五層の王者②
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」
王が号令を下す。
巨獣が湖の中心で立ち上がり、天を仰ぐように首を持ち上げる。
その大きな口から発せられる湖の王の咆哮が、円形の空間の内側に響き渡る。
その瞬間、宙に整列していた骸と鉄の塊が一斉に動き出した。
最初に動いたのは、湖底で錆び朽ちていた長剣だった。
誰がいつ握っていたのかもわからない、先の折れた古い長剣。
それが、巨獣の背後から、ソラを目掛けて一直線に飛翔する。
「うぉ――」
まるで弓矢の如く、顔に向って飛んでくるそれを、ソラは驚いた声を出しつつも紙一重で避ける。
だが、それはあくまで一番槍。それを避けて終わりではない。
次の瞬間、ソラの視界に映ったのは――
無数の鉄の塊が、ソラに向って同じように飛翔してきているという状況だった。
剣がある。槍がある。矢があり、盾があり、槌もある。
そんな無数の武具、防具がソラを目掛けて殺到する。
「あぶねッ」
咄嗟に身を低くして転がれば、頭上を十数本の武具が掠めて通り抜ける。
剣、槍、斧、棍棒。それらが湖縁の石畳の上を一直線に飛翔し、外壁に次々と突き刺さった。
石が砕ける音共に、石壁の表面に、刃や穂先が深く食い込んでいく。
転がった勢いのままに石畳の上で半身を起こして、前を向く。
その瞬間、目の前にあったのは一本の矢。
「ッ――!!」
ソラは咄嗟にそれを右腕で打ち払う。
息を整える間もない。第二波がもう来ているのだ。
続けて飛翔してくるのは、武具ではなく、骸だった。
頭蓋骨が一つ、肋骨が三本、大腿骨が五本、それ以外の様々な骨。
それぞれが回転しながら別の角度から迫った。
「――らァッ!」
ソラは右脚を軸にしてその場で半回転。
その勢いのままに左足を振り回して、その骨片全てを打ち払う。
「ぐっ――」
しかし唯一、カタカタと音を立てる頭蓋が、ソラの足に噛みついた。
疎らに残った歯が、むき出しの脹脛に突き刺さり、皮膚が破れて血が垂れる。
「気持ち悪いんだよ、このボケッ!!」
ソラは頭蓋が噛みついた右脚を地面にたたきつける。
地面と衝突した誰かの頭蓋骨が砕け散る。
しかし、砕けて宙を舞う破片もまた、宙に浮いたままその動きを止めない。
むしろより小さな破片となって、ソラの周囲を再び旋回し始めた。
「クソ鬱陶しいな……」
ソラが低く呟いた。
砕いた頭蓋骨の破片は、もう頭蓋骨ではない。
ただの骨の破片の集まり。だがその全てが、湖の王の意思の元でまだ動き続けている。
家臣団は数で勝負する。
そしてその数は、砕いても減らない。むしろ砕けば増える。
それに、王の家臣はその無数の骨だけではない。
今も尚、巨獣の周りを舞い続けている無数の武具がソラを睨む。
まだまだ種は尽きていない。
そして――王が追加の指令を下す。
「GURRRRRRRRRRRRRッ!!」
王が唸ったその瞬間、湖の縁で整列していた骨たちが動き出す。
頭蓋骨が頚骨と接続する。指骨が中手骨、手根骨と接続し、更に尺骨がそこにつながる。
次々と組み合わさる無数の骨たち。
そして出来上がるのは――無数の骸の兵。
「スケルトン……!?」
それはモンスターの一種、スケルトンに近しい何かだった。
塔の中で度々遭遇する、骨の塊で構成された化物。違うのは通常のスケルトンではなく、ベヒーモスの意思により作られた特製の存在であるということ。
湖の底に積もった人骨が、ベヒーモスの意思の元で組み上がり、在りし日の似姿を取り戻していた。
数は、目視で数えるのも馬鹿馬鹿しい。
湖縁の半円形を埋め尽くすように、何百体ものスケルトンがソラを取り囲んで立ち上がっていた。
それぞれが過去の挑戦者の装備を、その手に握っている。
剣、槍、盾、斧、鎌、槌、弓。
過去、五層に挑んで敗れた人間たちが最後に握っていた、あらゆる武具。
それらが今、ソラに向けられていた。
「は……マジかよ」
