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森の空気が変わったのは、一瞬だった。
ついさっきまで静かだった針葉樹林が、急に冷たくなる。
いや。
冷たいというより、“重い”。
兵士たちは息を呑んだ。
空気そのものが沈んでいる。
肺へ鉛を流し込まれるみたいだった。
「……っ」
若い兵士が膝をつく。
馬まで怯えて後退りした。
霜が広がっていく。
地面。
木。
死んだ葉。
全部が白く染まり始める。
その中心で。
白髪の女だけが静かに立っていた。
「…………」
感情が見えない。
ただ。
目だけが異様に冷たい。
兵士たちは理解していた。
これは人間ではない。
少なくとも普通ではない。
一方。
「のだぁ?」
レイだけは首を傾げていた。
その時だった。
女の細い指先が、ゆっくり持ち上がる。
次の瞬間。
どんっ。
見えない何かが、レイへ叩きつけられた。
「のだぁ!?」
銀髪の巨体が地面へ沈む。
膝が落ちた。
森が揺れる。
兵士たちは絶句した。
「レイ様が……!?」
「膝を……」
あり得ない。
世界最強。
山を砕き。
魔物を潰し。
戦争級災害を単独処理する怪物。
そのレイが。
押さえつけられている。
「のだぁ……?」
レイ自身も困惑していた。
見えない。
何かが。
上から押してくる。
重い。
空そのものが乗っているみたいだった。
女は静かにレイを見下ろしていた。
その瞳には。
憎悪があった。
あまりにも深い。
二千年分沈殿したみたいな、冷たい憎しみ。
「……見つけた」
初めて。
女が口を開いた。
声は小さい。
だが。
妙に古い響きだった。
現代のルミナス語と少し違う。
兵士たちは寒気を覚えた。
「ようやく」
白い髪が風もないのに揺れる。
「ようやく見つけた」
レイは困惑していた。
「のだぁ?」
本気で意味がわからない。
だが。
女は一歩近づいた。
白い指がレイの顎を持ち上げる。
兵士たちは動けなかった。
怖すぎる。
空気が違う。
この女の周囲だけ、まるで時代そのものがズレていた。
「逃がさない」
静かな声。
「今度こそ」
レイは完全に混乱していた。
「のだぁ!?」
「お主、誰なのだぁ!?」
女は数秒黙った。
そして。
「私は」
目を伏せる。
「二千三百年前、アストラディア王国第四王女――イリシア」
兵士たちの顔色が変わる。
アストラディア。
古代滅亡王国。
神話時代の国家名だった。
現代では半分伝説だ。
だが。
その名を聞いた瞬間、年嵩兵士の顔が凍りついた。
「……まさか」
小さく呟く。
「《白雪王女》……?」
古い禁忌伝承だった。
二千年以上前。
狂王エルディオン。
永遠の王権を求め、王女を生贄へ捧げようとした。
古代禁忌儀式。
王族血統。
大量虐殺。
魂固定。
その結果。
国そのものが滅びた。
そう伝わっている。
女――イリシアは静かにレイを見下ろしていた。
「お前は」
白い瞳。
「私を売った」
森がさらに冷える。
「近衛兵アルト」
その名前を聞いても。
レイはぽかんとしていた。
「のだぁ?」
本当にわからない。
「誰なのだぁ?」
イリシアの目が細くなる。
「……覚えていないの」
「のだぁ」
レイは真顔だった。
「吾輩レイなのだぁ」
本気だった。
前世。
魂。
そんなもの知らない。
レイにあるのは。
肉。
美女。
褒め言葉。
大体それだけである。
だが。
イリシアはレイを見つめ続けた。
そして。
ぽつり。
「そうやって」
静かな声。
「また忘れるのね」
そこには怒りだけではない、もっと深い疲れがあった。
二千年以上。
生き残ってしまったものだけが持つ、冷たい絶望。
「私は覚えているのに」
霜が広がる。
兵士たちは震えていた。
誰も理解できない。
だが。
この女が、人間の歴史そのものみたいな存在だということだけはわかった。
「お前は」
イリシアはレイの髪へ触れる。
「最初に裏切った」
その瞬間。
レイの脳裏へ、一瞬だけ知らない景色が走った。
雪。
白い宮殿。
泣いている少女。
血。
燃える塔。
「――っ」
レイの目が見開く。
頭が痛い。
「のだぁ……?」
イリシアはそれを見て、静かに息を吐いた。
「やはり」
感情の薄い顔。
だが。
ほんの少しだけ、そこへ狂気が混じる。
「お前だった」
兵士たちは完全に凍っていた。
逃げたい。
だが逃げられない。
この森そのものが、彼女の支配下みたいだった。
そして。
イリシアは静かに告げた。
「回収する」
「のだぁ!?」
レイが困惑する。
「お前は私のもの」
静かな声。
「二千年前から、ずっと」




