塔を登る理由③
空は青く、雲のない快晴。外はやや熱く、額に汗が滲むが、乾燥した風が肌を撫でて、どこか清々しい気分になる。まさに観光日和と言った所だろう。
そして観光地はスラム。汚物と死体に塗れた掃き溜めだ。相も変わらず周囲には異臭が漂い、その匂いが鼻にこびりついて離れない。
その中の通りを二人の人間が歩いている。
一人はソラだ。以前から持っていた街産の服を着て、周囲を睨みながら歩いている。
もう一人はルキナだ。彼女はローブについたフードを目深に被り、顔を晒さないような恰好をしていた。
彼らは早朝から住処を出て、外を見て回っていた。
この世界を見たいという要望を受けたソラは、次の日から実行することを提案した。
昨日は日も暮れていたし、彼も少女も病み上がりだ。一旦お互いに就寝し、体調に問題がなさそうであれば見て回ることにしようと考えた。その提案を少女は了承し、同じ屋根の下で彼らは就寝した。
お互い疲れていたのだろう、床に寝転ぶとすぐに二人とも意識を失ったように眠りこけ、起きたのは空が完全に明るくなった後の事だった。
起きた後、お互いに自身の体調を確認する。
ソラはほぼ万全。昨日自分で飲んだポーションとセナに飲まされたものの効果だろう。左わき腹にあった大きな痣は見る影もなく消えていた。流石に折れたアバラも治っているとは思えないが、それもすぐ直るだろう。
ルキナも殆ど問題なし。体にあったいくつかの痣も無くなったようで、外観上は健康体そのものだ。まだ若干体がふらつくこともあるが、歩きながらリハビリすることにした。
そういうわけで昨日の夜と同じドロドロの粥を食べてから拠点を出発した。
その際ルキナには顔が他人から見られないことを徹底するように指示した。
彼女の見た目は人を引き付ける。それがスラムともなれば要らぬ危険が身に及ぶかもしれない。
そのため、ルキナはソラが購入してきた衣服の上からローブを羽織り、フードで顔を隠していた。
これはこれで怪しい風体だが、スラムには怪しい人間等いくらでもいる。実際、彼らはそれほど目立っているわけでもなかった。
スラム。過去は立派な街の一部であったのだろうが、今となっては廃墟だらけの場所。そこに貧しい人々が勝手に住みついて、自然に出来上がったのがこの場所だ。
街の残飯を漁るネズミの住処、といった所だろうか。不潔で、糞尿と血、同胞の死骸に塗れたこの場所をかいつまんで説明するに当たってそれ以上の言葉は必要ない。
ルキナは見るもの全てが新鮮なようで、周りをきょろきょろと見まわしている。彼女がどこから来たか、どこに住んでいたのかは分からないが、少なくともこのスラムではなさそうだ。
ソラは歩きながら、道端を指さす。
「見ろ。あの通りの奥、ボロ小屋の屋根の隙間から煙が出てるだろ」
「うん」
「あそこで肉を焼いてる。肉は塔から来る。モンスターの肉だ」
歩を進めれば、錆びついた水道管が地面から突き出している場所に行き当たる。
「これは昔の都市のモンだ。今でも水が出る。出るのは一日のうち朝の短い間だけ、しかも濁ってるけどな。それを集めるために、スラムの連中はこの管の周りに住みついてる」
ルキナは無言でその錆びた管を見つめた。
更に通りを抜けると、視界の端に塔が現れる。
「あとは塔だ。俺たちは塔の近くで生きるしかない。遠くに行けばモンスターに食われるし、飯もないし、水もない」
三つの理由を三つのものに置き換えて、ソラは並べた。肉と、水と、塔。それがスラムのすべてだった。
道端に転がる腐った野菜。這いまわるネズミ。壁にもたれて動かない老人――死んでいるのか、眠っているのかもわからない。
この場所では皆が必死に生きている。そして、弱者から死んでいく。
