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西部街道は昼間であるにもかかわらず薄暗かった。
それは単に天候のせいではない。
空そのものが、どこか濁っていたのである。
黒い雲が垂れ込めているわけでもない。霧が深いわけでもない。なのに光が弱い。まるで世界全体へ薄墨を流したみたいに、景色の輪郭だけがぼやけていた。
王子ピロシキの行列は、街道中央で止まっていた。
馬が怯えている。
鼻息が荒い。
近衛兵たちも明らかに動揺していた。
「……何だこれは」
誰かが震え声で呟いた。
答えられる者はいなかった。
街道の先。
古い集落跡がある。
数十年前に滅びた村だった。飢饉と疫病、それに徴兵で若い男が消えたせいで維持できなくなり、最後は盗賊と魔物に潰された。王都ではほとんど記録にも残っていない小村である。
だが今、その廃村の周囲に“人影”が立っていた。
いや、人影のようなもの、と言うべきだった。
黒い。
ぼやけている。
輪郭が曖昧で、まるで泥と煙で人間を形作ったみたいに揺らいでいる。
しかも数が多い。
老人。
女。
子供。
兵士。
荷車を引く農民。
皆、静かにこちらを見ていた。
その視線だけで、近衛兵たちの背筋は凍りついていた。
「ひっ……」
若い兵士が剣を落とした。
金属音が響く。
その瞬間だった。
影たちの顔が、一斉にこちらを向いた。
空気が変わる。
冷たい。
肌へまとわりつくような寒気だった。
「な、なんだこれは……!」
ピロシキ王子の声は完全に上擦っていた。
普段の傲慢さも威厳も消えている。
それも無理はない。
王都育ちの王族は、基本的に本物の地獄を知らない。
見捨てられた地方。
飢え。
冬。
死臭。
そういうものは書類でしか知らない。
だが今、目の前にいる“何か”は、その全てを濃縮したみたいな臭いを放っていた。
腐臭。
飢え。
怨み。
レイは黙って立っていた。
銀髪だけが風に揺れている。
腰の剣へ手はかかっていた。
だが。
抜いていない。
「……のだぁ」
小さな声だった。
レイの鼻は、普通の人間とは違う。
だからわかってしまう。
この臭いを。
腹が減って死んだ臭い。
寒くて死んだ臭い。
見捨てられて死んだ臭い。
そして。
誰にも覚えられなかった臭い。
レイはそれを知っている。
オルジェフ地方で嗅いだ。
セルニカ村でも少しだけ似た臭いがあった。
だから。
切る気になれなかった。
目の前にいるものは、ただの怪物ではなかったからだ。
怨みだった。
この国が積み重ねたものだった。
その時、影たちが動いた。
ずるり。
まるで地面を滑るみたいに近づいてくる。
兵士たちが悲鳴を上げた。
「来るぞ!!」
「構えろ!!」
だが誰も前へ出ない。
怖すぎるのである。
魔物と違う。
殺気がない。
だから余計怖い。
ただ静かに、こちらを見ながら歩いてくる。
「レ、レイ!!」
ピロシキ王子が叫んだ。
声が震えている。
「守れ!!」
その瞬間だった。
レイはゆっくり振り返った。
王子の顔は青白かった。
汗だくである。
震えている。
だが、それでも王子は王子だった。
自分が死ぬことだけは耐えられない。
だから命令する。
守れ、と。
「……のだぁ」
レイはしばらく黙っていた。
近衛兵たちは息を呑んでいる。
誰も動けない。
レイだけが、この場で唯一まともに戦える存在だった。
「守れ……!」
王子は半ば悲鳴みたいに言った。
「命令だ!!」
静寂。
レイは小さく目を伏せた。
彼は英雄ではない。
少なくとも本人はそう思っている。
褒められるのは好きだ。
肉も好きだ。
だが。
“世界を救う使命”など考えたことはない。
王族直属遊撃兵。
つまり仕事。
仕事だからやる。
それだけだった。
「……承知しましたのだぁ」
低い声だった。
レイはゆっくり剣を抜いた。
銀色の刃が、薄暗い昼の光を反射する。
その瞬間。
影たちが止まった。
空気がさらに冷える。
レイは前へ出た。
一歩。
また一歩。
近衛兵たちは、その背中を見ることしかできなかった。
影たちがざわめく。
声にならない声。
恨み。
飢え。
泣き声。
それが風みたいに混ざっている。
「のだぁ……」
レイは剣を握った。
強く。
だが。
その顔は苦しそうだった。
「嫌なのだぁ」
ぽつり。
「こういう臭い、嫌なのだぁ……」
次の瞬間だった。
影たちが一斉に押し寄せる。
黒い濁流みたいに。
そして。
レイは剣を振った。
銀光が走る。
空気そのものが裂けるような音。
黒い影が、静かに崩れた。
悲鳴はなかった。
ただ。
雪みたいに消えた。
レイはまた剣を振るう。
次々に。
静かに。
無言で。
その姿はいつもの豪快さとは違っていた。
どこか葬送みたいだった。
そして近衛兵たちは、その背中を見ながら震えていた。
世界最強。
英雄。
白銀の獣。
だが今だけは。
その背中が妙に寂しく見えた。




