塔を登る理由①
【階層世界イエソド――スラム】
あれから1日が経過した。
ここは彼自身の拠点だ。かつての知り合いが作った木造の建築物。壁にひびが入っていたり、ところどころ穴が空いていたりするが、それは石や砂を詰める事で埋めており、一応家のテイを成していた。
結局あの後、少女が起き上がることはなく、満身創痍の彼は何とか体を起こし、彼女を抱えて帰路についた。オークを狩りつくしたおかげだろうか、幸い、帰り道ではモンスターに出くわすこともなく、廃墟の森から無事に帰還することができた。
そして、塔を出て、スラムの端の住処まで少女を担ぎながら歩くこと数時間。何とか自身の拠点に帰還し、煎餅のように薄く、ボロボロな布団の上に少女を横たえたとこで力尽き、気が付けば翌日の夕方になっていた。
「ぐ…クソ…」
体を起こそうとするが、化物に殴られた左の脇腹から強烈な痛みが全身に走り、立ち上がることができない。
震える手で汗で湿った上着を脱ぎ患部を確認すると、そこには思った通りの大きな青あざができていた。脇腹中に広がる痣はなんとも痛々しく、少なくともアバラの数本が折れているだろう。内臓がどこまで傷ついているかは分からないが、それなりのダメージは受けているはずだ。
正直助けた少女よりも具合が悪く、即座に死に至るほどではない程度の重傷というのが、彼の現状だった。
だがしかし、
「…まぁこんなもん、か…」
こんなことはスラムであれば日常茶飯事、死んでいないだけで軽傷といっても過言ではない。今でこそ、これほどの傷を負うことはなくなったが、数年前まではこの程度、彼にとっての常態であった。
だからこそ彼にはこうなった場合の備えがある。
痛みの走る体に鞭を打ち、何とか上体を起こし立ち上がると、振るえる足取りで部屋の端まで行く。そこには色々な物が無造作に詰め込まれた箱があった。
その中をガサゴソと漁り、取り出したのは表面にいくつもの傷がつき、今にも割れそうなガラスの瓶。いわゆるポーションという薬だ。本来は綺麗な透き通る緑色をしているポーションだが、そのガラス瓶の中にある液体は経年劣化で薄く濁った暗い緑色に変色していた。
ガラス瓶の蓋となっているコルクを外し、異臭のする中身の液体を一気に呷る。変に酸っぱく、かつ苦みのある味わいで、喉を通った後も口の中に不快感が残る。
このポーションの効果は自然回復力の向上だ。即座に傷を直すような物ではなく、人間に備わっている回復力を補助するような物である。即効性のあるポーションに比べると価値は下がるが、ポーション自体かなりの貴重品であり、スラムでは出回ることはない。
これは数年前に彼が略奪したシロモノで、元々はそれなりの品質のものであったはずだが、経年劣化により効きが悪くなっているようだ。とはいえそれなりの効果は見込め、全治一週間程度の傷であれば2,3日以内には治癒してくれる。
デメリットとしては、クソみたいなその味と、飲んだ後に腹を壊す可能性が高いという2点だが、それも大したことではない。
そして、もう一本同様の瓶を箱から取り出し、布団の上で寝ている少女に近づく。
少女の顔は青ざめているが、息は正常にしており、容体は昨日から変わっていないように見える。また、相変わらずその容貌は恐ろしいまでに整っており、寝ている姿は天使や人形と見まがうほどであった。
このまま安静にしているだけでも目を覚ますかもしれないが、彼は念には念を入れることにした。少女の横に膝をつき、瓶のコルクを抜く。
そして、少女の鼻をキュッとつまんだ。
「ん…」
少女が悩まし気な声を上げる。今までしていた鼻での呼吸を妨害され、その小さな口を少し開ける。
その瞬間、
「おらっ」
「ん!?」
彼は強引に口の中にガラス瓶を突っ込み中の液体を全部流し込む。そして、少女が液体を吐き出さないように口を手で塞いだ。
「おとなしく飲め」
「んー!!」
少女は寝ながらジタバタとその場で身を悶えるが、彼はその一切を無視して、口を塞ぎ続ける。
やがてビクンビクンと陸に打ち上げられた魚のように体を振るわせていたた彼女の動きが緩慢になり、少女の喉がゴクンと音を鳴らしたところで漸く手を口から離す。
