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西部地方視察は、表向きには成功だった。
少なくとも記録上は。
第一王子ピロシキは各地の兵士を慰問し、地主たちと会談し、地方役人へ改革姿勢を示し、住民代表へ“王都は地方を忘れていない”という言葉まで与えた。
拍手も起きた。
乾杯もした。
新聞記者も満足そうだった。
だが。
実態は違う。
行列全体へ、妙な疲労がこびりついていた。
原因はもちろん、あの日街道で遭遇した“黒い影”だった。
誰も口には出さない。
だが。
兵士たちは皆、夜になると周囲を気にするようになっていた。
灯りを増やし。
見張りを倍にし。
物音だけで剣を抜く。
王子自身も同じだった。
今夜も、地方領主館の最上階私室で、ピロシキはワインを乱暴に飲み干していた。
「……くだらん」
吐き捨てるように言う。
しかし声が硬い。
側近は黙っていた。
「地方の迷信だ」
王子は再び言う。
「怨霊だの呪いだの……馬鹿馬鹿しい」
だが。
その顔色は悪かった。
目の下には隈ができている。
数日眠れていないのだ。
当然だった。
あの“影”は、人間の本能へ直接触る。
理屈ではない。
死臭。
飢え。
恨み。
それらを見せつけられれば、普通の人間は消耗する。
まして王子は、魔物と日常的に戦う兵士ではない。
政治の中央にいる人間だった。
それでも。
彼は視察を投げなかった。
理由は単純。
弱みを見せれば終わるからだ。
王都では一度の失態が命取りになる。
恐怖で逃げ帰った王子。
そんな噂が流れれば、敵対派閥は一斉に噛みつく。
だから。
吐き気を我慢しながら笑い。
震えを隠しながら握手し。
眠れぬまま演説した。
王族とは、そういう生き物だった。
「……殿下」
側近が小さく言う。
「本日はもうお休みを」
「黙れ」
ピロシキは窓の外を睨んだ。
地方の夜は暗い。
王都と違い、灯りが少ない。
その暗闇を見るたび、あの影たちを思い出してしまう。
だから余計に機嫌が悪かった。
「……あの獣人はどうしている」
側近は少し困った顔をした。
「それが……」
「何だ」
「食堂で、ずっと食べています」
沈黙。
ピロシキは眉をひそめた。
「……またか」
その頃。
領主館一階大食堂。
兵士たちは妙な空気になっていた。
「レイ様……」
「大丈夫ですか……?」
「のだぁ」
銀髪の巨大男は、無言で食べ続けていた。
肉。
パン。
スープ。
とにかく食う。
しかも尋常じゃない量だった。
皿がどんどん積み上がる。
使用人たちが青ざめ始めるレベルである。
「レイ様、少し休まれた方が……」
「のだぁ」
返事は短い。
そしてまた食う。
兵士たちはオロオロしていた。
理由。
獣人族の伝説を知っているからである。
『食べ過ぎで死ぬ』
あまりにも馬鹿みたいな理由だが、実際大量に死んでいたらしい。
特にレイは。
今、明らかに様子がおかしい。
「止めた方が……」
「いやでもレイ様怒るぞ」
「でもこの量はやばいだろ」
若い兵士たちが小声で相談している。
一方。
レイは黙々と肉を食べていた。
その顔は無表情だった。
珍しい。
普段のレイなら。
美味いだの。
幸せだの。
のだぁだの。
うるさいくらい喋る。
だが今日は違う。
「…………」
無言。
ただ食べる。
兵士たちは気づいていた。
レイも、あの“影”を引きずっているのだと。
ただ。
彼は人間みたいに酒を飲んで忘れることが苦手だった。
だから食べる。
獣人族だから。
嫌な臭い。
不安。
恐怖。
そういうものを感じると、本能的に食料を詰め込む。
生存本能だった。
「のだぁ……」
レイはぽつりと呟いた。
「嫌な臭いだったのだぁ」
兵士たちは黙る。
「お腹空いて死んだ臭いなのだぁ」
静かな声だった。
「寒い臭いなのだぁ」
また肉を食う。
大きな手。
強すぎる腕。
そのくせ今は、どこか怯えた獣みたいだった。
「……レイ様」
年嵩の兵士が恐る恐る言う。
「もう十分食べました」
「のだぁ」
「本当に死にますよ」
レイは数秒止まった。
そして。
「吾輩、死なないのだぁ」
ぽつり。
「でもぉ」
少しだけ目を伏せる。
「食べてないと変なこと考えるのだぁ」
その言葉に、食堂は静かになった。
兵士たちは理解した。
この世界最強の獣人も。
怖かったのだ。
ただ。
人間みたいに上手く怯えられないだけで。




