過去を超えて
「よっ、と」
ソラが一息ついて、地面に降り立つ。
地面といっても、それは石畳の上ではない。
五層の"壁"、湖の王ベヒーモス――その死骸の背中の上にソラは立っていた。
四肢を失った、巨獣の死骸。
その頭蓋は踏み砕かれ、溢れ出した血と脳漿が湖の水を汚していた。
「あースッキリした」
そう呟くソラの体から、蒼の輝きが消えていく。
月よりも、星よりも煌々と輝いていたそれが萎みだし、やがて蝋燭ほどの光すらも放たなくなった。
己約により変質していたソラの肉体がもとに戻る。
それを確認するように、ソラは短く息を着いた。
口の端が、僅かに引き上がる。
ソラの顔に浮かぶのは清々しさ。
自分を縛った対象を破壊したという事実と、もう一つ。
「リベンジ達成だ」
あの頃に諦めた自分の限界を、今の自分が超えたという事実。
その二つが、ソラの顔をより晴れやかなものにしていた。
傷一つ付けることも出来ず、逃げ帰った過去の自分。
塔を登ることを諦め、死んだように生きていた、縛られた自分。
その過去を、ソラは今、乗り越えたのだ。
もう、ソラはかつてとは違う。
『自由』のために塔を登る、その途上の、ただの一歩を踏み越えた。
「さて」
ソラの両足の下で湖水を吸った硬皮が湿り、背骨に沿って連なる石のような突起が、月光の中で黒く濡れていた。
彼はその突起の一つに腰かけて、少し唸った。
「これ、どうやって運ぼう……」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ぐっじょぶ」
ソラが湖縁の石畳に着地するのと、ルキナが話しかけてくるのはほぼ同時だった。
いつもと同様に何を考えているのかわからないその美貌と、気の抜けるダブルグッドサイン。
それをいつものように無視して、ソラはまず少女の全身を眺める。
白いローブにいくつかの赤い点が付いているが、傷は見当たらない。全て返り血のようだ。
そして彼女の背後に広がる無惨な現場をちらりと見る。
「……すごい量だな」
「ふんす」
そこにあったのは100にも届くであろう蝙蝠の死骸。
どうやらこの量のダスクウィングを一人で殺し尽くしたらしい。
相変わらず信じ難い技量だ。界約が強力なだけではなく、本人の冒険者としての才覚が突出している。
「怪我もなさそうだな」
「その通り。誉めよ。讃えよ。崇め奉るが良い」
「頭は痛めてそうだな」
「ころす」
しゅっしゅっとファイティングポーズを取りながらシャドーをし始めるルキナを無視して、ソラは周囲を見渡す。
五層に突入した時に感じていた、厳粛とでもいうべき威圧感は最早ない。
この層の王は死んだ。配下も殆どが骸となった。
もしかしたら隠れたダスクウィングがまだいるかもしれないが、ソラとルキナに襲い掛かってくることはもうないだろう。
つまり――彼らは間違いなくこの層を攻略したということだ。
ベヒーモスから逃げながらの攻略ではなく、正真正銘、正面から打倒しての攻略。
過去数百年起こりえなかった、紛れもない偉業、否、異業。
それを為した当人たちには、その感覚はやや薄かった。
それにまだ、やるべきことが残っている。
剥ぎ取り。
湖に浮かぶあの巨体をここまで運んで、価値のありそうなものを採取しなければならない。
ソラは未だ、シャドーを続けているルキナに向って声をかける。
「あれ運ぶのちょっと手伝ってくれ」
「しゅっしゅっ」
「今の俺だとあれをこっちまで運ぶのが無理そうなんだよ」
「しゅっしゅっ」
「……だからお前のチカラであれを軽くしてほしいんだけど」
「しゅっしゅっぐえっ」
首元をむぎゅっと掴まれたルキナが潰れたアヒルのような声を出す。
両手がだらりと下がったのを見て、ソラは手を離した。
「……暴力反対」
「お前が言うな」
ルキナは首をさすりながら、恨めし気な目でソラを睨んでいた。
