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廃墟の少女と始まりの誓い

いつも何かに縛られていた。


常に縛られて、ゆっくりと息を吐くこともできない。体の動きが制限されて、思うように動けない。

寝ても覚めても胸の中の霧が晴れず、何をしてもべたつく不快感が離れない。


この世界ではすべてが平等に縛られている。人も、獣も、石も、風も何もかも。見るもの全てに鎖が絡む。

なのに、他者はそれに不満を覚えていない。自分の体にまとわりつく鎖に気づかない。


なんだこれは。……わからない。

何故縛る。……わからない。

気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――

だから、誓ったのだ。

いつか必ず――



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


【イエソド第1層――廃墟の森】


「おォ―――」


ある青年が裂帛の気合を込めて、ボロボロの斧を構える。

その動作に合わせ、引き締まった腕の筋肉が麻の袖口を張り裂かんばかりに盛り上がる。

180cm前後の体躯に、ぼさぼさの黒髪、穴の開きかけた上下の麻服。彼ははっきり言って小汚い男だった。

そんななか、唯一、両目だけが別の生き物のようだった。頭油でべたついた髪の隙間から覗く明るい青は、薄汚れた顔の上で場違いに光っている。


相手はオーク。豚の頭に緑の肌、体長2mの人型。発達した両腕は地面に届きそうなほど長く、それとは不釣り合いに腹だけが樽のように膨れている。

腹は脂肪に埋もれ、腕は人間の胴ほどもある。懐に入れば掴まれる。掴まれれば骨が砕ける。普通はまず足を削る。そして時間をかけて、動けなくなったところを仕留める。それが定石だ。


だがその青年は、定石を知った上で無視した。狙ったのは頭蓋の中心線。

身長2m以上の巨躯を持つオークの頭部を狙うのは人間では難しい。ましてや武器は斧。槍ほどのリーチもなく、柄の端を握ることで何とか距離を保つことができる。


しかし、彼は斧の根本を持ち、オークに文字通り飛び掛かった。ジャンプしながら、斧を頭の上まで振りかぶって、勢いのままに振り下ろす。

その速度は尋常ではなく、オークの反応は遅れた。腕での防御も間に合わず、斧の一撃は額に直撃してしまう。

しかしオークの頭蓋は鋼に近い硬度を持つ。刃が脳に届くことはない――はずだった。


「死ねや」


ゴギゴギっと鈍い音が鳴る。ボロボロの斧によってオークの頭蓋をたたき割った音だ。

彼の持つボロボロの斧ではオークの固い頭蓋を断ち切ることは不可能、ただ鈍器のように潰すことしかできない。しかしそれを為す膂力は如何程のものか、常人とはかけ離れている。


衝撃によりオークの丸い眼球が外に飛び出て、目の奥から脳髄と血が噴き出す。頭骨にめり込んだ斧の割れ目を伝い、血が途切れなく流れ落ちる。地面に広がる赤黒い水溜まりだけが、音もなく広がっていく。

そして、先ほどまで健在だったオークの巨躯は、ゆっくりと地面に倒れた。重量感のあるドサッという音とともに、あたりに土煙が立ち込める。確認するまでもなく即死である。


代償として、彼の持っている斧は刃の部分が欠けてしまっていた。刃のほとんどの部分が擦り潰れ、削れ、鋸のようにギザギザとした形状となってしまっている。

彼は右手に持っている斧でなくなってしまった鈍器を見て、深く溜息を吐いた。


「使えねえ…」


彼の持っている斧は、実は本日早朝に露店で購入した一品である。とはいえ、スラム街で鍛冶などできるものはおらず、だれかが使っていた中古品をどこかから漁ってきたものだろう。

だが彼が使うまでは少なくとも刃はついていたし、なまくらではあったものの、斧としての役目はできただろう。今となってはただの鈍器だ。


彼は一息溜息をつくと、腰から小さなナイフを取り出し、倒れたオークから片耳をはぎ取った。耳垢も付き、油で表面がギトギトしているそれを腰に下げた袋に入れる。

これこそが、彼が行った狩りの証明だ。この耳を集めてギルドに持ち込む。

それだけが、彼の日銭に変わる唯一の手段だった。


今受けているクエストは"塔"内の第一層に巣くっているオークを狩るというもの。朝から夕方まで狩り続け、今ので通算5体目となる。

これでおそらく全てだろう。近くにはオークどころか生物の気配すらない。

今日の成果は上々。しばらくは何もしなくても生活できるくらいの資金は確保できるだろう。

本来このクエストは数人がかりで受けるものであり、その難易度の分、報酬も高いのだ。とはいえ、オークと対面するリスクから考えるとそれほど割に合っているわけでもないし、場所も悪い。