ソラの口の端から、低い笑いが漏れる。
絶望の笑いではない。目の前の状況の規模に、純粋な感嘆を覚えただけ。
そして、スケルトンの第一陣が踏み出した。
剣を構えた一体がソラの正面から斬りかかる。
ソラはそれを右拳で叩き上げた。
スケルトンの右腕が剣ごと上に弾き上げられる。
そのままソラはスケルトンの顎を、左の踵で蹴り上げた。
首が後ろに折れる。頭蓋が背中側に落ちた。
だが、それで一体倒したわけではなかった。
折れた首がすぐに戻った。
落ちた頭蓋が宙を浮いて、首の上に戻ってくる。
そして剣を握ったままの右腕も、もう一度剣を構えた。
それと同時に、ソラの左右から別のスケルトンが襲いかかる。
槍を突き出す左、槌を振りかぶる右。
それに対して、ソラはバックステップ。
ソラの目の前を槍と槌が交差して、それぞれがそれぞれの持ち主を打ち砕く。
だが、それも意味がない。砕かれた骨が再び形を取り戻し始める。
「キリがねぇな……ッ!?」
一息つきかけたその瞬間だった。
ソラは見た。
無数のスケルトンのその奥。
未だ宙を舞い続ける鉄の武具と骸の破片。
それらが――全てソラに向って迫ってきているという壮観な光景を。
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!!」
ベヒーモスが雄たけびを上げる。
全軍突撃――モンスターなど分からないソラでも、そう言っているであろうことが本能でわかった。
「クソッ――」
槍がソラの頭の横を通り過ぎていく。
頬を風が掠めた。
僅か数センチの差。耳の脇で、空気が裂ける高い音が響く。
槍はそのまま外壁に突き刺さり、その重量で石壁に深い亀裂を入れた。
それと同時に、横合いからスケルトンがソラに向かって切りかかる。
錆びた剣が水平に薙ぎ払われた。
ソラは咄嗟に右半身を捻って、その軌道を躱す。
そして反動で右拳を握り、剣を握っていたスケルトンの腕に叩き込んだ。
スケルトンの錆びた剣に、ソラの拳がぶつかる。
ぽきり。
古い金属が、ソラの拳の力で根元から折れた。
折れた刀身が宙を舞って、湖縁の石畳に落ちる。
スケルトンは剣を失っても止まらなかった。
代わりに、空いた両手でソラに掴みかかろうとする。
ソラはそれを左の踵で蹴り上げて、後ろに弾き飛ばした。
だが、それで一息つく余裕はなかった。
頭上で、空気が変わった。
ソラの本能が危険を察知する。
反射的に視線を上に向ければ――月光の柱の中に、無数の鉄の矢が整列して宙に浮いていた。
過去の挑戦者の弓兵が放ち損ねた矢。あるいは折れた剣の破片。
それらが王の意思の元に集まり、ソラの真上で一斉に切っ先を下に向けていた。
「ぐッ――」
ソラは全力でその場から後退した。
湖縁の石畳の上を、半歩、一歩、二歩。
足が転がる勢いで、五歩分の距離を瞬時に空ける。
直後――
矢の雨が、ソラがいた場所に降り注いだ。
数十本の鉄の矢が、湖縁の石畳に突き刺さる。
そこに残されていた十数体のスケルトン。
ソラに掴みかかろうとしていた骨兵。
剣を失った骨兵。
その全てが、頭蓋を、胸郭を、骨盤を、矢に貫かれて、湖縁の石畳に縫い止められた。
王の意思の前では、家臣の損失など問題ではない。
家臣は無限に湧く。
どれだけ砕いても貫いても、湖底に積もった骨の数だけ補充される。
であれば、ソラを潰すためなら、家臣ごと矢で射殺することも、王にとっては何の躊躇もない。
「ははッ、容赦ねェな!」
ソラが息を切らせながら笑う。
しかしそんなソラには、後退した先にも逃げ場はなかった。
背後で、空気が動いた。
ソラは振り返る間もなく、その場で身を低くする。
次の瞬間、頭の上を、長い槍の柄が横一線に薙ぎ払われていく。
槍を構えた骨兵が、ソラの背後から襲いかかっていたのだった。
槍がソラの真上を抜けた直後、ソラは下から肘を振り上げて骨兵の顎を打ち抜いた。
顎が砕ける。頭蓋が後ろに弾ける。
だが、骨兵はそれでも倒れず、まだ槍を握ったままもう一度突きの体勢に入った――
