未知の層へ①
【イエソド第六層――カルデア歓楽区・宿屋"鳥籠"】
柔らかく、温かい光。
ソラが最初に感じたのはそれだった。
「……ん」
ゆっくりと目を覚ます。
どこかから差す微かな日差しが顔に当たって少し眩しい。
上体を起こそうと横に手を付いてみれば、その手がわずかに沈み込んだ。
ふんわりとした心地よい感触。押せば沈み、力を抜けばゆっくり戻る。
ベッド、というものらしい。話には聞いたことがあったが、使ったのはこれが初めてだ。
これまでは、スラムでは硬い木の床で、塔の中では石の上に毛布だけで寝てきた。
身体を丸ごと受け止める寝床というものを、ソラは持ったことがなかった。
まさかそれを塔の中で堪能できるとは思ってもみなかった。
「……ふぅ」
その感触を楽しみながら、ソラは小さく息を吐いて、ゆっくりと上体を起こした。
肩から滑り落ちた毛布が、膝のあたりで止まる。
裸の腕に、朝の冷たい空気が触れた。
ソラはふと右隣りの方を見た。
そこにはもう一つ、ソラが寝ていたのと同じようなベッドがある。
そして、その上ではルキナが眠っていた。
毛布を顎の下まで引き上げて、横向きに丸まっている。
白い髪が枕の上に広がって、その下に細い首筋がわずかに覗いていた。
赤い瞳は、瞼の裏に隠れている。長い睫だけが、薄い影を頬に落としていた。
鼻の頭で、規則正しい寝息が小さく鳴る。
口元はほんの少しだけ開いていて、唇の隙間から、何かを噛むような筋が一度だけ走った。
唇の横には白い痕が付いていて、それが枕にまで続いている。
どうやら、夢の中でも何かを食べているらしい。
立ち上がって、光の差す方へゆっくりと歩み寄った。
そして、そこにある窓をゆっくりと開ける。
途端に目に入ってくるのは眩い朝日。
思わず目を細めながら外を見れば、そこにあったのは街の朝。
塔の中とは思えない、青い空に白い雲。
遠くに見える中央の通りでは、既に人が溢れ始めているようだ。その喧噪はソラの耳にまで届く。
露天商の叫び声。鍛冶屋が炉を起こす音。肉を焼く音。
朝食を求める客の笑い声が、川風に混ざって流れてくる。
街道には、冒険者たちの列が出来ていた。
背に剣を負った男、頭に弓を結えた女、荷台を一杯にした運搬人。
解体鉤を背負った巨漢が、隊列の先頭で何か叫んでいる。
ふいに朝風が、窓から流れ込んできた。
ソラは目を細めながら、その風から香るもの感じていた。
川の匂い。薪の匂い。香辛料の匂い。肉が灼ける匂い。
様々な人の営みが織りなす、複雑な匂い。
スラムとも、街とも、塔の中の他の層とも違う匂い。
ソラはそれを、もう一度深く吸い込んだ。
昨日の顛末。
酒場での殺戮の後、ソラはククリとルキナを伴って、店を出た。
ククリから紹介された店を汚してしまったのが多少気まずかったため、エルタから回収した金は酒場の店主に渡すことにした。
金貨が数枚入っていたので、それを使えば店の改修なども容易だろう。
帰るときに、また来ると言ったら、店主は青ざめた顔をしていた。
殺した3人の死骸に関しては、特に価値のありそうな装飾品や武器だけを回収し、他はその場にいた客に譲った。
それがどんな客だったかは覚えていない。ただ、酷く引き攣ったような顔をしていた気がする。
店を出た後はククリにこの宿屋、"鳥籠"を紹介してもらった。
カルデアの中では最高級の宿らしく、広い部屋と柔らかなベッド、おまけに個々の部屋にスチームバスが付いている。
しかも、その代金はククリの奢り。
『自分が紹介した店で面倒をかけさせてしまった』とか何とかで、飯の代金だけでなく、1泊分の代金までククリには出してもらった。
ククリの言う"信頼"を絶妙に稼がれているような気がしたが、奢ってもらえるというので、ソラはそれをありがたく享受することにした。
宿屋に入り、部屋を取った後はククリと別れた。
ルキナと二人で部屋に入って、身体についた血をスチームバスで洗い落として、ベッドに横になったと思った次の瞬間には朝だった。
余りにもふかふかなその感触は、ソラのことを一瞬で眠りへと誘ったらしい。
そして目覚めて、今に至る。
