金色の少女②
「……は?」
ソラは、その言葉を呑み込むことが出来なかった。
ただ面を食らって、目の前の少女の小さな顔を見つめることしかできない。
そんなソラを見て、少女――ククリは、薄く笑った
「びっくりさせてしもて、堪忍どすえ。改めてやけど、ウチ、ククリて言いますの。こない見えても、商いしてますんよ」
「商人…?」
少女が、ソラの隣に座り直す。
腰を下ろす動きに音はなかった。布が擦れる音もベンチが軋む音もしない。
ソラは、その姿を改めて眺めた。
縫い目のない一枚の白布を、体に幾重にも巻き付けたような、奇妙な仕立て。
首の下では右と左が斜めに重なり合い、肌は鎖骨の上までしか覗かない。
袖は腕の倍の幅があって、肘から先が袋のように垂れている。少女が指を動かすたびに、布が一拍遅れて、白い翼のように揺れた。
腰には別の幅広い布が巻かれ、その上から赤い細紐が一周している。白一色の中でその赤だけが唯一灯っていた。
裾は地面に届くほど長いのに、汚れの一つもない。
そして布の格に対して、彼女の体は薄すぎた。
袖から覗く手首は、骨が透けて見えるほど細い。襟元の鎖骨にも、戦う者の張りはない。
戦闘訓練を受けた身体ではない。労働に晒された身体でもない。
しかし、ソラの感覚は、この少女から目を逸らすことを許さなかった。
今すぐ拳を構えるべきか――そう自問するほどに、ベンチの隣に座るその小さな影は密度が異常だった。
「……とてもじゃないが、商人には見えねえな」
「くふっ」
スラム育ち故、ソラは余り物事を知らない。
しかし、そんなソラでもわかる。
その少女の雰囲気は、今まで見てきたどの商人とも――否、どんな人間とも異なっている。
スラムの露店通り、街の広場、そしてカルデア……それらにいた誰よりも、高貴で、華やかで、そして清涼。
強いて近しい雰囲気の人間を挙げるのであれば――マクスウェル。
世間知らずな上層の貴人……それに近い印象をソラは覚えた。
そんなソラの率直な感想を受けて、少女は嗤った。
「ウチをそこらのカスみたいな商人と一緒にされては困りますなぁ」
嗤っている。
ククリは、ソラの浅はかな知識を、そして、カルデアにいる他の全ての商人を嘲笑っている。
「薄利でみみっちい銭を稼ぐような、そんなゴミ共とウチはちゃいます。ウチは高利多売。利益になるなら何でも売るし、買いますの」
「……」
「高値がついて、売れる先があるんやったら、ウチは何でも買う。何でも売る。飯も、武器も、素材も、情報も――命も」
口調は軽い。
だが、薄く開けた目から覗く黄金色の瞳には、何か途轍もなく重い感情が滲んでいるように見えた。
次の瞬間には再び目を細めて、軽い口調に戻る。
「ま、そんなことは置いておいて。今はあんさんの背中のそれの話や」
ククリは、ソラが背負ったバックパックを指さす。
「他のんには信じてもらえへんかったんやろ」
「ああ」
ソラは、短く答えた。
嘆息交じりのその一言に、ククリは更に微笑んだ。
「全部、嘘吐き扱いだ」
「そらそうですやろなぁ」
ククリは、軽く頷く。
「ベヒーモスや言うた時点で、もう話聞いてもらえまへん。あれを倒した言うのは、この街では『俺は嘘つきや』言うのと、大体同じ意味やから」
「……」
「無理もないわ。あの人たちはみーんな、あの壁の前でプライドをへし折られてはるんや。だから信じられないし、信じたくない」
「…お前は違うと?」
「そうや」
少女の笑みはなお深まる。
それは、この街の全ての人間対する嘲笑。
「ウチにはそんなしょうもないプライドなんかありゃしまへん」
ククリは、軽く首を傾げた。
