最初の壁③
走る。跳ぶ。転がる。
ソラの体が五層を縦横無尽に駆け回る。
相対するのは五層の主、巨獣ベヒーモス。
ソラの十倍近くある巨体は、それに見合わぬ速度で彼を追う。
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」
咆哮が五層全体に響き渡る。その巨大な脚が地面を踏みしだくたびに地面が揺れる。
その爪が石床にたたきつけられ、それと同時に深い痕を残す。
もしその一撃が人体に当たったなら一瞬で八つ裂きになるだろう。故に、ベヒーモスの一撃は全て躱すことが大前提。
一回でも失敗したのならその時点で死亡が確定するのだ。
そんな、危機的かつ致命的な状況の中でソラは、
「はは、ははははははッ!!」
笑っている。歯茎をむき出しにして、目を輝かせながら、本当に楽しそうに笑っている。
状況としてはかなり厳しいものだ。
ソラがもつティファレト製の細身の剣はベヒーモスの硬い鱗に弾かれてしまい、その身に通らない。
狙うのなら目や口腔といった粘膜だが、巨獣の猛攻を避けながら、そこを剣で狙うのは至難の業だ。
更に、先述の通り、ソラの攻撃はベヒーモスに通らないのに、ベヒーモスの攻撃は当たれば必殺である。
全く持って対等ではない。それは戦いと言うには一方的過ぎて、殆ど蹂躙と呼んで差し支えない。
「GUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!」
雄叫びを上げながらベヒーモスはソラを目掛けて爪を振るう。
一撃、二撃、三撃と、その爪が左右から振るわれるたびに、その度にソラはそれを屈んで、跳んで、転がって躱し続ける。
全ての攻撃を躱される巨獣にとって、しかし、その状況自体は全て思惑通りであった。
全ての攻撃をかわし続けたソラが体勢を立て直そうとしたとき、何かが背中に当たった。
振り返ればそこにあったのは――壁。
「な――」
巨獣にとって、ここまでの連続攻撃は全て避けられることが前提だった。
全てはソラを壁際まで追い詰め、それ以上避けられないようにするための餌。
いい気になって攻撃を躱し続けたソラを狩り殺すための追い込み漁。
そして――追い込み漁の、最後の網が、振るわれる。
ベヒーモスの巨体が、低く、沈んだ。
四肢に、力が籠り、首の付け根の筋肉が盛り上がる。
顎が、最大に開かれる。
噛みつき。
これまでの単調な縦の振り下ろしでも、横なぎでもない。
ベヒーモスの全体重を乗せた、真正面からの、口を開けたままの突進。
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」
背中は外壁。頭上からは、ベヒーモスの上顎が迫っている。
正しく絶望的な状況。
逃げ場はなく、とれる選択肢もない。持っている武器も通用しない。
故にこれで終わり――ではない。
「はッ――」
ソラが嗤う。
確かにソラの武器は通用しない。逃げ場もない。最早手詰まり。
それはそうだ。間違いない事実だ。しかし――だからどうした。
――ソラにはもう一つの"武器"がある。
ソラの右半身の輝きが強まる。今までは仄かに輝く程度だったそれが、蠟燭の灯程度の発光を見せる。
ベヒーモスはそれに気づかない。大きく開けた口でもってそのまま齧り付こうとして――
瞬間、巨獣の顎が、上に跳ね上がった。
「GIAAAAAAAAAAAAAッ!?」
ベヒーモスが、初めて、悲鳴のような咆哮を上げた。
湖底の主の、それまでの威圧的な咆哮ではない、純粋な痛みの声。
自分自身の口の内側を突き刺した、不可解な痛みに対する、混乱の叫び。
