第二十二章 治ったあと
第二十二章 治ったあと
猟師が戻る朝、奈津は帽子を渡した。
猟師は右手で受け取り、かぶってから、つばの位置を直した。
「これがないと、落ち着かんな」
左手でも、少しだけ触れる。
奈津はその動きを見た。
「痛みは、大丈夫ですか」
「ああ」
猟師は頷いた。
「昨日より、いい」
着替えを済ませ、捜査局へ預けた服についても確認した。
袖に残っていた白いものは、まだ何かわかっていない。
「服は、戻ったあとでも返してもらえるんだな」
「はい。返却の方法も、捜査局と確認しています。修繕についても、引き継いでいます」
「頼む。忘れないでくれ」
「はい。記録にも残しています」
奈津が答えると、猟師は笑った。
「何でも、書いてあるんだな」
*
患者来院部屋まで、佐和も一緒に歩いた。
猟師は自分で歩けた。
奈津は左側に付き、佐和は少し後ろを歩いていた。
「二人を助けたあとは、どうするんですか」
奈津が尋ねると、猟師は顔を向けた。
「そのあとの話か」
「はい」
「婆さんが、何か食わせてくれる話もある。赤ずきんが、もう道草をしないと約束する話もな」
猟師は帽子のつばを押し上げた。
「俺の話は、二人が無事なら、それでいい」
奈津は頷いた。
後ろで、佐和が尋ねた。
「猟師さんは、お怪我をされたまま帰ることはないんですか」
「狼を相手にすれば、多少はあるだろうが」
猟師は左腕を見た。
「今回みたいなのは、初めてだ」
「そうですか」
佐和は答えた。
奈津はその声を聞きながら、足元を見た。
助ける人が、傷つく。
昨日、思い出した話にも、それがあった。
*
必要な確認を終え、猟師は戻っていった。
最後に振り返り、二人へ頭を下げた。
「世話になった」
「お大事に」
奈津が言うと、佐和も同じ言葉を添えた。
見送りを終え、扉を閉める。
廊下へ戻る途中、佐和が言った。
「間に合うといいですね」
「赤ずきんと、お婆さんのところへですか」
「ええ」
奈津は頷いた。
「戻る場面は、確認できたんですよね」
「はい」
佐和は空になった部屋のほうを見た。
「続きを待っている人がいますから」
*
午前中の仕事を終え、奈津は物品を補充していた。
佐和が隣で、処置に使うものを揃える。
奈津は棚の扉を閉めた。
「佐和さんは、ここに長くいらっしゃるんですか」
佐和の手は、そのまま動いていた。
「そうですね。三崎さんよりは、ずっと」
「最初から、看護師として?」
佐和はガーゼをトレーへ置いた。
奈津を見た。
「どうして、そう思ったんですか」
「ここには、物語から来て、そのまま働く人もいるのかなと思って」
奈津は少し迷ってから続けた。
「怪我が治っても、戻る場面がない人は、どうなるのか」
佐和はトレーへ目を落とした。
「そういう人も、います」
「ここに、残るんですか」
「帰る先ができるまで待つ人もいますし、別の過ごし方を見つける人もいます」
奈津は佐和の手元を見た。
物品は、使う順番に揃っていた。
「佐和さんも?」
佐和は答えるまでに、少し間を置いた。
「私は、ここでできることがあったので」
*
狸が呼び出しのボタンを押した。
二人で病室へ向かう。
ベッドの脇へ落ちたタオルを、狸が取ろうとしていた。
「届かなくて」
「拾いますね」
奈津がかがむより先に、佐和がタオルを取った。
新しいものと交換し、狸の手元へ置く。
「ほかに、必要なものはありますか」
「水を、もう少し」
「はい」
佐和はコップを持った。
奈津は狸の姿勢を確かめた。
「傷は、響きませんでしたか」
「取ろうとしたら、ちょっと」
「無理に伸びなくて大丈夫ですよ」
狸は頷いた。
佐和が戻り、水を置く。
狸は両手でコップを持った。
「ありがとう」
佐和は微笑んだ。
奈津は、その顔を見ていた。
困っていると、来てくれる。
紙の裏に書いた魔女も、そういう人だった。
*
休憩に入る前、奈津は院長へ声をかけた。
