最初の壁②
イエソドの第五層、通称"巨獣の住処"。
ここは冒険者の上位と下位を分ける分岐点。
この場所における脅威は二つ。
一つはダスクウィングの群れ。
数十の群れで現れる彼らは、運よくここまで辿り付いただけの冒険者達を容易に狩り殺す。
もう一つが、湖の主――ベヒーモス。
ダスクウィングは王の露払いに過ぎない。彼らはベヒーモスの残飯を漁るだけのハイエナのようなものだ。
普段は湖底にて静かに眠っているそれは、自らの縄張りに侵入者が現れたときに目を覚ます。
そして――狩る。
巨獣は湖の中央に四肢を踏ん張ったまま、ゆっくりと首を回した。
湖の水深はその腹までしかないらしく、太い四肢の上半分と、頭部の全てが、月光の下に晒されている。
湖水が背骨の突起を伝って、絶え間なく滴り落ちる。
その滴の音だけが、円形の空間に時間の経過を告げていた。
巨獣の首が、止まった。
小さな目が、ソラを捉えた。
つまり――ベヒーモスはソラを選んだ。
その瞬間、月光の柱の周辺で、ダスクウィングの群れが、一斉に動く。
群れは、王の選んだ獲物から、退いていた。
二十、三十のダスクウィングが、湖縁の上空から旋回しながら遠ざかり、ルキナの上空に集まり直していく。
王は大物を獲る。
家臣は、王の選ばなかった残りを獲る。
五層の生態の、第一の掟だった。
ルキナは外壁を背にして、半身を低くした。
赤い目が、頭上の群れを捉える。
それから――湖縁にいるソラに、一瞬だけ視線を投げた。
ソラもまた、ルキナに目を返した。
「そっちは任せた」
ソラが、低く一言だけ言った。
ルキナは答えなかった。
代わりに、一度だけ深く頷いて、右手でグーサイン。
それで、合図は済んでいた。
数メートルの距離が、二人の戦場を永遠に切り分ける。
――第五層を抜ける手段は基本的には二つ。
一つは、ベヒーモスに気づかれないように、入り口とは反対側の"階段"まで進むこと。
ダスクウィングに気づかれてもアウトだ。そうなったら彼らが騒ぎ立て、ベヒーモスはそれに気づいてしまう。後は全力で走って逃げるしかない。
極限まで気配を殺し、音も匂いもなるだけ消す。そんな技術を持つ冒険者のみがこの手段をとることが出来る。
もう一つは、気づかれた上で、攻撃をかわしながら"階段"までたどり着くこと。
熟練の冒険者のパーティはこの手法を採用することが多い。
1、2人がタンク要員として、ベヒーモスの前に立ち、他の者たちがサポートに回る。
そうしてベヒーモスの攻撃をいなしつつ、ジリジリと階段までたどり着き、最終的には全員が全力で扉に駆け込む。
上記の二つがこの層の一般的な攻略法にして、前例のある確かなパターンだ。
ベヒーモスに気づかれないように進むか、ベヒーモスから逃げながら進むかの選択。
要するに――ベヒーモスは倒せない。
ベヒーモスを倒して進むという選択肢はまずあり得ない。
鱗状の硬皮は並の刃を完全に弾き、四肢は岩盤を砕く膂力を持ち、顎は人間を骨ごと噛み砕く。
そしてベヒーモスは、疲れない。
湖の底で何百年も眠り続けてきたものに、人間の側の体力勝負は通用しない。
冒険者ギルドの記録には、ベヒーモスの弱点も急所も、有効な攻撃手段も、一つとして記載されていない。
それを記録できるほどの時間、ベヒーモスの前に立っていられた者が、誰一人としていなかったからだ。
挑んだ者はいくらでもいる。そして、その末路は湖底に無数に沈んでいる。
――しかし。
ソラは、その二択以外の、三つ目を、選ぼうとしていた。
倒す。
挑んだ者は、いくらでもいた?――どうだっていい。
その末路は、湖底に沈んでいる?――だからどうした。
ソラ自身、数年前にここから逃げ帰った一人だった。