「ふぅ」
「……」
一息吐いて彼女の顔を見てみれば、先程まで見事な造形美を誇っていたその顔は、よだれと鼻水、あと鼻と口から漏れ出たポーションでぐちゃぐちゃになっていた。
彼女のその惨状を無視してその場から立ち上がり、部屋内の物資を再確認する。
元々、各種物資が切れかけ、金も無くなったため塔での狩りをしていた。水も食料も殆どストックがない。このままでは一人でも2、3日と保たないだろう。ましてや二人分となると、すぐにでも物資の補充をしないとまずい。
つまり、重傷の体を押してでも、物資確保のために動く必要があるということだ。
幸いにして、体が動かないわけではない。治安が極端に悪いスラムという土地の中で、この状態で出歩いても良いのかという点だが、こちらは問題とはならないだろう。
スラムには明確ではないものの、ある程度のヒエラルキーというものが存在する。それは権力であったり、財力といった物でも測られるが、ここではやはり暴力という物差しが一番重要視される。
そして彼はスラムの中での暴力のヒエラルキーは上位に当たる。スラムの殆どの人間は彼のことを恐れているため、例え彼の調子が万全ではないとしても、襲って来ることはないだろう。
そう考え、床に転がっている昨日の狩猟の証拠が詰まった袋を持ち上げる。
それを腰に吊り下げ、部屋の端においてある継ぎ接ぎだらけのボロボロなバッグの中に、そばにおいてある財布代わりの袋を入れる。
ふと、布団の上の少女を見る。綺麗な顔は色々な液体でまみれ、それが乾き始めて白い跡になっている。その程度で彼女の美貌が損なわれたわけではないが、正直間抜けな顔だ。
彼はその顔を鼻で笑って、怪我で重い足取りながら住処の扉を開けて、外に向けて歩き出した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
まず、目指すのはギルドだ。
現状では資金が足りない。そのため、オーク討伐の報酬を受け取ることが最優先事項である。
腹部の痛みが全身に響く中、それでも堂々とした足取りで、ギルドまでの道のりを進む。
彼の歩いている通りはスラムの中心街に当たり、周辺にはボロボロの家屋やテントが立ち並んでいる。
スラムにある家屋は基本的に石造の廃墟を利用している。殆ど瓦礫のような見た目であるが、そこを家として勝手に住んでいるような状態だ。
布と木の棒で作った粗雑なテントでは商人気取りの汚らしい痩せた男がよくわからないモノを熱心に売っている。
道には瓦礫と汚物、挙句に死体が転がっており、道路の端では物乞いが壁に持たれかかりながら、金を無心している。辺りには何かが腐ったような異臭と鼻につくアンモニア臭が漂っていて、塔の中の方がよっぽど清潔で、過ごしやすいように思えた。
それがスラム。ここにいるのは落伍者達だ。生まれた時からそうだったのか、それとも何かをしでかし、逃避した結果ここに落ち延びたのかはわからないが、とにかくこの世界の最底辺の人間達だ。
スラムには弱者しかいない。強者はこのスラムを出て、"上"を目指す。それができない時点で、彼も所詮ゴミの中ではましな方のゴミといった所だろう。
だが、彼がギルドを目指す道のりを邪魔する者は一人もいない。むしろ、人々は皆、彼が近くに来ると顔を背け、目を合わせないようにしている。
もちろん現状の彼は満身創痍であり、襲いかかられたら一巻の終わりだろう。しかし、無理をしてでも堂々と歩く彼の姿を疑う者は誰もいない。皆、おとなしく彼という嵐がすぎるのを待っているのだ。
高度の低いスラムの建造物から覗く青い空と白い雲が彼の進む先に見える。
そしてもう一つ。
巨大な塔が見える。
遥か高く、天を突き抜け宙まで届く長大な白い塔。それはどんな建造物越しでも見えるようなモノだ。
――それは正しくこの世界の全てであり、この世の全てを規定する定規でもあった。
塔。
遥か彼方から見上げても、その頂は雲を抜けて見えない。世界のどこへ行っても視界の端に必ず映り込む、天を貫く白い柱。
あの塔の内部には、積み重なった階層がある。ひとつひとつが独立した世界だ。
別の空がある。別の地がある。別の文明が、別の人間が住んでいる。
