第二十三章 代わりの悪役
第二十三章 代わりの悪役
翌朝、佐和はいつもの場所にいた。
「おはようございます」
奈津が挨拶をすると、佐和は顔を上げた。
「おはようございます」
声も、表情も、昨日までと同じだった。
「写真、ありがとうございました」
「いえ」
「裏の文字まで、よく見えました」
奈津は頷いた。
佐和は申し送りの資料を揃えた。
「狸さん、夜はよく眠れたそうです」
「よかったです」
仕事の話になれば、返事ができた。
昨夜、佐和は自分が奈津の作った魔女だと認めた。
それでも朝になれば、同じように患者の話をしていた。
奈津は隣の椅子へ座った。
*
狸の傷は、順調に治っていた。
寝返りをするときの痛みも、軽くなっている。
奈津が処置を終えると、狸は脇腹を見た。
「穴、ふさがってきた?」
「はい。傷は小さくなっています」
「そっか」
狸は掛け物を戻した。
うれしそうではなかった。
奈津は椅子を寄せた。
「戻ることが、気になりますか」
「うん」
狸は頷いた。
「よくなったって言われると、よかったと思うんだけど」
「はい」
「そのあと、帰るんだなって思う」
奈津は黙って聞いた。
「ここに、ずっといたいわけじゃないよ」
狸は付け足した。
「でも、まだ」
「そのことは、院長にも伝えています」
狸は奈津を見た。
「今日、決まる?」
「今日は、お話をする予定です。戻る日を必ず決めるということではありません」
狸は少し息を吐いた。
「うん」
*
院長との話には、佐和も同席した。
狸は、傷のことより、舟のことを多く話した。
背中を焼かれる。
辛子を塗られる。
そのあと、兎に誘われる。
「わかっているのに、行くんだよね」
狸は膝の上で手を重ねた。
「行きたくないんだけど」
奈津は、その手を見ていた。
「今、戻ることを決められないんですね」
院長が確認すると、狸は頷いた。
「はい」
「では、少し時間を取りましょう。その間に、戻る場面について確認します」
狸は顔を上げた。
「待っていても、いい?」
「はい」
佐和が、狸のそばで言った。
「もう少し、ここで休めますよ」
狸はようやく、肩の力を抜いた。
*
病室を出たあと、佐和は廊下の窓を見た。
「帰りたくないんですよね」
奈津は佐和へ目を向けた。
「狸さんですか」
「ええ」
「今は、そうだと思います」
佐和は小さく頷いた。
「何度も、同じことを話していました」
奈津は、その横顔を見た。
自分がここで働き始めるより、ずっと前から聞いていたのだろう。
狸が来て、傷を治し、また戻っていくのを。
*
昼休み、奈津は院長へ、昨夜の会話を報告した。
佐和が、自分の作った魔女だと認めたこと。
怪我が治ったあとも、続きを待っていたこと。
祖母が亡くなったことを、知らなかったこと。
院長は最後まで聞いた。
「本人と話せたんですね」
「はい」
奈津は携帯電話を出した。
紙の裏の写真を開く。
魔法の粉を、ひとつまみ。
「これも、気になっています」
院長は画面を見た。
「佐和さんは、粉を使う魔女です。子やぎさんの話にも、登場しています」
奈津は一度、言葉を切った。
「猟師さんの袖に付いていたものと、関係があるのか……私には、わからないんですが」
「捜査局へ伝えましょう」
院長は答えた。
「この写真と、佐和さんから聞いたことを共有してもよいですか」
奈津は頷いた。
「お願いします」
*
午後、童話犯罪捜査局の捜査員が二人来た。
院長と話したあと、佐和へ面談を申し入れた。
奈津は別室で、魔女を作った経緯を確認された。
祖母と描いた絵。
母が読み聞かせの中へ登場させたこと。
魔女が主人公を助け、その代わりに大怪我をしたこと。
病院へ運ばれたところで、話が終わったこと。
捜査員は写真を見ながら、奈津の説明を聞いた。
「粉の使い方を、どこまで決めたか覚えていますか」
「困ったときに使う、と。それで何ができるかは、いろいろ話したと思います。でも、全部は覚えていません」
「覚えていないところは、そのままで大丈夫です」
奈津は頷いた。
あのときは、楽しかった。
魔女にできることを、一つずつ増やした。
その魔女が本当に何かをすると、考えたことはなかった。
*
佐和の面談中、奈津は病棟へ戻った。
狸は窓の外を見ていた。
「今日、佐和さんは?」
奈津は掛け物を整えた。
「今、お話し中です」
「そっか」
「何か、お願いしたいことがありましたか」
「服のこと。まだ戻ってこないかなと思って」
「確認してきますね」
狸は頷いた。
奈津は痛みを尋ねた。
狸は、朝と変わらないと答えた。
水を取り替え、手元へ置く。
今できることを終えてから、奈津は病室を出た。
*
しばらくして、院長に呼ばれた。