巨獣の濁った小さな目が、忙しなく、左右に、揺れる。
何が起こったのか、わからない。
そんなことでも言いたげなその甲高い鳴き声に対して、唯一ソラだけが笑っていた。
「くははッ、お前もそんな感じで鳴くんだなァ」
ソラの体は、一切、無傷。
噛みつかれたはずのその身には、傷どころか、牙の触れた痕さえ、残っていない。
そのソラは、右足を、振り上げた、その姿勢のまま、固まっていた。
仰け反ったベヒーモスを下から見上げる。
その口の端は笑いの形に吊り上がっている。
振り上げた踵を月光の柱の中でゆっくりと下ろしながら、呟く。
「お前は俺の邪魔をした」
何が起こったのか――それは単純なこと。
噛みつかれる、その直前。
ソラは口の中から上顎を蹴り飛ばした。
「俺の自由を妨げた」
通常ならばありえないこと。
全力でかみ砕こうとする巨獣の顎の力を振り切って、そのまま蹴り飛ばすことなど人間にはできるはずもない。
それを可能とするのは、ソラの持つもう一つの"武器"。
己約――<怒れる自由よ、万鎖を壊せ>。
ソラがもつ唯一無二の、窮極の"武器"。
それが発する蒼の残光がソラの体を照らしている。
ベヒーモスは壁際にソラを追い詰めた。もう巨獣の一撃を躱すことはできない、絶体絶命の状況なのは間違いない。
しかし、それはソラの選択肢を狭める――つまり、ソラの自由を縛ることと同義だ。
ならば、その異能が発動しないわけがない。
ソラの右半身に走る紋様の輝きが脈打っている。
そのたびに、紋様の内側で何かがぐつぐつと煮え始めるような――そういう、底からの熱量がソラの肉体の内側に溜まっていく。
今までは道の邪魔をされた程度で、微かにしか発動していなかった異能の出力が、ギアを上げる。
「だからぶち殺す。裂いて、壊して、殺して、ぐちゃぐちゃにしてやる」
ニタニタと嗤いながら、ソラはベヒーモスに向って話しかける。
ベヒーモスには彼の言葉の意味など分からない。ソラはただの自己満足のために語りかけている。
しかし、その意味は本能で何となく察していた。
そして、ソラの蒼い輝きを、ベヒーモスの目が初めて捉える。
湖底に何百年も眠ってきた巨獣が、その目で初めて見る、自分に匹敵しうる存在。
「続きやろうや――今度こそ壊してやる」
ベヒーモスの濁った小さな目が、ソラを、捉えていた。
そこにあるのは、もう、観察ではなかった。
明確な――苛立ち。
湖の主が、初めて感情らしき反応を示した瞬間だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ソラが、地面を蹴った。
その瞬間、足元の石畳が罅割れた。
ソラの足先に込められた力が、床を踏み砕いたのだ。
「くははははッ!」
先程までとは打って変わって、ソラ自身が前に出て、巨獣に肉薄する。
その動きはこれまでとはまるで別物。ソラの異能が、肉体の出力を、本来の限界の二倍、三倍にまで引き上げている。
ソラの右半身に走る蒼い紋様が、その動きの軌跡を、月光の柱の中に薄く刻んでいた。
そしてソラが踏み込んだ先は――巨獣の足元。
「GIッ!?」
その速度に、ベヒーモスは対抗できなかった。
突然、動きの質が変わったのだ。いくら注意深く警戒していたとしても、それに初めから合わせることはできなかっただろう。
ベヒーモスは咄嗟に足を振り上げて、ソラの体を踏み潰そうとする。
直径が大人の身長くらいはある、その足。
だが、今のソラには、それは脅威ではなかった。
「何回も同じ事やってんじゃねーよ、ボケッ!」
そう叫びながら、ソラは――跳んだ。
地面を蹴って跳躍したソラは、振り下ろされる足の側面に左足を掛ける。