朝日を浴びながら外の景色をじっと見つめていると、後ろからもそりと音がした。
振り向けば、ベッドの上の毛布の小山がモゾモゾと形を変えていた。
やがて、その中からスポっと顔が飛び出した。
亀のように布団から飛び出しているのは、白い髪の少女。
「……むぅ」
ルキナが毛布の縁を口元まで引き上げたまま、ソラを見ていた。
「起きたか?」
「……うい」
むっくりとした動作で起き上がるルキナは、未だ寝ぼけているらしい。
朝日を受けて細めた目を、しぱしぱと瞬かせている。
ルキナはゆっくりと伸びをしながら、口を開く。
「…今日はどうする?」
「そうだな…上に行くにも、まずは装備を買わないとな。後は消耗品に、汚れた布も補充したい。金もあるしポーションも買えるな。あとは――」
ぐぅ。
突如として、低い音が、室内に響いた。
どこかから響く腹の音。自分ではない。ソラはルキナの方を見た。
そこには何故か、腹をポンポンと叩きながらソラを見つめるルキナが居た。
ぐぎゅるるるる。
また、音が鳴った。
ルキナはまた、自分の腹をポンと鳴らした。
「……まずは飯か」
「うむ」
そう言って、ルキナはまた腹を叩いた。
今度は音はならなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
今日のカルデア。それは昨日ソラ達が見たものと殆ど変わりがない。
通りには人が溢れ、人々の喧噪が喧しい。
商人たちが声を張り上げて客を呼ぶ。客である冒険者たちは陳列された商品を熱心に見つめ、その価値を測っている。
鍛冶屋からは鉄を叩く高い音が鳴り響き、露店からは肉の焼ける香ばしい匂いと炭火の煙が立ち上る。
変わらぬ街並み。変わらぬ音と匂い。
しかし、変わったものも確かにある。
歓楽区。
ソラとルキナが泊まった宿はその一角にあった。
そこから少し歩けば昨日の夜、彼らとククリが食事をした"枯井戸"という酒場がある。
いつもなら飯と酒を目的とした冒険者たちが朝から押し寄せるその店。
だが今朝は、正面の木扉に看板が立てかけられていた。
臨時休業。
「……」
「休みか……まぁしゃーないな」
扉の前に二人が立っている。
ソラと、腹を空かせたルキナ。
服装は二人とも変わらない。
ルキナはぐっと深くフードを被り、ソラもまたいつもの白の外套を纏っている。
そんなルキナの赤い瞳が、閉じられた扉をじっと見ている。
視線がそこを離れない。
看板の木は昨日の染みがまだ乾いていないのか、端が僅かに湿っていた。
木扉の隙間から、微かに鉄の匂いが漏れている。
臨時休業の原因は間違いなく昨日の出来事だろう。
床はトールズが穴だらけにした。店内はソラが血の海にした。
店が元通りになるまでどれだけ日がかかるのかは分からないが、少なくとも今日一日で治るということはないだろう。
「別んとこ探そう。大通りまで行けばなんか見つかるだろ」
「……」
ルキナは答えない。
その代わりに、ソラのことをじとっとした目で見つめる…というか睨む。
「……なんだよ」
「ソラのせい」
確かに、と思った。
「……すみません」
よって、ソラは平謝りするしかなかった。
適当な酒場で食事を済ませた二人は歓楽区を抜けて、中央通りに入って道なりに進む。
「はぐはぐはぐはぐ」
「……」
先程飯を食ったはずのルキナだが露店にて肉串を追加購入。歩きながらむしゃぶりついている。
いつも通りの無表情ではあるものの、右手に2本、左手に2本、計4本の肉串に囲まれて、心なしか幸せそうな表情をしているようにも見える。
飯によって何とかルキナのことを宥めすかすことに成功したソラは、通りの喧噪を眺める。
中央通りの人だかりもまた昨日と変わっていない。
溢れる人、人、人。露天商に、冒険者、それらが入り乱れるこの場所では歩くことさえ一苦労。
そのはずだった。
しかし、今日のソラとルキナはどこか歩きやすい。
人と体がぶつかることもなく、するすると流れるように進むことが出来ている。
何故か――それは単純。
道行く人間達がソラとルキナを…いやソラのことを避けていたのだ。
向かいから歩いてくる冒険者がちらりとソラを見る。
