残響の誘い
イエソド九層。
ここは延々と続く石の回廊で構成されている。
規則的に並ぶ列柱や、掲げられた松明、いくつもの分岐が歩く度に繰り返されるこの場所は、冒険者たちの方向感覚を簡単に奪う。
勿論、九層にまで至れるような高位の冒険者たちは、大抵の場合はマッピングの能力にも長けている。
しかし、そんな者たちでも尚、細心の注意を払わなければ、この層ではすぐに迷ってしまう。
そして、一度迷ってしまえばもうお終いだ。モンスターの餌になるか、罠に殺されるか、あるいは飢えて死ぬか、大抵の場合はそのようにして命を落とすしかない。
ソラとルキナの二人はそんな回廊を歩み続ける。
目の前には十字路。壁に掛けられた松明の灯りだけでは、正面の道の先に何があるのかもよく見えない。勿論、左右の分岐、曲がり角の先が正しい道なのかなど分かるはずがない。
「次は右、だな」
「りょ」
が、ソラが手元のメモ帳を見ながら、前を歩くルキナに道を指示する。その指示には迷いがない。
ルキナは一つ頷くと、その道を先行して、曲がり角の壁際に体を張り付けて、慎重に右の道の先を覗く。
そこにいたのは見慣れた骨の戦士。松明の光の下、幽鬼の如くぼんやりとたたずんでいる。周りには他の骨兵は見当たらない。
ルキナはそれを認識した瞬間、彼女の白いローブが暗闇に沈んだ。
疾走。なるべく光に当たらないように体勢は低く、地面を軽く蹴って飛び出す。
音もならない程度の蹴りにも関わらず、その速度は常人の全力疾走よりも遥かに速い。恐らく自身の体に異能を適用させているのだろう。
「KA―――」
骨兵が気づいた時にはもう遅かった。
目の前に突如として現れたルキナが、その頭蓋に手をかけ、それと同時に骨兵の膝裏に足をかける。
ルキナはそのまま足を払い、骨兵の顔面に押し付けた手に体重をかける。
骨兵の体が回転する。足が大地から離れ、頭蓋は地面へ墜ちる。
そして、
「よいしょ」
そんな気の抜けた声と共に兜を被ったままの頭部が地面へと叩きつけられた。
がぁん、という鉄と石がぶつかる音。それに伴ってぐしゃり、と兜の中の頭蓋が潰れる音が鳴る。
それで終わり。骨兵はその声を上げることもなく、ただ一度だけ、その体をびくりと振るわせて、その後はもう動かない。
ルキナは動かなくなった死兵を上から下まで観察し、はずれと一言だけ呟いて視線を外した。どうやら、その死骸からは貴重そうなものは見当たらなかったようだ。
彼女の視線の先にある闇は未だ続いている。だが、着実に進んでいる。
後から追いついたソラは、再度メモ帳に目を落としながら、口を開く。
「……良い拾い物だったな」
「ん」
その声に、ルキナもまた短く肯定を示した。
彼らが言った拾い物とは先程まで共に行動を共にしていた四人組のこと。
最初はただの有象無象かと思っていたが、意外と能力があったらしい。
特に彼らの持つ情報量には舌を巻くものがあった。癒しの泉に関してもそうだが、特にこのメモ帳に描かれたマップは極めて優れている。
ソラとルキナは暫く、そこに描かれた通りの道順で進んでいるが、今のところ誤った記述は一切ない。
道の形状や、どんなモンスターが出るか、おまけに罠の位置まで描かれたその内容は正しくソラが欲していた情報そのものだ。
長年、六層以降で生き抜いてきというた実力は本物なのだろう。
――もしかするとイエソドの上位冒険者の中でもかなり上の奴らだったのかもな。
ソラはそう思いながら、紙面から顔を上げ、まだ見ぬ目的地を見据えて眼前の暗闇を睨む。
彼らの目指す先は十層。そしてその先の階層世界、ホドかイエソド。少し前のソラが諦めていたそれが、今やすぐ目の前まで見えている。
ついにここまで来たというべきか?
