特殊個体・放浪残響①
【イエソド九層――朽ち果てし神殿・■■聖域】
視界は不鮮明、匂いもしない、声も聞こえない。思考は千々に乱れ、一切まとまることはない。
自分が何で、ここがどこで、何がどうなっているのか、ソレには一切分からない。
だが、覚えていることが二つある。
一つは役目。自分が何をしなければならないのか、何のために残響となり果てても、未だ世界に残り続けたのか。
果たさなければいけない、彼だけの役割を覚えている。
そしてもう一つは欲望。自分が何をしたいのか、何のために残響となり果てても、この世界の隅で耐え続けていたのか。
どうしてもしたかった、彼だけの渇望を覚えている。
もう時間はない。今こうしている間にも、彼の体は擦り切れ、砕け、崩れていく。
だからこそ彼は果たさなければならない。かなえなければならない。
そして、それ故に――ソレは歓喜していた。そして、激怒していた。
目の前には二つ。
一つは継承の器。もう一つは■■の■■。
喜びは器と出会えたこと。悠久の時を経て、永遠とも思える時間を過ごした末に、漸くそれが目の前に現れてくれたことに対する歓喜。
怒りは■■と出会えたこと。残響となった今でも彼は覚えている。それから与えられた痛みを、屈辱を、憤怒を、与え返さねばならない。
役割と渇望。義務と自由。喜びと怒り。相反する二つ。それらが乱れて、混ざって、ぐちゃぐちゃになる。
ソレは試練だ。器にとっては、ソレを超えなくば継承は無しえない。
ソレは復讐だ。■■にとっては、ソレを壊せないのならば死が待つのみ。
ソレは残響。誰かの旅路の果てに、誰かの願いと祈りが寄り集まって出来た、虚ろな残骸。
特殊個体――放浪残響。
残響は思う。
さあ、この試練を踏破しろ。さもなければ――
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ソラッ!!」
ルキナの大きな声が広間に反響する。
壁に叩きつけられ、崩れ落ちたソラ。割れた壁面にぐったりともたれかかって、その体はピクリとも動かない。左足の切断面からは、蒼い床へと赤がじわりと広がっていく。
間違いなく重傷だ。すぐにでも治療が必要なほどの怪我。
ルキナはソラに向って駆けだそうとするが、動けない。
「……ッ」
何故なら目の前の化け物が、ルキナのことを見ている。
闇に塗りつぶされたその顔が、今度は真っ直ぐにルキナへと向けられていた。
「……あなたは何?」
問いかけるルキナの言葉に答えはない。
見れば見るほどに異形、異質。ルキナの赤い瞳をもってしても、その底が測れない、正しく怪物。
そんな正体不明の存在だが、ルキナにも分かることがある。
「――そんなに、私のことが嫌い?」
ソレはルキナのことを憎んでいた。ルキナへ憤怒を抱いていた。
声もなく、顔もない。だが、そんな感情だけがひしひしと伝わってくるのだ。
殺したい、壊したい、報復を果たしたい――と、その叫び声の残響が伝わってくる。
渦巻く風が、再びざわりと逆立つ。
先ほど、ソラの脚を一瞬で奪い、その体を易々と吹き飛ばした、あの風。
それがうねりを上げて、解放の時を待っている。
ルキナの赤い瞳が、柱の根本に崩れ落ちたソラの姿を視界の端に捉える。
もしかしたら既に死んでいるのではないかと思うほどに、ピクリとも動かないその体。
だが、ルキナの赤い瞳には確かに視えていた。
――生きてる。
片脚を失い、血を流し、指一本動かさないソラ。だが、彼は確かに生きている。
無論、このまま放置していれば死に至るだろう。それでも即死はしないだろう。
ならば――まだ、間に合う。
ルキナは短剣を逆手に握り直した。
フードの奥の赤い双眸が静かに細められる。
先刻までその顔に浮かんでいた緊張も、恐怖も、驚愕ももう、どこにもない。
残っているのは、ただ一つ。冷えて、凪いだ覚悟だけ。
――守り抜く。
ルキナがそう決めた瞬間――引き絞られた風が、解き放たれた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ごう、という轟音を伴う暴風が影の手元から解き放たれたその瞬間、ルキナは先に体を投げ出していた。
宙を舞うルキナの体、数舜前までそれがあった場所を、指向性を持った風の塊が突き抜ける。
そして、その風は背後にあった柱にぶつかり――そのまま打ち砕いた。
破砕音が反響する。太い岩の柱が半ばから砕け、がらがらと音を立てながら地面に崩れ落ちる。
途轍もない威力だ。もし人に当たったのなら、簡単にその身が粉砕されるだろう。
その破壊を横目で見ながら、ルキナは両手をついて地面に着地。そのまま転がり、受け身を取って体勢を戻す。
そして、再び目の前の影を睨んだ、その瞬間だった。
影が、また足を動かした。
それは本当に些細な動作。少しだけ右足を後ろに引いて、地面から離す。
擦り切れた外套の穴からは、純白の鉄靴が覗いている。
「――!」
その瞬間、ルキナは咄嗟にその身を屈めた。
思考よりも早く、本能でそれを選択した。