それから二人は湖の巨獣の背中に飛び乗った。
そして、ルキナはそこにとどまり、ソラは水の中に飛び込んだ。
「むおおおおおおお……」
「その声は何?」
ルキナが巨獣の背に座って、妙な声を上げながら両掌を巨体に押し当てる。
それと同時に、ソラは湖に裸で浸かり、ベヒーモスの巨体を湖縁に押し出す。
すると、ベヒーモスの巨体は面白いように前へと進む。
まるで巨大な軽石でも押しているかのような感覚だ。
多少の重量は感じるが、水中ということもあってソラ一人でも簡単に動かせる。
そうしてしばらくの間押し続けると、ベヒーモスの死骸が何かに引っかかった。
どうやら湖縁の石畳の上に乗り上げたらしい。
「ソラ、もう一声」
「了解ッ!」
地面との摩擦で動きにくくなったその骸を、ソラは再度、今度は全力で押し出す。
直後、ベヒーモスの巨体がずるりと滑り、湖縁の石畳の上に完全に乗り上げた。
湖の水が、その通り道に沿って滝のように溢れ、石畳を流れていく。
「ストップ。十分」
「あいよ」
直後、巨体の質量が本来の重みに戻った。
湖縁の石畳が、ぎしりと軋み、わずかに沈む。
ソラは湖から這い上がった。
湖水を吸った下着が、肌に張り付いて重い。
冷えた湖水が、肌の上を伝って石畳に滴り落ちていく。
湖から上がったソラの前に、乾いた布が差し出される。
「ん」
「ああ、助かる」
先に巨獣の背中から飛び降りていたルキナが、バッグパックの中から取り出していたものだ。
それを受け取り、ソラは全身を拭き始める。
五層は熱いわけでもない、寒いわけでもない絶妙な気温の層だ。
それでも濡れたままでは肌寒く、ソラは全身をくまなく丁寧に拭いていく。
そんなソラの姿をルキナがじっと見つめている。
「……何だ?」
「何でもない。続けて」
「……」
自身の裸をジロジロと嘗め回すように見つめてくるルキナの視線は、どこか居心地の悪いものだった。
努めて気にしないように体を拭いていたソラは、ささっと水気を拭って下履きを履き直す。
そんなソラに、ルキナが疑問を投げかける。
「下着の下は拭かなくていいの?」
「……まあ、いいかなって」
「……そっか」
ルキナの無表情の中に、一抹の落胆が浮かんでいた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「改めて見るとやっぱりデカいな」
ソラがその死骸を見上げる。
五層の王、ベヒーモス。
その巨体は命が失われた今でも、見る者に威圧感を与える。
体長十五メートル。湖縁から見上げると壁のような巨体。
四肢を失って、胴体だけが石畳に半分乗り上げている。
これを丸ごと運ぶことは、当然できない。
そして、その周りには4つの部位が転がっている。
それは前足2本、後ろ足2本。要するにソラが吹き飛ばした巨獣のそれぞれの四肢だった。
そのうち右前足に関しては膝から下が無くなっている。
最早、そこからとれる素材は殆ど何もないかもしれない。
「で、何を取ればいい?」
ソラの隣に立ったルキナが問いかける。
赤い目だけが、巨体の表面を順番に舐めるように見ていく。
「分からん」
ソラも素直に答えた。
ベヒーモスの素材なんて、ギルドの記録にも残っていない。
というか、ベヒーモスを討伐した者は今までいたことがないのだ。
故に、どの素材にどんな価値があるのかも何もわからない。
そんな状況の中、ソラはとりあえず価値のありそうなものを考える。
人が金を払うものは大概決まっている。
刃物になる材。
防具になる材。
珍しい意匠になる材。
食えるなら、食料も。
要は実用性か娯楽。それらに人は金を使うのだ。
そこで、ソラはまず間違いなく価値がありそう物に目を付けた。
それは、鱗。
ソラは目の前の死骸から、灰黒色の鱗を一枚強引に引き抜く。
ぶちぶちと音をたてながら剥ぎ取ったそれを月光に翳して観察する。
