23
オルジェフ地方。
朝。
雪。
灰色の空。
昨夜までの騒ぎが嘘みたいに静かだった。
だが。
町の空気は確かに変わっていた。
吊るされた汚職兵士。
半壊した地主屋敷。
燃えた密輸倉庫。
地方民たちはまだ現実感を持てずにいた。
ずっと支配する側だった人間たちが、一晩で潰された。
しかも。
たった一人に。
王都直属遊撃兵。
白銀の獣英雄。
レイ。
人々は怯えていた。
だが同時に。
どこか空気が軽くなっていた。
長年、喉に刺さっていた骨が少し取れたような。
そんな奇妙な感覚だった。
その頃。
「のだぁ……」
町外れ。
雪原。
レイは巨大な熊を解体していた。
氷牙グマ。
北方でも危険とされる大型魔物である。
普通の兵士なら十人以上死ぬ。
だが。
レイは普通に狩ってきた。
しかも朝食前。
完全に感覚がおかしい。
「のだぁ……」
レイは無言で肉を切っていた。
巨大な爪。
厚い脂。
赤い肉。
獣人族は肉の解体が異様に上手い。
理由。
食べるからである。
レイも黙々と肉を分けていた。
周囲には地方民たち。
皆、遠巻きだった。
怖いのだ。
昨夜のレイを見てしまったから。
兵士を吊るし。
地主を半殺し。
街を破壊した。
救世主。
でも同時に怪物。
だから誰も近づけない。
だが。
「のだぁ」
レイは顔も上げず言った。
「持ってけなのだぁ」
静かな声だった。
「腐る前に食べるのだぁ」
地方民たちは顔を見合わせた。
痩せた女が恐る恐る聞く。
「……本当に?」
「のだぁ?」
レイは首を傾げた。
「吾輩、一人じゃ食べきれないのだぁ」
それは本当だった。
氷牙グマは巨大すぎる。
レイでも数日かかる。
だから配る。
獣人族的には普通だった。
群れで食う。
それだけ。
最初に近づいたのは、小さな子供だった。
痩せている。
頬がこけている。
その子が肉を見ていた。
「のだぁ」
レイは無言で分厚い肉を渡した。
子供は固まる。
「……いいの?」
「食えなのだぁ」
子供は震えながら受け取った。
後ろで母親が泣いていた。
「ありがとうございます……」
「のだぁ」
レイはもう次の肉を切っていた。
無言。
静か。
昨夜みたいな怒りもない。
ただ淡々としている。
そのうち。
少しずつ人が集まり始めた。
老人。
女。
子供。
皆、恐る恐る。
レイは何も言わない。
ただ肉を切る。
「のだぁ」
どさっ。
「そっちは脂多いのだぁ」
「のだぁ」
どさっ。
「子供には柔らかいところなのだぁ」
地方民たちは黙っていた。
王都の貴族はこういうことをしない。
もし施しをするなら。
もっと偉そうにする。
感謝を要求する。
恩を着せる。
だがレイは違った。
ただ。
余ったから配っているだけ。
その感覚だった。
「のだぁ……」
レイは肉を切りながらぼそりと言った。
「お腹空くと悲しいのだぁ」
静かな声。
「だからいっぱい食べるのだぁ」
地方民たちは誰も返事できなかった。
その“当たり前”を。
ずっと許されなかった人間が多すぎたから。
その時。
後ろで若い男が頭を下げた。
「……ありがとうございました」
レイは顔を上げた。
「のだぁ?」
「妹が……」
男は震えていた。
「地下にいたんです」
静かな空気。
「もう駄目だと思ってた」
涙。
「助けてくれて……ありがとうございました」
レイはしばらく黙っていた。
「のだぁ……」
そして。
困った顔をした。
「吾輩、別に偉くないのだぁ」
ぽつり。
「臭かったから嫌だっただけなのだぁ」
男は泣き笑いみたいな顔になった。
「……それでもです」
レイは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ尻尾が揺れた。
嬉しかったのだ。
その時だった。
町の奥から。
煙が上がっているのが見えた。
地方民たちがざわつく。
「……また火事か?」
「違う……」
「地主の屋敷だ」
半壊した屋敷。
昨夜、潰された場所。
どうやら使用人たちが逃げる前に、食料庫を開放しているらしかった。
人々が群がっていた。
飢えていたから。
レイはそれを見ていた。
「のだぁ……」
静かな顔だった。
怒っていない。
笑ってもいない。
ただ。
少しだけ疲れていた。
世界最強。
王国の英雄。
だが。
地方一つまともに救えない。
それを理解してしまった。
「のだぁ……」
レイは最後の肉塊を切り分けた。
そして。
立ち上がる。
地方民たちが不安そうに見る。
「レイ様……?」
「のだぁ」
レイは背を向けた。
「吾輩、王都帰るのだぁ」
静かな声。
「またお仕事なのだぁ」
誰も引き止められなかった。
ただ。
子供たちだけが追いかけてきた。
「レイさまー!」
「のだぁ?」
「またきて!」
レイは止まった。
少しだけ振り返る。
「むむっ」
考える。
そして。
「お腹空いたらまた来るのだぁ!」
どやぁ。
子供たちが笑った。
地方民たちも少し笑った。
レイはそれを見て。
「のだっ♡」
少しだけ嬉しそうに尻尾を揺らした。
雪はまだ降っていた。
冷たい。
だが。
オルジェフ地方では久しぶりに、人間が満腹で眠れる夜が来ようとしていた。