そんな光景の中を歩きながら、しかしルキナの視線は時折、その全てを素通りしていた。
ネズミでもなく、老人でもなく、崩れた壁でもなく――彼女の目は、スラムの屋根の向こうに伸びる白い柱の方へと、幾度となく引き寄せられていた。
本人もそれに気づいているのか、気づいていないのかは分からない。
ただ、ソラの話を聞きながらも、その瞳の片隅には、常に塔の影が映り込んでいた。
「塔…」
スラムと街を分けている、長く巨大な塔。ここからでも見える天をも貫くその塔を、彼女はじっと見つめていた。
「塔のことは覚えてないのか?」
ソラがそう質問すると、ルキナの足が止まる。数秒考えこんでから、口を開く。
「覚えてはいない。でも知ってる」
彼女の言っている意味がよくわからず、ソラは更に尋ねる。
「知ってる?何を?」
聞かれたルキナは塔を見ながら答えようとするが、口をもごつかせ一言、
「後で話す」
そういってその小さな口を閉じた。ソラはその様子を訝しみながらも、それ以上問い詰めることはしなかった。
どうせ後で話してくれるのなら、今問い詰める必要もないかと思ったからだ。
「…まあいいか。じゃあ次の場所行くぞ」
そういって、ソラは彼女の前に立ち、次の場所に向かって再度歩き始める。
その間もルキナはフードの隙間からそびえたつ巨大な塔をじっと見つめ続けていた。
そこは騒然とした場所であった。
たくさんの人が小さな通りを行き来する雑踏の中をソラとルキナの二人が歩いていく。
通りの傍には粗雑なテントが立ち並び、その前にはテントごとに色々なモノが置かれていた。
露店通り。そこはそう呼ばれる場所であった。各テントはそれぞれが一つの露店であり、食料、衣類、武器等多種多様なモノが売られている。
昨日、彼が食料や衣服を購入したのもこの場所だ。スラムで唯一モノが正当に取引される場所であり、スラムに住んでいる人間ならば、一度は必ずこの場所を訪れたことがあるだろう。
「ここが露店通りだ。ほしいものは大体ここで調達する」
そういいながら、ソラはすぐ横にあった露店の商品を覗く。そこは先日彼が壊した斧を購入した店であった。
並んでいるのは冒険者用の武器だ。長剣や槍、ハンマーに斧など、色々な武器がそこには置いてあった。もちろんどれも質が良いとは言えない。どこかかけていたり、曲がっている、そもそも錆びているものだってある。
だがスラムではこれぐらいの品質が精一杯、これでもスラムで手に入る装備の中では品質が良いほうだ。それらの品物をゆっくり吟味しながら、話を続ける。
「ここは武器屋だ。塔に上るなら、まずはここで装備を整えることが多い」
ルキナは珍しいものを見るかのようにそれらの武器を見つめている。
ソラはというと、お眼鏡に叶うモノはなかったのか、嘆息しながら、通りの方に向き直る。
「次はあっちだ」
そういってルキナを連れて人込みの中を歩いていく。
そこにあったのは焚き火台と、そこで焼かれている肉の串であった。
「こんな感じで、ここには食料も売ってる。特にここの串はそれなりにうまい」
焚き火台の奥にいる露天商に、串を2つ購入する旨を伝えると、銅貨1枚との交換ということになった。
そして、焚き火台に置かれた網の上の串を興味深そうに眺めるルキナに、両手に握った串のうちの片方を差し出す。
「ほら、食べてみろ」
「…ありがとう」
ルキナはおずおずとその串を受け取ると、ソラのことを見つめる。どうやら食べ方が分からないようだ。
それを見て、お手本を見せるためにソラは串に噛り付く。やはり粥と比べると大分うまい。しっかりと塩で味付けされた肉のうま味と、じっくりと火入れされた香ばしさが口の中に広がる。
何の肉かは分からないのが空恐ろしいが、今までこれを食べて腹を壊したことはない。おそらくは安全な肉だろう。