今この瞬間、ソラの頭上に積み重なって存在している。
それらの世界は階層世界と呼ばれていて、この場所――イエソドは、その階層世界の中でも最底辺に当たるらしい。
塔を登り、上位の階層へ至るほど、権力も豊かさも増す。それがこの世界の構造だ。つまり上には上の世界がある、ただそれだけのことだ。
冒険者とは、その塔を登る職業だ。目的は人によって違う。金のため、あるいは上の階層世界に至るため。
結果として大半はすぐに死ぬか、大怪我を負って這い出てくる。それでも後を絶たないのは、ここにいても死ぬしかないからだ。
ソラは十年近く、そのイエソドの塔内で日銭を稼ぎ続けてきた。登るためではなく、稼ぐために登る。上位の階層世界へ至ることなど、今となっては夢のまた夢。
その事実に、何故か腹が立つ。何が不満なのかもわからないまま、彼はただ、道端の瓦礫を蹴飛ばしながら歩いていた。
塔を目指して数十分歩くと、その先には一つの建物が見えてくる。
スラムの薄汚い廃墟のような建造物とは比べ物にならない程立派で、大きく、威圧感のあるものだ。それこそが、彼の目指している所である"ギルド"という場所であった。
ギルドはちょうど、スラムと街の境目に建てられている。ギルドと塔を結ぶ直線が切り分けるイエソド南側がスラム、北側が街だ。
そのため、ギルドが近づいてくると、スラムの人間だけではなく街の人間も増えてくる。ギルドの近くにいるということは冒険者達であろう。
ギルドが近づくにつれ、空気が変わる。鎧が擦れる硬い音、磨かれた革の匂い。街側の冒険者たちだ。
彼らの装備がソラの全財産より高いことくらいは見ればわかる。向こうもこちらを見ている。ただし、人を見る目ではなかった。
彼もまた街の人間からしたら汚らわしいゴミにしか見えないのだろう。街の人間からは彼に向けて侮蔑と嘲笑の視線が飛んでくる。
その視線を無視しながら道のりを進んでいくとギルドの入り口に到着する。
そこには2つの入り口があった。片方は街の冒険者用、もう片方はスラムの冒険者用だ。
いつからこうなったのかは知らない。生まれた時にはもうこうだった。
スラム用の入り口を抜けると、清潔かつ豪奢な内装が目に入る。
木材で出来た建築は、スラムの建物と比べるとどこか温かみを感じさせる。床に敷かれた深紅のカーペットのふんわりとした感触が足の裏から伝わり、部屋の天井中央に掲げられたランプが部屋全体を明るく照らしている。
そして部屋の右端には大きな壁がある。そこはちょうどギルドを二分する位置に立てられており、壁の向こうは街側の窓口となっていた。
彼が部屋の奥まで進むと、一人の中年の男が受付に居た。身長は高くなく、小太りで頭は禿げ上がっており、皺がつき黄ばんだシャツを着て、眠そうな顔をしたその男はスラム担当の事務員だ。
彼は腰に下げた証拠品の入った袋を男の前に投げ出す。
「オーク討伐、5匹分だ」
「…ふーん」
事務員は汚らしい物を触るように、親指と人差し指で袋をつまみあげ、袋の中身を覗き込む。
男は袋の中に証拠物がある程度入っていることを見て、碌に確認もせずにサイドチェストの中にある該当クエストの書類を引っ張り出した。そして、そこに判を押した。クエスト完了印だ。
更に、手元の棚から数枚の硬貨を取り出し、受付机の上に放り投げる。
「ほらよ、報酬だ」
机の上をカラカラと硬貨が転がる。彼は無言で硬貨をかき集めると、バッグの中から小袋を取り出し、その中に詰め込んでいく。
机にあった硬貨は銀貨10枚と銅貨2枚。街のレートで行けば端金といったところだが、スラムではそれなりの大金だ。だが、本来彼の受けたクエストの報酬は銀貨12枚のはずであった。その差分は、おそらく目の前の男が懐に入れるのだろう。
それを目の前の男に問い詰めても意味がないということを彼は知っていた。どうせ手数料だのなんだのと誤魔化し、それでも問い詰めようものなら自警団を呼ばれて面倒事になる。
そんなことになるぐらいなら、多少くすねられた程度のことは気にしない方が良いと彼は思っている。
硬貨をすべて小袋の中に詰め終え、袋を鞄の中にしまう。そして踵を返しその場を後にしようとすると、事務員が声をかけてきた。
