交わした約束
【イエソド九層――朽ち果てし神殿・癒しの泉】
「……よし」
ソラはそう呟きながら、泉から足を引き上げた。
腕についた軽微な切り傷、歩き続けた足に籠っていたわずかな熱、そして疲労感――その全てがソラの体から消えている。
正しく万全。それはまるで、ぐっすりと眠った日の朝のような、清々しい気分さえ感じてしまうほどだった。
「ルキナ、行けるか?」
「うい」
ソラは革のグリーブを履き直しながらルキナに問いかける。彼女は既に泉から足を抜いていた。
ソラが壺中嚢から取り出した乾いた布を手渡し、ルキナは無言で足を拭う。
「……もう行くのか?」
二人のやり取りに気付いたドールが、そう問いかけた。
棒を膝の上に横たえたまま、視線だけをソラの方に流している。
「ああ。俺たちはもう充分だ。先に行く」
「そうか、俺たちはリッキが目を覚ますまで、暫くはここに居るからな。……気を付けて行けよ、こっからが難所だぞ」
ドールはそう軽く手を上げた。ソラは、それに軽く目線で応じる。
ルキナも既に立ち上がって、足を外套の下に隠し、腰の革帯を軽く結び直している。
「少し待ってくれるか」
そこで、ガレンが立ち上がった。
そして彼の隣で何かを熱心に書いていたイズメに視線を移す。
「イズメ、もう出来たか?」
「はい、これです」
イズメは膝の上に置かれた古びたメモ帳をガレンに向って、丁寧に手渡した。
ガレンはイズメにありがとうと言ってそれを受け取って、そのままソラへと差し出した。
そのメモ帳は、ソラがアベルから受け取ったあのメモ帳だった。
「言われた通り、この中に九層のマッピングを記載しておいた。地形、モンスター、"出口"の位置、隠し通路、そして十層の"階段"まで……俺たちがこれまで集めてきたこの層の全ての情報を載せている」
「そうか」
そう言って、ソラは受け取ったメモ帳を片手で開いた。
九層以下のメモと同様、そこには何ページにもわたって九層の地形やモンスターの情報がこれでもかと書き込まれている。
「……こりゃ凄いな」
ソラはそのページを一枚、また一枚と、指の腹で丁寧に捲った。
情報の粒度は非常に細かい。
モンスターに関して言えば、分かる範囲での弱点や戦い方の考察。地形については、罠の配置までなるべく細かく示してあるようだ。
ここには【高みを目指す者】という四人組の苦労の歴史が詰まっている。
これがあるのとないのとでは、九層攻略の速度が数倍は違うだろう。
「悪いな」
ソラは視線をメモ帳から上げずに、それだけを漏らした。
「気にするな。あんたらのお陰で、リッキが助かった。それに比べれば、こんなものは大した事ではない」
ガレンはそう応じて、少し肩を竦めた。
そして、後ろに置いてあったバックパックから数本のガラス瓶を取り出してソラに手渡す。
即効性のある高価なポーションと、遅効性のポーションを合計7本。少なくとも金貨1、2枚の価値はあるだろう。
ソラはそれらを右手で受け取り、腰に下げた革の袋に詰め込み、よしと一言呟いた。
その言葉を聞いたガレンが訝し気な、というか気まずげな顔で口を開いた。
「……なぁ、本当に良いのか?塔遺物を報酬にしなくても?」
「別にいい」
結局、ソラが護衛依頼の報酬として受け取ったのは九層の情報とポーション数種類だけ。彼らの持つ塔遺物の数々は受けらなかった。
【高みを目指す者】の四人はそれぞれいくつかの塔遺物を持っている。
ガレンの持つ盾に、ドールの指輪、棒、リッキの弓と矢筒にイズメの指輪など――どれもがそれなりに値の張る装備だ。
「盾とかもらってもどうせ使わないしな。それにこの地図だけでかなり価値がありそうだし。これ以上は貰い過ぎな気がする」
「……まぁ、アンタが良いってんなら俺は良いが」
罪悪感で歪んだ顔をしているガレンとは対照的に、ソラは少しだけだが、晴れやかな笑みを浮かべていた。
「……」
そして、ルキナはジトっとした目でソラのことを見つめている。
ソラはその視線に気づいて苦笑を浮かべた。
分かっている。それでいいのか、と言いたいのだろう。
そして、ルキナはジトっとした目でソラのことを見つめている。
ソラはその視線に気づいて苦笑を浮かべた。
分かっている。それでいいのか、と言いたいのだろう。