まるで夜闇に溶けるような暗き鱗。
その一枚でもかなりの重量感を感じる。
分厚く、立派なそれは、一枚一枚が鉄片のような、否、それをも凌ぐ頑健さを持っているだろう。
ソラは鱗の両端を力を加えてみる。
すると、鱗は徐々にしなっていく。どうやら加工性もそれなりにありそうだ。
ルキナもまた鱗を一枚手に取り、軽くたたいたり、振ったり、齧ったりして感触を確かめている。
そうして一通り確認した後、ソラに問いかけた。
「価値ありそう?」
「多分な」
ほーと声を漏らしながら鱗を見つめるルキナを無視して、更に他の部位も確認する。
次にソラが手を付けたのは牙だ。
ベヒーモスの頭部は先ほどソラが踏み砕いている。
そのため頭蓋骨はぼろぼろだったが、口の中の牙はいくつか残っていた。
ソラが踏み砕いた頭部の残骸の上に登った。
湿った肉と血の中に手を突っ込んで、奥の牙を探る。
顎の付け根が割れているおかげで、根元から比較的容易に抜けた。
人の前腕ほどの長さ。象牙質、白くは光らない、灰色がかった硬度。
数百年、無数の挑戦者たちを噛みつぶしてきた、その巨大な牙。
それがソラの手の中で、ずしりと重い感触を伝えた。
ソラはそんな牙を2本ほど抜き取って、布で包んだ。
それで、頭部は終わり。
眼球や舌は、何になるか分からなかった。
判断材料がないものは、放置するしかない。
残念だが、ソラ達が持ち運べる範囲には限界がある以上、仕方のない判断だ。
そうして、牙を2本採取したソラが頭部から飛び降りると、ルキナが静かに何かを見ていた。
それは左前脚。正確に言えばその断面から覗くピンク色の断面。
湖水で薄まった血がまだ滲み続けていていて、鱗の下に白っぽい筋繊維の層が露出している。
そんなものをじーっと見つめるルキナがぼやく。
「……食べれる?」
赤い目が、熱心に断面の繊維を見つめている。
期待の眼差し。
未知の食材に、胃袋が反応しているのだろうか。彼女の腹部からぐうと音が鳴った。
「……どうだろうな、まあ、いけるんじゃね?」
見た感じ毒のようには思えない。
しかし、数百年を生きた獣の肉だ。
一般的には年老いた獣の肉ほど匂いがきつくなる。
恐らくは食えたものではないんだろうなと思いつつも、ルキナの眼差しが眩しくて、それを伝えることはできなかった。
いやっほうと声を上げながら、嬉々としてその肉を切り取り出すルキナのことを、ソラは生暖かい目で見つめていた。
火を起こして肉を焼き始めるルキナを横目に、ソラは最後の素材を見つめていた。
千切られた左の前足。そこから生えた、湾曲した黒い角質。
爪。
数多の冒険者を屠ってきた、硬く、巨大なソレ。
直径が大人の顔程もある爪が4本、足先から突き出ている。
ソラは腰の剣を抜いて、爪の付け根に刃を当てる。
鱗の表面なら滑った刃が、肉と角質の境目では確かに食い込んだ。
剣を回すと、ぼきりと硬い手応え。
爪の根元が剥がれて、湿った肉と一緒に剣先に乗ってきた。
ソラはそれを手に持とうとした。
「重っ……」
その瞬間、感じたのは確かな重量感。
湿った土に刺せば立つだろう。それくらいの重さがある。
「持ちはこびは厳しいな……」
芯の部分だけ削りだしたとしても、持ち運べるのは2本が限界だろう。
残りの爪は放置することになってしまいそうだ。
六層の町で一度全てを売り払って、そのあとここに戻って来て再度採集するというのもアリかもしれない。
しかし本当に六層の町でこれらの素材が売れるのだろうか。ベヒーモスの素材といっても誰も信じないかもしれない。
ひとまず価値のありそうなものだけ選別する必要はありそうだ。
そんなことを暫く考えていたソラの背中を誰かがチョンチョンと突いた。
勿論、そんなことをするのは一人しかいない。
振り向いてみると、そこにあったのはよく焼けた肉の串。
「焼けた」
右手の肉串をソラに差し出すルキナがそこに居た。