この場所は"塔"の第一層の僻地。通称廃墟の森。

この廃墟を構成しているのは、大小様々な長方形の建造物だ。ただし、建造物はほとんどが損壊し、ただの瓦礫となっている。外観は苔むし、それらがいつ作られたのかもわからない有様だ。そんな崩れた無数の建造物群が地平線のかなたまで続いている。


過去にこの場所に何があり、どうして滅びたのか。それを知る人物はどこにもいない。過去にはおそらく栄えていたのであろうこの場所は、今ではその面影も一切ないモンスターの巣窟だ。

遭遇するモンスターの種類は豊富で、狼型のモンスターやイノシシ、先ほど彼が仕留めたようなオークはもちろんのことアンデッドまで出てくる場合もある。

しかも瓦礫が散乱しており、死角となる場所も多く存在する。


それはつまり、いつどこからどんな敵が現れるかもわからないということである。リスクのわりに報酬が見合わない不人気な狩場。廃墟の森とはそんな場所だった。

そして、だからこそ彼はこの場所を狩場に選んでいた。


「戻るか」


癖になっている独り言を呟く。"塔"での狩りを行うようになって十年は経過しただろうか。彼はその期間の殆どで独りであった。

別に苦ではない。むしろ望んでそうしている。もちろん他者と共同して狩りをしたほうが楽だし、危険が減る。普通の人間ならば、命と金を天秤にかけた結果、他人とパーティを組んで狩りをするようになる。