そんな彼の様子を見て、ルキナも小さな口でその肉を一口ついばむ。すると思いのほか美味しかったのか、目を輝かせて次の一口を食べ進める。
その様子を見て、ふと昔を思い出す。かつて、セナとソラ、そしてもう一人でこの場所に来た時のことだ。当時はセナもこの肉串を気に入っていた。
そんな在りし日の懐かしい光景を思い浮かべながら、彼もまた串に噛り付いた。
そして、お互い串を片手に持ちながら、露店通りを更に歩いていく。
その先にあったのは怪しげな瓶を布の上に並べた店だった。他にも、緑色の粉や、乾燥したトカゲのようなモノが陳列している。
「ここは薬屋だ。見てくれは怪しいが、まあ、ある程度の効果は期待できる」
ここに来た目的はポーションの補充だ。
昨日ソラとルキナで合わせて二つ使ってしまったため、拠点からはポーションのストックがなくなっていた。
そう説明した時だった。
「なんの見てくれが怪しいって?」
目は落ちくぼみ、顔には皺だらけの長い白髪に包まれた人間のような生物が目の前にいた。
その生物を見たルキナは咄嗟に身構えるが、ソラはそれを制して、その生物に語りかける。
「てめえだよ、クソ婆」
それはよく見れば確かに老婆だった。麻の服をきて、背中が曲がった老婆は数本抜けた歯の隙間から息を漏らしながら声を上げる。
「全く生意気なクソガキだこと」
そうして老婆は床に座り込むと、ソラの顔を見ながら言った。
「あんたがここに来るのは珍しいねえ。怪我でもしたかい」
そういってちらりと彼の左わき腹を見る。殆ど治っているはずの傷に気づいたようだ。もしかすると無意識の内に怪我を負った部分をかばうような動きをしていたのかもしれない。
「相変わらず目ざといババアだ」
と、ソラは苦笑する。
すると老婆は今度、ソラの隣にいるフードの少女に目を向ける。
「で、あんたは誰だい?セナじゃないね?」
ルキナのことを怪しいモノを見るかのように睨みながら誰何する老婆に対し、ルキナはどう反応したものか戸惑う。
ソラはその様子を見かねて助け船を出すことにした。
「そうだ。最近知り合った奴で、色々あって一緒に行動している」
「ふーん…」
そうソラが説明したものの、老婆にとって怪しさは晴れないようで、ルキナのことをじろじろと見つめる。
ルキナはその視線が居心地悪いようで、老婆の目を避けるように顔を背けた。
ソラは話を切り替えて本来の目的について話し出す。
「こいつのことはどうでも良いだろ。とりあえず、ポーションを2個買いたい」
そういって、財布の中から銀貨を二つ取り出して、老婆に投げ渡す。
老婆は、その怪しげな外見とは裏腹に機敏な動きで空中の硬貨をパシッと右手で掴み取った。
そして、彼女は手の中の銀貨と目の前の男女をじろじろと睨み、
「ちょっとまっとれ」
そう言って、露店の奥に入っていった。そこから待つこと2、3分。返ってきた彼女の手には2個の瓶と小さな紙袋が握られていた。
「ほれ、所望のポーションだよ」
そういってソラに2つのポーション入りのガラス瓶を手渡す。そしてもう一つの袋をルキナに差出した。
「一日一回飲みな。弱った胃腸には効くだろうさ」
どうやら中には薬が入っているらしい。揺れるたびにカサリと錠剤が擦れる音がする。
「耄碌したかババア。俺が言ったのはポーションだけだ」
ソラは老婆に悪態をつくが、老婆はふっと笑った。
「わぁっとるわい。これはわしの親切じゃ。黙って受け取りな」
ルキナは戸惑いつつも老婆から紙袋を受け取り、それを胸元に抱えた。
「…ありがとう」
そしてルキナが感謝の念を伝えると、
「フン、次来るときはそのけったいなフードをとってツラでも見せるこったね」