すると彼はそのまま体の向きを変えて、ソラと一定の距離を開けながら人込みの中へ消えていく。
少し後ろを歩いていた女冒険者は、ソラの横を通り過ぎる手前で歩幅を緩めた。
急ぎ足に切り替えて、ソラの背中を追い越すことなく、別の路地に折れた。
まるで、ソラとルキナの周りにだけ見えない壁でもあるかのように、人込みの中で二人は孤立していた。
路肩を見ればソラを見ながらヒソヒソと何かを話しあっている冒険者たちがいる。
そちらに目を向けてみれば、彼らはすぐに目を逸らす。そして、今度は別の角度から別の視線が飛んでくる。
恐怖、嫌悪、怒り、憎しみ……負の感情が籠ったそれは、しかし昨日までとは違って、侮蔑の感情だけが無くなっていた。
どうやら昨日の顛末は既にカルデア中の冒険者に伝わっているらしい。
それに対してソラは特段何も思う事はない。
ただただ歩きやすくなった道を嬉しく思った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そこは比較的大きな店だった。
薄暗い店内には様々な物が置いてある。壁に立てかけられているのは無数の剣、短刀、刃物の束に槍や弓。
店の奥には武器だけではなく鎧や兜などの重装備や、冒険者用の軽鎧などが並んでいる。
開いた空間にはいくつもの棚が並べられ、そこにはランタンや油、ポーションや携帯食料といった品が並べられている。
それらの奥のカウンターには、一人の男が座っていた。
千切れてしまった革帯を縫い合わせていたその男――ヴォルフは、不意に目の前に差した影で、ようやく目の前に客が立っていることに気が付いた。
すっかり老いてしまった自身の感覚に辟易としながら、彼は顔を上げて客を見て、
「らっしゃい……ってお前らか」
「昨日ぶりだな、おっさん」
「ういす」
そこには昨日現れた厄介な二人の客が居た。
一人は黒髪と青い目、右半身の刺青が特徴の青年。
もう一人は、身長の低い少女。フードを深く被っていて顔では判別できないが、胸のふくらみや、声の高さから恐らく女であろうことがわかる。
ソラとルキナである。
「で、今回は何の用だ。昨日言った通り、素材は買い取れねえぞ」
「それはもういい」
ぶっきらぼうにそう言ったソラは懐に下げた革の袋の中を右手で漁って、中から何かを掴み取る。
そして、その右手をカウンターの大机の上に置いた。
「これで、上に登るのに必要なものを見繕ってくれ」
「――」
そこに置いてあったのは――金貨。
しかも、イエソドのではなくホドのもの。
右手から離れた離れた硬貨がカラカラと机の上で音を立てて小さく跳ねる。
枚数は十枚。薄暗い店内でも、その高貴な輝きは、それらが本物の金で出来ていることを証明していた。
ヴォルフはただ、目を丸くすることしかできなかった。
その金貨が意味することはたった一つ。
「まさか…売れたのか?」
「おかげさまでな」
昨日来たばかりの新人冒険者が、これだけの資金を持っている。
つまりこの金は、昨日、もしくは今日手に入れたものだ。
恐らくは、ベヒーモスの素材を売って。
「本物だったか……」
ヴォルフは口の中で小さく呟いた。
初めて彼を、いや彼の目を見たときから只者ではないことは分かっていた。
羽織っているものは上等。しかし、その蒼い目には、上位の人間にはない飢えた獣のような輝きがあった。
冷静な態度とは裏腹な、誰から構わず噛みつきそうな、そんな狂暴な性。それが見え隠れしていたのだ。
ベヒーモスの素材を出された時は流石に信じることはできなかったが、それでもどこか、コイツならばやったのかもしれないと思わせるような、そんな何かがあった。
「あ、それとこれから出す奴も換金してくれ」
驚き、目を見開いているヴォルフの前で、ソラは腰に下げた小さな袋から、新たにいくつかの物を取り出した。
2つの剣と杖、そしていくつかの首飾りと指輪。全てが、それなりに上等な装備品に見えるもの。到底、小さな袋の中に納まるようなものではない。
しかしヴォルフには、一体どうやって出したのかとか、そんな当たり前の疑問は浮かばなかった。
