最初の壁①
【イエソド五層――■■の住処】
扉を開ける。
それを抜けたとき目に映ったものは、大きな湖だった。
そこは円形の空間。
周囲は背の高い外壁に覆われていて、天井にのみ穴が開いている。
外壁は黒く磨かれた石でできていた。
継ぎ目のほとんど見えないその石組みが、そこにいる生命を完全に閉じ込めている。
高さは目測で二十メートル。見上げた首の角度がほぼ真上に近づいてようやく天井の縁に届く。
その遥か上方、円形に切り取られた天井の穴から、白い柱のような月光が一筋、湖面の中央に降りていた。
光の柱は湖の表面で反射し、外壁の内側に淡い円環状の輝きを投げ返している。
透き通った湖面に映るのは月の光のみ。そこに生物の姿はない。
しかし、そんな幻想的な光景とは対照的に、その場に立ち込めていたのは圧倒的な気配であった。
確かにここには何かがいる。それも何か致命的な存在が。
湖の縁から壁までの間には10mほど幅がある。
湖を取り囲む石の縁。それが円周に沿ってぐるりと一周している。
そして重要なことがもう一つ。
扉と湖を挟んだ反対方向。
そこにあったのは――"階段"と扉。
即ち、6層の入り口。
他の層なら見つけるのに何時間、あるいは何日もかかるようなそれが、ここ――第五層では入り口のすぐ近くに存在していた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
イエソド第五層。
この層は一種の登竜門。この層を踏破できるかどうかこそが、イエソドの冒険者の上位と下位を切り分ける指標となっている。
ここは一層から四層までとは何もかもが違っていた。
まず、ここには入り口と出口が一つずつしかない。
つまり第四層のどの扉から入っても同じ場所が入り口となり、第六層に至る道も一つしかないということ。
更に他の層と比べると、五層は圧倒的に狭い。
そこにあるのは外壁に囲まれた、半径100mほどの開けた円形の空間のみ。構造もシンプル極まりなく、脇道も横道も何もない。
この層には探索の必要性がない。登りたいなら対岸の向こうに見える階段、その先の扉を開ければいいだけ。戻りたいなら入り口の扉を抜ければいいだけ。
しかし、この層は間違いなく、これまでの層と比べて遥かに攻略難易度が高い。
イエソドの冒険者たちの間で、五層は"壁"と呼ばれているほどに。
この層を超えられるのは本当に一握りの人間だけ。
大半の冒険者は、自分の限界を悟って引き返す道を選択する。
あるいは―――
「……行くぞ」
扉を開けた体勢のままソラが口を開く。
そして、キョロキョロとあたりを見回すルキナを先導する。
靴底が乾いた石を捉える。音がしない。
湖面の鏡が音を吸うのか、外壁が反響を抑えるのか、どちらにしても自分の足音が空間に届いていない感覚があった。
静寂。
不気味なまでの静けさが、その場の空気をどんよりと重たいものにしている。
二人は湖面の傍まで歩いていく。歩きながら、ソラは石畳の端に視線を落とした。
乾いた石畳が月明りに照らされている。その鈍い灰色の中をよく見れば、いくつかの赤黒い染みがあることに気が付く。
血。
暗い夜闇の中で目立たないが、よく見ればそこかしこに大量の血痕がある。
大抵は時間がたち黒く変色しているため目立たない。
しかし、いくつかは最近のもののようで、まだ残るその赤さが、ここで終わった誰かの命を証明していた。
「ソラ――」
それに気づいたルキナがソラに話しかける。
それに対して、ソラは何も返さずにただ湖面を見つめていた。
湖面に、月光により照らされた自身の顔が反射している。
透明な水の中には何もない。湖中には魚の影も見当たらないし、虫の影すらない。
そしてあまりにも透き通った湖面からは、湖の底にあるものすら見通せた。