と、老婆は悪態で返すのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
次に彼らが目指したのは街。
スラムの人間は、普通、街へは入らない。
法律で禁じられているわけではない。自警団に取り押さえられることもない。ただ、入ったところで居場所はない。
物価が違う。目線が違う。扱われ方が違う。
スラムで銅貨一枚の串焼きは、街では銀貨一枚。街の人間はスラムの人間を家畜か風景として眺める。もし街で食い物を盗めば、運が良ければ長期強制労働、運が悪ければその場で処刑される。
逆に、街の人間はスラムには降りてこない。来る理由がないからだ。
つまりそれは、法で定められた境界ではなく、ただの暗黙の了解だった。ソラはそれを、かいつまんでルキナに話しながら歩いていた。
「ここからだ。見ろ」
ソラは正面に広がる大通りを顎で示す。
露店通りの横幅の3〜4倍ほどもある広い道が、塔に向かって真っ直ぐ伸びている。向こう側の奥には、昨日訪れたギルドの石造りの建物が見える。
「この大通りがスラムと街の境目だ。この先を塔に向かって進めばギルドがある」
幅の広さは、距離というよりも、断絶だった。
通りの手前――足元は瓦礫混じりの土、空気は饐えた匂い、遠くで赤子の泣き声。
通りの向こう――足元は整えられた石畳、空気には焼きたてのパンの匂い、誰かの澄んだ笑い声。
同じ太陽の下に並んでいるとは思えない二つの世界が、たった一本の通りを挟んで背中合わせに存在していた。
「…行くぞ」
ソラが大通りを渡り始めたその瞬間、足裏の感触が変わった。瓦礫混じりの土から、冷たい石畳へ。
街はいつもと変わらず清潔だった。ゴミも死体もなく、異臭もしない。ひび割れのない家々が整然と並び、道行く人々の衣服には継ぎ当て一つない。
ルキナは後ろを歩きながら、周りを見渡す。
「…スラムとは全然違う」
ルキナ一言呟く。その言葉に対して、ソラもまた肯定する。
「そうだな。街の方が綺麗だろ?」
ルキナがコクリとうなずくのを見て、ソラは歩きながら続ける。
「街には金がある。だから街には山ほど仕事がある。スラムと比べると稼ぐ手段がたくさんあるわけで、安定した収入源がある。例えば道路を掃除するのにも金が出る」
そう言いながらソラは周りを見渡す。スラムとはかけ離れたその世界は、ソラに向けてここはお前のいるべき場所ではないと言っているように思えた。
「安定した収入があれば、人はその金を使うこともできる。要は道を掃除する奴に金を払える奴がいるってことだ。
スラムは違う。仕事もないし、金を得る手段も限られてる。今日生きるのにも苦労してる奴が道を掃除する奴に金を出すわけがない」
「つまり、お金の有無がスラムと街を分けている?」
ルキナがそう聞くとソラはうなずく。
「まあ、そうだな。他にも色々あるとは思うが、一番の違いは金だろう」
スラムには金がないから需要と供給のサイクルが成立しない。街は逆だ。金があるから需要も供給も豊富にある。
結局のところ世の中金だ。金がなければ人間社会の中で生きていくことは難しい。
「スラムの人間が街で働くことはできないの?」
ルキナはソラに尋ねるが、彼は首を振った。
「まあ無理だな。街の人間はスラムの人間を嫌ってるし、そもそも信用がない。スラムの奴が街で仕事することは基本的にできない」
スラムの人間は街の人間からは嫌われているし、蔑まれている。対等に金を払う・貰うの対象ではなく、家畜や野生動物を見る目線に近い。
逆に、スラムの人間は街の人間に対して強烈な敵愾心を抱いていることが多い。それこそ野生動物が天敵に向けるようなモノだ。
つまり、雇用関係が街とスラムの人間では殆ど成立しないのだ。
一人、その例外である赤髪の少女について思い至ったが、彼女は例外だ。そのことについて説明をする必要性をソラは感じなかった。