左手には同じような串がもう一本握られている。
「……ありがとな」
ソラは差し出された串を受け取った。
脂が滴る焼け加減。
しかし、香ばしさよりも、油の焦げる匂いが先に鼻にきた。
そしてうっすら香る獣臭さ。
鼻を衝くその匂いに少し、ソラは顔を顰めた。
「うーん……」
正直、見た目から期待は薄い。
だが、腹は減っていた。
意を決して、ソラは一切れ、肉の端を口に入れた。
同時にルキナもまた、小さな口で肉を噤んだ。
噛む。噛む。噛む。
「………」
咀嚼のたびにあふれ出てくる肉汁。
そこから感じるのは、獣臭、苦み、脂の重さ、それに微かに湖水の青臭さ。
味の要素を分解しようとしても、どれも歓迎されない方向に振り切っている。
噛んでも噛んでも、その奥から旨さが現れる気配がない。
端的に言って、不味い。
心なしかウキウキとしていたルキナの顔がみるみる曇っていく。
無表情のまま、ゆっくりと顎を動かした。
そして、
「……12点」
「…まあ、そんなところだな」
ソラも同意だった。
二人は黙々と目の前の肉を食べ進める。
味は気にしない。咀嚼して、飲み込む。
恐らく主食は人間の肉だったであろうベヒーモス。
その肉を食らうことに、ソラは何の感慨も持たなかった。
口に入れて噛めば肉だ。それだけのこと。
「……持ち帰りは要らないな」
「ですな」
二人の結論は一致していた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
不味い肉を食べ終えて、ソラは一息吐く。
大体の素材も確認し終えた。
結論、持ち運べるのは鱗数枚に牙二本、爪が一本といったところだろう。
それ以外はいったん放置するしかなさそうだ。
勿体ない気もするが仕方がないことだろう。
そうして、立ち上がろうとしたソラの横で、ルキナがベヒーモスの巨体に近づいた。
その右手が、胸鱗を剥がした後の、剥き出しの皮膚に押し当てられる。
五本の指先が、ゆっくりと、皮膚の表面を撫でていった。
鱗の下の皮膚は厚く、湿り気を帯びている。
体温の名残が、その下にまだ僅かに残っていた。
「ソラ」
ルキナの指先が、ある一点で止まった。
そこから手のひら全体を、ゆっくりと押し当て直す。
「どうした?」
ソラが問いかける。
ルキナの赤い視線の先は、ベヒーモスの胸郭の中央あたり。
いや――そうではなく、更にその奥。もっともっと深い場所。
そこにある何かを、ルキナはまっすぐ見据えていた。
「ここ、何かある」
「何?」
ソラがルキナの隣に立った。
彼女が押し当てている手のひらの位置を、目で確認する。
胸郭の中央。先ほどソラが鱗を二枚剥がした、ちょうど真ん中あたり。
湿った皮膚と、その下にあるであろう肋骨の輪郭しかソラには見えない。
あるのはただの、死んだ獣の巨体のみ。
しかし、それでもルキナはそれに左手を当てて、じっと見つめる。
そして、一言。
「間違いない。この奥にある」
ルキナは、そこに"何か"があることを確信していた。
何があるのかはルキナ自身、わかっていないのかもしれない。
ソラはしばらく、ルキナが指し示すその場所を眺めて――腰の剣を抜いた。
ルキナが何かあるというのだ。そこには間違いなく何かがあるのだろう。
そう思うくらいには、ソラはルキナのことを信じている。
「掘り出してみるか」
「うん」
ルキナが手を引いた。
皮膚の上に、五本の指の跡が、湿り気で薄く残っていた。
胸郭の中央、肋骨と肋骨の間――ルキナが手のひらを当てていた、その位置。
ソラはそこに刃を当てた。
「気をつけて」
「分かってる」
ルキナの心配の声を聞き流しながら、ソラはゆっくりと細身の刃を肉に通す。
硬い肉だ。胸筋がかなり発達している。
ティファレト製の剣でなければ、刃を通すのにすら苦労しただろう。
ずぶり、と肋骨の間に剣が深く沈んでいく。