「少し、お聞きしてもいいですか」
「どうしました?」
「続きを語られなくなった人についてなんですが」
院長は椅子を勧めた。
奈津は座り、膝の上へ手を置いた。
「怪我をして、ここへ来たあと、誰も続きを読まなかったら、その人はどうなるんでしょう」
「戻れる場面が残っている場合もあります。ただ、その人物の話が、そこで終わっていることもあります」
「病院へ運ばれました、で終わったら?」
院長は奈津を見た。
「その先が、語られていないんですね」
「はい」
奈津は携帯電話を出した。
祖母と描いた絵を開く。
「子供のころ、私が作った魔女なんです」
*
院長は、紙の表と裏を見た。
奈津は、祖母と設定を作ったことを話した。
その日は、物語へ出すところまでは決めなかった。
後日、母が読み聞かせの中へ登場させた。
魔女は赤ずきんや子やぎたちを助け、その代わりに大怪我をした。
病院へ運ばれ、怪我は治る。
そこで話が終わった。
母がなぜそう語ったかは、話さなかった。
今、院長に聞きたいことには、必要なかった。
「その魔女も、ここへ来たんでしょうか」
奈津が尋ねると、院長は写真から目を上げた。
「可能性はあります」
「絵を描いただけでは、存在しないんですよね」
「設定として用意された人物と、物語の中で行動した人物は、違います。お母さまが語ったことで、その魔女の出来事が生まれたんでしょう」
奈津は頷いた。
「傷が治ったら、帰れると思っていました」
「子供の三崎さんには、そこまでで安心できたんですね」
「はい」
院長は携帯電話を奈津へ返した。
「その先を語らなかったことを、三崎さんが今、全部背負う必要はありません」
奈津は画面へ目を落とした。
「でも、今ここにいるなら、知りたいです」
*
院長は少し考えた。
「三崎さん。その魔女に、心当たりがあるんですね」
奈津はすぐには答えなかった。
佐和の名前を口にしたら、何かが変わる気がした。
似ている。
優しい。
病院で働いている。
それだけで、同じ人だと言ってよいのだろうか。
「……似ている方がいます」
「どなたですか」
「佐和さんです」
院長は驚いた声を出さなかった。
机に置いた写真を、もう一度見た。
「佐和さんとは、そのお話をしましたか」
「祖母を魔女にした絵があるとは、伝えました。でも、怪我をして病院へ来たことは、まだ」
院長は頷いた。
「まず、本人に尋ねましょう」
奈津は顔を上げた。
「聞いても、いいんですか」
「ご自分が作った人物かもしれないと伝えることはできます。ただ、佐和さんにも、話したいことと、今は話したくないことがあるでしょう」
「はい」
「答えを急がず、聞いてみてください」
*
午後、佐和と二人になる時間は、なかなかなかった。
処置に入り、戻れば電話が鳴った。
別の患者の着替えを手伝い、配膳が始まる。
奈津は絵の写真を、何度も見なかった。
携帯電話はロッカーへ置いたままだった。
それでも、佐和が患者へ声をかけるたび、紙に描いた魔女の顔が浮かんだ。
佐和は、いつもどおり働いていた。
奈津が来る前から、この病院でそうしていたのだろう。
*
夕食のあと、佐和が休憩室でお茶を飲んでいた。
奈津は入口で足を止めた。
「今、少しお話ししてもいいですか」
「ええ」
佐和は隣の椅子を示した。
奈津は座り、携帯電話を出した。
「昨日の、祖母と描いた絵です」
画面を佐和へ向ける。
佐和は、すぐには手を伸ばさなかった。
黒い帽子。
丸い眼鏡。
後ろでまとめた髪。
小さな袋。
しばらく見てから、佐和は静かに言った。
「残っていたんですね」
奈津は携帯電話を持ったまま、佐和を見た。
*
佐和は、奈津へ目を向けた。
「おばあさまが、取っておいてくださったんですか」
「はい」
奈津の声は、小さくなった。
「佐和さんは、この魔女なんですか」
佐和はコップを机へ置いた。
底が触れる音が、思ったより大きく聞こえた。
「そうです」