あの時のソラは、気配を殺すことも、攻撃をかわし続けることも、どちらもできなかった。
ただ、扉を開けた瞬間に湖の主に気付かれて、湖底に沈む寸前で扉に滑り込んだ。それだけの男だった。
だが――あの時のソラと、今のソラは違う。
「お前は邪魔だ」
邪魔――そう、目の前のモンスターは邪魔だ。
ソラの行く道を阻む障害物だ。
ソラの自由を縛る鎖だ。
あの時、自分が背を向けたものが、今、目の前に立っている。
あの時から自分を縛り続けた存在が、今、目の前にあるのだ。
ならばどうする。
逃げる?――ありえない。
無視して先へ進む?――ありえない。
今のソラは自由だ。前とは違う。
彼は『自由』を誓ったのだ。そして、それを妨げるすべてを壊すことを誓約したのだ。
だから――
「ぶち壊してやる」
その言葉と共に、ソラの右半身が仄かに輝きだした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ソラの右半身が蒼く淡い光を結び、それが脈打つ度に、ソラの体の中の何かが静かに変質していく。
その様子をベヒーモスは静かに観察していた。
獲物の様子が変わったことには、視覚に頼らない巨獣の感覚も、気付いていた。
だが、変わったところで、結末は変わらないと判断したのだろう。
巨獣の顎が、開いた。
直後。
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」
咆哮。
湖底の主の叫び声が、五層全体に響き渡る。
未熟な冒険者が聞いていたのなら腰を抜かしてしまうだろう、そんな雄叫び。
「はッ」
上位の冒険者でも思わず恐怖してしまうだろう、その威圧感を、ソラはただ鼻で笑う。
恐怖など無い。ただ、壊したいという欲望のみがある。
そのソラの様子を見たベヒーモスは――
次の瞬間、その四肢で、湖底を蹴った。
「GUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」
咆哮を上げながらの全力の突進。
湖の水が両側に弾け、左右に水柱を立てる。月光の柱が、その水柱に裂かれて散った。
巨体が動くにつれてドシンドシンと音が鳴る。石畳が揺れる。
対してソラは、右手に握った剣を両手で握りなおして、真正面に構える。
正しい構え方は知らない。それでも、目の前の固定の主を迎撃するための姿勢を取る。
15mの巨体が、それに見合わぬ驚異的な速度で、ソラに迫る。
木霊する雄叫びと、心臓まで揺れるようなその足音。
湖の縁まで、あと五歩。
四歩。
三歩。
ソラは、動かなかった。
重心を低く、踵を石畳の継ぎ目に引っ掛ける。
そして一匹と一人が交差する。
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」
まずはベヒーモスがその右前足を空高く振り上げる。
直径が大人の身長くらいはあるであろう、太く、大きく、重く、強靭な足。
その表面には硬い鱗がびっしりと生え、長大な爪は易々と人の体を切り裂ける。
そしてそれが振り下ろされる。
筋肉で盛り上がった足が風を纏ってソラの上から落ちてくる。その先端にある尖った爪が風を切って、鋭い音を上げる。
当たれば間違いなく即死。例え掠っただけでも大きな傷を受けることは想像に難くない。
そんなベヒーモスの初撃を見て、
瞬間、ソラの体が、"前"に流れた。
それは「跳ぶ」というより「滑る」ような動きだった。
脚の筋肉が地面を蹴り、ソラの体が一瞬でその場を離れる。
ベヒーモスの小さな目には、突然ソラの姿が消えたように見えたかもしれない。
直前まで突進の正面にいた人間の輪郭が、その爪が到達する瞬間には、どこにもなかったのだ。