全体重が乗って、刃が湿った骨を割った。
ぱきっ、と肋骨の一本が縦に裂けて、刃の通り道が広がる。
ソラがさらに押し込む。
肺らしき臓器を、刃が掻き分けていく。
湖水と血が混じった液体が、傷口から溢れ出して、ソラの上着を濡らしたが、気にしない。
そして、心臓にまで到達しそうなほどに深くまで剣先が到達した――その時。
先端が、何か硬いものに当たった。
「あった」
剣を引き抜いて、代わりに右手を傷口に突っ込む。
肩口まで腕を沈めると、温い臓器の感触が皮膚の上を流れた。
指先が、硬く滑らかな表面を捉える。
それは、巨獣の体内の他の何とも違っていた。
ソラは、それを掴んで、引き抜いた。
真っ赤な血で塗れた右手が握っていたそれは、
拳大の、蒼黒い結晶。
血と臓器の体液で濡れたそれの表面を、湖水ですすぐ。
そうして月光の下に翳してみる。
濁った蒼。
表面はガラスのように滑らかだが、内部は液体のような流れがある。
脈打っているわけではない。だが、止まってもいない。
「なんだ、これ……?」
見たことも聞いたこともない、その謎の物質。
価値があるのかないのか、そもそも何なのかすらわからない。
ルキナが、ソラの手元を覗き込む。
その指先が、結晶の表面を、軽く撫でた。
「これはきっと使える」
「使える……?何に?」
「さあ?でも、何かに」
「……」
相も変わらずルキナは適当なことを言う。
しかし、ソラもまた同様のことを感じていた。
これは――核だ。
ベヒーモスをベヒーモスたらしめていた、核。
理由は分からないが、ソラは何となく、そんな感覚がしていた。
何に使えるかはわからないが、何かには使えるだろう。そんな予感がする。
ソラはしばらく結晶を眺めた。
内部の流れが、ソラの掌の温度に少しだけ反応している――気がする。気のせいかもしれない。
重みは確かにある。拳大の鉄塊と同程度…いや、それ以上。
「ま、持って行こう」
そう呟いて、ソラは結晶を布に包んだ。
それを腰に下げた小袋に収めると、明らかに重みが増す。
しかし、その分の、いやそれ以上の価値が、確かにあるように思えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ソラとルキナの二人は、階段の前に立つ。
振り返れば、天井の円形の穴から差し込む月光が湖の全面を明るく照らし出していた。
湖の水が透き通り、その底にまで光が届く。そこにはもう、何もない。
湖底に積もっていたはずのもの。無数の骨、数多の鉄。
全部が全部、綺麗さっぱりなくなって、ただただ透き通った湖面のみがそこにはあった。
逆に湖縁には無数の死が積み重なっている。
ダスクウィングの群れ。
そして――四肢を失った巨獣。
死ねばすべてが同じだ。
例え五層の"壁"であったとしても、死んでしまえば、ただの物だ。
ソラの、かつての絶望も、今となっては物言わぬ骸に過ぎない。
それをちらりと見たソラは、振り返って、低く呟く。
「行くぞ」
階段に足をかける。
ルキナが頷いて、ソラのその後を追う。
腰の袋と背負ったバッグパックが、爪と牙と鱗と謎の結晶の重みを抱えていた。
扉を開ける。
向こう側から、優しい光と生暖かい風が、ソラの頬を撫でた。
湖の冷たさでも、地下の湿気でもない。
草と土と、人の生活の匂い。
六層の――冒険者の街、カルデアの方角からの風。
ソラの口の端が、もう一度、僅かに引き上がる。
そして思う。リベンジを果たした自分の背中を、過去の自分が見ていたとしたら。
喜ぶだろうか。嫉妬するだろうか。それとも諦めるだろうか。
――ま、どうでもいいな。
今のソラには、過去などどうでもよかった。
もう振り返ることはない。
ソラとルキナが扉の先へ足を踏み出す。
光の中へ消えていく二人の背後で、扉がゆっくりと閉じる。
五層は、再び沈黙に戻った。