だが、彼は命よりも金よりも、自身の感情をとって、一人での狩猟を行っていた。単純に人とかかわりたくなかったのだ。


他人は嫌いだ。あの間抜け面どもを見ていると無性に腹が立つ。気持ち悪いとさえ感じる。だからこそ、必要最低限しか他者と関わろうとしなかった。

それゆえに、狩りも探索も独りで行っていたし、探索中に他人と遭遇するのも煩わしい。それゆえにこんな場所でクエストをこなすことで日々の生計を立てている。


月に数度、生活必需品を得るためにスラムの中心部に顔を出す。数人の顔馴染みもいるが、それらともほとんど会話もせず、用事を終えたら住処に戻る。

そのようにして、極限まで他者との関わりを減らした生活を過ごすことを彼自身が求めていた。


オークの残骸から耳を回収したことを再度確認し、この後の予定を立てる。

”塔”を出て、スラムに戻ってクエストの達成を報告し、報酬を獲得。その金で飯を買い、スラムの端にある自分の住処に戻る。

そして、明日からはまたしばらく自堕落な生活を過ごす。金が無くなればまたクエストで稼ぐ。つまり、

これまでと何にも変わらない日々を過ごすことになる。


その事実に対して、何故か不満を覚えるが、何が不満なのかもわからない。

軽く舌打ちをついて、その場を後にしようとする。

その時だった。


――ドクン。


何かが聞こえた。心臓の鼓動のような音。

それほど大きな音ではなく、されど、耳の奥に響くような確かな音であった。

まだオークがいたのかと身構えながら、あたりを見渡す。先ほど確認した通り、生物の気配はない。

耳を澄ませて、もう一度周りを確認してみるが、廃墟の森は静かで、風の吹く音すらもしない。聞こえるのは、自分の心音と吐息、服の擦れる音だけだ。

何の音かも分からない。どこか不気味で、しかし嫌なものではなかった。

踵を返しかけた。

足が、止まった。


十年。その間に覚えた不満はいくつもあったが、それらはいつも霧のようにとどまるだけで、どこへも向かわなかった。

今はちがった。音のした方向が、はっきりとある。

それは恐らく、廃墟の森のさらに奥。彼がこの狩場を活用してからというもの、一度も立ち入ったことがない最奥部だ。

なぜそこから聞こえたと確信しているのか、自分でも説明できなかった。できなかったが、確信していた。


「――行くか」


そして、自身でも意味が分からないが、最奥部に向かうことを決断していた。

そこに自分が抱く不満を解消する、あるいはぶち壊す何かがあると思ったから――



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


廃墟の瓦礫を踏みしめ、時に払いのけながら前進する。

廃墟の森の奥部は瓦礫で埋め尽くされており、その中を進むことはそれだけで労力がかかる。

先ほどの心臓の鼓動のような音はあれから一切聞こえていない。そのため、奥部のどこを目指せばいいかはわからない。


しかし、彼にはおおよその検討はついていた。

目指すとしたら彼の進行方向の直線上に見える建造物――ドームだ。

廃墟の森は基本的には倒壊した建造物で構成されており、どこを見ても瓦礫にあふれている。奥部も同様であり、はるかかなたまで続く瓦礫の山があるのみだ。


だがしかし、その中に一つ、異質な建造物が存在している。

それはドームのような形状をしていた。壁面に苔も生えておらず、罅も入っていない。まるで昨日建造されたもののようだ。


今までは遠くから見たことがあるだけだったが、近づけば近づくほど、その異様さに違和感を覚える。

形状はおよそ直径300mの漆黒の半球といったところか。まだ遠いため確認はできないが、黒い壁の材質もよくわからない。艶はなく、光を全く反射していないように見えた。

ドームの周りだけ瓦礫が一切なく、おまけにドームに近づけば近づくほど、モンスターの姿が見えなくなっているように思える。

廃墟の森は基本的にモンスターの巣窟だ。入って30秒もすればモンスターに囲まれることなどザラにある。しかし、この周囲からは一切の気配がしなかった。


――モンスターは恐れているのかもしれない。


このドーム自体か、あるいはドームの中にある何か。どちらなのかはわからないが、モンスターがいないというのはそういうことだと彼は結論づけた。

だとするならば、やはり音の出どころはドームであろうと考える。

今までは興味もないため、適当にそこらのモンスターを狩るだけで、ドームの近くまで探索することはなかった。


しかし、先ほどの音といい、周りの異常な状況といい、あのドームには何かがある。

そう考えたとき、彼は自分の心が浮足立つのを感じた。いつもの生活とかけ離れた違和感のある状況に、妙な喜びを覚えたのだ。

その未知の状況は、彼の歩く速度を加速させた。

――そうして、30分ほどの距離を歩いた後。

彼は黒いドームにたどり着いた。



真正面からドームを見上げるとやはり大きい。

壁面は遠くから見えた印象と変わらず、光を完全に吸収しているかのような漆黒の素材でできており、軽く手の甲でノックした限りでは、それなりに硬度があることがわかる。

周囲から音は一切せず、彼の服ずれ、吐息、歩く音が響くのみであり、生命の気配がまるでない。

そして問題なのは――


「……どこから入るんだ?」


とりあえずドームの前に着いたはいいものの、ドーム内部への入り口がどこにも見つからないことだ。


「うーん」


彼なりに知恵を絞ってみるが、こんな建物は生まれて初めて見た。普段建物の内部を探索するなら、大きな罅や穴を見つけて、そこから侵入することが多い。

しかし、ドームの周りを一周してみたところ、壁面には罅もなければ穴もなかった。また扉のようなものも見当たらず、どうやって中に侵入すればいいのか検討もつかない。


こういった場合の案としては、二つある。

一つは、外側からUの字型に穴を掘り、地下からドーム内部へ侵入するという案だ。

しかし、この方法には難点がある。まず第一に非常に時間がかかる。壁面がどこまで深く地中にあるかにもよるが、少なくとも2~3mは掘り進めないと壁面を迂回することはできないだろう。