佐和が、奈津にも話したいと言っているという。
「同席できますか」
奈津は院長を見た。
「事件のことですか」
「はい。傷をつけたことを、認めています」
奈津は息を吸った。
返事が、すぐには出なかった。
院長は待った。
「……聞きます」
奈津は答えた。
*
面談室には、佐和と捜査員がいた。
奈津は院長の隣へ座った。
佐和は、膝の上に両手を置いていた。
捜査員が、ここまで確認した内容を伝えた。
子やぎ、狼、狸、猟師の場面へ干渉したこと。
その結果、四人に傷を負わせたこと。
猟師の袖に残った粉も、自分が使ったものだと佐和は話している。
奈津は佐和を見た。
佐和は小さく頷いた。
「私が、しました」
*
「子やぎさんは、助けに行ったんです」
佐和は話し始めた。
「狼が来る前に。私の話でも、そうして助けたので」
奈津は、母に読んでもらった夜を思い出した。
魔女が先に家へ来る。
子やぎたちを守る。
そのあと、魔女が傷つく。
「でも、戸を開けてもらえませんでした」
佐和は続けた。
「知らない声だから、開けないと」
捜査員が尋ねた。
「そこで、魔法を使ったんですね」
「はい。戸の隙間から粉を入れて、閂を動かそうとしました」
佐和は、自分の指を見た。
「中の様子がよくわからないまま、力をかけて。戸のそばへ来た子やぎさんを、傷つけてしまいました」
奈津は机へ目を落とした。
開けなかった戸。
服の前に付いた粉。
記録にあったことが、つながっていく。
「助けようとしたんです」
佐和は言った。
「それなのに、私のせいで病院へ来ました」
*
「狼さんと狸さんについて、話してください」
捜査員が言った。
佐和はしばらく黙った。
「お二人は、何度も来ていました」
やがて、口を開いた。
「もう嫌だと、いつも話していました。腹を切られる。背中を焼かれる。舟に乗せられる」
奈津は、今朝の狸を思い出した。
「同じ話が読まれるたび、また傷つくんです。困っていると思いました」
佐和は顔を上げた。
「でも、治ると戻っていきます。嫌だと言っていたのに、また戻って、また来る」
「それを、止めようとした?」
「はい」
佐和は頷いた。
「その役から、いなくなれば。もう、同じ目には遭わないと思いました」
*
捜査員は、佐和の言葉を確かめた。
「物語から消そうとしたんですね」
「……はい」
奈津は膝の上で手を重ねた。
狼の背中。
狸の脇腹。
自分が処置した傷が浮かんだ。
消すために、付けられた傷だった。
「お二人がいなくなったあと、自分が代わりに入ることも考えていたんですね」
捜査員が続けた。
佐和は頷いた。
*
「悪い魔女なら、いろいろなお話にいます」
佐和は言った。
「狼がいなくても、魔女が赤ずきんを困らせる話にはできます。狸の代わりに、兎にやっつけられることも」
奈津は佐和を見た。
その先には、傷つく結末がある。
佐和も、それを知っている。
「怪我をする役でも、よかったんですか」
捜査員が尋ねた。
「はい」
佐和は答えた。
「治れば、また呼ばれますから」
奈津の指が、膝の上で止まった。
「私は、治ったあと、何もありませんでした」
佐和は机の端を見た。
「お二人には、嫌な役でも、呼ばれる場所があります」
少し間があった。
「うらやましかったんです」
*
病院へ運ばれた魔女の怪我は、治る。
母は、そう言った。
奈津は安心した。
そして、別の本を読むようになった。
佐和の傷が治ったあとを、誰も語らなかった。
奈津は隣に座る院長へ目を向けかけ、やめた。
今聞いているのは、知らない誰かが途中でやめた物語ではない。
自分が続きを作らなかった話だった。
*
「猟師さんを狙った理由は?」
捜査員が尋ねた。
佐和は唇を結んだ。
「狼さんも、狸さんも、消えませんでした。傷は治って、また戻ろうとしていました」
「それで、猟師さんを?」
「狼さんを傷つける人がいなくなれば、今度は変わるかもしれないと思いました」
「猟師さんが助ける赤ずきんと祖母については、どう考えていましたか」
佐和は答えなかった。
捜査員は待った。
やがて、佐和が言った。
「考えないように、していました」
奈津は目を伏せた。
佐和は、昨日見送った猟師の背中を、どんな気持ちで見ていたのだろう。
続きを待っている人がいる。
あのとき、佐和はそう言った。
*
捜査員は、魔法の使い方についても確認した。
自分の出番として呼ばれていない場面では、佐和の姿は現れない。
ただ、物語が止まっている間なら、粉を使って声や足音を届けることができた。
粉が触れたものへ、力をかけることもできる。
狼と狸の傷には、その力を使った。
猟師の場面では、開いた戸から粉を送り込んだ。
「足音は、何のために出したんですか」
捜査員が尋ねた。
