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ヴェルシナ地方の夜は静かだった。
山の夜は王都より暗い。
灯りが少ないからだ。
空には星が多く、冷たい風が針葉樹を揺らしている。
村の宴もそろそろ終わりかけていた。
解体された魔物肉は塩漬けにされ、燻製用の煙がゆっくり空へ昇っている。
人々の顔には久しぶりの余裕があった。
笑い声。
酒。
温かい食事。
ほんの少しだけ、この村は“普通の暮らし”へ戻っていた。
その頃。
「のだぁ〜〜〜♡」
レイはかなり上機嫌だった。
焚き火の近くでごろごろしている。
肉を大量に食べ。
酒も飲み。
しかも美女にいっぱい褒められた。
獣人族基準では理想的な一日である。
「レイ様、強すぎる……」
「毛並みふわふわ……」
「尻尾大きい……」
「のだっ♡」
尻尾ぶんぶん。
レイはもう完全に溶けていた。
そんな時だった。
「……レイ様」
ひとりの若い女が近づいてきた。
黒髪。
褐色気味の肌。
山岳民族特有の刺繍服。
年齢は二十代前半くらい。
目元が鋭い。
狩人だろう。
昼間、山岳熊の処理をしていた女だった。
「のだぁ?」
レイは寝転がったまま首を傾げた。
「何なのだぁ?」
女は少しだけ迷うように視線を逸らした。
そして。
「……少し、来てほしい場所がある」
「のだぁ?」
レイの耳がぴくりと動く。
「お散歩なのだぁ?」
「……まあ、そんな感じ」
「のだっ♡」
レイは即立ち上がった。
散歩。
獣人族は散歩が好きである。
しかも美女付き。
断る理由がない。
「行くのだぁ!」
尻尾ぶわん。
完全に大型犬だった。
村人たちはその背中を見送りながら、微妙な顔をしていた。
「……おい」
「ん?」
「あれ、もしかして」
「静かにしろ」
男たちがひそひそ話している。
一方。
レイ本人は何も気づいていない。
「のだぁ〜〜〜♪」
鼻歌。
月明かりの山道を、女の後ろについて歩いている。
雪がきしむ。
風は冷たい。
だがレイは妙に楽しそうだった。
「のだぁ?」
きょろきょろ。
「山の夜って静かなのだぁ」
「……王都は違うの?」
「うるさいのだぁ!」
レイは真顔で言った。
「貴族がずっと喋ってるのだぁ!」
女が少し吹き出す。
「何それ」
「あと“格式”ってやつが多いのだぁ」
レイは不満そうだった。
「難しい顔してる人いっぱいなのだぁ」
「レイ様は苦手そう」
「苦手なのだぁ!」
即答。
女はまた笑った。
レイはその反応だけで嬉しくなる。
「のだっ♡」
尻尾ぶん。
しばらく歩くと、森が少し開けた。
崖際。
月が綺麗に見える場所だった。
下には深い谷。
遠くに村の灯り。
「のだぁ?」
レイは目を丸くした。
「綺麗なのだぁ」
女は黙って隣へ立った。
しばらく静かな時間が流れる。
風だけが吹いていた。
その後。
女がぽつりと言った。
「……弟がいた」
レイは耳を動かした。
「のだぁ?」
「戦争で死んだ」
静かな声。
「父親も帰ってこなかった」
レイは何も言わない。
ただ聞いている。
「この村、若い男ほとんどいない」
月明かりの中で、女は遠くを見ていた。
「残ってるのは年寄りか、子供か……傷だらけの帰還兵ばっかり」
レイは少しだけ目を伏せた。
それはヴェルシナだけではない。
ルミナス王国の地方全部がそうだった。
「でも」
女はレイを見る。
「レイ様が来てから、村のみんな少し笑うようになった」
レイはきょとんとした。
「のだぁ?」
「子供も、老人も」
女は少し笑った。
「久しぶりに“強い男がいる安心感”ってやつを思い出してる」
静かな言葉だった。
レイは数秒固まっていた。
褒められている。
しかも。
かなり本気で。
「の、のだぁ……♡」
顔が赤くなる。
尻尾ぶわっ。
「そんなに褒めるななのだっ♡」
「ふふっ」
女は少し笑った。
その笑い方は、王都の女たちみたいな媚びた感じではなかった。
もっと静かで、疲れた人間の笑い方だった。
「……レイ様って変」
「のだぁ!?」
「英雄なのに、全然偉そうじゃない」
レイは真顔で答えた。
「偉そうって疲れるのだぁ」
女はまた吹き出した。
「それ、王都の貴族に言ったら怒られそう」
「のだぁ?」
レイは首を傾げる。
「でもぉ」
少し考える。
「吾輩、偉そうにするより褒められた方が好きなのだぁ」
女はついに声を出して笑った。
その笑い声を聞きながら、レイはちょっと満足そうだった。
山の夜は冷たい。
だが今だけは、空気が少し温かかった。