いや、そうではない。
ここはまだまだ底の底。
目指すべき塔の天辺、その果ての自由には程遠い。
「……"次会うときは、上の階層だといい"、か」
ふとソラは、ガレンが言っていた言葉を思い出す。
彼らが目指す場所もソラとルキナと同じ、遥か上の果て。ならば彼らもソラも、こんなところで止まって等いられない。
ソラはふっと笑って、ルキナに声をかける。
「行こう――階段まではもう少しだ」
「うん」
二人は再び、延々と続く闇の中を歩き出す。
靴が鳴らす音がわずかに響く。そして、消える。
闇だけがその残響を聞いている。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
背の高い列柱が立ち並ぶ冷たい石の回廊。吊るされた松明が仄かに照らすその天井。それらが突然消えた。
松明の光が届く先を失って、空気の中に薄く散る。ソラとルキナの足音の反響が変わる。
「ここか……」
呟いたソラの目の前に広がっていたのは、これまでの光景とは違うものだった。
そこは大きく開けた場所だった。
仄暗いが、全てが闇に包まれているというわけではない。壁面に等間隔に吊るされている松明が浮き彫りにするその輪郭は、大きな円形。
"癒しの泉"のあった広間より遥かに広い。大人二十人が横に並んでも、端から端までは届かないだろう。
これまでの廊下と同じように、左右に等間隔に並ぶ列柱が広間の奥…闇の中まで続いている。
ソラは手元のメモ帳を再度確認する。
位置的には間違いない。ここが、ガレンの言っていた大広間だ。
「行くか」
「……ん」
ソラとルキナはその広間の中へと一歩、足を踏み出す。
かつん、かつん、と二人の靴が鳴らす足音が広間中に薄く広がっていく。それ以外の音は一切しない。
余りにも静かだ。ソラとルキナの足音、息遣い、装備が擦れる音しか聞こえない。
これだけ広い場所なのにモンスターもいないようだ。骨兵の気配も、他の生き物の気配もまるでない。
だというのに、そこには確かな気配があった。
呼吸も、体温も、身じろぎの一つもない。だが確かにいるのだ。
ガレンが言っていたことも分かる。ここには警戒すべき何かがある。
「……」
ソラとルキナはそんな不気味な闇の中を歩き続ける。
ソラをしてもどこか底冷えのするような心地だ。まるで、眠れる凶獣の横を通り過ぎるかのような、そんな感覚。
いや、獣というのは語弊があるかもしれない。
その気配は、獣と言うにはあまりにも希薄で、弱くて、今にも消えてしまいそうな――消える直前の揺れる炎のようなものだった。
そして更に不思議なことに――ソラはどこかこの空間の雰囲気が嫌いではなかった。
何故かはわからない。ただ、どこか居心地が良く感じる。
それに疑問を覚えながら、ソラはルキナと共に静かに列柱の間を潜り抜け、円形の広間の真ん中を真っ直ぐに歩く。
その先に見えたのは――石扉。
中心奥の壁面に据えられた巨大な石造りの両開きの扉。
二人が並んで両手を広げても届かないほどの幅、高さは天井近くまで。
表面には列柱に刻まれていたものと同様の、判読不能の刻文が上から下までびっしりと彫られているようだ。
「あれが扉か…確かにデカいな」
「……うん」
「……ルキナ?」
思わずこぼれた呟きに、ルキナが短く返答する。だが、その声の響きがいつもと違った。
振り返ってルキナの表情を見る。そこにあったのはいつもと同じ無表情。しかし、そこに浮かぶ感情が違う。
不安か、緊張か、あるいは恐怖か。その顔はどこか張りつめていて、いつものような余裕が見えない。
「どうかしたか?」
「……何でもない」
そう言うとルキナは、歩みを少しだけ早めた。まるで早くこの広間を抜けたいと言わんばかりに。
いつもと違うルキナの様子に、ソラは少しだけ驚きながら、先導し始めた彼女の後ろを歩く。
