宴と殺戮①
【イエソド第六層――カルデア歓楽区・枯井戸】
酒場「枯井戸」。
カルデアにいくつかある酒場の中でも、最も評判がいいのはこの店だろう。
二階まで吹き抜けの、丸太組みの広い店。
卓は数十も並び、その殆どが、冒険者たちで埋まっている。
鉄鍋の湯気。焼けた肉の脂の匂い。酒の匂い。あちこちで上がる笑い声と、卓を叩く音。
昼の素材区とはまた違う、夜のカルデアの熱気が、そこには満ちていた。
そんな酒場の一角に奇妙な3人組がいた。
一人は、上等だが袖や裾がちぎれた外套を羽織った青年。
もう二人は、衣装こそ違うが、どちらも白いフードを深く被った小柄な少女たち。
「がつむしゃぺろじゃふじょばばば」
「食い方が終わってる……」
「犬みたいやなぁ」
そんなフードを被った片割れ――ルキナの食べ方を見て、残りの二人、ソラとククリは軽く引いていた。
彼らの目の前に並ぶのは、見るも豪勢な食材の山。
肉に魚にパンに酒……およそスラムでは見たこともないような、料理の数々。
油で揚げられた肉は、その表面がこんがりと色づき、纏った脂が光を反射して艶々と照り輝いている。
炭火で焼かれた魚は、ソラが見たこともないほど大きい。皮目はパリパリ、しかしその内部はふっくらとした感触。
深皿の上に置かれたいくつものパン。それらは全て焼きたてで、香ばしい香りが鼻孔を擽る。
他にも、香辛料で煮込まれた臓物、蒸された芋、色の濃い、とろりとした汁物が卓の上を彩る。
正しく豪華絢爛。スラムで育ったソラからすれば、全てが夢のような輝きを放っていた。
「ほら、あんさんも早く食べや?お嬢さんに取られてまうで?」
「…そうだな」
ソラは、盛られた料理の山の中から一つの肉片を掴む。
良く揚げられた表面はカリカリとした感触。その上から茶色いソースが掛かっていて、どこか柑橘系の匂いがする。
それを、口に運ぶ。噛む。
その瞬間、脂が舌の上で弾けた。
スラムの固い乾燥肉とも、昼間の屋台の串焼きともまるで違う。
味、というものが口の中に洪水のように押し寄せてきた。
塩味、酸味、甘味が混然一体となって舌に纏わりつく。
さわやかな柑橘類のフレーバーと、香辛料のピリリとした辛さが、脳を直接刺激する。
こんな味が、この世にあったのか。
「うんま」
ソラは、ぽつりと呟いた。
今まで食べてきた物は一体何だったのだろうか。そう思うほど、この料理は美味かった。
隣のルキナは、もう、それどころではなかった。
両手に肉と魚を握り、交互に頬に詰め込んでいる。
リスのように膨らんだ頬のまま、目をぎゅっと閉じて震えていた。
「むフ―――」
無表情の少女の口から、聞いたことのない長い満足の音が漏れる。
「ほらほら、お二人さん。お酒もありますよって」
ククリはそういって、二人の目の前に置かれたマグカップを指さす。そこには透明な酒がなみなみと注がれている。
ソラは酒を飲んだことが殆どない。
何せスラムで出回るものは匂いもきつくて味も悪い。一度試してみたものの、それっきり酒を飲むことはなかった。
だが、目の前の酒は、その記憶のどれとも違う。
ソラは、マグカップを、軽く傾ける。
口に含むと、まず、果実のような甘い香りが鼻に抜けた。
感じる酒精もきつくない。喉を通り抜けた後に感じる熱さも、どこか心地よい。
「これが酒か…?」
「悪くないやろ?この街で作られる酒は上でも売れてるんですわ」
そういってククリはフードの奥で機嫌よさそうに頷いた。
隣のルキナもマグカップに口をつけた。
一口飲んで、目を、まんまるに見開く。
それから、こくこくと続けて飲み始めた。
「……あんま飲みすぎんなよ」
「ん」
返事はしたが、ルキナの手は止まらなかった。
真っ白な頬が、ほんのり赤くなり始めていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
料理が半ばまで減った頃、ソラとククリは話を続けていた。
「へぇ……武具と骨兵を操る魔術。そんなモンをベヒーモスが持ってたとはなぁ」
「アレは結構ビビったな…上層でもそんな情報はなかったのか?」
「ウチが知っとる限りだとなかったはずやけど…」
話の中心は勿論ベヒーモス。
ソラとルキナがそれとどうやって戦い、打倒したのかを、ククリは知りたがっていた。
