特殊個体・放浪残響②
深く切り裂かれた背後の石壁。それを蹴るようにして、ルキナは地面と平行に、前方へ飛び出した。
その刹那、広間中央に立つ影――特殊個体に纏わりつく風がその形を変えた。
風は踊る。
唸りを上げて、影の周りで流転する。ぐるん、ぐるんと廻る風は瞬く間にその勢いを増していく。
それはまるで小さな嵐。その余波は広間中を駆け回る。
崩れた柱の瓦礫が宙を舞い、大小の石が風に煽られ動き出す。
そんな暴風域の中を、ルキナは独り駆け抜けていく。
大きく踏み出した一歩で地面を思い切り蹴って、向い風を切り裂きながら、ただ前へ。
蒼色の光に照らされたルキナのローブはばたばたと音を立てながらはためく。深く被っていたフードも自然に脱げて、彼女の端正な顔立ちが露になる。
その赤い瞳が影を睨む。浮かぶ怒りは、静かに、しかし苛烈に影のことを射抜いている。
だが、それは影にとっても同様のこと。
影とルキナの目が、合った。
瞬間――影の周囲を廻っていた風が解き放たれた。
轟、と空気そのものが爆ぜたかのような轟音。
渦巻いていた風の悉くが一息に圧し縮められ、そして弾ける。鼓膜を殴りつけるその音圧だけで、蒼い空間がびりびりと打ち震えた。
それは正に風の砲弾。室内に吹き荒れていた風が、指向性を持ってただ一点に向かって放出される。
迫りくる見えない砲撃。
それはソラでも意識を刈り取られるほどの威力だ。ルキナが当たれば重傷は間違いないだろう。
迫りくる見えない砲撃。
それはソラでも意識を刈り取られるほどの威力だ。掠めるだけで、ルキナの細い体など容易く砕けるだろう。
「ぬるい」
だが、彼女は止まらない。むしろ、加速する。
着弾の寸前――走り込む勢いのまま、ルキナは地面へと身を投げ出した。
石の床を這うように滑り、荒れ狂う暴風のその真下をスライディングで潜り抜ける。
砲弾が頭上を吹き抜け、はためく白い前髪を乱暴に散らしていく。
それでも――更に、前へ。
「ハッ――」
短く息を吐き、床を突いた手で身を跳ね起こし、そのまま駆ける。
目指すは、影の懐。ただ一直線に。
だが、影もまた黙ってみていることはない。
放った風の砲弾が少女に当たらなかったことを見た瞬間に、彼は右手を前に突き出す。
瞬間、風が再び影を覆う。
絡みつく風は右腕に凝集され――解放。
ぼんっ、と音を立てて放たれるそれは、先ほどの砲撃に比べると小さなもの。放たれる先は、一直線に走ってくるルキナ。
それは狙い過たず、顕わとなった少女の眉間に吸い込まれる――
「うお」
直前に、ルキナは咄嗟に顔を傾けた。
風が額を擦りながら、後方へと抜けていく。そしてちょうど少女の背後にあった柱に激突し――小さな穴が開いた。
「おおぅ……」
ルキナが間の抜けた声を上げる。
柱に空いた小さな穴を通じて、向こう側の石壁が見える。どうやら太い石の柱を、風の弾は貫通したようだ。
小さく圧縮された風は、その分高密度に固められ、貫通力を増している。
先ほどの砲に対して、今のは銃。破壊力は落ちようとも、その殺傷能力は変わらない。
そして勿論、それで終わりではない。
一瞬足を止めたルキナが前へと向き直れば、そこには先程と同じ体勢のままの影。
そこから再び風が唸って――同じ音が響いた。
「まず――」
右足で地面を強く蹴って、真横へ跳躍。
瞬間、ルキナの横を風がすり抜けて――柱が砕ける破砕音。
その結果を見る間もなく、着地した瞬間に今度は斜め右に駆ける。走り出した直後、数舜前までルキナのいた石床に小さな穴が開くが、気にしない。
それでも影は止まらない。
突き出した右腕が小刻みに跳ねる。
一発ではなく、二発、三発――否、数える意味はもはやない。
途切れることなく吐き出される風の銃弾。それはさながら雨のように、ルキナを目掛けて掃射される。乾いた発射音が間断なく重なって、大きな一つの唸りへと変わる。
ルキナの走る先、跳ぶ先、前へ、後ろへ、横へ斜めへ――彼女の体を穿たんと連射される不可視の風の銃弾。
当たれば必死の、死の雨の中。しかしルキナは止まらない。
右へ。左へ。前へ。後ろへ。斜めへ。上へ。駆けて、沈んで、跳ねて、身を捩じりながら前へ進む。
髪を、頬を、肩を掠めていく銃弾が、その玉のような白い肌に、浅い赤色の線を刻み続けるが、それでも急所だけは渡さない。
静かに、冷静に、その弾道を読んで、そして躱す。
例えその銃弾が見えなくとも、放たれる瞬間と、どこを狙っているかはわかっている。ならば、避けられる。
言葉にすれば簡単だが、それをこなすのは至難の業だ。一つでも読み間違えればその先には死が待っている。
だが、ルキナは間違えない。
次から次へと迫りくる弾幕の間、糸のような隙間を縫って、ルキナは前へ、前へと踏み込んでいく。
風を躱しながらジリジリと迫るルキナに対して、しかし、影の方は一切動きを見せなかった。
依然として同じ体勢で風の銃弾を放ち続けるだけで、その場から動くこともなく、ルキナの接近を許している。
風の銃弾を放っている間は動けないのか、それとも余裕の表れなのか――ルキナには判別がつかないが、彼女にとって都合がいいことには違いない。
ルキナの界約――その射程は、およそ二メートル。だが、真の効果を引き出すには、相手の懐、その極至近まで潜り込まねばならない。
