五層の王者①
先に動いたのは挑戦者、ソラだった。
重心を低く構えた体勢から、つま先に力を籠めて、地面を弾く。
足元の石畳が罅割れ、がしゃりという鈍い音が鳴る。そしてそれと同時にソラは目にもとまらぬ速さで疾走する。
それは正しく弾丸。地面と平行に放たれた、ソラという弾丸が巨獣に迫る。
だが、それに対して、五層の"壁"も黙ってはいない。
「GUUUUUUUUUUUUッ!」
低く唸るような咆哮。それと同時に、その強靭な尾が振り回される。
その尾は杉の木のように太く、長い。そして巨獣の意思により自由自在に動く。
しなやかな筋肉と、硬い鱗で構成されたそれは鞭、というよりも鎌に近しいものだった。
一直線に進む弾丸と、横なぎに振られる鎌。
それが正面からぶつかろうとした正にその瞬間。
「はっ――」
巨獣の尾が、空ぶった。
水平に振られた尾の軌道上から突如として、ソラの姿が消えたのだ。
上空。
ソラは巨獣の尾と衝突する直前に、地面を蹴って遥か頭上に向って跳んでいた。
全速力での突撃から突然の方向転換。慣性の法則を無視するかのようなその動きに対応できるものはいないかのように思われた。
しかし、巨獣はそれを見切っていた。
ここまでに何度も避けられた自分の攻撃。それが当たるとは、ベヒーモスは最初から思っていない。
むしろこの横なぎは、その回避行動を誘導するための餌だ。
「GAAAAAAAAAAAAAAッ!!」
「流石にバレてるかッ!!」
ベヒーモスが、頭部を上に振り上げた。
巨大な顎が最大に開かれ、むき出しの牙の列が、月光の柱の中で白く光る。
その大口が空中のソラに向かって垂直に迫り上がってきた。
噛みつき。
横なぎの尾は、ソラを空中に追い立てるための餌。
本命はこちら――上へ逃げざるを得なくなったソラを口で迎え撃つ。
ソラの体は慣性に従って、放物線を描くように飛翔する。
しかし地面はもう足元にない。跳ぶ場所も、蹴る場所もない。
空中では、慣性以外の方向転換はできない。
ベヒーモスはソラの軌道上で大きく口を開けて待ち構えている。
このままいけば、ソラの体はその口の中にダイブすることになり、そのまま丸呑みにされる――
はずだった。
「案外――」
空中で、巨獣の口が迫るのを待つだけのソラが、呟く。
その表情には微かな笑み。
それは役に立たないと思っていた道具が、意外と役に立つものだったということに気づいた自嘲の笑みだった。
「浮くだけってのもありがたいもんだなッ!!」
そう叫んだソラの体は放物線軌道を描かない。むしろ更に高度を上げていく。
重力の無効化――慣性のままに動くだけのソラの体は、通常の物理法則ではありえない直線的な軌道で宙を駆けた。
「GIA!?」
その僅か下の何もない空間に、ベヒーモスの巨大な口が嚙みついた。
ちょうど高度が頂点に達するところを狙ったのであろうベヒーモスの噛みつきは、ソラの体にはわずかに届かない。
その差は50cmもない。あと少しでも体を伸ばしていれば、噛みちぎっていたであろう、そんな距離。
牙の列が、噛み合わさる音。
口腔の中の、空気だけが噛み砕かれる。
湖の主の口腔には、獲物の代わりに、自分自身の唾液と空気しか残らなかった。
すぐ目と鼻の先に獲物がいる。だが、かみ砕けない。
そしてその獲物、否、敵は――
「ひゃはッ」
笑っていた。嗤っていた。
五層の壁の哀れな姿を嘲笑していた。
ソラの嗤いが、空中に、響く。
ベヒーモスの巨大な頭部が、ソラの真下にある。
噛み合わせが外れた直後の、無防備な頭部。
鱗の薄い頭頂部の継ぎ目が、月光の柱の中で晒されていた。
これは――蹴ってほしいとでも言われているようなものだった。
右脚を引く。
腰をひねって、腿、脹脛、つま先へ、全体重を伝えるようにその右脚を――
「おらァッ!!」
巨獣の鼻先に向って振りぬいた。
「GYAINッ!?」
巨獣の頭部が、後ろに、跳ねた。
ベヒーモスの巨大な頭部が、振り抜かれた踵の力に押し負ける。
そして――巨体全体がその頭部の動きに引かれた。
四肢の支えが、頭部の振り抜かれた慣性に追いつかなかった。踏ん張る場所がなかった。
その巨体がぐらりと揺らぎ――
そして衝撃。
仰け反ったベヒーモスの背中が、湖の底に叩きつけられた。
どおんという音。
それは、音というより、体の内側に直接届く衝撃そのものだった。
そして、湖底の岩盤が巨体の質量を受け止めきれずに撓んだ。
円形の空間のすべての石壁が、その振動に震える。
外壁の上方の継ぎ目から、削り取られた石片がいくつか剥がれて、湖の中に落ちた。
巨体が沈んだ水が爆発するように噴き上がる。
「GIAAAAAAAAAAAAッ!!!」
ベヒーモスが、これまでで最も激しく咆哮を上げた。
否、咆哮ではない。それは紛れもない、悲鳴だ。
「ハハハはハハハハハッ、お前も犬みたいな声出せるんだなァッ!」
重力の軽減を切り、地面に向って墜ちながらソラは嗤う。
そして、湖縁の石畳に両足で着地した。
膝が、衝撃を吸収する。
「ぐッ…」
不意に、頭がくらりと揺れる。
どうやら先程受けた尾の一撃は、ソラが思っている以上に、身体にダメージを与えているらしい。
だが、それでもソラは立っている。
「ははっ……」