影の右脚がその場で横薙ぎに振るわれる。まるで空を軽く蹴る程度の、簡単な動作。
振るわれる右脚、そこを包む白い金属の靴が蒼い光を弾いて――嗤うように、輝いた。
直後――突如としてルキナの背後にあった壁が真一文字に切り裂かれた。
「な――!?」
轟音に振り返ったルキナの目が驚愕に見開かれる。
背後で、断ち切られた壁が、崩れ落ちていく。
真っ二つに、そして深く裂けたその壁。切り口の高さは、ちょうど――たった今まで、ルキナの胴があった位置。
もし、本能のままに身を屈めていなければ――今頃その体はあの壁と同じように両断されていただろう。
間違いない。ソラの足を断ったのと同じ攻撃だ。
ぞわり、と全身の産毛が逆立つ。
たった一度、影が足を軽く薙いだ。それだけでこれだ。
そして影はまだ、その場から動いてすらいない。
ふと風が、止んだ。
広間に静寂が戻ってくる。
乱れた息を整えながら、ルキナはゆっくりと身を起こし、崩れた体勢を立て直す。短剣を握り直し、油断なく正面を見据えた。
影は――追ってこなかった。
追撃すれば、体勢を崩したルキナを仕留めることも容易いはず。だというのに、それはただ、その場に佇んでいた。地を踏まぬ両足を宙に浮かべたまま、微動だにしない。
闇に塗り潰された虚ろな顔が、凪いだ怒りを湛えたまま、ただ静かにルキナを見つめている。
急ぐでもなく、焦るでもなく。まるで――こちらの出方を、じっと見定めているかのように。
ルキナと影の間に、冷たい静寂が、ぴんと張りつめる。
先ほどまでの轟音が嘘のような、沈黙。聞こえるのは、自分の乱れた呼吸と、崩れ落ちた柱の残骸が時折かたりと動く音だけ。
――どうするか。
そんな一触即発の緊張感の中、ルキナは考える。
このまま、ただ避け続けるだけでは、いずれ読みを誤って死ぬ。それは、時間の問題でしかない。
だから――知らなければならない。あの化け物の、力の正体を。
まず、ここまでで目の前の存在が行った攻撃手段は二つ。
一つは、風。荒れ狂うような暴風を作り出し、指向性を持たせて解き放つ――いわば、"風の砲弾"とでもいうべきもの。
もう一つは、切断。狙った場所に刃を飛ばし、その進路にあるものを全て切断すること。石の壁を深く、そして滑らかに切り裂いているその威力は、風の砲弾を優に超えているだろう。
勿論、どちらの攻撃もただの身体能力で出来ることではない。
間違いなく、何らかの異能、あるいは魔術を使用しているに違いない。
だが、その能力の正体を今の時点で推測することは難しい。今はまだ目の前の存在に対する情報が足りていない。
そもそもこれが一体何なのかすら分からないのだから。
「……貴方は一体何なの?」
先程と同じ質問を、ルキナは再度繰り返すが、影の方からそれに答える声はない。
風貌からして、間違いなく人ではない。恐らくはモンスターの類であろう。だが、ただのモンスターであるはずもない。
ならばこれは、
「……特殊個体」
少し前に遭遇したエルダートレントと同様の、いるかどうかも分からない特殊な存在。
しかし、目の前の存在から感じる威圧感は、エルダートレントなどとは比べ物にならない程に巨大。端的に言って桁が違う。
そして、そのエルダートレントからも、ソラとルキナは逃げることしかできなかった。
その記憶が、胸の奥をよぎって――
「――だから何?」
ルキナは、それを一言で断ち切った。
そうだ。どれだけ敵が強かろうが関係ない。
どれだけ格上だろうと、関係ない。ソラが死にかけている。
守りぬくと一度決めたのだ。ならば、やらなければならない。
時間が経つほど、ソラの命は削られていく。今こうして何もしていない間にも、ソラは死に近づいている。
影は黙ってこちらを見ている。
まるで、次はお前の番だとでも言うように。ただ静かに、ルキナの出方を待っている。
それは余裕の表れで――影はルキナのことを見下していた。
――見下している?
たかだかモンスター。
どれだけ特殊であろうと、所詮は虚ろな世界の奴隷に過ぎないゴミが。
――このわたしを?
ルキナの奥底で、静かに、何かが灯った。
それは怒り。だが、燃え上がるそれではない。
氷のように冷たく、澄んでいく激昂。
彼女は見下ろす側であって、断じて見下される側ではない。
対等であっていいのはソラだけで、それ以下は塵に等しいし、そうでないといけない。
表情は変わらない。声も荒げない。ただ、フードの奥の赤い瞳の温度だけが、すっと下がっていく。
「ムカつく」
いいだろう。
情報が足りなくて能力が分からない?ならば――奪い取るまでのこと。
遠くから睨んでいても、この化け物の底は見えない。躱すだけでは、何一つ掴めない。
ならば、踏み込む。その懐へ、その間合いの内へ。この身一つで、全てを暴いてやろう。
一歩でも読み違えれば、ソラと同じ末路を辿るだろう。それでも、踏み込む。
――守り抜く、と決めたから。
そして、
――教えてやる。この思いあがったゴミに、私という存在を。
ルキナの体が低く沈む。
次の瞬間――白いローブが、風を纏う影の戦場へと、真っ直ぐに躍り出た。