「ウチが商売の天秤に乗せるんは、たった一つ。儲かるか、儲からへんか。それだけや」
「……」
「義理も、人情も、誇りも、恩も、恨みも――そんなもん、ぜーんぶ、要らへん。重さがついてへんもんは、天秤に乗せようがないやろ?それはつまり無価値いうことや」
自嘲も後悔も無い。
本気でそう信じている人間の、軽い笑顔。
プライドを失った人間を嘲っているのではなく、プライドを抱えていることそのものを、彼女は端から無価値と見做している。
ヴォルフの三十五年も、街中の冒険者たちのへし折られた誇りも、ククリの天秤の上では、重りにすらならない塵に等しい。
ソラは、その口ぶりを、静かに聞いていた。
プライドも、義理も、人情も持たずに生きる――そのやり方は、ソラにも馴染みのあるものだった。
スラムでは、プライドは食えない。義理を立てる相手もいない。人情に厚い者から先に死んでいく。
ソラ自身、誇りらしい誇りを抱えたことなど無いし、あったとしても既に摩耗しきっている。
――似てるな。
彼女と、己は、どこかが似ている。
何故かはわからない。出会ったばかりの少女に対して、なんとなくソラはそう感じた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ま、とりあえず、背中のそれを一回見してほしいんやけど、いかがどす?」
ソラは、しばらく、ククリの顔を見た。
選択肢は受けるか、断るかの2択だが、どちらを選ぶかなど考えるまでもないことだ。
街中の素材屋に十軒以上回って、全部断られた身だ。
ベヒーモスを倒したと主張した時点で、もうどこの誰にも信用されない。
今のソラに残された選択肢は、目の前の商人を自称する少女に見せてみることくらいしかない。
それでもダメなら――この街から全てを奪いつくせばいい。
「分かった」
「ほんまかっ!おおきに!」
ククリの薄い笑みが、深くなり、その頬が少し高揚する。
「ここで見せればいいか?」
「いや、ここはちょっと狭いし、人目も気になりますなぁ」
そう言うと、少女はベンチからすっと立ち上がった。
立ち上がる仕草に音はない。白い裾が、夕風にゆっくりと揺れる。
「ウチの出張所、すぐ近くにありますの。あっちで、ちゃーんと見せてもらいまひょ」
「出張所……?」
「ほら、あんさん、行こか」
そう言うと、少女の白い袖から、細い手がすっと伸びてきて、ソラの右の手首を軽く握る。
夕方の風で冷えたのであろう、少し冷たい感触。
握る力は、無いに等しい。
振りほどこうと思えば振りほどける程度のその力で、ククリはソラの手首をベンチからゆっくりと引き上げていた。
「ほら、ほら、こっちですわ」
「……離せ」
「えー」
ククリは、わざとらしく口を尖らせる。
「ええやないですか。可愛い妹をエスコートしてやる、そんな心意気でひとつ」
「離せ」
ソラの声に、僅かに温度が下がる。
ククリは、それを見て薄く笑った。
握った手は離さない。代わりに、もう一段軽く引き寄せる。
「いけずな人やなぁ。ちょっとくらい、ええやないですか」
その時――
「………はれほれ?」
視界の端に、白い影が見えた。
ソラが、顔をそちらへ向ける。
そこに居たのは――ルキナ。
通りの向こうから、ルキナが戻ってきていた。
両手に串を1本ずつ、合計二本。口元にはすでに肉の脂がてらりと光っている。
歓楽区に走り去ったあの足取りそのままに、こちらに歩いて来ていた。
「……」
ベンチまで、あと数歩。
そこでルキナの足が、不意に止まった。
赤い瞳が、ククリの白い手を捉えていた。