さらに、彼の手元には道具がない。今あるのは、クエスト達成の証拠を集めるための袋と、ボロボロの斧、あとは適当な携帯食料に小型のナイフのみである。

となると素手で掘ることになるが、それはあまりにも非効率だ。

そのため、彼はこの案はナシと考えていた。


そして彼はもう一つ案を採用することにした。そちらの案は単純明快。


「フッ」


彼は斧を両手で振り上げる。腕に力が入り、二の腕が隆起し、血管が浮き彫りになる。上体をそらしながら左足を前に出し、腰を落として重心を安定させる。そして、


「ハァッ!」


右足を前に出しながら、全体重、全力を込めて壁面に振り下ろした。

斧と壁がぶつかり、火花を散らしながら、ガァンと甲高い音が鳴った。

オークすら簡単に屠るほどの膂力を持つ彼の全力はどれほどのものだろうか。少なくとも、彼はこの方法で壊れないモノを今まで見たことがなかった。

だが次の瞬間、バキッと音が鳴った。


「あ」


壁面にぶつかった斧は、彼が握っていた柄の部分を残して真っ二つに折れ、空中をくるくると回転しながら、彼の後方に飛んで行った。

そして数秒後、カランという無機質な音が鳴り、斧の刃の部分だけが地面に転がった。


「あー……」


手の中の斧だった木の棒を見つめる。

もともと、もうボロボロになっており、斧の役目を果たせなくなったため、今日の狩りが終われば捨てるはずのものだった。しかし、真っ二つに折れた姿を見るとなんだかもったいない気分になった。


「どうしたもんか…」


と、ため息をついたその時、唐突に彼の周りに影が差した。


「――ッ!」


反射的にその場から右側に飛びのく。次の瞬間、自分の体があった場所を何か巨大なものが尋常ではない速度で通り過ぎ、ガァンという鈍い破砕音が鳴り響いた。

地面に手を着き、着地する。直後、寒気が来た。

首筋ではなく、もっと奥――骨の内側、とでも言うべき場所から這い上がってくるような、それだった。十年。無数のモンスターを殺してきた。そのどれとも違う。

音のした方向を振り向くと、そこには異形の何かがたたずんでいた。


「なん…だ、こいつ」


それは巨大な人のような形をしていた。しかし、明らかに異常な姿形をしている。長く塔の中を探索してきたが、見たことも聞いたこともない怪物。全長は4m前後であろうか、少なくとも彼の体長の2倍はありそうだ。体色は白、金属めいた光沢があり、生物のようであり、無機物のようでもあった。


頭部にあるべきものは何もなかった。目も、口も。そのひょろ長い腕が握るのは――剣、だろうか。刃に沿って爬虫類の歯のような突起が無数に並び、それが高速で回転している。剣というより、噛み千切るための顎だった。

その剣は、先ほどまで彼の頭部があった個所に振り下ろされ、ドームの壁面に突き刺さり、雲の巣のような罅を入れていた。

そして、自分の攻撃がよけられたことに気づいたそのナニカは、目も口もない顔を、ゆっくりと彼のほうへ向けた。そして――


「ガッ……!?」


――衝撃。急速に接近してきたそのナニカは、彼の頭部めがけて、右から左へ大剣を振り抜く。技などない、ただ棒を振っているかのような、どこか気の抜けた攻撃だ。だがそれをとっさに斧の柄で防いだ彼の両腕には、オークが3体でも突撃してきたような強い衝撃が走った。

勢いを止めることもできず、大剣は振り切られ、彼の体は左側のドームの壁面へと叩きつけられた。激痛が走り、胸の中の息が抜ける。両手で握っていた斧の柄も落ちる。

そのまま体がずり落ち、地面に四つん這いになる。頭がチカチカし、一瞬意識が飛びかける。だが攻撃は止まっていない。


痛む体を無視し、顔上げて正面を見上げれば、正体不明の化け物が大剣を振り下ろさんとしている。

今の状況を整理する。敵の状況――万全。次の瞬間には大剣が振り下ろされ、当たれば、彼の体は紙のようにビリビリと裂けてしまうことだろう。自分の状況――劣悪。全身が痛み、思うように動けない。背後には壁、後退は不可能。それに体勢も四つん這いの状況。攻撃を受けることも不可能だ。

ならば――


「間に合えッ!」


避けるしかない。四つん這いの状況から両手両足に力を込め――撃ち出す。体が地面を離れ、前方へ射出される。

剣が振り下ろされる。

極度の集中により、意識が引き延ばされ、その剣の切っ先の軌道がはっきりと見える。当たれば死ぬ。掠っても重傷は免れないだろう。


そして、剣の軌道は――彼の体とは交差しなかった。


跳躍した彼の体は、剣をかすめず、化け物の股の間を通りぬける。化け物の背後で着地、地面を転がって衝撃を逃がしつつ、受け身をとる。と同時に、背後でガガガっという爆音が鳴り響く。