それは――骨。
それも人骨。
湖の中には無数のそれが積み重なっている。
頭蓋が一つ、別の頭蓋の上に乗っている。
肋骨が、誰かの大腿骨と組み合わさって沈んでいる。
鎧の留め具らしき金属片が、骨の間からわずかに光を返している。
ここで朽ち果てた無数の冒険者たちの骸が、空洞となった眼窩からこちらを見てきているようで――
「ルキナ――」
その時ソラは初めて声を上げた。
その瞬間、月の光が疎らに遮られる。
天井の穴の縁、月光の柱の周囲を、黒い斑点が舞っていた。
最初は数えるほど。それが、見ているうちに二倍、三倍と増えていく。
穴の縁の暗がりから、何かが次々と這い出してくるようだった。
「来るぞ」
ソラがそういった直後、それらが上空から急降下してくる。
――ダスクウィング。
両翼を広げると1m近くなる蝙蝠型のモンスター。皮膜は薄く、骨格と筋繊維が透けて見える。
個体としての脅威は低い。体は脆く、その体は冒険者であれば簡単に砕ける。
だが、彼らは群れて行動し、上空から獲物を急襲する習性を持つ。一匹の獲物に対して、四方から三体、四体が同時に飛びかかってくる。
そういう数で勝負を決める種だった。
まず、最初の影が落ちてきたのは、ソラの真上からだった。
上空からの急滑降。
翼を畳み、極限まで空気抵抗を減らしながらの急襲。
「おォッ!」
凄まじい速度で迫りくるそれに対して、ソラは腰に差していた細身の剣を抜き払い、その一撃を斜めに走らせた。
それはマクスウェルの剣。ティファレト聖炎騎士団の標準装備であるその剣は、華美にして機能的。
軽さと頑丈さ、そして切れ味が伴うそれは、イエソドで手に入るどんな装備よりも上質な物だろう。
骨に当たった感触すらなく、皮膜と肉が縦に裂けて、二つになった体が左右に落ちて石畳の上に音を立てた。
湿った肉が乾いた石を打つ。べしゃりという不快な響きが耳に残った。
しかし、戦闘はまだ始まったばかりだ。
一撃目を振り抜いた腕の延長線上に、二体目がもう来ている。
右肩へ斜めに突っ込んでくる軌道。
「は――」
それに対してソラは、剣を振りぬいた勢いのままにその身を回転させた。
回転と衝突のタイミングがちょうど重なる。その結果、ダスクウィングの体は、ソラの横スレスレを通り過ぎた。
今度はソラの攻撃の番。
翻したその体が握った剣の柄が、すれ違うダスクウィングを殴りつける。
骨を折る時の、内側からくぐもった音が響き渡り、ダスクウィングの体が吹き飛んでいく。
しかしまだまだ数は減っていない。
ソラの剣の届かない範囲、頭上の左右から同時に三体が飛びかかってくる。
剣の軌道は一つしか引けない。
ならばどうするか、ソラが一瞬思考を巡らせたその時。
『墜ちて』
その三体が、空中でいきなり石畳に叩き落とされた。
何の前触れもなく、皮膜の体が乾いた石に突き刺さるように落下する。
羽が折れる乾いた音と、骨が折れる湿った音が同時に鳴る。
三体は石畳に水平に潰れ、それきり動かなくなった。
ルキナの界約――質量操作の異能だ。
小さな呟きと共に発せられたその異能は、ダスクウィングの体に作用し、その質量を急激に増加させた。
その結果、3匹のモンスターはいずれも空中で自身の体の制御を失って地面に衝突したのだ。
「怪我はないよな?」
「勿論」
ソラとルキナは並んで立つ。
言葉も少なく、お互いの無事を確認。
そんな彼らを、未だ数の減らないダスクウィングたちが取り囲んでいる。
その数、およそ20から30。もしかしたらそれ以上。
大量のモンスター達に囲まれたソラとルキナは、しかし、それらのことなど微塵も警戒していなかった。
何故なら、彼らの警戒の対象はもっと別のところにいる。
湖。
扉を開けた瞬間からずっと、二人のことを見ていたもの。
湖底の骨の下で、ずっと、息を潜めていたもの。