ソラがそう考えながら後ろを振り返ると、ルキナは難しい顔をしながら何かを考えているようだった。
「どうした?」
ソラが尋ねるとルキナは口を開く。
「…そもそもどうして街とスラムでお金の有無が分かれている?」
それは単純だが、イエソドという階層で最も核心をついた質問である。
街とスラムが分かれているのは金が理由。ならばそもそもどうして金が街に集中しているのか。何が南のスラムと北の街の金銭的格差を生んでいるのか。
そして、その答えをこの階層の人々は全員知っていた。
「…見ればわかる」
ソラはその場での明言を避け、足早に歩き出す。ルキナはそれに慌ててついていく。
まるで自分からは話したくないというようなソラの素振りに、ルキナは困惑するのだった。
二人で街の中を歩く。
ソラは街産の服を来ているため、あまり目立っている様子はなかったが、ルキナは全身を覆うローブと顔を隠すフードにより、若干周りから浮いていた。
道行く人がルキナのことを好奇の目線で見てくるが、しかし彼女は一切それを意に介していなかった。逆に隣にいるソラの方が気にしているくらいだ。
そんなソラの様子も気にせず、周囲の目線を引き付けたまま、ルキナはソラに話しかける。
「どこに向かってる?」
ソラはその状況に若干嫌な顔をしながら返答する。
「今は街の中心部を目指してる。あそこは人が集まるから、色々見るもんがあるだろう」
その言葉に対して彼女が納得したかは分からないが、ルキナはまた黙って歩き出す。
周囲からの視線に囲まれているという居心地の悪さを感じながら道を歩いていくと、彼らは急に開けた場所に出た。
「着いたぞ。ここが街の中心、ホド・ネツァク広場だ」
それは大きな広場だった。
辺りには多くの人々がたむろしている。広場には噴水があり、その傍で座り込んで談笑している男女が数組いる。
広場の傍には色々な店があり、食事をする人や買い物を楽しむ人、カフェのテラスで休憩する人など様々な人間が老若男女ごった返している。
人々の笑いあう声が飛び交い、皆の表情には笑顔が浮かぶ。まるで最高に幸せだとでもいうような人々の営み。スラムとはまるで違う光景が彼らの目の前に広がっていた。
だが、そんな幸せそうな彼らの姿を見て、ソラは思うのだ。
「――気持ち悪い」
「ソラ?」
ルキナから疑問を呈されたことで、ソラは自身の考えが口から漏れてしまっていたことに気づく。
そのことに対して取り繕うかのようにソラは慌てながら説明する。
「ああ、いや…何でもない。さっきも言ったがここはホド・ネツァク広場。ここは街の奴らが集まる場所で、経済の中心だ」
「経済の中心?」
ルキナは彼の言った言葉の意味がよくわからず、同じ言葉をソラに聞き返す。
その瞬間だった。
広場の中心がほのかに光った。よく見ると広場の中心には円形の床があり、そこには4つの丸と3つの線で構成された奇妙な図形が記されている。その床と模様が光を放っていたのだ。
「あれは…」
そうルキナが口にしかけた直後、光が一瞬強くなり辺りを照らした。その後、円形の床の上に奇妙な姿をした数人の男が立っていた。
全員が真っ黒なローブを羽織り、ローブの下には白シャツと黒いズボンを履いている。遠目からでも、それらの服装は街の人々よりも上質なものに見える。
年齢は若く見える。大体10代半ばといった所だろうか。全員品の良い顔立ちをしており、まるで名家の子息といった見た目をしている。
「はあ…なんで僕たちがこんな所来ないと行けないのかな」
「演習なんだからしょうがないさ、さっさと終わらせて帰ろう」
男のうちの二人がそんな会話をしている。どういう意味かは分からないが、この場所に来ることに両者が不満を抱いているということは分かった。