「せいぜい頑張ることだな、乞食上がりが」
その言葉に反応することもなく、ソラはその職員に背を向けてギルドを後にした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ギルドから外に出ると、目の前にはスラムと街の両方が広がっている。
右手にはスラム。建物は殆どが損壊し、汚れている。ここから見えるだけでも殆どの人間はやせ細り、だというのに目には異様なほどのぎらつきがある。
左手には街。建物は整備され、損壊しているものなど一つもない。住まう人間達は綺麗な身なりで整えて、楽しそうに談笑している。
左と右で別れた人種。生まれた場所、能力が違っただけで同じクラスタ内でもヒエラルキーが生まれる。それについて不平不満をいうには、彼は最底辺で生き過ぎていた。その程度の事に怒りを覚える感覚はもはや摩耗している。
ただ一つだけ。彼の中で思うことがあるとすれば――
「ねえ」
目の前に広がる光景に考えを巡らせていた彼に、横から声がかかる。
声のしたほうを向くと、そこには一人の少女がいた。
身長は彼の肩までくらいだろう。体型はグラマラスという程ではないが、同じ年頃の少女と比べるとかなり発育の良いほうで胸と臀部が服の上からでも主張している。
炎のような赤色の長い髪を頭の左右で結っており、その左右の髪束が風によって炎のように揺れる。そして、前髪の間から覗く黒い釣り目には彼女の持つ苛烈なまでの強気な態度が滲んでいた。
先日拾った少女と比べるとそこまでではないが、可愛らしさが前面に押し出た彼女もまた美少女といえるだろう。
彼はその美少女をちらっと見て、無視することに決めた。
息を一つ吐くと、前を向きなおし物資調達のために歩き出す。
「ねえってば」
少女が彼に追いすがってくるが構わず歩き続ける。
「ねーえ」
まだついてくるが、無視する。その様子を見て、彼女は一言呟いた。
『動くな』
「…っ!」
その瞬間、彼の体はピタリとその場で静止した。もちろん彼自身の意思で止まっているわけではなく、そうさせられているのだ。
首から上以外は動かそうと思っても動けないので、首だけを横に向けて少女の方を見る。
「お前……」
「やっとこっち向いた」
すると少女は呆れたような顔をしながら、彼に向かって歩いてきて、彼の目の前で仁王立ちする。そして右手の人差し指で彼の顔をビシッと差した。
「あのね、わざわざアタシが話しかけてあげてるんだから、ちゃんと返事しなさいよねっ!」
「……」
彼女の大きな声と美貌は、周囲の人間達から多くの視線を集める。特に、街の冒険者達は彼女の事を憧れ、嫉妬、情欲等色々な感情で見つめていた。そして、それら有象無象の事を彼女は全く気にしていなかった。
そんな状況に対して、うわめんどくさっという表情が彼の顔に浮かぶが、これはいつものことなので、彼女は次々にまくし立ててくる。
「辛気臭い顔してるわねー。ちゃんと寝た?ご飯食べてる?怪我してない?」
「お前は俺の親か」
思わずそう突っ込むと、彼女はニィっと笑って、煽るような顔をする。
「良かったわねえ、こんなにあんたの事心配してくれるお母さんがいて!感謝しなさい!」
「誰がお母さんだ…」
思わず溜息をついてしまうウザさだ。そしてこれが彼女とのコミュニケーションの日常であった。
「話してやるから、これ解けよ。鬱陶しい」
彼は自身の体を見ながら心底ウザそうな顔をしてそう言った。”これ”と言ったが、実際には彼の体の周りには何も見えない。だが、実際に彼の体を縛る何かがそこにはあった。
「まあいっか。はい」
彼女がそう言うや否や、彼の体は自由を取り戻した。急に動きを止められていて体が固くなっているので、軽く腕を回す。
そうしながら、彼は彼女に向かって話かける。
「何の用だ、セナ」
「久しぶりにあった幼馴染に向かっていう言葉じゃないわね」
彼女はセナ。かつてソラと生活を共にしていた幼馴染であり、今では彼と同じ冒険者の一人。
――その立場には天と地ほどの差があるが。
「まあいいわ」
セナは胸の下で腕を組み、ふんぞり返りながら彼の恰好を眺める。