やがて、二人は円形の大広間の中心にたどり着く。
中心に立って周りを観察したところ、どうやらこの広間はT字路のようになっているようだ。入った時には見えなかったが、左右の壁面にはこれまでの回廊と同じような道が続いている。
イズメが書いたメモを見ると、右の道が階段に続いているらしい。
ルキナが先んじて、その右の道へ足を向けた。
何故か足早にこの場所を立ち去ろうとする彼女。その背中を追おうと、ソラが右脚を踏み出す。
その瞬間だった。
ソラの足が、止まった。
「……どうしたの?」
後ろから響く足音が消えたことで、ルキナが振り返る。
ソラは、ただ茫然と固まっていた。その目線の先は正面にある石造りの大扉。
「今……呼ばれた気がする」
そう、呼ばれたのだ。
声ではない。音ですらない。だが、脈動が聞こえた。
ただ、視界の奥にある、あの大きな扉の奥から、ナニカがソラに語り掛けた。
ソラの体が自然と正面に向き直る。何故か分からない。
その右足が扉の方へと一歩踏み出す。何故か分からない。
強制されているわけでも、操られているわけでもない。なのに何故か、体が勝手に動きだしていた。
背後でルキナの声がした。だが、どこか頭の中を抜けていくように、ソラの体を通り過ぎていく。
分からない。分からない。何もかもが分からないが――呼ばれている。
気づけば、ソラの眼前には巨大な石の扉があった。
見上げても、その上端は松明の光の届かない闇に沈んで見えない。
全力で引いても開かないであろう大きな、その扉の真下で、
ソラは、その真下で足を止めた。
消える直前の炎のようだと、さっき思った気配。それが今は目と鼻の先にあるように感じる。
この、冷たい石の――向こう側に。
「あの時と似てる」
ソラはぼんやりとそう呟く。
彼が言うあの時とは、ルキナを拾った時のこと。あの時も同じように、何かの脈動に呼ばれるようにして、ソラはドームを目指した。
ルキナが呼んでいるが、聞こえない。
呆然とした心地のまま、ソラの手が扉の表面へと伸びて、その指先が扉に触れた――直後。
石が、震えた。
「なんだ――」
振れた指先の一点から、微かな振動が広がっていく。
ソラは慌てて手を引くが、もうそれは止まらない。
ずずず、という腹の底を震わせるような、低く、そして鈍い音が鳴り出した。
それは石と石が擦れあう音。巨大で分厚い石の扉が内側へと滑り、両開きの大扉の中心線が徐々にその幅を広げていく。
出来た隙間の奥から流れ出すのは澱んだ空気。
八層の湿った空気とも、九層でこれまで感じて来た埃混じりの乾いた空気とも、まるで違う。
もっと冷たく、もっと陰鬱な――ずっと閉ざされていた時間を感じさせる匂い。
そして、
「……開かないんじゃねえのかよ」
そう呟いたソラの目の前には暗い闇が広がっていた。
扉の前からでは見通せない程の、深くて、暗い、闇。それが口を広げてソラのことを待ち構えている。
ソラがその闇の中へと足を踏み出そうとしたその時、後ろからぎゅっと引っ張られる感覚がした。
「ソラ」
ルキナだ。彼女が、ソラの白の外套を後ろから掴んでいる。
これまでの呼びかけと違い、今度のそれは制止を促す声だった。
「この中に本当に行くの?」
背後からのその問いかけに、ソラの意識が戻る。
言いたいことは分かる。
この見通しのつかない闇の中、どんな罠があるか、どんなモンスターがいるかもわからないこの場所を進む必要があるのかと言いたいんだろう。
十層への階段の位置は既に分かっている。この先に階段があることも考えられるが、わざわざ未知の道程を進む必要はない。
分かっている。分かっているが――
「呼んでるんだ、俺を」
ソラはただそう一言呟いた。
「……何が?何のために?」