その集団が広場の中心から歩き出す。すると周りにいた街の人々は何も言わずに左右に体をずらし、集団の通り道を開ける。更に全ての人々が集団に向けて頭を下げる。その様は神へ祈る修道士のようだ。
先ほどまでの喧噪が嘘かのように静まり返った広場に、集団が鳴らす固い靴の音だけが響く。
そんな中ソラが口を開く。
「あれが理由だ」
その言葉には、あふれんばかりの感情が込められていた。
「イエソドより上位の階層世界、ホドとネツァクからの転移門。それがあの床だ」
まるで不倶戴天の敵を見つけたかのようにソラの目に力がこもる。強く握りしめた右手は、皮膚に爪が食い込み、今にも血が溢れ出しそうだ。
下層の人間が上層の階層世界に行くには、塔を登らねばならない。
しかし、上層の人間が下層に降りるためには、塔を下る必要はない。この広場の中央に埋め込まれた円形の床――転移門と呼ばれるそれがあるからだ。
転移門は、その上に乗った中で最上位の"権限"を持つ者が望む階層へと、瞬時に人を運ぶ。
そしてイエソドの上位には、二つの階層世界――ホドとネツァクがある。
つまり今、広場の中央に立つ男たちは、この転移門によって上層から一瞬で降りてきたのだ。
「あの転移門があるから、上層の奴らはイエソドに来る時、必ず街を通らないと行けない。その時にあいつらが落とす金や資源がそのまま街の金になってる」
「上層…」
「つまり街は上層の奴らのおこぼれで生きている。いくら外見を取り繕っても、こいつらもスラムの連中と変わらない」
上層の集団が歩くと、街の人々は左右に寄る。商人は頭を垂れ、子供は母親に口を塞がれる。カフェのテラス席の貴婦人は、紅茶のカップを慌てて置き、膝を揃えて立ち上がる。
まるで舞台だ、とソラは思った。
広場の脇に並ぶ店、整えられた花壇、噴水の向きまでも。何もかもが、今歩いている上層の集団から見て美しく映るように配置されている。
街の店主たちは、上層の客が気に入る商品を置き、上層の客が好む言葉遣いで喋り、上層の客が求める笑顔を浮かべる。
そして、この広場から街のトレンドは広がっていき、上層の人間達の良いように文化も染められる。
何もかもが上層の人間に支配されていて、文化の良し悪しすら彼らに決められる。
まるで路上の娼婦か籠の中のペットだ。彼らに気に入られたくて必死で媚を売り、尻尾を左右に振る愛玩動物。
街の残飯を漁るスラムの野良犬と、上層のおこぼれに尻尾を振る街の愛玩犬と。
どちらも犬だ。ただ、首輪の色が違うだけ。
――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
ソラの中にそんな感情が湧き上がる。だが、街の人間達に抱くその嫌悪よりも激しい感情が同時に存在していた。それは――
「ん?」
その時だった。
立ち並ぶ街の人間の列の途中で、上層の集団の一人が声を上げ、立ち止まった。十代後半ほどの顔つきをした短髪の男だ。
その男の目の前には一人の街娘がいた。
「お前、顔を見せてみろ」
そう男が命令すると、おずおずとその少女は顔をあげる。
怯えの表情が浮かぶ少女の顔は、ぷっくりとした頬と丸い大きな瞳が印象的で、如何にも街娘といった愛くるしさがあった。ルキナやセナほどではないがそれなりに見た目は整っている方だろう。華奢な体も相まって、どこか子犬のような印象を覚える。
「…悪くないな。お前」
男は上から目線で少女を値踏みすると、少女の顔をじろじろと舐めるように見つめる。
少女はその視線に耐えきれずに顔を少し背けようとするが、
「ひっ」
その瞬間、男の右手が彼女の頬をとらえ、その柔らかな頬をギュッと潰しながら無理やり彼と目を合わさせられる。