彼女は、正式な冒険者用の衣服を来ていた。動きやすさとデザインを重視しており、腕は肩口から先、足は膝から先が露出している。ただし、露出部は覆うように腕には長めの手袋、足にはタイツを来ている。
また背中には剣を担いでいる。彼女の腕ぐらいの長さの両刃の剣であり、短剣ではないが長剣でもないという微妙な長さをしているその剣からは、何か異様な圧力が感じられた。おそらくは特殊な武器なのだろう。
対して彼は傷まみれ、穴まみれのボロボロの衣服を来ており、洗濯もできていないため汗の匂いが沁みついている。背中には同様にボロボロなバッグを背負い、武器は一切持っていない。
そんな彼の恰好を彼女は鼻で笑いながら言った。
「ねえ、あんたまだ冒険者の真似事してんの?」
「関係ねえだろ」
それに対して、彼はぶっきらぼうにそう答えた。顔には心底うっとおしいという感情が現れている。その拒絶の言葉に対して、彼女は更なる罵倒で返す。
「関係はないけど、鼻につくのよ。能無しの癖にいっちょ前に登ろうとするやつって」
彼女は彼のみすぼらしい恰好を順に指さしながら言う。
「能もない。服もない。武器もない。あるのはちょっとした腕力だけ。それで何ができんのよ」
「別に登るつもりなんかない」
塔に入るのは生活のためであり、上に登ることに興味はない。それは実際に彼が思っている事であった。ただし、そもそも彼には登る能力がない。
確かに彼のとてつもない身体能力は塔のモンスターを狩るのには十分な能力を持っているだろう。だが、それはあくまで低層ではの話だ。
上層のモンスターと戦うのに必要な、"とある能力"が彼には欠けていた。彼女曰く”能無し”。
それは彼自身も否定できない紛れもない事実であった。そのことに対して、昔は腹が立つこともあったが、今となってはそんな感情は摩耗している。
ただただ、その事実を現実として明確に理解していた。
「塔に入るのは生活のためだ。別に登るつもりもないし、そもそも登れない」
まるで負け犬宣言だな、と彼は心の中で自嘲した。悔しいという感情はもう浮かばない。
セナには能力があったが、彼にはなかった。セナは登れるが、彼は登れない。
そのことをわざわざ自分で口に出させるのが、この女の目的なんだろうと彼は思っていた。かつての幼馴染に対して優越感でも得たいのだろう。
せめてもの抵抗として、彼女のことを睨みながら彼は言う。
「これでいいか?さっさと行かせろよ」
「ふーん…ま、いいわ」
それに対して、彼女はなんとも思っていないかのように気ままな態度をとっている。まるで、自分が上位者であるかのような態度だ。
だが、それは確固たる事実であった。かつては同じスラムの孤児の一人であった彼女は、今やイエソドの冒険者のトップ層。
スラムの孤児の一人だった彼女は、今や街側の冒険者として受け入れられている。立身出世とは正にこのことだろう。
そんな彼女に対して何故か無性に腹が立つが、物理的に敵わないのが現実である。その事実から逃避するかのように、彼は彼女の前を通りすぎ、速足でその場から去ろうとした。
その瞬間。
「――でもね」
「っ…!」
先程と同様、また体が動かなくなる。足が地面に縫いつけられたように、地面から離れなくなる。指が微かに動く程度で腕も殆ど動かない。
これこそが彼と彼女の違い。彼女にあって、彼にないモノだ。
そして、彼女は彼の前に立ち塞がりながら言う。
「あんた怪我したでしょ。ここ」
「つっ!」
そして、彼の左脇腹を指でツンツンと軽く突き刺す。それは先日、塔で出会った化物に殴られた部分だ。刺さるような痛みが全身に広がり、思わず声が漏れる。
「能無しの癖に無茶するとそのうち死んじゃうわよ」
「うる、せえ」
彼女の言葉に彼は悪態をつく。その様子を見て彼女は溜息をつくと、懐につけている小さなポーチから小型のガラス瓶を取り出した。中には透き通った青色の液体が入っているように見える。
そして、ガラス瓶の蓋のコルクを取り外し、彼の唇まで持っていき、瓶を傾けて中の液体を彼の口に入れる。
「…!?」
「良いから飲みなさい。ほら」
動けない体では抵抗することも出来ず、ただただ口の中に液体が流れ込んでくるのを受け入れるしかできない。