「分からない。まったく、何も分からない。だけど――」
そこで区切ったソラは正面に広がる闇を見据える。
何も見えない闇の中。ただ、その中で何かがソラを待っている気がした。
「何となく、俺に――いや、俺の『自由』に必要な気がする」
この感覚はルキナを拾ったあの日、ドームに誘われた時と同じもの。
ならばルキナがソラが『自由』になるための必要なピースだったように、きっとこの先に待つものもソラにとって必要不可欠なものとなるはずだ。
故に、進む。
「でも――」
「邪魔は、しないよな?」
尚も食い下がろうとするルキナに対して、ソラはそう一言、釘を刺した。
蒼の瞳がルキナのことを見定めている。その目は、例えルキナであっても邪魔をするなら殺すということを冷酷に告げていた。
数秒、二人の間で視線が交差する。
沈黙の中、二人の間に重い空気が張りつめて、
「……はぁ」
折れたのは、ルキナだった。
彼女は小さく溜息をついて、掴んでいたソラの外套から手を放した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
扉を潜った途端、橙色の光の輪が狭まった。大広間から届く光は、数歩分の先を照らすだけ。奥を見通すには光が足りていない。
闇の中に踏み出した足の裏から伝わってくる感触は、これまでの道程とさほど変わらないものだった。
そんな闇の中を、壺中嚢から取り出したランタンの光を頼りに、ソラとルキナの二人は歩く。
ソラは何かに呼ばれるようにして、真っ直ぐ歩き続ける。その足取りに迷いはない。ランタンを右手、骨兵から奪った長剣を左手に持った不格好な状態を取っている。
ルキナは真逆だ。足取りも慎重そのもので、ソラの背後からその赤い目で周囲を警戒する。右手には短剣を握り締め、いつ何が遅いかかって来てもいいような体勢を取っている。
かつん、と鳴った靴の音が思いのほか遠くまで伸びて、帰ってくる頃にはぼやけた響きをしていた。
闇の中はどうやら、相当に広いようだ。
見上げても、その頂は闇に溶けて見えない。ランタンを掲げて、正面を見通そうと目を凝らしても闇が続くだけ。
ランタンの光が押しのけた闇の中には、これまでと同じような列柱がいくつも並んでいた。柱は左右に等間隔で並び、奥へ奥へと続いている。
だが、それ以外には何も見当たらない。
静けさは増すばかり。生き物の気配も未だ一切ない。罠も宝も何もない。
――まさか、何もないのか?
ソラの脳裏に、そんな考えがよぎった瞬間だった。
ぱき、と。
硬く、乾いた音が、どこかから鳴った。
そして――光が灯った。
蒼白く、冷たい光だった。ランタンから漏れ出る炎の光とはまるで質の違う、そんな光がソラの周囲のどこかからはみ出した。
光の出どころは、左右に並ぶ柱。正確に言えば、そこに刻まれた刻文。
その溝の底から、細い光が滲みだしていた。
「なんだ――」
ソラの疑問に答えはなく、光は水が流れるように、文字の谷を縫って下から上へと這い登っていく。
最初はその近くにあった一本。次は、その隣の一本。そして、更にその隣の一本――と、光は次から次へと立ち並ぶ列柱を満たしていく。
青白い光は瞬く間に広間を一周する。走り出した光は柱だけでなく、暗闇に包まれ見えていなかった壁の刻文からも溢れ出し、広間中の刻文が、順に息を吹き返していった。
そうして、ついに照らし出されたその場所は――
「……すごいな、これは」
荘厳。その一語に尽きた。
ソラの呟いた独り言が蒼い光の中に反響する。
端的に言えばそこは広間だった。先ほどの大広間と同様の円形、しかしその広さは大広間の更に倍はあろうかというもの。
広間中にびっしりと刻まれた刻文は、柱から壁面、天蓋までをも覆いつくす。
