未知の層へ②
【イエソド7層――胞子の森】
そこは薄暗い森だった。
木々の密度は第三層に似ている。だが頭上を覆っているのは枝葉ではなかった。幾重にも垂れ下がった菌糸の膜が樹冠の隙間を塞ぎ、差し込む光を橙に濾している。
この層を支配しているのは木ではない。菌糸だ。
熱と湿気のこもる地面は、その全てが白い糸に侵食されていた。
倒れた大木は苔と菌に呑まれ、もとの輪郭を失っている。立ち枯れた幹のいくつかは人の背の何倍もある巨大なキノコへと姿を変え、塔のように林立していた。
傘の色は様々。白いもの、黒いもの、毒々しい紫や赤。朽ちた根の際にまで、それらはびっしりと生えている。
そんなキノコに支配された世界の中で、二人の男女が駆けていた。
「ルキナッ!!」
「だいじょぶ」
走る二人の周囲には、無数の獣たちがいた。
猪に狼、リザードなど、ありとあらゆる獣やモンスター。そしてその中には人らしき形まである。
しかしそれらは生きた生物ではない。
菌兵――動物の死骸に寄生した菌糸が操る、この層で死んだ生命のなれの果て。
その全身には菌糸が纏わりつき、眼窩や口など、穴という穴からキノコが生えたグロテスクな姿をした操り人形だ。
彼らは新たな苗床を増やすために、この層に存在する生命を追い回すのだ。
「はッ!」
横から迫る狼の菌兵を、ソラが右足で蹴り飛ばす。
革の靴底に感じる嫌に柔らかい感触。腐った死骸がグチャリと音を立ててはじけ飛んでいく様は、見ていて気分が良いものではない。
隣ではルキナが、襲い掛かる人の菌兵の首を短剣で跳ね飛ばしていた。
菌兵の弱点は頭と首。
菌糸は頭蓋から脊髄にかけて寄生しており、そこからその体の末端へと命令を下す。
そのため頭か首を潰せば、その体を動かすことはできなくなり、行動できなくなる。
逆に言えばそれ以外のどこを傷つけたとしても菌兵の動きは止まることはない。
「面倒だな…ッ」
走りながらソラが言う。
最初は1、2匹だった菌兵たちは、気づけば十体を超えていた。
しかも音を立てるほどに、どんどんと集まってきているように感じる。
決して強いモンスターではない。しかし頭と首以外が致命傷にならないという性質上、囲まれると対処が厄介だ。
このままでは消耗戦を強いられる。
ソラは脳内で先ほど見たメモ帳の内容を思い返しながら、ズボンの左ポケットに入れておいた道具を取り出す。
それは機械仕掛けの工芸品。丸みを帯びた形状で、中央の硝子盤には小さな針が配置されている。そして、その針はソラ達の目指す方向を指し示していた。
「さっさと抜けるぞ!」
「了解」
ソラが出した大声に、いつも通りルキナが無感情で反応する。
既に、目の前には菌兵の群れが集まり出して、壁のようになってソラの道を阻害している。
抜け道はなく、周囲を囲まれている以上迂回は出来ない。
つまり、今、ソラは邪魔をされている。
そう認識した瞬間、ソラの右半身が淡く輝き、薄暗い森の中を蒼の光が仄かに照らしだした。
そして、ソラが足に力を込めた、次の瞬間。
「行くぞ」
疾走。
これまでとはくらべものにならない程のスピードで、ソラは森の中を駆け抜ける。
踏みしめた木の根がめきめきと音を立てて潰れて、湿った地面には深く足跡が刻まれている。
一瞬のうちに前方へと距離を詰めるソラ。その目の前には死兵の群れ。
鈍重な動きの彼らは、突如として現れたソラの動きについていくことが出来ずに――
「くたばれッ!!」
そう言い放ったソラが振り払った右腕によって弾き飛ばされた。
最初に吹き飛ばされた一体に巻き込まれる形で、後ろに連なっていた数体がまとめて宙を舞う。
壁の一角が、ぽっかりと崩れた。
「らァッ!!」
壁の穴の中に飛び込みながら、ソラは蒼の光をまとった右腕を左右へ振るう。
そのたびに、触れた菌兵の頭が握り潰した果実のように爆ぜた。首から上を失った死骸が勢いのまま後方へ吹き飛んでいく。