奈津は絵へ目を戻した。
母が送ってくれた、古い紙。
子供の自分が描いた服。
祖母が描き直した口。
それが、今、隣に座っていた。
「私が……作った」
「おばあさまと、一緒に」
佐和は答えた。
「そのあと、お母さまが、私の話をしてくれました」
*
奈津は携帯電話を机へ置いた。
「怪我をしたんですよね」
「はい」
「ここへ、運ばれた」
「ええ」
佐和は、自分の左腕へ右手を添えた。
奈津はその仕草を見た。
「傷は、治りました」
佐和は言った。
「三崎さんが聞いたとおり、ちゃんと治してもらいました」
奈津は息を吐いた。
そのことに、安心してしまった。
けれど、佐和は続けた。
「治ったら、また誰かを助けに行くと思っていたんです」
奈津は顔を上げた。
「赤ずきんでも、子やぎでも。困っている子のところへ」
佐和は写真を見た。
「そういう魔女に、していただいたので」
*
「戻れなかったんですか」
「次に何をするのか、わかりませんでした」
佐和は静かに答えた。
「呼ばれるのを待っていました。しばらくは」
奈津は、猟師を見送った朝を思い出した。
続きを待っている人がいる。
佐和は、そう言っていた。
「そのうち、ここで手伝うようになりました」
佐和は自分の手を見た。
「物を取る。水を持っていく。痛いところを支える。できることから」
奈津は、狸の落としたタオルを拾う佐和を思い出した。
「ここにも、困っている人はいますから」
佐和は微笑んだ。
その顔は、絵の魔女に似ていた。
*
奈津は何か言おうとして、やめた。
ごめんなさい。
そう言えばよいのか、わからなかった。
子供だった。
病院が本当にあることも、登場人物がそこで待っていることも知らなかった。
それでも、話を途中で置いたのは自分たちだった。
「……私、忘れていました」
奈津は言った。
「怪我が治ると聞いて、安心して。そのあと、おばあちゃんが亡くなって」
佐和の目が、奈津へ向いた。
「亡くなられたんですか」
「はい」
佐和は黙った。
やがて、写真へ目を落とした。
「そうだったんですね」
奈津は、その声を聞いていた。
佐和は、祖母が亡くなったことを知らなかった。
続きを語る人がもういないことも、知らずに待っていた。
*
廊下で呼び出しの音がした。
佐和は反射的に顔を上げた。
すぐに別の看護師の声が聞こえ、佐和は椅子へ座り直した。
奈津も、廊下へ向けていた目を戻した。
机には、魔女の絵がある。
白い粉の出る、小さな袋。
奈津はその部分を見た。
猟師の袖。
子やぎの服。
佐和は、自分の物語で子やぎたちを助けた。
奈津は口を開きかけた。
けれど、まだ聞けなかった。
佐和が魔女だったことと、患者を傷つけた相手だったことは、同じではない。
そう、頭の中で確かめた。
*
「写真、送っていただけますか」
佐和が言った。
奈津は顔を上げた。
「はい」
「自分の顔を、こんなふうに見るのは、久しぶりなので」
奈津は頷いた。
佐和は紙の裏を見た。
優しい声。
困っている子を助ける。
魔法の粉を、ひとつまみ。
「おばあさまの字ですね」
「はい」
佐和は、指で画面には触れず、その文字を見ていた。
「私の続きも、考えてくださったでしょうか」
奈津はすぐには答えられなかった。
祖母なら。
祖母だったら。
そう考えかけて、やめた。
もう、祖母には尋ねられない。
「私は、考えたいです」
奈津は言った。
佐和が顔を上げた。
「佐和さんが、これからどうしたいかも、聞いて」
佐和はしばらく奈津を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……今度は、私にも聞いてくださるんですね」
奈津は机の上の絵へ目を落とした。
子供のころは、優しい魔女にしたかった。
強い魔女にしたかった。
助けてくれる魔女にしたかった。
魔女自身が何をしたいのかは、一度も尋ねていなかった。