最初は10メートル以上あった距離も、今や十歩ほど。
だが、その十歩が、途方もなく遠い。
一歩、前へ出る。正面から殺到する銃弾を、半身をひねってやり過ごす。
だが次の瞬間には、右から、左から、追い立てるように新たな風弾が吐き出され、その一歩を押し戻そうとする。それでも前へ踏み込む。
その踏み込みの先を風が襲う。しかし、瞬時に後ろへ退いて躱す。そして、隙間を見て、また前へ。
一直線には、進めない。
広間を満たす蒼い光は、絶え間なく飛び交う風の帯に切り刻まれて明滅し、壁が、柱が、床が、無造作に抉られていく。
砕けた石片が礫と化し、弾丸に混じってルキナへ降りかかる。
息が、上がる。足の裏は痺れ、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
一発でも読みを外せばそこで終わり。その事実が、絶え間なく背筋を舐めていった。
それでも――前へ。
残り八歩。
飛来する一条を、頬のすぐ横で聞き流す。熱を孕んだ風圧が、耳を灼いた。
残り六歩。
足元を抉ろうとした一撃を、踏み込む勢いのまま踏み越える。
四歩。
右肩を狙った銃弾は、避けきれない。ローブと、その下に着こんだ革鎧の縁が風に浅く裂かれ、じわりと血が滲む。それでも足は止めず、その分前へ。
三歩。二歩。
影は、退かない。動かない。ただその場に立ち尽くし、風の弾を吐き続けるだけ。
無尽蔵に発射され続ける風、しかし、最早ルキナにとっては読める単調な攻撃でしかない。
ならば――
「届く」
口を衝いて出たのは、自分自身に言い聞かせるような、確信の言葉。
すぐ目の前には影がいる。後、数十センチも近づけば、その体も切り裂ける。
ルキナは最後の一歩を踏み込もうとして、
瞬間――掃射が止まった。
影の右腕に纏わりついていた風の密度が変化する。
重く、深く、渦を巻くような圧倒的な質量の風が、影の全身を巡って、廻って、その全身を覆っている。
それはすなわち――風の砲弾の予兆。
視界を埋め尽くす風の奔流の全てが、この至近で、彼女の小さな体に目掛けて解き放たれようとしていた。
ルキナの頭の中で思考が加速する。
まず、風砲を弾く、あるいは受けることは物理的に不可能だ。ルキナの体で砲撃を受ければ、間違いなく致命傷を受けることは間違いない。
そして、無形の風の砲弾は界約の対象外。範囲内の物質の質量を操る彼女の異能も役に立たない。
つまり、選択肢はこれまで同様躱すことだけ。
ではどう躱す。
身を捩る程度では絶対に避けられない。身体全体を逃がす必要がある。
では横、あるいは後ろへ飛ぶ?……否。砲撃の破壊範囲から考えれば、懐まで潜り込んだこの距離では左右に跳ぶ余地すらもう残っていない。後ろに飛んだとしても爆風に巻き込まれるのは必至。
ならば残る選択肢は――
「――上」
その先の思考は口から漏れ出た。
そしてその瞬間には既に、ルキナは地面を蹴っていた。
ルキナの小さな体が、兎の如く、高く跳ねる。空中で回転しながら、身体を丸めるように足を引く。
刹那――ごぅっ、と腹の底を揺さぶるような轟音。
それはルキナのすぐ下を通り抜け、地面を抉った砲弾の音。
その爆風圧が、少女の体を下側から殴りつける。
「ぐっ、――」
その圧力に、意図せず肺の中から空気が漏れ出る。
ローブは千切れんばかりに巻き上がる。爆風に煽られた小さな体が、跳躍の勢いも相まって、更に高く突き上げられる。
直撃とはならずとも爆風に晒された体が痛むが、そんなことなど無視。
宙で、ぐるりと回る体。翻るローブ。乱れる白い髪。
――見えた。
しかし――その赤い瞳だけは絶えず影を見つめていた。
回転の頂で、逆しまになった視界の、その真下。
そこに足音もなく佇む影の、塗り潰された虚の天辺が見える。
彼女を殺すはずだった一撃は、彼女を影の頭上へと運び上げていた。
そして、落下が始まる。
ルキナは丸めた身を解き、逆手の短剣を両手で握り直した。そして切っ先を、真下の虚へと向ける。
落下の勢いと少女の体重、その一切を刃に乗せるように。頭からそのつま先までを引き裂けるように。
しかし、それだけではない。
少女の異能。万物の重さを操作する、彼女固有のチカラ。それはこの位置でこそ真価を発揮する。
『――墜ちて』
ルキナの口から漏れる呪詛。
その対象は真下の影――ではなく、彼女が握りしめた短剣。
落下する刃に掛けた呪いは、その小さな刃先の一点を極限まで重くする。
それこそが最も簡単かつ強力な彼女の異能の使い方。とどのつまり、重くなった物体をただ落とすだけ。
しかしそれは、単純であるが故に凶悪だった。
刃先の一点に凝縮された、常軌を逸した質量。
落下する少女の体重と、その勢いの一切を乗せて、真下のただ一点へと殺到する。
極限まで圧し縮められた"重さ"そのものを、頭上から叩き落とす――破城槌の如き、質量の楔。
まともに受ければ、鋼の鎧だろうと、岩の柱だろうと、原型は残るまい。
空気が、軋みを上げる。
蒼い光を細く曳いて、加速していく刃。その狙いは寸分違わず真下の虚――その頭蓋、ただ一点。
逃がさない。躱させない。全霊の一撃で屠ってやろう。
この一撃で――終わらせる。
「獲った」
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