それらはまるで満点の星空のように、いや、それ以上の光で広間中を蒼で満たしている。最早ランタンの光など必要ない。
そして、蒼く照らし出された列柱、その間には広一本の石畳の道があった。
その道は、大扉から広間の中央に向って真っ直ぐに伸びている。どうやらソラとルキナはその上に立っていたらしい。
蒼く輝く柱の列に左右を挟まれた、一本道。その道の果て、広間の中心にソラは目を向けた。
そして――時が、止まった。
ソラの視線の先。
そこにあったのは――一つの、人影。
四方の刻文が放つ蒼の光が照らす、円形の広間。その中心に誰かが立っていた。
擦り切れた外套を羽織った人影。外套は色褪せ、裾も襟も擦り切れている。
背は高く、そして細い。長い旅路に、余分なものを削ぎ落とされたかのような体つき。
深く被ったフードのせいで、その顔は確認できない。ただ、外套の所々に空いた穴から覗く肌は青白い。
遠い果てから、ただひたすらに歩き通してきた――そんな放浪の残り香だけが、その佇まいには漂っていた。
実体は、確かにあった。
影ではない。霞でもない。蒼い光を受けて落ちる濃い翳が、それが確かな質量を持つことを告げている。手を伸ばせば、確かに触れられるだろう。
そういう、疑いようのない実在感が、そこにはあった。
だというのに――生きている気が、まるでしない。
それは確かにそこにいる。そんな存在感が確かにある。
だが、あるはずの生の徴だけが、そこから綺麗に抜け落ちている。
それはまるで。
「――残響」
ソラは呟いた。
あるはずなのに、ない。ないはずなのに、しかし、確かにあるモノ。
残響、残影、あるいは消えかけの炎。
そして、ソラの視線に答えるように、それはゆっくりとソラの方を向いた。
フードの奥にあったその顔が、ソラの目に映る。
そこには――何もなかった。
何もない。
目も鼻も口も――何もかもが黒で塗りつぶされているかのよう。正確に言えば、見えているはずなのに認識が出来ない。
まるで闇か、影か、あるいは陽炎のように――そこにあるはずの顔が分からない。
そんな虚ろな存在は、しかし、確かにソラのことも見つめていた。
目はない。だが、その視線はソラの方を向いていた。
言葉はない。声もない。だが、確かにソラのことを見つめている。
ソラは直観した。
――コイツは俺を呼んでいる。
ソラはその確信のままに目を細めた。恐怖はない。あの妙な居心地の良さが、間近でいっそう濃くなる。
だが、それと同時に――ソラは、別の何かも感じ取っていた。
歪んでいる。
その虚ろな存在を中心にして、世界がゆっくりと、歪んでいく。
真っ直ぐ伸びていたはずの列柱が。等間隔に敷き詰められていたはずの石畳が。広間を満たす蒼い光そのものが。その一点へ向かって、ほんの僅か、引き攣れるように捻じれて見える。
まるで、そこにあるモノだけが、この世界の理から少しだけずれてしまっているかのように。
異質。異形。
ソレはあまりにも――この世界に適していなかった。
「……ソラ」
背後で、ルキナの声がした。
振り返らずとも分かる。その声が微かに震えていた。
ちらりと視線を向ければ、彼女の顔はこれまで見たこともないものだった。
緊張。恐怖。驚愕。いつも無表情を崩さない彼女の顔に、その全てがはっきりと浮かんでいる。
何にも動じず、何もかもを見下すはずの少女が、フードの奥で赤い目を見開いて、その人影から一瞬も目を逸らせずにいた。
だが、ソラは前を向いたままだった。
彼の意識は、目の前の存在に縫い留められている。
そして――その虚ろな顔がソラを見た。
何もないはずのその面が、ぐにゃり、と歪む。
目も、鼻も、口も、何一つないというのに。それでもソラには、はっきりと分かった。
笑っている。
その虚ろが確かに今、笑っていた。
次の瞬間、影が足を動かした。