その時、視界の正面で別の何かが迫っていた。
鎧。
過去の挑戦者の鎧の破片。胸当て、肩当て、籠手、すね当て。
それらが独立した塊となって、ソラの正面から一直線に飛来していた。
数は十数枚。
それぞれが、人の上半身ほどの大きさ。
それぞれが、鈍い金属の重量を持っている。
「次から次へと……ッ!!」
ソラが低く呟いた。
槍の骨兵が背後にいる。
鎧の塊が正面から来る。
湖縁の石畳の四方は、再構築されたスケルトンに、完全に埋め尽くされていた。
ソラの言う通り、キリがない。このままでは、いつか避けきれなくなるだろう。
ではどうするか。
「上等だ――」
ソラがまた、獰猛に笑う。
覚悟は決まった。
このままではジリ貧。ならば流れを変えるしかない。
つまり――前進。
「こっちから出向いてやりゃあいいんだろッ!?」
そう叫ぶソラが、湖縁の石畳を蹴った。
向かう先は、前。
背後から突き出される槍を避けながら、前方へと走り出す。
正面から飛来する鎧の塊の群れ。
その第一波が、ソラの胸郭の高さに迫っていた。
しかし、ソラはそれを避けない。
逆に、踏み込んで――両拳を構えて、正面から、最初の鎧の塊を殴り抜く。
「おらァッ!!」
ソラの拳が鎧の胸当てに直撃する。
人の上半身ほどの大きさの鉄の塊が、ソラの拳の力で軌道を逸らされ、横に弾かれた。
その反動でソラの右腕がぐらりと痺れたが、無視する。
そのまま二発目、三発目を続けて殴り抜く。
肩当てが、籠手が、すね当てが、それぞれの軌道から弾き飛ばされていく。
弾かれた鎧は湖縁の石畳に落ちる。
そして再び宙に浮いてソラを追う。
まだまだ、上下左右前後ろ、様々な方向から飛んでくる無数の鉄たち。
だが、もうそれは構わない。
ソラに必要だったのは、今、この瞬間。
正面に空いた一瞬に、道が、開いた。
ソラはその隙間に頭から突っ込む。
スケルトンの群れの中、ソラの体が、現在の己約の出力で動ける限界の速度で走り抜けた。
剣を振りかぶった骨兵が、ソラの正面に立ちはだかる。
ソラは構えもせず、その骨兵に体当たりした。
己約で強化された身体能力が、そのまま骨兵の胸郭を粉砕する。
骨兵が後ろに弾ける。
ソラはそのまま走り抜けた。
槍を構えた骨兵が、ソラの足元を狙う。
ソラはその槍を踵で蹴り上げて、別の骨兵の方へ向け直した。
槍が、別のスケルトンの胸郭に深く突き刺さる。
弓を構えた骨兵が矢を放つ。
ソラは半身を捻ってそれを躱す。
矢は背後を抜けて、別のスケルトンに突き刺さった。
家臣が家臣を撃つ。
それでも王の指揮は止まらない。
家臣の補充は無限に続く。
ソラはその全てを、無視した。
目指すのは、ただ一つ。
湖の中央で佇んで、静かにこちらを睨みつける、湖の王。五層の"壁"。
その本体。
「お前を、ぶち壊すッ!!」
ソラの口から漏れた言葉は、もう、誰に向けたものでもなかった。
ただ、自分の中の意思を、自分の口で確認するためだけの言葉。
そして、ソラは湖の縁に辿り着いた。
湖縁の石畳の最後の一歩。
その先にあるのは、湖の水。
湖底に積もった骨が、その水中でまだ動き続けている。
背後から追いすがる無数の屍兵の群れ。
全方向から迫る鉄の武具防具。
破片となりつつも迫る、千の骨。
それら全てを無視して――ソラは跳んだ。
両足の裏が湖縁の石畳から離れる。
膝を折り、脹脛のばねを最大に解放する。
紋様の出力で底上げされた肉体が、その全力を垂直跳躍に変換した。
ソラの体が、湖の上の空間に放り出される。
空中。
湖の中央方向に向かって、一直線。
その軌道の終点には――ベヒーモス。
四肢を踏ん張り、ゆっくりと体を起こしつつある、湖の王の本体。
その頭部が水面から顔を上げる位置で、ソラの跳躍の終点と重なっていた。
「ハッ――」
ソラの口から息が漏れる。
笑いか、気合か、ただの呼吸か。
自分でもわからなかった。
空中で、ソラの体がねじられる。