彼女は恐怖で顔が引きつるが、男はそんな事を一切気にする素振りもなく、またも上から目線で言い放つ。
「今日の夜、そこの宿まで来い」
「え…」
「分かったな」
そう言い放つと、呆然としている彼女の頬から手を離し、顔を前へ向ける。その様子を見ていた別の男が眉を顰めながら指摘する。
「あのな、今回は遊びに来たわけじゃないんだぞ?」
「分かってるって。でもこんな所まで来させられてんだ。ちょっとくらい遊んだっていいだろ?」
「…ほどほどにしろよ」
短髪の男の所業はいつもの事なのだろう。咎めた男の表情には諦めと呆れの表情が滲んでいた。
しかし、彼にとってはただの忠告だったのだろう。本気で止めるつもりもなく、止まればいいな程度の感慨しか持ち合わせていなかった。
そうして上層の集団は歩き出すが、その時。
「あ、あの…!」
「ん?」
先程、顔を掴まれた少女が後ろから叫ぶように集団に声をかけた。
勇気をふり絞って声を上げたのであろう少女の顔は、恐怖で青ざめ、手はブルブルと震えている。
それも当然だ。目の前にいるのは上層の人間。それに対して下層の彼女が抗うのには尋常ではないプレッシャーがかかる。
その状況に、思わず周りに並んでいた人間達も息を飲んだ。
「きょ、今日の夜は用事があって、宿までお伺いすることは…ひっ」
少女がそう言いかけた時、先程彼女の顔を掴んでいた男が突然少女の目の前に立ち、彼女の顔を上から見下ろしていた。男の眼光は鋭く、まるで獲物を狙う狩人のようだった。
睨まれた少女は恐怖からだろうか、思わず後ずさりして小さな悲鳴をあげる。
「だからなんだよ」
「な、なので、その…今夜はご遠慮させていただきたくて…」
「は?」
男は威圧的な声を上げると、少女の髪を右手で強引に掴み、自分の顔の近くまで彼女の顔を寄せた。
グイっと強く引っ張られた少女の艶のある髪がピンと張りつめている。
「い、いや、止めてください、離してっ!」
「うるせーよ。奴隷如きが口答えすんな」
夜の誘いを断れた不快感からだろうか、男の表情には溢れんばかりの怒気が滲んでおり、額には青筋が浮かんでいる。
対して少女の顔には男に対する恐怖と髪を引っ張られていることによる苦痛に顔が歪み、両目の端には涙が滲んでいた。
髪を掴まれていて体を動かせない少女は、目線で周囲の人間達に助けを求めるが、その状況に手を差し伸べる者は一人もいなかった。
まるで、触らぬ神に祟り無しとでも言うように、広場の人間達は一様に下を向き、目の前の状況から自身の目を背けていた。
「いいから黙って来いよ。お前の都合なんて知らねえんだよ」
「で、ですがっ…!」
そう反論しようとする少女に対して、男は短くこう言った。
[これは命令だ]
男は少女と強引に目を合わせ、その両方の瞳が青く光る。
その瞬間、彼女の顔が絶望と諦めに覆いつくされ、全身から力が抜ける。それと同時に男も彼女も髪の毛から手を離したことで、少女は地面に尻もちを着いた。
――という一部始終を広場の端からソラは傍観することしか出来なかった。
顔には耐え難い程の怒りが滲み、思わず噛んでしまった口の端から赤い血がツーっと流れて地面に落ちる。
彼の中に怒りがこみ上げ、今すぐにでもあの男を、引いてはあの集団を皆殺しにするという欲望が頭の中を駆け巡るが、彼の中の冷静な部分がそれを抑え込む。
例え、今の状態で集団の中に彼一人が突っ込んだとしても、一瞬で返り討ちにされてしまうのがオチだろう。ソラには集団を蹴散らす暴力も、集団に歯向かうための権限もないのだから。
「今、あれの目が光ったのは何?」
頭の中でそんな葛藤を繰り広げていたソラに対して、彼の横で同じように目の前の状況を眺めていたルキナが問いかけた。