踏み出すというにはあまりに小さな、たった一歩。
その挙動に外套の裾が揺れて足元が覗く。
朽ちかけた旅装の中で、そこだけが清冽な――白い金属の靴。それが蒼い光を弾いて、滑らかに輝いた。
そして。
ソラの体が傾いだ。
「……あ?」
支えを失うように、体が横へと流れていく。
何が起きたのか、ソラ自身すぐには分からなかった。
ただ視界が斜めに滑り落ちて、蒼く輝く石畳が近づいてくる。それを、他人事のように眺めている自分がいる。
遅れて、ソラは自分の足元へと目を落とした。
左の膝から下が、無かった。
「は――?」
痛みはなかった。熱すらずっと遅れて、ぼんやりとやってくるだけ。
石畳の上に転がった自分の脛を、ソラは落とし物でも見るように見下ろす。
その切り口は、刃で断ったにしてはあまりにも綺麗すぎた。まるで、最初からそこには何も無かったかのように滑らかに切り落とされている。
見えなかった。避けられなかった。
いや――避けるも何も、ソラが身構えるよりも前に、それは"既に断たれていた"。
あの影が足を動かした、ただそれだけで――結果だけが先に決まっていた。
「ソラッ!!」
聞いたこともないほど鋭い、ルキナの声。だが、それもどこか遠く聞こえる。
蒼く照らされた石畳に赤が落ちる。断面から溢れ出した血が水溜まりを作る。
長剣が、ランタンが、手から零れて、ソラの血で汚れた石畳を打つ。
困惑のままに崩れ落ちていくソラを、その影は見つめていた。
そして、それは、嗤っていた。
直後、ずっと張り詰めていた広間の空気が、影を中心にして、一気に膨れ上がった。
渦を巻く。唸りを上げる。四方の蒼い光さえ揺らすほどの烈風が、その一点から吹き荒れる。
その風の切っ先、その向かう先は――ソラ。
「――ッ!」
身構える間もなかった。
片脚を失って崩れかけていたソラの体が、まるで木の葉のように軽々と吹き飛ばされる。
踏ん張るべき足は、もう半分ない。受け身を取ることも、抗うこともできない。
渦巻く風がソラの体を鷲掴みにして、そのまま広間の彼方へと投げ捨てた。
視界が回る。
蒼い光が、石畳が、立ち並ぶ列柱がぐるぐると混ざり合って流れていく。
回る視界の端で、自分の血が細かな飛沫になって散っていくのが見えた。
痛みはない。恐怖もない。片脚をもがれて宙を舞う我が身を、ソラはどこか遠くから眺めているようだった。
ただ、腹の底で小さく焦げ付く感情を感じて――
直後、背中が、硬い何かに叩きつけられた。
列柱だ。
全身を貫く鈍い衝撃。肺の中の空気が根こそぎ押し出され、口の中に鉄の味が広がる。
支えを失った体が、ずるずると柱を滑り落ちて、冷たい石畳の上に崩れ落ちる。
頬に触れる石の冷たさすらもう遠い。
遠くでルキナが何かを叫んでいる。
その声が、水の中に沈んでいくように、遠ざかって、ぼやけて。
――ふざ、けるな。
灯った怒りを吐き出すこともなく、ソラの意識はそこで途切れた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
警告。
"基礎"、第九層。隔■■――通称、"■■聖域"。
当該区域への、生命体の侵入を検知。
同時刻。■■■■■における、■■の■■■■を観測。
"放■■"の■■を核とする結像現象により、特殊個体の発生を確認。
便宜名、放浪残響――■■rmēsHusk。
結像理由――解析不能。発生区域、結像強度を考慮して、■■■■への影響度は「低」と算定。
対応、不要。経過観察に留置。
──補足。
侵入生命体――計上、一。
随伴する一体は、侵入者として計上せず。分類:■■■■■■■。
■■により、■■■より■■した■■と■致。
■■■■に重大な不整合を検出するも――排除対象より、除外。
処遇、保留。