肩を起点に、腕、頭、背中、腰、脚と、上から下へ軸がねじれていく。
回し蹴り。
跳躍の勢いと、己約により強化された肉体の出力。
それらを重ねて、踵の一点に、収束する。
水平ではない、傾いた回転軸を持つ、振り下ろし型の回し蹴り。
「おおおおぉォ!!」
それがちょうど軌道の終点で放たれる。
振り下ろされた先には、ベヒーモスの頭蓋骨と、その下の脳。
それらを、踵の一撃で、抉り抜く――
その筈、だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
だが――湖の王は、それを許さなかった。
「GRUッ!!」
空中にあるソラの姿を睨みながら、一吠え。
直後、ソラの背後で、湖の水面が突然盛り上がる。
水柱――ではない。
湖底に積もっていた千の骨が、水と一緒に、垂直に湧き上がったのだった。
骨の柱。
それは湖の中央のベヒーモスの脇から、空中のソラを包み込むように、四方から立ち上がる。
水を滴らせながら、ソラの空中の四方を塞いでいく。
そしてその骨たちが、突如として形を変えた。
肋骨と肋骨が、頭蓋の眼窩が、大腿骨の節々が、互いに連結する。
骨が、繋がる。
何百本もの骨が、線になる。
線が、編み込まれる。
編み込まれた骨が、面になる。
面が、湾曲する。
そして、面と面が、噛み合った。
そして出来上がったのは骨で出来た球。
ソラの周囲を取り囲むように、それが突如として空中に形成される。
「なッ――」
ソラが空中で回転の慣性を止める間もなかった。
最後の継ぎ目が、噛み合う。
その瞬間――
球が、閉じた。
外側からは、何も見えない。
内側からも、何も見えない。
ベヒーモスも、月光の柱も、湖縁の石畳も、すべてが、骨の壁の向こうに、消えた。
両手も両足も、まだ動く。
だが、振り抜く先がない。
ソラは咄嗟に、振り抜きの途中だった左脚を、戻そうとした。
その時――球が、収縮する。
骨と骨の継ぎ目が軋む。
互いに食い込んでいく音。
湖底から、まだ追加の骨が、球の表面に組み込まれていく。
球の内壁が、内側に向かって、押し詰まっていく。
骨の壁が、ソラの体に、触れた。
肋骨の冷たい先端が、ソラの背中に。
頭蓋の眼窩の縁が、ソラの肩に。
大腿骨の関節の凹凸が、ソラの太腿に。
ソラの体が、四方から、押される。
両手は、肘から先で、壁に押さえつけられる。
両足は、太腿の途中で、固定される。
背中は、骨の壁に密着する。
胸も、腹も、骨で押し込められる。
指一本、動かせない。
首も、回せない。
膝も、肘も、固定された。
皮膚と骨の壁の間に、隙間がない。
物理的な、完全な、密着拘束。
これが――湖の王の、最後の罠だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
空中に閉じた球が浮かぶ。
その中には、王の敵が閉じ込められている。
それを睨みつける五層の王――ベヒーモスは叫ぶ。
「GUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUッ!!」
直後、宙を漂っていた数多の武具と防具、それらが動きを変える。
剣。槍。斧。鎌。槌。
胸当て。肩当て。籠手。すね当て。兜。
過去、五層に挑んで敗れた挑戦者たちの装備の、その全て。
家臣の骨で作った球を作り上げた後で、湖の王の意思の元に集まった、もう一つの群れ。
それらが、ベヒーモスの大きな口の前に、集まっていく。
そして、変質を始めた。
剣の刃と、別の剣の刃が、互いに溶け合う。
湖の王の意思の元、鉄が鉄の中に溶け込んでいく。
槍の穂先が、剣の刃の中に組み込まれる。
斧の刃が、その剣の腹に、補強として張り付く。
鎧の胸当てが、剣の鍔として、変形する。
籠手とすね当てが、その柄の周りに、巻き付く。
何百もの鉄の武具防具が、互いに溶け合いながら、一つの巨大なナニカの形へと組み上がっていく。
それは――剣。
ただし、巨大な、とても巨大な剣。