そして、その手が、ソラの右手首を、しっかりと握っているのを、捉えていた。
ぴた、と表情が固まる。
いつもの無表情に心なしか何か冷たい感情が浮かんでいるように見える。
赤い瞳がソラを見る。
ソラの手首を握るククリの手を、見る。
そして、フードの奥で薄く笑っているククリの顔を見る。
そのまま、しばらく動かなかった。
ククリは、ルキナの方をちらりと見た。
しかし、握ったその手は離さない。
むしろ、薄い笑みがほんの少し深くなった。
「あらら、お連れさんのお戻りやな」
少女の声は、相変わらず軽い。
「ちょうど良かったわ。お嬢さんも、ご一緒にどうぞ」
「……」
ルキナは答えなかった。
代わりに、無言で歩き出した。
速度は変わらない。淡々とした、いつもの歩き。
だが足音は、ほんの僅かだけ、いつもよりはっきりと、地面を踏んでいた。
そして、ベンチに着くなり、ルキナはソラの左側に回り込んだ。
ククリに握られている右手とは、反対側。
「ルキナ、コイツは商人らしくてな、今からコイツの店に――」
「ん」
まるで浮気男の言い訳のように、事情を説明しようとしたソラの前に、ルキナは手に持っていた串の一本をずずいと差し出す。
「ソラの分」
「……要らない」
「ん」
「いや、だから」
「ん」
「……はい」
短い要求だけを繰り返すルキナ。
しかし、その肉から漂う圧倒的なまでの圧力に、ソラは屈した。
肉を左手で受け取って、しぶしぶ口へ運ぶ。
ルキナは、それを横目で確認した。
ソラが噛んだのを見届けると、自分の手に持っていた最後の一本の串を、ぐっ、と口の両端で噛み直す。
口の左右から、串の両端がにゅっと突き出る格好になる。
珍妙な絵面。だが本人は至って真剣だった。
そうして空いた両腕を、ルキナはソラの左腕に絡めた。
そのままルキナは、その両手を自分の胸元の高さまでぎゅーっと抱え込んだ。
ソラの左肩が、強引に引き寄せられる。
「おっ、と――」
ソラの体勢が、ククリに右手首を握られたまま、ルキナ側に半ば倒れ込む格好になった。
両側から、二人の少女に引っ張られて、ベンチの上で、間抜けな格好で固まる男。
ルキナはその格好のまま、くるり、と首だけを動かして、ククリの方をまっすぐ見上げた。
赤い瞳に、わかりやすい敵意。
口の両端から突き出た串の両端が、ぴくりと上下に揺れた。
串についた肉をはむはむと咥えながら、ソラの左手は両手で抱え込んだまま離さない。
「わたひの」
そして一言。
無表情。だが、低い。
普段と同じ音量。だが、底に圧。
ソラの手首を握っていた、ククリの細い指先が、わずかに固まる。
しかしその直後、ククリは更に強く右手首を握りこむ。
その顔に浮かぶのは、更に悪戯気な笑み。
「いややわぁ、ちょっとした冗談やのに……」
ククリの声は、相変わらず軽い。
だが、その細い指先は、ソラの右手首から離れない。
代わりに、わざとらしく、もう一段握り直してみせた。
「お連れさん嫉妬深いなあ、ウチこわーい」
少女は、薄く笑った。
ただ、目の前の小さな少女の反応が思いのほか面白かったから、もう少しだけ、いじってみたい――そんな顔。
商売の打算でもなければ、対抗心でもない。ただの、悪戯心。
ルキナの口の両端から突き出た串の両端が、ぴくりと上下に揺れた。
そして、ソラの左腕に絡めた両手を、もう一段ぎゅうっと引き寄せる。
ソラの体がルキナ側に数センチ傾く。
それに引っ張られて、右手首もククリの方に引き伸ばされた。
「あらら、お嬢さん、強情やなぁ」
ククリは、面白がるように、自分の側にも軽く引いた。
ソラの両腕が、ベンチの上で左右にぴーんと伸びる格好になる。