止まらない。ソラは群れの中心を、ただ一直線に突き破っていく。
潰す感触は相変わらず手に届かない。ただ、行く手を塞ぐものが砕けて道が開く。その手応えのなさだけが、わずかに心地よかった。
その彼の背後でルキナが続く。
『墜ちて』
前方を蹴散らすソラに対して、後方から追いすがる菌兵は彼女の担当だ。
崩れた壁の隙間を駆け抜けながら、ルキナがそのチカラを振るって、迫る雑兵を潰していく。
彼女のチカラが振るわれるたび、獣たちの動きが止まり、彼女の手の中の短剣が振るわれるたびに、追いすがる獣たちの首が墜ちていく。
前を開くソラと、後ろを断つルキナ。二人の間の一筋だけが、群れに呑まれずに保たれていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「疲れた……」
「だいじょぶそ?」
「黙れ……」
地面にへたりこみ、荒い息を吐くソラに対して、平然とした顔でルキナが煽る。
それにまともに反応する気力も、今のソラにはなかった。
ソラ達が今いるのは森の只中にぽっかりと空いた岩場。菌糸も胞子も、そこにはない。剥き出しの黒い岩が、円を描くように地を覆っている。
境界はくっきりと分かれていた。
一歩外では橙の靄…つまりは菌糸の胞子が渦を巻き、一歩内では乾いた空気が淀んでいる。
頭上では菌糸の膜が途切れ、久しぶりの白い光が細く差し込んでいた。
ここは7層のセーフティゾーン。ソラの育ての親が残したメモ帳に記されていた、層内の安全地帯だ。
その中で二人はしばしの休憩を取っていた。
二人とも怪我はない。
しかし、ソラの方の疲労はなかなかのものだ。何せ数十分間走りっぱなしな上に、無数の菌兵を延々と蹴散らし続けたのだ。己約が切れた今、その顔は汗で塗れ、疲労の色が濃く表れていた。
そんなソラとは反対に、ルキナには殆ど何の疲労感も見えなかった。いつも通りの無表情に、少しだけ汗が滲んでいる程度。
それは彼女自身が身軽なこと、ソラとは違い重い荷物を持っていないこと、ソラほど派手な運動をしていなかったことなどがあるが、最たる要因はそれとは別にあった。
「いいな…その指輪」
「ちょー快適」
ぶいぶいっとダブルピースをするルキナの右手の人差し指には一つの銀製の指輪が嵌っていた。
それはいわゆるマジックアイテム。その中でも、かなり特殊な、塔の中から発掘された貴重なシロモノ。
それは――
「疲労を遅らせる塔遺物……良いもんだな」
塔遺物、と呼ばれていた。
――塔遺物。
それは塔の中で、ごく稀に見つかるマジックアイテムだ。
見つかる場所は決まっていない。何気ない道の端。鬱蒼とした森の奥。隠れた洞窟や、強大なモンスターの腹の中。とにかく塔のどこにでもあり得るもの。
その形式も様々だ。指輪や首飾り、ピアスといった装飾品、鎧や兜といった防具に、剣や槍のような武器。果ては本やランタンといった品々までもがある。
誰が、いつ、どうやって遺したものなのかは分からない。
確かなのは、その効果のことごとくが人の手では再現しにくい独自のものだということ。
だからこそ塔遺物の価値は高い。冒険者なら誰もが喉から手が出るほどの、桁外れの価値を持つ宝だ。
そして今、ルキナが指に着けている指輪もそのうちの一つ。
それは昨日、ヴォルフ商会で購入した品だった。
『これは"アトラスリング・レッサー"。装着者の疲労感を遅らせる効果を持つ塔遺物だ』
それが昨日、ヴォルフが机の上にそれを置きながら言っていた言葉だ。
『この指輪をつけている間、装着者の疲労は減退する。例えば、普通なら1時間走ると動けなくなる奴でも、これを着ければ2時間は走れるようになる』
『……めちゃくちゃすげーじゃん』
『ああ。これがあるとないとでは、冒険の効率も大きく変わるもんだ。その分高いがな』
有用なそのアイテムが、ヴォルフ商会でこれまで売れなかったのはその値段にあった。
ホド金貨2枚強。カルデアまで到達した上位冒険者の2、3年の稼ぎ相当。