――事実、ソラの言ったことは殆どが体裁だった。
そもそも塔遺物は希少価値が高い。使わなくても、売ればそれなりの価値にはなる。
そして本来ならば、貰えるモノは全て貰う。それどころか、奪うのがソラの主義だ。
九層の情報を得た今、目の前の四人を殺して全て奪った方がいい。それが、ソラのこれまでの生き方だった。
にもかかわらず、そうしなかったのは。
――単純に、少し、気分がよかったから。
ルキナ以外に初めて見た似た者に、ソラは本当に少しだけ、嬉しさを覚えていた。それだけの話だ。
「俺たちにはお前らの塔遺物は要らないけど、お前らには要るんだろ?これは貸しにしとく」
「貸し?」
「ああ、次あった時、何かで返してくれ。それでいいだろ?」
そう言って、ソラはルキナに振り返った。
ルキナは小さく溜息をついて、一つ頷いた。
「――そうか」
そう応じて、ガレンはもう一度、少し笑った。
そして、ガレンは手甲を脱いだ右手をソラに向って差し出した。
分厚く、傷と豆だらけの手。ここまで来るのにどれだけの苦労があったのかを物語っている。
そんな彼の手を、ソラも同じように右手で掴んだ。
「ありがとう、この恩は次に会った時に必ず返す」
「ああ、ぜひそうしてくれ」
それは約束だ。
"次あった時に恩を返す"という、ソラとガレンの約束。
それは確かにここで交わされた。
結論から言えば――その約束が果たされるのは、思いのほかすぐだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「最後にもう一つだけ、話しておきたいことがある」
報酬も受け取り、準備も終えたソラとルキナの後ろからガレンが声をかけた。
「この先、十層への階段の途中に大広間がある」
「大広間?」
顔だけで振り返ったソラのその言葉にガレンは深く頷いた。
「ああ、九層だと珍しく大きく開けた場所でな、奥には大きな石扉がある。まあどうやっても開かなかったが」
「ふーん……で、それがどうした?」
「気を付けろ」
ガレンは声を落として、呟くようにそう言った。
「…?気を付けろって、何に?」
「俺にも分からん。ただ、あそこには必ず何かがある」
ガレンは、視線を水面の光の方へと落とした。それからまた続ける。
「隠し通路、あるいは財宝、もしくは罠、それ以外。どれかは分からないが、あの石扉の奥には必ず何かがある」
「……確証でもあんのか?」
「無い。ただ、俺の勘がそう言っている」
冗談や、適当な言葉ではないだろう。
過ごした時間は極わずかだが、ガレンという男がそういうものを好まないことはソラにも分かる。
「勘、ねえ……」
「信じるも信じないもアンタ次第だが、気を付けた方がいい」
何とも要領を得ない漠然とした警告に、ソラはどう反応したものか少し悩んだ。
当のガレン自身はいたく真面目な顔をしている。
「……ま、覚えとく」
ソラの、その半分だけ真面目な返事に、ガレンは苦笑を浮かべた。
それ以上、追及はしなかった。ただ「そうしてくれ」とだけ告げて、後ろに一歩下がる。
「――じゃ、行くわ」
ソラが、そう告げた。
「達者でな!またどっかで会おうぜ!」
「……お気をつけて」
少し離れた場所から、ドールが、片手を大きく上げた。
イズメは、リッキの体を水面の下で支えたまま、顔だけをソラとルキナの方へ向けている。
そして、最後にガレンが口を開く。
「改めて礼を言う。……次会うときは、上の階層だといいな」
「……そうだな」
その言葉にソラは微かな笑みを浮かべて、前に向き直る。そして後ろへ向けて、右手を一度だけひらりと振った。
ルキナは、フードの縁を軽く指で押さえたまま、ガレン達の方に一度だけ小さく頷いた。
それがソラとルキナの、別れの返事だった。
ソラが一歩踏み出す。
一歩、二歩。石畳の上に、ソラの靴の音が乾いた反響を作った。
ルキナもまた、同じ距離を保って、ソラの後を追う。
やがて、泉の光は、廊下の入口の縁まで届かなくなった。松明の橙色だけが、二人の視界の中に残る。
光が遠のき、闇が近づいてくる。
団らんとした会話が消え、二人の足音だけが残響を残して耳に届く。
残響。
静けさの奥底にある何かは、今もまだ誰かを待っている。
大変申し訳ございません、わかりやすいように構成を分割いたしました。




