62
地下神殿は静まり返っていた。
黒い水面。
無数の棺。
そして。
二千年以上閉じ込められた冷気。
そこへ、レイの声だけがぽつりと落ちる。
「……のだぁ……」
イリシアは動かなかった。
白い髪だけが、微かな光を纏って揺れている。
その光のおかげで、真っ暗な地下でも彼女だけは見えた。
逆に言えば。
それ以外は何も見えない。
世界から切り離されたみたいな暗闇だった。
レイはしばらく黙っていた。
頭の奥では、まだ知らない記憶が痛んでいる。
雪の宮殿。
王女。
狂王。
そして。
アルト。
調子の良い近衛兵。
軽薄で。
馬鹿で。
女好きで。
なのに。
王女のことだけは妙に好きだった男。
「……のだぁ」
レイはゆっくり立ち上がった。
イリシアは逃げない。
ただ冷たい目で見ている。
憎悪。
疲労。
孤独。
全部混ざったような目だった。
レイは少し考える。
そして。
何故か。
抱きしめた。
「…………」
イリシアの体が止まる。
冷たい。
氷みたいだった。
人間の温度ではない。
レイはそれでも離さなかった。
「……のだぁ……」
低い声。
「確かにぃ」
ぽつり。
「裏切らずに殿下と駆け落ちした後でぇ」
イリシアの肩がぴくっと震える。
「いっぱい子作りした方がお得だったのだぁ」
地下神殿が静まる。
棺の奥の気配まで止まった気がした。
「残念なのだぁ」
レイは本気でそう思っていた。
「これじゃ殿下と子作りできないのだ」
静寂。
数秒。
完全な静寂。
そして。
イリシアの瞳がゆっくり見開かれる。
「…………は?」
初めてだった。
彼女の感情が、“憎悪以外”へ揺れたのは。
レイは真顔だった。
「殿下、めちゃくちゃ綺麗だったのだぁ」
懐かしそうですらある。
「白くてぇ」
「ほっぺもちもちでぇ」
「いっぱい食べさせたかったのだぁ」
イリシアが固まる。
理解不能だった。
二千年以上。
彼女はずっと。
裏切りを反芻していた。
苦痛を覚えていた。
なのに。
この男。
考えていたのがそれなのか。
「……お前」
声が震える。
「本当に」
「馬鹿なの」
「のだっ♡」
レイはちょっと嬉しそうだった。
「獣人族の天才なのだぁ!」
どやぁ。
地下神殿に沈黙が広がる。
イリシアは呆然としていた。
怒りすら少し止まっている。
なにせ。
二千年ぶりに再会した裏切り者が。
『子作りした方がお得だった』
と本気で後悔している。
意味がわからない。
レイはさらに続けた。
「でもぉ」
少しだけ声が弱くなる。
「アルトはお馬鹿だったのだぁ」
暗闇の中。
レイの銀髪だけがわずかに光を反射する。
「怖かったのだぁ」
イリシアが動きを止める。
「王様怖かったのだぁ」
ぽつり。
「死ぬの嫌だったのだぁ」
静かな声だった。
今までの軽さが少し消えていた。
「だから逃げたのだぁ」
「…………」
「でもぉ」
レイはイリシアを抱きしめたまま、小さく尻尾を揺らした。
「殿下、こんなになってたなら損なのだぁ」
完全に価値観がおかしい。
だが。
そこだけは妙に真っ直ぐだった。
「二千年も泣いてるのだぁ」
イリシアの瞳が揺れる。
彼女は気づいていなかった。
自分が泣いていたことに。
頬を伝うものがある。
冷たい涙。
二千年ぶりだった。
「のだぁ……」
レイは少し困った顔をする。
「吾輩、難しいことわからないのだぁ」
それは本当だった。
国家。
禁忌儀式。
前世。
全部よくわからない。
だが。
この女がずっと一人だったことだけは、臭いでわかった。
寒い臭い。
寂しい臭い。
二千年閉じ込められた臭い。
「……だから」
レイはぽつりと言う。
「もうちょっと一緒にいるのだぁ?」
地下神殿が静まり返る。
イリシアはレイを見上げた。
銀髪の男。
顔は同じ。
声も似ている。
なのに。
昔のアルトとは少し違う。
もっと馬鹿で。
もっと獣で。
でも。
妙に温かい。
「…………」
イリシアの唇が震える。
憎んでいた。
二千年。
ずっと。
なのに。
抱きしめられているだけで、寒さが少し消えている。
それが。
何より許せなかった。