ダスクウィングは前座だ。
彼らはただの残飯漁り。この場所の主の残した食べかすを漁るだけのハイエナに過ぎない。
第五層の本当の主は、まだ、その姿を見せていなかった。
そして――湖面が、揺れた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それまで波一つなかった黒い鏡が、中央から外側へ、たった一度だけ、円形の波紋を広げた。
ぴちゃ、と微かな水音。
ソラとルキナの動きが、同時に止まった。
湖面に映っていた月の像が、波紋に裂かれて、揺れる。
裂かれた月が、波紋の収まりとともに、いくつかの細かな破片に分かれて、そのまま揺れ続けた。
ダスクウィングたちもソラとルキナを襲うこともなく、ただただ湖の中心を見つめている。
それはまるで王の御前に傅く家臣のようで――
「来るか――」
ソラが、湖面に視線を据えたまま、低く言った。
声には、抑えきれぬ殺気が乗っていた。
その瞬間、湖の中央が、突き上がる。
まず現れたのは白い骨の塊だった。
湖の底に積もっていた骨の山が盛り上がって湖面を突き破る。
――それは背中だった。
湖の底に積もっていた骨の山の中から、巨大な何かの背中が浮上したのだ。
湖面そのものが、その背中に押し上げられて、滑らかなドーム状に盛り上がる。
ドームの頂点が月光の柱に届いた瞬間、それは破れた。
水と骨が、四方に弾けた。
円形の壁となった水が、外側へ倒れてくる。
湖の縁を超え、石畳を打ち、外壁にぶつかって白い飛沫を上げた。
水と一緒に、湖底に沈んでいた骨の破片が、宙に飛ばされる。
肋骨。頭蓋。大腿骨。
カラ、カラ、カラ。
乾いた石を打つ、軽い音。
無数の屍。主が屠りし、過去の冒険者たち。
轟音が、円形の空間の内側で反響する。
それまで音を吸っていた石壁が、突然に音を返し始めた。
「跳べッ!」
ソラが叫ぶより早く、足元の石畳が湖側へ引いていた。
湖底の急激な変動で、湖の縁の地盤が湖の方へ引き込まれている。
それに伴い、石畳がガラガラと音を立てて、湖に向かって崩れ落ちていく。
そしてそれは、ソラとルキナが立つ場所にまで及んだ。
その亀裂はまるでソラとルキナを狙い撃ちするかのように、彼らの足場にまで到達する。
崩落に巻き込まれないように、ソラは左方へ、そしてルキナは右方へと跳躍する。
「ソラッ!」
「ルキナっ―――」
二人の間に空いた距離はたかだか数メートル。
それは、ほんの数歩の距離だった。
互いの輪郭は、まだ見える。声も、届く。
だが、その数歩の間には深い亀裂が入り、水と骨と泥が層を作っている。そこに入れば身動きが取れなくなるのは明白だ。
そして、その距離を駆け寄ろうとする二人を許さない、別の事情が、これから始まろうとしていた。
「……はっ」
水と石と骨が落ち着いた時――ソラの目の前にはそれが居たのだ。
それは巨大な四足獣だった。
体長はおよそ十五メートル。
犀と河馬と象を、まとめて煮詰めて、それから石で殻を作ったような輪郭。
背骨に沿って石のような突起が連なり、その表面には湖底の苔が古い緑の筋となって貼り付いている。
尾は太く、長く、根元の太さだけで人間の胴ほどあった。
顎が大きい。むき出しの牙が数本、横向きに突き出ている。
湖水を滴らせる鱗状の硬皮は、灰黒色。
節々の間に古い傷跡が幾筋も残っていた。
それは過去に挑んできた者たちが残した刃の跡。どれも浅い。
皮膚の表面で滑り、傷にならずに過ぎ去っただけの、無数の擦過痕。
目は小さく、濁っていた。
視力に頼って獲物を捉える生き物ではない。
これが、これこそが五層の"壁"。
湖底の骨の主にして、この層の番人。
「久しぶりだなァ」
ベヒーモス。
冒険者たちからそう呼ばれている巨大なモンスターが姿を現した。