その液体は少しの苦みと甘味が混在した不思議な味がして、鼻からはハーブような清涼感のある香りが抜けていく。
何とかその液体をゴクンと飲み下すと、その瞬間、体を拘束していた何かが突然消えた。
「っ」
「あっ」
それはあまりにも突然すぎたので、思わず前につんのめってしまい、彼は転倒しかける。
目の前にいたセナは慌てて彼の体を支えようとするが、その結果、彼は目の前の少女のふくよかな胸に顔をうずめる形で寄りかかることになった。
その状況にセナは、最初こそ驚いて目をぱちぱちとさせていたが、その直後、口の端をニンマリと歪めた。
「あらあら、ママのおっぱいでも恋しくなっちゃったんでちゅかねえ」
「…いいから離れろ」
すぐに彼は顔を胸から離し、セナの両肩をグイっと両手で押して距離をとった。照れとかではなく、ただ単純に鬱陶しいという感情による行動だった。
すると彼女は会った時と同様の嘲笑を顔に浮かばせる。
「ポーション代は奢りでいいわっ」
先程飲まされたのはポーションだったようだ。おそらく即効性のあるモノだったのだろう、先程突かれた脇腹の痛みが和らいでいることに気が付いた。
即効性のあるポーションは高価だ。少なくともスラムの人間が手を出せるようなシロモノではない。
どうやら彼女にお節介を焼かれたらしい。だが感謝を述べる気には全くならない。
目の前の少女を睨み、一度だけ溜息を吐く。どうせこの少女には敵わない。ならば無視するのがベストであるという、諦めの境地だ。
そう考え、彼は彼女の横を素通りし、物資調達のための道のりを歩き始める。
「死にたくないなら塔には入らないことね」
彼の背中に向けて、背後からセナが更に声をかけてくる。
"塔には入るな"。
その言葉を受ける度に彼の心の中に苛立ちが募る。
言い方は悪いが、彼女は昔馴染みを心配してその言葉を発しているだけかもしれない。彼自身もそう考えているのだが、何故か言いようのない猛烈な怒りが彼を苛む。
――だからあいつとは話したくないんだ。
彼はやり場のない怒りを抱えながら、何とかその場を後にした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……」
どこか苛立ちを滲ませながらスラムまでの道のりを歩いていく彼の背中を、セナはその姿が見えなくなるまで見つめていた。
考えるのは一つのことだ。
――女の匂い。
彼が自分の胸元に寄りかかった時に、少し酸っぱいような汗の匂いの他に、どこか甘い花のような香りがした。
彼と昔馴染みであるセナは、汗であろうが血であろうが彼の匂いのほぼすべてを知っている。その中で、彼女の知らない匂いがしたのだ。
多分女の匂いだ。もちろん、別の事情でそんな香りがしたとか、彼女の気のせいという可能性もある。だが、彼女の直観がそれを否定していた。俗にいう女の勘という奴だろう。
そのことに対してとある考えに耽っていると。
「セナさんっ」
「ん?」
彼女は横から声をかけられる。そちらを振り向くと、そこには別の冒険者がいた。
身長はセナよりも頭二つ分程高く、全体的に引き締まった筋肉質な肉体を持つ男である。短髪の黒髪がさわやかで、如何にも街の冒険者といった様相だ。
「あんた誰?」
「ええ、またですか…何回も一緒に塔登ってるんだからいい加減覚えてくださいよ…」
どうやら彼とは塔へ一緒に登ったことがあるらしい。記憶の中を探索するが、彼のような人間がいたかどうか、全く覚えがなかった。
というより冷静に考えると、一緒に冒険した奴のことなど微塵も覚えていないことに気が付いた。
「知らないわよ。アタシの記憶に残る努力をしないのが悪いんでしょ」
「えー…」
そのことに対して、彼女は一切悪びれることはない。
だが、それも仕方のない事だ。彼女が塔へ上る時に、積極的に誰かを自分から連れていくことは殆どないからだ。
大抵はギルドから依頼された新人教育のためであったり、有権者からの"子供に塔の景色を見せたい"等の依頼であったりと、仕方なしに同行を許可しているのだ。