ソラとしても別に隠すほどのことはない。
この場を奢ってもらっているというのと、酒の勢いも相まって、それを一から説明していた。
「まあ、多分、そこまでベヒーモスを追い詰めた人は今までおらんかったんやろうなぁ。もしくは…」
「魔術を使われた奴は全員そこで死んだか、か」
「それしか考えられへんわなぁ」
そういってククリはちびちびと手元のマグカップに入った酒に口を付ける。
その顔色は飲み始めから一切変わっていない。
隣で顔を真っ赤にして酒と飯をかっくらっているルキナとは正反対だ。
そうして話し込みながら、ソラは今までずっと疑問に思っていたことを口にした。
「気になってたんだが、なんでベヒーモスって討伐されなかったんだろうな。上層の奴らなら倒すことも出来たんじゃないか?」
そもそもの疑問。何故、ベヒーモスが何百年も生きながらえていたのか。
確かに、イエソドの冒険者たちがあれを倒せないというのはあるだろう。
しかし、上層にはより多くの強者が存在しているはずだ。例えばイエソドをたった一人で崩壊させたマクスウェルなんかもその一人。
そんな存在ならば、ベヒーモスを倒すことはできたのではないだろうか。
「あー。それは単純なことなんよ」
そんな当然の疑問に対する、ククリの回答はシンプルだった。
「リスクとリターンが合わない。ただそれだけなんですわ」
「リスクと、リターン?」
「そう」
ソラがククリの言ったことを復唱すると、少女はそれに深く頷く。
「上層の冒険者からするとな、下層のイエソド自体、稼ぎが悪いんよ。例え道中がどれだけ安全でも、かけた時間に対する報酬がカスみたいなもんで来る価値がないんですわ」
「なるほど……」
「道中の討伐クエストも雀の涙くらいの報酬しかないし、素材も貧弱。だからそもそも上層の人らは下層に来ることはほぼないんよ。来たとしてもウチみたいな素材とかを取り扱う商人か、演習に来るホドの学生か、そんなところや」
「…つまり、上層の冒険者にとっては労力と報酬が釣り合わない。だから、ベヒーモスに挑戦する奴が殆どいないのか」
「その通り。まあ何人かはいたはずやけどな。どうせ中途半端な腕で、上層では稼げないから下層に来たようなヨワヨワな人だったんやろなぁ。そんなんじゃあ、あの"壁"は突破できませんよって」
多分やけどな、とククリは締めくくり、再び酒を口に含む。
少女の言ったことは恐らく正解だろう。
上層の冒険者たちは上層で稼ぐのが妥当。わざわざ下層まで降りてくるというのは余程自信がないか、実力がないかの2択。そんな弱者がベヒーモスを討伐できるはずもない。
故に、今まで上層の人間でもベヒーモスを打倒した者がいなかった。
それはソラにとっても、なんとなくしっくりとくる回答だった。
「で、そんなベヒーモスをあんさんらはどうやって倒したん?見た感じ武器もそのほっそい剣と銃ぐらいに見えるけど」
そして、再度話は戻る。
上層の人間も倒したことがない、強大な"壁"。未知の魔術を使うその敵をどうやって倒したのか。
「私の超絶無敵さいきょーぱわーで倒した」
「お前はなんもやってねえじゃん……」
隣から突如として身を乗り出して来たルキナが、ぶいぶいっとダブルピースをしながら自信満々に言ってくる。
口元を油でべっとべと汚したその顔は、いつもの色白さが欠片もないほど真っ赤に染まっている。
どうやら大分酔っぱらっているようだ。
「何を言うか。私がいないとソラはベヒーモスに集中できなかった」
「まあ…それはそうだな」
「つまり討伐は私のおかげ」
「……うーん、まあそうです」
「ムフー」
鼻息を荒くしながらそう主張するルキナに、ソラは唸りながら頷いた。
彼女の言ったことはまあ事実と言えば事実である。
あの無数のダスクウィングをルキナが受け持ってくれなければ、ソラはもっと苦戦を強いられていたはずだ。
そうして興奮したルキナをなだめてから、ソラはククリに向き直った。
「まあ、そんなこんなで二人で協力して?殺した」
ソラがそう答えると、ルキナは満足そうにまた肉に食らいつく。
酔って真っ赤になった頬をリスのように膨らませている。
ククリはその様子をフードの奥から面白そうに眺めていた。