何故なら――それらが全て血に汚れていたから。
別に、ヴォルフだって血に慣れていないわけではない。
人の死ぬ様だって何度も目にしてきたし、自身の内臓が飛び出るさまを見たことだってある。
しかしそれでも固まってしまったのは、それらの装備品が、この店に来る客が身に着けていたものだと気づいたからだ。
「"鉄蓋"……」
それはとある冒険者3人のチーム名。
冒険に出る時は全員が鉄の兜を被ることから、彼らはそう呼ばれていた。
素行のいい奴らではなかった。人を罵ることや馬鹿にすることが好きな下卑な者たち。
客としては歓迎するが、人として歓迎できないような、そんな3人組。
そして、ヴォルフは思い出した。
今日の朝、変な噂が回ってきたのだ。
曰く、『イカれた新人がベテランを潰した』。
――そうか。そういうことか。
ヴォルフは心の中でそう呟いた。
ベヒーモスを殺したのも。"鉄蓋"を壊したのも。
全てこの二人…いや、目の前の青年であると、ヴォルフは直観した。
「俺には価値がわかんないから、査定はアンタに任せるよ。とりあえず、この金と装備品全てで、必要なものをそろえてほしい」
黙って目の前の装備品と金を見つめるヴォルフに向って、ソラはそう言い放つ。
蒼い目は、ヴォルフの表情をまるで読んでいない。
読む気がないのではなく、そもそもヴォルフの内面に何の関心もないのだろう。
血に汚れた装備品を並べたことに対して、後ろめたさも、開き直りもない。
詮索はダメだ。ヴォルフはそう思った。
コイツは本物だ。間違いなく、高い実力と何かしらのチカラを持ち、そして間違いなくイカれている。
「……分かった。見てやる」
「助かる。今の俺たちには何もないんだ。必要な物は全部ほしい」
ヴォルフは一度だけ黙って頷いた。
装備、ポーション、携帯食料、ランタン……上の層で必要なものは山ほどある。
ヴォルフは立ち上がり、背後の棚に手を伸ばしかけた。
だが、その手は宙で一度だけ止まった。振り返って客の顔を見る。
「……なぁ」
ソラは金貨を机に転がして、何も条件をつけなかった。
品の選定も、金額の管理も、全てをヴォルフに任せている。
「俺が騙さないとも限らねえぞ。それでいいのか?」
それは、ヴォルフなりの親切であった。
冒険者たるもの、自分の命を守る装備は自分で選ぶべきだし、交渉術や物の価値を見抜く力がなければならない。
全てをヴォルフに委ねているソラの判断は、はっきり言って冒険者としては未熟中の未熟。
それによって金を奪われるかもしれないし、何なら命も落とすことになるかもしれないのだから。
対してソラの声は、平らだった。
「何となく、アンタはそんなことしなさそうだから良い」
「……」
昨日会ったばかりで何故そう信じられるのか分からないが、それは事実だ。
ヴォルフは商売で嘘はつかない。騙すこともしない。
受け取った金の分だけ価値を返すことを信条としているし、その実直さが彼の店をここまで大きいものにしたのだ。
しかし、たとえたまたまヴォルフがそうだったからと言って、彼以外の人間がそうであるとは限らない。
このままでは目の前の青年はいつか誰かに騙されることになるだろう。
そう思って説教の一つでもかまそうとして、
「それに、騙されたなら殺せばいいしな」
ヴォルフの動きが止まった。
ソラが続けた言葉は、前の一言と同じ声の温度だった。
怒りでも、脅迫でもない。それはただの事実の続き。
その蒼い目には何の感情も浮かんでいない。
彼は人を殺すことに、命を奪うことに何も感じていない。昨日"鉄蓋"の三人にしたことも、それ以外の誰かにすることも、この男にとっては変わらないのだろう。
騙されたら殺して取り戻せばいい。騙す奴を殺し尽くせば、騙されることはなくなる。
目の前の男は、間違いなくそれが正しいと考えているのだ。
人の倫理と論理ではない。それは正しく獣の道理。
端的に言って、イカれている。
——面倒な客を引いた。
ヴォルフはそれだけを、心の中で一度だけ呟いた。
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