――そんなことも知らないのか、こいつは。
彼の頭の中が一瞬怒りで沸騰しかけるが、それはただの八つ当たりに過ぎないと彼自身の理性が蓋をする。
怒りを抑えるために、ソラは一つ、深く息を吐いてから質問に答える。
「…あれは"権限"だ。俺たちがあいつらに逆らえない理由」
「権限?」
「上の階層の奴は、下の階層の奴に対して絶対の命令権を持ってる」
ルキナが首を傾げる。ソラは、跪いて震えている少女を指で示した。
「見ろ」
少女の唇は、何かを言おうとして、しかし動かなかった。
「命令されたら、体が勝手に従う。『黙れ』って言われたら口が閉じる。『伏せろ』って言われたら地面に這う。『食え』って言われたら何だって食う」
ソラは一度言葉を切って、
「『死ね』って言われたら、そいつは自分で自分を殺す」
ルキナは何も言わなかった。ただ、倒れたままの少女の顔を、じっと見つめていた。
「だから誰も、あいつらに逆らえない。逆らえば死ぬから」
正しく奴隷だ。彼らの生殺与奪は上層の人間全員に握られている。
だからこそ、街の人間達は彼らを全力でもてなして不快な気持ちにさせないように媚を売っている。
触らぬ神に祟り無し、と言ったところだろうか。誰しもがその状況に異も唱えず、ただの置物のようにその場で固って、生贄となった少女を気の毒そうに見つめるだけ。
なんてくだらない。家畜にも劣る。吐き気がする。だが、
――それは俺も同じだろうが。
その言葉を心の中で噛みしめる。
自分もまたそんな奴らと変わらない。力がないからその場で蹲り、傲慢な嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。
頭を押さえつけられて、ただただ自分に被害が及ばないように、目につかぬようじっとしている。
上層の奴らからしてみれば彼もまた家畜の一匹。所詮、飢えさらばえた野良犬に過ぎない。
それが、イエソドという階層世界に住まう者たちの現実だった。
「あれはどうやって使う?」
そんな自己嫌悪を心中で繰り返していたその時、またも隣から透き通った声が聞こえてくる。
朗々と響くその声に、彼は目の前の現実に引き戻された。
ルキナが目の前の理不尽をじっと見つめながら、ソラに問いかけた。
「…奴らは目で見た奴にだけ命令ができる。発動したらあんな感じで目が光る」
「目で見る?それは目で見たもの全部に命令ができる?」
「いや、対象のことをはっきりと目視して、そいつを正確に判別していないといけない」
「なるほど」
そう言うとルキナは、道の端に転がっていた手のひらサイズの石を右手で掴んだ。
「つまり、視界外にいる人間には使えない?」
「そうだな――えっ」
ソラが相槌を打つと同時に、ルキナは右手を大きく振りかぶっていた。
「死ね」
ルキナはそんな言葉を小さく吐き捨てる。
そして、隣の少女の行動に驚愕しているソラを置いて、左足で大きく地面を踏み込みながら、右手を全力で振り、強く握りこんだ石を集団の中に投擲した。
なかなかの速球――いや速石であり、そんな石が無回転で空中を駆け抜ける。
ソラはそんな石の軌道を呆然と見つめる事しか出来なかった。
石は速度を殆ど落とすことなく、一直線で広場に向かって飛んでいく。そして正確に集団の周りに群がる群衆の間を通り抜け、
「ん?――ぐぶっ!」
何かを察知し、後ろを振り向いた短髪の男の眉間に激突した。
血管が切れたのだろう、男は額からピューと血を噴き出す。衝撃で意識を失ったのだろう、白目を向き、よだれをたらしながら前に崩れ落ちる。
周りの人間も全員が呆然として、倒れる男の姿を見つめていた。
そんな状況はあまりにも滑稽で――
「――はははっ」
ソラは久しぶりに心の底からの笑いがこみ上げてくるのだった。