「オイ……」
ソラの口から、低い声が漏れた。
二人の少女は、答えなかった。
ルキナは、無言で口の串をはむはむと噛みながら、こちら側に。
ククリは、薄い笑みのまま、向こう側に。
何というか、ベヒーモスを倒した男の現状として、これ以上ない締まりの無さだった。
ソラは、息を一つ吐いた。
それから、ククリに握られている方の腕を、ゆっくりと自分の方へ引く。
ぐっ、と引っ張ったわけではない。
ただ、腕を戻したい方向に戻しただけ。
それでも、ククリの細い指は、その動きに何の抵抗もできなかった。
ククリの細い指先が、宙に取り残された。
「……あらら」
ククリの口から、短い軽い音が漏れた。
「あ〜あ。振られてもうたわ」
少女は、ふぅ、と長い溜息をわざとらしくついた。
そして、宙に残った白い指を、もう片方の手で優しく撫でる。
失恋でもしたかのような、芝居がかった所作。
「お兄さん、責任、取ってくれはらへん?」
「知るか」
「冷たい人やなぁ……」
ソラは、答えなかった。
答える価値もなかった。
代わりに、左腕の方から明確に別の反応が返ってきた。
「ふんす」
短い、低い、鼻の鳴らし方。
ルキナのものだった。
口の両端から突き出た串の両端が、ぴくりとはっきり上向きに跳ね上がる。
ルキナは、ククリの方をちらりと見た。
無表情。だが、その赤い瞳の奥に、明らかな、優越感が、灯っていた。
そして、ソラの左腕に絡めた両手をもう一段ぎゅうと、見せつけるように引き寄せる。
ついでに頬をソラの肩にぐぐぐと擦り付けた。
「だいひょうり」
ソラが右手で押し返そうとしているのも無視して、ルキナはそう呟く。
普段の無表情から、表情の動きはほとんど無い。それでも、どこか誇らしげなその顔が、勝利を主張していた。
ククリは、それを薄い笑みのまま見ていた。
そして、わざとらしくもう一つ長い溜息をつく。
「お嬢さん、容赦ないわぁ。ウチ、もう一度、出直してきますわ」
「おほほいくるはいい《おとといくるがいい》」
「ふふ」
それからククリは薄い笑いを、ふっと引いた。
軽い溜息と、芝居がかった失恋ごっこは、そこまでだった。
入れ替わりに、フードの奥の細い目がほんの一段開く。
そこに乗っていたのは、もう悪戯心ではなく、商売人としての引き締まった顔だった。
「ほな、本題に戻りまひょか」
ククリは、ベンチの脇に立ったまま、軽く首を傾げた。
そして、こちらに向き直る。
その目から感じるのは、商売の場で値を計る人間の、静かに澄んだ視線。
失恋ごっこをしていた一秒前の少女と、同じ人間とは思えなかった。
「お連れしますわ。出張所まではすぐそこですよって」
そう言って、ククリは白い袖を軽く払った。
裾が、夕風にゆっくりと揺れる。
ソラはバックパックを背負い直し、ベンチから立ち上がる。
左腕に絡まったままのルキナの体も、釣られてずるずると持ち上がる。
「……ルキナ」
「ん?」
「歩きにくい」
「ん」
ルキナは答えたものの、絡めた両手は緩めない。
ククリは、それを薄い笑みのまま、振り返って見ていた。
咎めもせず、急かしもしない。
ソラとルキナがそれぞれの体勢に落ち着くのを、ただ待って、
「ほな、行きまひょか」
ククリは、ソラとルキナに背を向け、先に歩き出した。
夕暮れの最後の光が、その白い背中とフードから零れた一筋の黄金の髪を薄く撫でていた。
ソラは、息をもう一ついて、左腕にぶら下がったままのルキナを伴って、その白い背中を追った。
ルキナは、ぴたぴたと横歩きでついてきた。
口の串は、まだ咥えたままだった。