彼女にとってもギルドやパトロンとのつながりは大事だ。そのつながりこそが"力"――権力や財力に直結するということを彼女はよく理解している。
彼もまたそうした依頼の一環として、何度か一緒に塔へ入ったのであろう。
塔内での彼女の仕事は基本的にモンスターの討滅である。彼女の"能力"は対モンスターに関して言えば、イエソド中でも群を抜いて強力だ。
なので基本的に他者からのサポート等いらずとも、彼女一人で塔を登ることができる。同行している人間がどんなことができるのか等、全く気にしたことがなかった。
所詮は荷物持ち程度にしか思っていない他者に対して記憶のリソースを割くほどの優しさを、彼女は持ち合わせてはいなかった。
その言葉に対して、彼はがっくりと肩を落とした直後に、ふんっと気合を入れなおした。
「ま、次こそは活躍して、覚えてもらいますからね!」
「あっそ」
その彼の言葉に対しても何ら興味を見いだせず、セナは適当な返事を返すだけだった。
「にしても、さっきのあいつ誰ですか?」
「ん?」
目の前の名前も知らない冒険者が突然"彼"のことを口にしだした。
「服装からしてスラムの人間ですよね。セナさんに慣れ慣れしく話してましたけど」
おそらくは話題を変えてセナとの会話を長引かせようと言う下心によるモノであろう。実際、彼はセナの気を引くためにその話を口にした。
「…」
「同じスラム出身だからって、セナさんと同じ立場だとでも思ってるんですかね?」
セナからの反応が薄いので、彼はそのまま言葉を続けていく。
彼は先程のセナと”彼”のやり取りを外からじっと見つめていた。彼にとってみれば尊敬すべき冒険者に対して、スラムの人間如きが対等にしゃべっているというだけで腹が立ってしまう。
挙句の果てに、あのスラムの人間はセナに寄りかかって、その胸に顔を埋めていた。彼のようなセナを敬愛する人間にはそのことがあまりにも許せなかった。
セナへの下心とスラムの人間への侮蔑と嫉妬。それが彼の口から言葉となって漏れ出していた。
「なんだったら俺があいつに注意しても」
「ねえ」
そうして彼は調子に乗って話を続けようとしたが、不意にセナがそれをさえぎった。
「あんた、ポーション持ってる?」
突然、彼女はそう尋ねた。彼は急な質問に戸惑いつつも、それに対して返答した。
「はい、一応持っていますけど…」
「ふーん。じゃあ、良かったわね」
「え――」
そう言った瞬間、突然、彼の体は地面に向かって倒れた。ドサッと言う大きな音が鳴り、彼の体はうつぶせのまま動かなくなる。
それまでセナへの声掛けのタイミングを見計らっていた周りの人間達は、何の前触れもなく倒れた彼の姿を見て驚愕し、周囲は騒然とする。
そんな周りの様子を見て、セナはなんでもない事のように言う。
「あー大丈夫よ。ちょっと心臓を止めただけだから」
人は数秒心臓が止まっただけでも脳に酸素が行き渡らなくなり、気を失ってしまう。それが何分も続けば死に至る。
しかし、どうやって彼女はそれを行ったのか。その手段こそが彼女を冒険者の頂点へと押し上げた彼女の"能力"であった。
そして、気絶し地面に突っ伏した彼の頭を―――彼女は右足で上から踏みつける。
それは体重を込めた勢いのあるもので、ボキッと言う何かが折れる音が辺りに響いた。顔を踏みつぶされた彼の体がビクンビクンと痙攣する。
騒然としていた周りの観衆たちはその光景を見て呆然とした。周囲を痛いほどの静寂が支配する。
そんな中、彼女はもう一度踏みつぶす。もう一度、もう一度、何度も何度も何度も―――。
そうしてピクリとも動かなくなった彼の上から足をどかすと、周りにいた人間の一人に声をかける。
「ねえ、そこのあんた」
「っ、は、はい」
あまりにも唐突に声をかけられたため、変に上ずった声を出した彼に対して、彼女は地面に横たわる彼を指さして言った。
「これ、片づけといてくれる?」
「えっ」
そうして、声をかけた人間の元まで歩き、懐から数枚の硬貨を取り出し彼に握らせると、身を翻して歩き始めた。
「これからギルド行かないといけないの。ゴミ掃除よろしくね」
そう言って颯爽と歩き去っていく彼女の姿を、硬貨を握らされた彼とその周囲の人々は呆然と見つめる事しかできなかった。




