29
北東辺境山岳地帯――ヴェルシナ地方。
ルミナス王国本土とは空気が違った。
山が深い。
岩肌は黒く、針葉樹林はどこまでも続き、谷間には霧が溜まっている。
春が近いとはいえ、雪はまだ残っていた。
そして何より。
人々の目つきが違う。
鋭い。
静か。
警戒心が強い。
王都の人間みたいに愛想笑いをしない。
この土地は昔から中央との関係が薄かった。
山岳民族。
狩猟民。
放牧民。
王国へ従ってはいるが、心までは従っていない。
そんな地域だった。
しかも。
最近は空気がさらに悪い。
「また王都の役人が揉めたらしいぞ」
「今度は何やった」
「祭祀用の酒を勝手に捨てた」
「馬鹿か?」
「馬鹿なんだろ」
酒場の空気は冷えていた。
原因は単純。
王都から派遣された若い貴族役人たちだった。
彼らはこの地方を“遅れた田舎”だと思っている。
だから平気で土足で文化へ踏み込む。
「臭い」
「迷信だ」
「非効率だ」
「文明化しろ」
そんな態度ばかり。
その結果。
現地民との関係は最悪だった。
しかも。
戦争の影響も大きかった。
数年前の北方戦争。
若い男たちは大量に徴兵された。
そして大量に帰ってこなかった。
今のヴェルシナ地方は、女と老人が異様に多い。
酒場も。
市場も。
村も。
どこか歪だった。
そんな場所へ。
「のだぁ〜〜〜♪」
場違いな声が響いた。
山道。
雪を踏みながら巨大な銀髪男が歩いている。
レイである。
しかも。
肩に巨大魔物を担いでいた。
黒角狼。
この地方で恐れられている大型魔物だった。
普通の狩人なら命懸け。
だがレイは。
「重いのだぁ」
くらいの感覚だった。
その姿を、村の見張りたちはぽかんと見ていた。
「……なんだあれ」
「熊か?」
「いや人だ」
「でかすぎるだろ」
レイは気づくと満面の笑みになった。
「のだっ♡」
尻尾ぶわん。
「こんにちはなのだぁ!」
見張りたちは固まる。
獣人。
しかも。
異様に強そう。
だが。
どこか間抜け。
そして。
笑顔が妙に人懐っこい。
「……王都の人間か?」
「のだぁ!」
レイは胸を張った。
「王族直属遊撃兵レイなのだぁ!」
どやぁ。
「足臭くない天才イケメンレイ様に進化したのだぁ!」
静寂。
「…………」
「…………」
「…………」
現地民たちは顔を見合わせた。
意味がわからない。
だが。
数秒後。
誰かが吹き出した。
「ははっ……!」
「なんだそりゃ」
「変なやつだな」
その笑いは、王都の嘲笑とは違った。
もっと素朴だった。
レイはそれを見て嬉しそうになった。
「のだっ♡」
尻尾ぶんぶん。
その時だった。
村の奥から悲鳴。
「魔物だ!!」
空気が変わる。
村人たちが青ざめる。
谷側。
巨大な影。
山岳熊型魔物だった。
黒い。
大きい。
飢えている。
冬明け前は特に危険だった。
食料不足で里へ降りてくる。
男手の減った村では対処できない。
「下がれ!!」
「子供を中へ!!」
女たちが慌てて動く。
だが。
「のだぁ?」
レイだけは首を傾げていた。
「お腹空いてるのだぁ?」
次の瞬間。
どごぉんっ!!
地面が揺れた。
レイが走ったのである。
速い。
異常に速い。
雪が吹き飛ぶ。
そして。
「のだぁあああ!!」
ばごぉんっ!!
熊型魔物が横へ吹き飛んだ。
岩壁へ激突。
骨が砕ける音。
静寂。
レイは魔物を見下ろしていた。
「のだぁ」
真顔。
「村来たらダメなのだぁ」
それだけだった。
現地民たちは完全に固まっていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「……終わった?」
「一発で?」
「なんだあいつ……」
レイは普通に魔物を担ぎ上げた。
「のだぁ〜〜〜♪」
鼻歌。
「今日は熊鍋なのだぁ!」
その瞬間。
村の女たちの空気が変わった。
なぜなら。
久しぶりだったからだ。
“若くて強い男”を近くで見るのが。
戦争で男が減ったこの土地では、それだけで価値がある。
しかも。
高身長。
顔が良い。
強い。
その上。
妙に愛嬌がある。
「……すごい」
「強すぎる……」
「しかも獣人……」
「毛並み綺麗……」
危険だった。
かなり危険だった。
その時。
村の老婆がレイへ近づいた。
しわだらけの顔。
だが目は鋭い。
「お前、王都の役人じゃないな」
「のだぁ?」
レイはきょとんとした。
「吾輩、遊撃兵なのだぁ!」
「つまり戦士か」
「うむ!」
どやぁ。
「世界最強なのだぁ!」
老婆はしばらくレイを見ていた。
そして。
少しだけ笑った。
「……なら歓迎する」
静かな声だった。
「今の王都役人どもより、よほど話が通じそうだ」
レイは嬉しそうになった。
「のだっ♡」
尻尾ぶわぁん!!
雪が舞う。
「吾輩、お友達いっぱい作るのだぁ!」
その姿を見ながら。
現地民たちは少しだけ空気を緩めていた。
王都から来た人間。
なのに。
妙にこの土地へ馴染む。
なぜならレイは。
中央の貴族社会より。
こういう“生きることが近い土地”の方が、ずっと獣人族に近かったからだった。