長さは、ベヒーモスの巨大な体調と同じ程。十数メートル。
刃の幅は、人間の身長を超える。
過去数百年、五層に挑んで散った全ての戦士の装備がその素材となっていた。
そして、その出来上がった巨大な剣を――ベヒーモスは、口で、咥えた。
牙の間に、剣の柄が深く挟み込まれる。
湖の主の顎の力で、それは強固に固定された。
柄が、ベヒーモスの口の中で、噛み締められる。
「GURRRRRRッ……」
ベヒーモスの咽喉から、低い唸り声が漏れる。
それは、王が振りに入る前の、深い呼吸。
湖の王の首が、ゆっくりと後ろに引かれた。
口に咥えた巨大な剣の刃が、湖の上空に大きく振りかぶられる。
鉄の刃の表面に、月光が走る。
過去の挑戦者の鉄が、月光の柱の中で暗く輝いた。
ベヒーモスの巨体が、振りの体勢に入る。
首の付け根の筋肉が盛り上がる。
湖の王の上半身が横なぎの軌道に合わせて捻られた。
そして――首が、振り抜かれた。
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!!」
咆哮と共に、巨大な剣が、湖の上の空間を横一文字に薙ぐ。
湖の水面が剣の通過した軌道に沿って右に裂ける。
水柱が、剣の腹と空気の摩擦で左右に立ち上がった。
その振り抜きの軌道の終点には――
ソラを閉じ込めた、骨の球が、ある。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ベヒーモスは、恐れていた。
恐れていたのは、目の前にいる、小さく、そして対等の存在。
人間ごときが、湖の王に対して刻んだ、いくつかの傷。
たかだか人の手のひらほどの傷ばかりだが――その全てが、千年単位で「無傷」だった湖の王の体に初めて刻まれた、明確な「敗北」の証だった。
近づかれれば、また同じことをされる。
それは、湖の主にもわかっていた。
そして自分の攻撃は、おそらく、また避けられる。
それも、簡単に予想がついていた。
故に――湖の王は自分の体での戦いを放棄した。
代わりに動かしたのは、骨と鉄の群れ。
ベヒーモスの能力は、『自分が所有する物を自在に操る』こと。
広義には魔術に類する、湖の主の生来の異能。
湖底に積もった過去の挑戦者の骨と、湖底に転がった彼らの鉄の遺物。
湖の王の縄張りに眠る限り、そのすべてが湖の主の所有物だった。
王はその所有物を戦士に作り変える。
あるいは武具に作り変える。
そして、敵に向けて放つ。
自分は安全な距離を保ったまま――遠隔から敵を磨り潰す。
それが最も正しい戦略であることを、ベヒーモスは理解していた。
だが、彼にはわかっていた。
飽和攻撃をただ繰り返しているだけでは、敵はいずれこちらに近づいてくる。
故に罠を仕掛けた。
家臣として動かしているのは、湖底に積もった骨のほんの一部に過ぎない。
湖縁に降り注いだ骨と、すぐに動かせる手駒だけ。
残りの大多数は――湖の主の意思の元、湖の底で眠ったまま待機させていた。
敵が湖の王の本体に近づいてきた、その瞬間。
王は、湖底で眠らせていた骨の全てを一斉に起こす。
そして――起こした骨で敵を囲う檻を組み上げる。
球状の檻。
過去の挑戦者の骨で組まれた、密着拘束の鋳型。
敵をその中に嵌め込んで動けなくする。
動けなくなった敵を、湖の王は最後の一手で粉砕する。
その最後の一手にも、湖の王は自分の体を使わない。
代わりに、湖底に転がった鉄の武具防具を集め巨大な剣を作る。
リーチの長い武器を敢えて作り上げる。
そしてその刃で檻ごと敵を薙ぎ抜く。
万が一にも、自分の体には届かない安全な距離。
そこから過去の挑戦者の遺物だけで、敵を狩り殺す。
家臣で消耗させ。罠で囲い込み。リーチの長い剣で、薙ぎ抜く。
全てが計画通り。
湖の王の予期した通りの終わり方。
彼は、勝利を確信していた。
そして、王の剣が球の檻ごと、敵を両断する――その瞬間。
「――ひゃはッ」
檻の中から小さな嗤い声が聞こえた。