「……なるほどなぁ」
今の応答で何が分かったのかは分からないが、ククリはそう呟いて黙った。
フードの奥で、薄く開いた黄金の瞳がソラとルキナを見つめている。
その場にどこか張りつめた空気が流れるが、
「ま、ええか」
それも一瞬。すぐに少女は再び目を細めて、朗らかに話を切り替えた。
続く話は最近のカルデアの噂話。
「そういえば最近、何か下の方でなんかあったらしいんやけど、お二人さんは何か知ってはる?」
「下の方…イエソドか」
「そうそう。なんか、最近カルデアからイエソドに帰還した冒険者たちが戻ってこんらしくてな。噂になってるんよ。最近来たあんさんらなら何か知ってるかと思うてなぁ」
「あー」
ソラは、肉を噛みながら短く答えた。
「イエソドは壊れた」
「壊れた、いうと?」
「街もスラムも丸ごと潰れた。それだけだ」
ソラは、それ以上は語らなかった。
階層世界イエソドで何が起きて、自分が何をしてきたのか。
その全ては口の奥に沈めたまま、ソラは、淡々と、肉を噛んだ。
帰還した冒険者が戻ってこない理由もおおよそ見当はついた。
だが、それもわざわざ口にすることでは無い。そもそもソラにとってみればどうでもいい。潰れたイエソドに興味なんて微塵もない。
「ふぅん。丸ごと、ねぇ」
ククリは、杯を軽く傾けた。
その横顔から感情は読み取れない。
だが、彼女の中で何かの算盤が弾かれた気配だけは伝わってきた。
「……難儀な話やなぁ」
少女はそれ以上は追わなかった。
「そういえば、最近七層で珍しいモンスターが現れたらしくてな――」
明るく話を切り替えながらククリは、ソラを見る
細く鋭い眼光。
その瞳は、ソラの胸元に刻まれた炎の紋章をじっと見つめていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜が更けていく。
山ほどあった料理の数々は平らげられて、空の皿が積みあがる。
酒は何杯飲んだだろうか。少なくとも10は飲んだに違いない。
「はー…美味かった…」
ソラは椅子に深く腰掛けながら、そう呟いた。
顔が熱い。鏡があれば赤く染まった自身の顔を見れることだろう。
もう大分酔っぱらってしまっているのかもしれない。
「良い食べっぷり、飲みっぷりですわ。流石、ベヒーモス殺しは胃袋も強靭やなぁ」
「いぇーい」
合わせて大量に酒を飲んだはずのククリは顔色一つ変わっていない。
相も変わらず真っ白なその肌は、水しか飲んでいなかったんじゃないかと思うほどだった。
その反対に、ソラの隣に座るルキナはもうべろんべろんで机に突っ伏しながらダブルピースをしている。
幸いなことに気分は悪くないようだ。相変わらずの無表情だが、どこかもちもちと緩んだ顔をしている。
店の喧噪は、夜が更けるごとに濃くなっていた。
入った時よりも、卓は埋まり声は大きくなっている。
鉄鍋の湯気と、酒の匂いが、店全体に厚く立ち込めていた。
あちこちの卓で、冒険者たちが、笑い、怒鳴り、杯を打ち付け合う。
ソラはそんな店の雰囲気を眺めて、満たした腹を抱えながら、マグカップにわずかに残った酒で口の中の油を洗い流す。
その様子を微笑みながら見つめるククリと、幸せそうに机に頬をこすりつけるルキナ。
ここまでの苦労が全て剥がれ落ちていくような、そんな緩んだ空気。
その時だった。
「おい。見ねえ顔だな」
気づけば、ソラの隣に一人の男が立っていた。どうやらソラに向って話しかけてきているらしい。
腰に長剣を下げた、短髪の若い男。恐らくは冒険者だろう。顔は赤く、目は据わっている。
その顔を見たとき、ソラはどこかで見覚えがあったような気がした。
「あーん?」
それを思い出すより先に、男がソラの顔を覗き込む。
その直後、
「ぷッ、ハハハッ!!思い出した、お前、ベヒーモス殺しの英雄様じゃねえか!」
男が、ゲラゲラと笑いだす。
その話を聞いて、ソラも男のことをなんとなく思い出した。昼間の素材屋に居た、ソラを嗤った3人の冒険者のウチの一人。
それが確かこんな顔だったような気がする。
「エルタ、トールズ、こっち来いよッ!ほら吹き野郎がここにいるぞッ!!」
男はその場で大声をあげる。その声に呼ばれて、二人の男が近くの卓を立った。