ソラの右半身の輝きは未だ止まない。蒼の光は今もまだ、辺りを薄く照らしている。
しかし、全開ではない。ティファレトから来た悪魔を打ち滅ぼした時とはくらべものにならない程低い出力。
だが、そんな状態でも戦えているのだ。
正しく対等な戦いだ。お互い、殴って、殴られる。
それを自分が、それも五層の"壁"に対して行えていることが可笑しくて仕方がない。
湖の中央方向を見据えれば――倒れたベヒーモスは、まだ動いていた。
四肢が、湖底の岩盤を、引っ掻く。
頭部が、ゆっくりと、持ち上がろうとする。
倒れた程度で、湖の主は、死なない。
ソラにはそれがわかっていた。
「ははッ…まだまだお互い終わらねえよなァ」
お互い対等。
故にこんな程度では終わらないことはお互い分かっている。
ベヒーモスの濁った小さな目が、湖の縁にいるソラに向けられる。
そこにあるのはもう、苛立ちでも、警戒でも、痛みでもなかった。
怒り。
湖底に何百年も眠ってきた湖の王が、初めて――目の前の小さな、そして唯一の対等な存在へと本気の怒りを向けた瞬間だった。
王者の怒り。
自分の縄張りで、自分の玉座の前で、自分の体にここまでの傷を入れた不届き者への純粋な殺意。
彼は今、初めて人間を相応の敵として扱うことを決めた。
そして――湖の王は、その怒りを形に変えた。
「GUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOONッ!!!」
頭を天へと持ち上げて、咆哮。
否、それは今までのただの咆哮とは違う。
威圧のためのものではない。苦痛による叫びでもない。
自分自身を鼓舞するためでもない。
それは王者が、眠れる家臣を起こす鬨の声。
全軍による戦いを誓う、宣誓の合図。
即ちそれは――王の号令。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そして――湖の表面が、答えるように波立ち始めた。
中央から外側に向かって円形の波紋。
水の動きが、ゆっくりと湖底の何かに合わせて揺れている。
湖底に積もった無数の骨が、その水の振動に応えるように動き始めた。
最初は、一つ。
それから、十、二十、百、千。
湖底のすべての骨が揺れる。
鎧の留め具らしき金属片が、骨の間で軋み始めた。
錆びた刃の欠片が、水中でゆっくりと、立ち上がろうとする。
「……は?」
ソラが低く呟いた。
それはこれまで見てきた、どのモンスターの能力とも違っていた。
湖の王は、自分の手足ではなく湖そのものを――否、湖の底に積もった過去の遺物そのものを動かそうとしていた。
王が家臣に号令を下すように。
眠っていた過去の戦士たちに起床と奉仕を命じるように。
そして、湖縁の石畳の上にも、その号令は届いた。
湖に眠るあの骨たち。
湖縁の至る所に散らばっていた、過去の挑戦者の骸。
それらが、湖底の振動と同じリズムで震え始める。
ソラの靴の脇で、頭蓋が一つ転がった。
その頭蓋が転がるのを止めて――その空洞の眼窩が、ゆっくりとソラの方を向いた。
ソラと、頭蓋。
その視線が月光の柱の中で合った。
そして頭蓋の隣にあった肋骨が一本、地面から僅かに浮いた。
それからもう一本。
湖縁の至る所で、骨がゆっくりとその動きを真似て地面から剥がれ始める。
ソラは、その光景を静かに見据えた。
「……ああ、なるほど」
呟きは、誰に向けたものでもなかった。
過去の挑戦者の骸が、湖の王の意思によって動き始めている。
湖底に積もった無数の骨と、湖縁に散らばった骨と、それらが使用していた武器の全てが――湖の王の家臣として、ソラに向けられようとしていた。
自身が今までに踏み砕いてきた過去の戦士たちを使役すること。
それこそが彼の本当の力で――湖の王の本来の姿だった。
これまでの戦闘は、湖の王が片手間で片付けてきたに過ぎない。
これこそが正真正銘、過去何百年使用されたことのない、ベヒーモスの本当のチカラ。王の証明。
そして今――湖の王は、その王座から立ち上がろうとしていた。
骨が、鎧が、剣が、過去の誰かの残骸が宙を漂い始める。
それ等は全て、王の号令を待っている。
全軍突撃――そう声がかかるのを今か今かと待っているのだ。
そんな絶望的な光景の中でソラは――
「ははははははっはははははははははははっははははははははははっははッ!!!!」
嗤っていた。今までよりも高らかに。
その耳障りな大笑いに、五層の"王者"は顔を顰めて、首を持ち上げる。
周囲では、過去の挑戦者の骸が宙に整列していく。
ベヒーモスを倒した者は誰もいない。
過去、五層に挑んだ全ての挑戦者は――今、湖の王の家臣として、ソラの前に立っている。
数百年分の敗北。
その敗北のすべてが、湖の王の最後の手段として、ソラに向けられようとしていた。
それでも、ソラは嗤っていた。
「そんなこともできるんだなァ」
湖の王と、その千の家臣団。
対するは、湖縁の石畳に立つ、一人の人間。
――だが、それがどうした。
「全部、まとめてぶち壊してやる」
ソラが、低く、呟く。
第五層の最後の戦いが――今、始まろうとしていた。
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