しかし、この指輪にはそれだけの価値が確かにあった。
ソラが金貨に手をかける前に、ヴォルフは指輪を一度引っ込めた。
売る前に言うことがある――そういう手つきだった。
『これは確かに有用な品だが、注意点がある。それは、この指輪はあくまでも疲労感を遅らせるモノだっていうことだ。要は自分の体に疲れていないと思い込ませているようなモンだ』
『……つまり?』
『これを装着している間、装着者は自身が思っているよりも疲労することになる。疲れないからって動き続けると、そのうち体が動かなくなっちまう』
『なるほど……』
『それでも買うか?』
ヴォルフは実直な人間だった。値段と釣り合う価値を提供するが、それを押しうることはしない。
メリットとデメリットを提示して、本当に買うかどうかは客であるソラに委ねられた。
その結果は、今ルキナの指に嵌っていることから明らかだろう。
「くそ……俺が嵌めれば良かったか…」
「むふふ。これは私の物」
恨めし気にその指輪を見つめるソラに対して、ルキナが不敵な笑みで自身の所有物だと主張する。
実際、その指輪をルキナに渡したのはソラだ。
自身よりもスタミナがないであろうルキナに渡した方が効率が良いと考えての判断。それ自体は正しかったと今でも思っている。
だが、こうして目の前で余裕そうな表情を見ていると少しムカつくものがあった。
「……まぁいいや」
息を整え、気を静める。
岩肌に背を預けたまま、ソラは腰の革袋――壺中嚢に手を入れた。
見た目の何倍も呑み込むその小袋から、ソラはいくつかの品を引き出した。携帯食料の包みと、火打石、それに火種。
疲れた手で火打石を打つ。乾いた岩場に火花が散り、火種がじわりと赤を広げて、小さな炎がすぐに立った。
――良い買い物をした。
汗ばんだ体を炎で炙りながら、ソラは思う。
ヴォルフの店で手に入れたのは、先ほどの塔遺物だけではない。
かつてのソラは、マクスウェルから剥いだ外套と衣服。たったそれだけで、モンスターの牙の前に立っていた。
今は違う。
着慣れた外套の下には、しなやかに鞣された革鎧が体を包んでいる。肩と前腕を覆うのは、金具で補強した当て革。胸の急所には、薄い鉄板まで仕込まれていた。
足元は履き古した粗末な靴から、丈夫な革靴と脛当てに変わり、両の手は革の手袋が覆っている。
真新しい革はまだ硬い。身じろぎするたびに微かに軋んだ。
そして、それはソラだけではない。同じ装備をルキナもまた身に着けていた。
防具だけでもない。傷薬に治癒のポーション。
刃毀れを直す油壺と、革を繕う補修の道具一式。
コンパスのような、塔を潜る上での必需品もひと通り揃えた。
そして、上等な携帯食料の山。塩漬けの肉、固焼きのパン、乾かした果実。
ヴォルフはこちらが差し出した分に見合うだけの品を、まとめて二人に揃えてくれた。
――あのおっさんの店で正解だったかもな。
本当は、ククリの店で買い込むつもりだった。
だが昨日の朝に商会を覗くと肝心のククリは不在。
仕方なく、まともそうな商人としてヴォルフを頼ったのだが、その判断は正しかったらしい。
金貨十枚と、ゴミ三人衆から剥いだ装備。それに見合う価値をあの老人は過不足なく返してきた。
かつての塔行きとは、何もかもが違う。
その日を生き延びることだけを考えて潜っていた頃が、まるで嘘のようだ。
ベヒモスを売った金は、二人の旅をまるごと別物に変えていた。
手の中の乾いた肉を齧る。
――これなら行ける。
装備に問題はない。食料も十分。
不測の事態に対する準備も万全だし、コンディションも最高だ。
そして何より――今のソラには、強力なチカラを持つ仲間がいる。
携帯食料を求めてゾンビのように迫るその仲間の額を手で押しのけながら、ソラはそう思った。
ルキナはアーウと鳴いていた。
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