一人は、白い包帯を腕に巻いた、短い茶髪の男。もう一人は、でっぷりと太った、大柄の男。
近づいてくる二人の顔をちらりと見てみれば、昼間に見たうちの残りの二人だった。
「どうしたよクロウ…って」
「コイツ、昼間の……」
「そうなんだよ、英雄様がこんなとこで飯食ってんだよ!」
クロウと呼ばれた男が、げらげらと笑いながらソラを指さした。
残りの二人もそれなりに酔っているようだ。吐く息に酒の匂いが混じっているし、顔も赤い。
三人が、ソラの卓を囲むように立つ。
「どうだい。ベヒーモスの素材は、売れたかよ」
「売れるわけねえよなぁ。なんせ、ホラなんだから」
3人組の下卑た笑いと大声が店内に響き渡る。
その大声に驚いたのか、周りの卓の冒険者たちもこちらのことを伺っている。
注目が集まったことに気を良くしたのか、クロウは更に大声を張り上げた。
「皆、聞いてくれよッ!こちらに座っている方は、どうやらベヒーモスを殺してここまで来たらしいッ!」
その瞬間、店内の喧噪がピタリと止んだ。
気づけば、店中の冒険者たちが軒並みこちらを見ていた。
そして――爆笑。店内に冒険者たちの笑い声が響き渡った。
ベヒーモス殺し、という単語が、店の中を飛び交う。どうやら昼間の件はそれなりに広まっているらしい。
あちこちから、くすくすと、笑い声が聞こえてくる。
「あれが噂のホラ吹きか」「英雄様だってよ」――そんな囁きが店の中に薄く広がっていく。
ソラはその声に何も答えなかった。
この手の絡みはソラにとって珍しいものではなかった。
スラムでは、嘲りも、罵倒も、日常の一部だった。
今更、酔った冒険者に何を言われたところで、ソラの中には波ひとつ立たない。
あるのは面倒だという感覚だけだった。
その無反応がかえって、クロウを苛立たせた。
「おい、無視してんじゃねえぞ」
クロウがソラに凄む。眉根を寄せた、顰め面。
それに対して、ソラはただ黙って、目の前の男の顔を静かに見つめていた。
そんな、何の反応も示さないソラに業を煮やしたのか、クロウは標的を変えた。
「そっちは女か?」
クロウの視線が、ソラの隣で突っ伏している人物、すなわちルキナへと移った。
相変わらずフードを深く被っているため、その顔は分からない。
しかし、ローブから覗く白い肌と細い腕が、その正体が女性であることを如実に語っていた。
「フードなんか被りやがって。顔、見せろや」
クロウの手が伸びる。
「おい――」
その瞬間、ソラは流石に身を乗り出して男の行動を止めようとする。
しかし、その反応は、酒で酔っているせいか、いつもよりほんの半拍遅れた。
その半拍の間にクロウの指がルキナのフードの縁を掴み、力任せに後ろへと引き剥がす。
そして、フードがずり降ろされ――
店内の音が、一瞬、止まった。
ルキナの白い髪が、店の灯りの下に零れ落ちた。
雪のような白。その中に、二粒の赤。
酒で上気した、その顔の全てが店の光の下に晒される。
その理性が蕩けるような美貌に、近くの卓の冒険者たちが息を呑む。
あちこちで、ざわめきが波のように広がっていった。
「おいおい……」
「すげえ……こんな上玉、見たことねえぞ」
「どこの女だ、ありゃ。上層の人間か…?」
無数の視線がルキナへと一斉に集まる。
欲と、好奇と、酔いの混じった、ぎらついた視線。
その視線の中で、クロウの口元がねっとりと吊り上がった。
剥ぎ取ったフードをまだ手に握ったまま。
男の目は、ルキナの白い顔から滑り落ちるようにその細い首筋へと降りていく。
襟元から覗く、薄い鎖骨。その下の華奢な肩のライン。
舐めるような視線が、ルキナの体の上をゆっくりと這った。
「は……こりゃあ、上玉だ」
クロウの声が低く湿った。
「おい、お嬢ちゃん。こんなペテン野郎といるより、俺らと来た方がよっぽど楽しいぜ」
男の手が伸びる。
今度はフードではなく、ルキナの細い腕そのものを掴もうとして。
ルキナは机に頬をつけたまま、その手を見上げた。
酒に潤んだ赤い瞳が、近づいてくる男の指をぼんやりと捉える。
どこか誘っているかのような、魔性の魅力。
クロウはその魅惑に逆らわない。湯だった頭のまま、その手をルキナへと伸ばしていく。
そして、その指がルキナの腕に触れそうになった、その寸前。