強靭なその足は、常人が蹴ってもびくともしないだろう。
それを、ソラは踏み台にした。
「よっと――」
巨大な脚を蹴って、更に跳躍。
4層でも見せた三角飛びの要領で、ソラはベヒーモスの顔の近くに躍り出た。
空中で体を回転させる。踵から伸びた力が、腰の捻りに変換される。
振り上げられた右脚が、回転の遠心力を、すべて、踵の一点に、集めていく。
そしてその直後――
「らァッ!!」
回転の頂点。
右の踵が空気を薙ぎながら、ベヒーモスの右の頬を、横から蹴り抜いた。
「GYAAAAAAAAAAAAッ!?」
ぱきりと、鈍い音。
ベヒーモスの右の瞼の鱗に、人の手のひら程度の小さな罅が入った。
それは、ベヒーモスの巨体に、初めて入った、明確な「傷」だった。
その衝撃は、確かに巨獣の頭部に届き、ベヒーモスの首が横にぐらりと流された。
そして巨大な首が横にずれていき――その体が横に倒れた。
ベヒーモスの巨体か地面に倒れこむ。
ズシン、とこれまでとは比べ物にならない重量感のある音が鳴り響き、砂埃が宙を舞う。
「はッ――」
そんな中、未だその身を空中で躍らせるソラは微かに笑って、
直後、その体が吹き飛ばされた。
「がッ!?」
ソラが苦痛の声を上げる。
途轍もない衝撃がソラの全身に伝わる。
まるで巨大な鞭で全身を打ち付けられたような、そんな感覚。
吹き飛んだ勢いのまま、ソラは後方の外壁へとその身を叩きつけられる。
壁を構成する硬い岩が衝撃で砕け、角ばった瓦礫が宙を舞う。
肺の中からすべての空気が漏れ出る。どうやら頭も打ち付けたようで、側頭部から暖かく赤い液体がこぼれていく。
その一撃の正体は――巨獣の尾。
ソラに蹴り飛ばされたベヒーモスは咄嗟に、その長い尾を振りぬいていた。
巨獣の巨大な尾は、他の部位と同様に硬い鱗で覆われている。
しなやかで、強靭な筋肉でもって振るわれたそれは、正しく鞭そのものだ。
クラクラとする頭を押さえながら、ソラは壁から体を離して立ち上がる。
同時に、倒れこんでいたベヒーモスもまた体勢を整え直し、重心を低くして構えだしていた。
ソラもまた外壁に手をついて、息を整える。
側頭部から零れた血が、頬を伝って顎先に滴った。
額の汗を左手で拭う。
そして、口の端が自然と吊り上がった。
「くふ、ははっ……」
それは苦痛の表情ではない。
強がりでもない。
純粋な――歓喜。
ベヒーモスの巨体に、自分の蹴りが届いた。
ベヒーモスの鱗を、自分が砕いた。
そして、自分はまだ立っている。
かつての自分が、これを見たら信じるだろうか。
目の前には体勢を立て直している五層の主。
その頬には砕け散った鱗の破片と、そこから流れ出す赤い血が見て取れる。
無論、ベヒーモスはまだまだ余力を残しているだろう。決着には程遠い。
しかし、無理に突っ込んでこようとはしない。巨獣は慎重に、こちらの隙を伺うようにして、その場でじっとこちらを見つめていた。
それは警戒だ。ソラを脅威とみなし、その挙動を慎重に見定めようとしている。
つまり――目の前の人間を、自分と同等の存在として扱い始めていた。
数年前、ソラをたった一撃で追い返した、その存在が。
「ここまで来たぞ」
呟きは誰に向けたものでもなかった。
ベヒーモスにではない。
ルキナにでもない。
数年前の、震えて逃げた自分自身に向けた報告だった。
五層の"壁"を前にして、それを乗り越えられる力を――否、乗り越えるための意思を手に入れたことの報告。
そして、口の端は、もう一度、固く吊り上がる。
「まだだ。まだ、ここからだ」
両者が湖縁の石畳の上で、もう一度構えを取り直す。
五層の"壁"と、人間の挑戦者。
その決着の行きつく先は――




