったあとの魔女には、誰も次の場面を用意していなかった。
奈津は立ち止まった。
佐和は、この病院へどうやって来たのだろう。
いつから、ここにいるのだろう。
仕事を教えてもらい、何度も助けてもらった。
それなのに、奈津はそのことを知らなかった。
ステーションのほうを振り返る。
佐和は、もう端末へ目を戻していた。
患者のために働く、その横顔を、奈津はしばらく見ていた。