佐和は少し考えた。
「振り向いてほしかったんです」
「相手に?」
「はい。私がいることに、気づいてほしくて」
奈津は、狼の言葉を思い出した。
近かった。
すぐ、後ろにいたみたいだった。
そこに、佐和はいた。
けれど、姿を与える言葉がなかった。
*
猟師が振り返ったときに戸が動いたのも、佐和が粉でかけていた力を離したためだった。
捜査員は、その説明を記録した。
「患者さんの話と、服に残ったものを照合します。ほかの場面へ干渉していないかも、引き続き確認します」
佐和は頷いた。
「はい」
「これ以上、患者さんの物語へ行かないでください。粉と、魔法に使っているものは、こちらで預かります」
「わかりました」
院長も、佐和を患者へ直接関わる業務から外すと伝えた。
患者への説明は、捜査局と確認したうえで進める。
奈津は、そのやり取りを聞いていた。
傷つけられた患者がいる。
これ以上、同じことが起きないようにしなければならない。
そのことと、自分が佐和を置いていったことは、どちらもここにあった。
*
確認が一段落すると、佐和は奈津を見た。
「三崎さん」
奈津は顔を上げた。
「昨日、続きを考えたいと言ってくださって、うれしかったです」
佐和は少しだけ口元を動かした。
「でも、これを知ったら、もう嫌になると思いました」
奈津はすぐには答えられなかった。
机の上に、祖母と描いた絵が表示されていた。
優しい声。
困っている子を助ける。
魔法の粉を、ひとつまみ。
自分が、そうしてほしいと頼んだ。
母が物語へ出した。
傷ついた魔女が病院へ運ばれると、奈津は安心して、話を終わりにした。
「……治ったら、それで大丈夫だと思っていました」
奈津は言った。
「そのあと、佐和さんがどこへ帰るかも、何をするかも、考えませんでした」
佐和は奈津を見ていた。
「私は忘れていたけど、佐和さんは、ずっとここにいたんですね」
「はい」
奈津は指先を握った。
「私が、続きを作らなかったんですね」
*
佐和は、すぐには何も言わなかった。
奈津も、次の言葉を見つけられなかった。
子供だった。
本当の病院があることも、魔女がそこで待つことも知らなかった。
それは、確かだった。
けれど、それを言っても、佐和が待った時間は短くならない。
「ごめんなさい」
奈津は言った。
佐和の眼鏡の奥で、目が動いた。
「三崎さんが、知らなかったことは、わかっています」
佐和は静かに答えた。
「でも、私は、続きを待っていました」
奈津は頷いた。
「はい」
それ以上、うまく言えなかった。
*
「悪い魔女になることも、考えたんです」
佐和は写真へ目を向けた。
「優しい魔女のままでは、もう出られないのかもしれないと思って」
奈津は、紙に描いた顔を見た。
祖母が、口の両端を少し上げた。
こっちのほうが、私らしいかな。
あのときの笑い声を覚えている。
その顔を持った魔女が、悪役の空いた場所を探していた。
「昨日、私にも聞いてくれると言ってくれましたね」
佐和が言った。
「はい」
「何をしたいか、すぐには答えられませんでした」
奈津は佐和へ目を戻した。
「助ける魔女に戻りたいのか。悪役でもいいから、出たいのか。それとも、ここにいたいのか」
佐和は膝の上で手を開いた。
「自分でも、わからなくなっていました」
*
廊下で、呼び出しの音がした。
佐和が反射的に顔を上げた。
すぐに別の看護師の声が聞こえた。
佐和は視線を戻した。
奈津は、その動きを見ていた。
ここで過ごした時間も、佐和の一部になっている。
昔の絵だけを見て、元の優しい魔女へ戻せば済むわけではなかった。
「今は、答えが出なくても」
奈津は言いかけ、少し間を置いた。
「……私は、もう忘れたままにはしません」
佐和は奈津を見た。
奈津は続けた。
「何をすればいいかは、まだわからないです。でも、ここにいる佐和さんと、話したいです」
佐和は、ゆっくり頷いた。
*
面談室を出たあと、奈津は廊下の椅子へ座った。
携帯電話には、祖母と描いた魔女が映っていた。
佐和は、祖母をモデルにして生まれた。
でも、祖母そのものではない。
母が語った夜を生き、病院で待ち、働いてきた人だった。
傷つけた患者がいる。
その人たちに説明し、確かめなければならないことがある。
奈津にも、佐和へ話すことが残っていた。
「三崎さん、大丈夫?」
森の声がした。
奈津は携帯電話を伏せた。
答えようとしたが、声が出なかった。
森は手にしていたトレーを机へ置き、水を持ってきた。
「少し、座っていようか」
奈津は頷いた。
森が隣へ座る。
奈津はコップを受け取り、両手で持った。
水を一口飲むと、目から涙が落ちた。
森は何も尋ねず、そばにいた。