その瞬間ソラが居たのは――ベヒーモスの真下。
振り上げた右前足と左前脚の間にできたスペースに体を滑り込ませていた。
その蒼い眼光が睨むのは目の前のがら空きな胴体。
ソラは、剣を右の腰のすぐ脇に引いた。刃の先端が、踵の高さまで沈む。
柄を握る両手が、腰骨の右側で、指の関節がきしむほどに固く握り直される。屈めた体の重心を右の踵に乗せた。
足の親指が、石畳の継ぎ目を捉える。
腰が、半身に開く。
「はあァあああああああああッ!!」
目の前の巨大なモンスターの咆哮をかき消さんばかりに、ソラもまた雄叫びを上げて――
そして、剣が、走った。
腰の捻りが先導した。
右の踵から左の腰、左の脇腹、左の肩、左の手首――身体の左半身が、回転するエンジンの一節となって、刃を引き連れていく。
刃の先端が、踵の高さから、対角線を駆け上る。
正しく渾身の一撃。
剣の振り方など微塵も知らないソラだが、その一閃は間違いなく、大抵のモンスターなら容易に切り裂くだけの"技"があった。
"大抵"のモンスターなら。
かぁん、と高い音が鳴り響く。
それは勿論、剣が巨獣の腹を切り裂いた音ではない。
――剣が、鱗に弾かれたのだ。
剣を持つソラの手に、痺れるような衝撃が走る。
全力を込めたその刃は、ベヒーモスに一切傷をつけることも出来ずに、ただ弾かれただけ。
「ちッ――」
ソラが舌打ちを吐きながら、頭上を見上げた。
ベヒーモスの右前足は、こちらに向かって降りてきている最中だった。
そしてそれが――今、衝突する。
「クソッ!」
直後――
地響き。どぉんという轟音が、五層に木霊する。
振り下ろされた前足が、ソラが居た場所の石畳を、深く踏み砕いていた。
半径二メートルにわたって、石畳が陥没し、爪が石を抉り、長く深い溝を刻む。
衝撃と共に粉塵が巻き上がり、円形の空間の内側で、大地の振動が反響する。
そしてソラは―――
「あっぶねぇ……」
ソラの体は、踏みつけの位置から2m程離れた位置に、辛うじて転がり出ていた。
ソラはベヒーモスの足が体に触れる直前に地面を全力で蹴って、後方に跳躍。なんとか範囲外に飛び出していたのだ。
あとコンマ1秒でも反応が遅れていれば即死していた。
ソラが膝に手を着いて、立ち上がる。
粉塵の中で、剣をもう一度、両手で握り直そうとするが、途中でそれをやめた。
――剣は、通らない。
腰に差した鞘に剣を納める。代わりに、両の拳を強く握りしめて、巨獣に相対する。
武器が通用しないのだ。
ならば――拳で、足で、ぶつかるしかない。
前代未聞。
ベヒーモスを相手にして、武器が通用しなかった人間は無数に存在する。
しかし、だからといって素手で相対するという発想に至った人間はいない。
武器が通らないなら諦める。未来は逃げるか、死ぬかのどちらかのみ。
ソラはどちらも選択しない。その目に宿る殺意は、今もまだ微塵も翳らない。
「ははッ――」
ソラは嗤う。
この危機的、かつ絶望的な状況を理解したうえで尚、笑いが止まらない。
巨獣は未だ無傷。しかし油断もない。自身の一撃を避けたソラを、その場で静かに観察している。
それは見定めようとする視線だ。ソラが無謀な弱者なのか。それとも――勇敢な挑戦者か。
「さあ」
ソラにはその視線すら関係ない。どうだっていい。
重要なのは、目の前の存在が自身の邪魔になっているという事実。
唇に浮かぶ笑みが深まる。怒りが加速する。それと同時に右半身の蒼の紋様が輝きを強める。
そして巨獣が行動を起こす。四肢に力が籠り、目の前のソラを叩き潰すための準備し始める。
ソラもまた、笑みを深めて――
「リベンジだ」
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