ソラの手がその手首を掴んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「あ?」
クロウが、掴まれた腕を見る。
強く握りしめられたその腕。そして、握りしめた手の、その先を見る。
そして、その視線がソラの目とぶつかった。
凪いでいた。
ただ底の見えない、深い、深い、蒼。
覗き込めば、そのまま吸い込まれてしまいそうな虚ろな色が、クロウのことを見つめていた。
クロウの背筋に、一瞬冷たいものが走る。
酔いの奥で、本能が何かを警告していた。
「なァ、ククリ」
ソラが一言呟いた。
その呟きの向かう先は、黙ってその場を静観していた、卓に座ったもう一人の少女。
「この店って汚してもいいか?」
「…まぁ、多少ならええんとちゃいますか?」
かけられた言葉に多少困惑しつつも、ククリはそう返す。
先程、自身の店でも感じた、ソラの凪いだ雰囲気。
ククリは何か、嫌な予感がした。
「……てめえ、この手はなんだ?」
そんなククリとは正反対に、腕を掴まれたクロウの方は、顔に青筋を立てて声を荒げる。
クロウの空いた手が、ソラの胸ぐらを掴んだ。
「いい度胸じゃねえか。ホラ吹きの新顔の分際でよ」
先程感じた不吉なナニカを拭い去るように、クロウはソラのことを真正面から睨みつける。
ソラは、その睨みを、見返しもしなかった。
ただ、自分の胸ぐらを掴んでいる、クロウの手を見ていた。
布越しに伝わる男の握力。
襟を引き絞り、ソラの体を、男の方へと引き寄せようとする力。
それは、ささやかなものだった。
酔った冒険者が、その襟元を握りしめているだけ。
だが、今のソラの内側はすでに別の場所にあった。
今、自分を引き寄せようとする、この手。
自分の前に立ちふさがるこの体。
コイツは俺の邪魔をしている。
俺の行動を阻害している。
つまり――鎖だ。
そう、認識した。
途端、ソラの中のナニカがかちりと嵌った。
「黙ってねえで何とか言いやが――」
クロウが言い終えるより、早かった。
「邪魔だなァ」
そんな小さな呟きが聞こえた直後――クロウの視界が反転した。
「……あ?」
クロウは何が起こったのか分からず、そんな疑問の声を上げた。
くるくると回り続ける視界の中、うっすらと見えるのは驚愕に目を開く、周りの客と、二人の仲間たち。
やがて、べしゃりと湿った音が鳴って、クロウの視界の回転が止まった。
視点が低い。
先ほどまで話していたホラ吹きの新入りの顔がやたらと高く見える。
何でだろう、そう思って、新入りの隣を見て気づいた。
そこにあったのは――自分の体の腰から下。
クロウの体は、腰を境に上と下とで分かれていた。
主を失った下半身が、やがて糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。
何故。どうして。
酔いの残る頭は、あまりにも唐突な目の前の光景を理解できなかった。
ソラが手を動かしたのは、一度きりだった。
掴んでいたクロウの手首を引いただけ。
まるで酔った仲間の腕を引いてやるような、そんな無造作な動作。
しかし、そこに込められた膂力と、その勢いは尋常ではなかった。
引かれた腕から、皮が裂け、肉が伸び、骨が軋む。
それは、濡れた紙を裂くように、あっけなく。
ぶつ、という鈍い音を最後に、クロウの上半身は腰のあたりから千切れて、ソラの手に引かれるまま宙を舞った。
クロウが味わった、あの回転。
その正体は、引き裂かれて宙を舞う自分自身だった。
飛び散るはずだった血の多くは、千切れた体に纏わりついて、一緒に飛んでいった。
ソラの足元に残ったのは、ほんの数滴の赤だけ。
「あぁ、いいところで千切れたなァ。あんまり汚さずに済んだ」
ソラの顔が歪む。
先程までの凪いだ表情ではなく、凶悪に、邪悪に、下品に歪む、悪魔の笑み。
床に転がったクロウの顔が、驚愕と苦痛に歪む。
声は、出ない。断末魔の一つも、上げられない。
その顔を、机に頬をつけたままのルキナが、見下ろしていた。
酔っていたはずの赤い瞳に浮かぶのは、絶対零度の嘲笑。
その唇が、薄く開く。
「あーあ」
ひどく、つまらなそうな声だった。
その一言が耳に届くのと同時に、クロウは短い生涯に幕を下ろした。