振り返れば、先ほどまで傷一つなかったドームの壁に、大きな穴がぽっかりと空いていた。彼の全力では傷一つ着かなかったドームの壁面が、化け物の一撃により、簡単に粉砕されていた。

壁を破壊した化け物は、ゆっくりと彼の方を振り返る。


「……どうする、どうすればいい?」


彼は自分に問いかける。状況は先ほどよりは悪くない。全身が痛むことは変わりないものの、体勢は問題ない。背後の壁も無くなったため、後退も可能だ。

かといって良好とは言い難いだろう。先ほどの接近速度を考えると、背を向けて逃げ出してもすぐに追いつかれ切り刻まれるのがオチだ。しかも、廃墟の森の瓦礫をくぐり抜けながら逃げる必要がある。

瓦礫を盾にしようにも、敵の膂力は尋常ではないし、敵の武器のリーチも考えると、瓦礫ごと切り伏せられてしまうだろう。


もちろん、戦うことは不可能。敵のリーチはこちらよりも遥かに長く、一方的に嬲られることになる。もし、敵の懐に入り込めても、壁を壊すほどの膂力に対抗はできない。

そもそも武器である斧も、先ほど失ってしまった。挑むなら徒手空拳でということになる。――つまり、不可能。


逃げても死ぬ。戦っても死ぬ。

だからこそ、彼は生き残る術を考える。敵の方向見ながら、眼球を上下左右に動かし、周りの状況をインプットする。

すると、ドームの壁面に異変が起こっていることに気づく。


「あれは…」


化け物の一撃により大きな穴が空いていたドームの壁面は、どういう原理によるものか、ゆっくりと穴が塞がり始めていた。壁面が脈打っている。黒い断面の縁が蠢き、内側へ内側へと伸張し、穴を喰っていく。


この壁は――生きているのか。


咄嗟に最初に化け物が剣を突き立てた方の壁面を見てみると、あったはずの穴や罅が無くなっていた。

おそらくドームには外壁を自動で修復する機能が備わっているのだろう。ゆえに、ドームの壁面は新品のように傷一つない状態を保っていたのだ。

その異様な光景を見て、彼の頭の中に一つの考えが思い浮かぶ。後退は死、立ち向かうのも死。ならば、道は一つ。

覚悟を決める。他に道がないのであれば、それこそ最善の道。命を賭けて、己が選んだ道こそが正しかったと証明する。


「―――一か八かだッ!」


彼は前に向かって走り出す。もちろん正面には大柄の化け物がいる。こちらが立ち向かってきたのを見て、化け物もまた剣を構える。

先ほどの避け方を学習されたのかどうかはわからないが、今度の振り方は右下から左肩に向けての振り上げ。先ほどと同じ様に股の間を抜けようとした場合、彼の体は真っ二つにされることだろう。同じことはできない。

敵の間合いに入った瞬間、もちろん大剣は振られ始める。

その剣を見つめながら――

助走の勢いのまま、今度は右足で地面を蹴り、空中へジャンプした。


再度の集中により、意識が加速される。敵の剣の軌道を見極め、慣性により空中で前進しながら、体を丸めて敵に対する表面積を小さくする。

時間がゆっくりと進む中――


「俺の勝ちだッ!」


彼の体は振られる剣の上を通過した。

化け物の体の横を素通りしながら、地面に着地。その勢いを殺さずに、塞がりつつあるドーム壁面の穴へ全力で駆ける。

背後から化け物の走る足音が聞こえる。敵の体格からすれば1秒後には追いつかれ、背中から切り裂かれてしまうことだろう。

背後を振り返る暇などない。とにかく、穴に向けてひた走る。そして――


「じゃあな!」


もう元の大きさの半分以下となったドームの穴へと、その身を飛び込ませた。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


穴を抜けた先の床へ着地する。前転しながら、勢いを殺し受け身をとる。そして体勢を立て直し、すぐに立ち上がりながら後ろを振り返る。

するとそこには少しの穴もなく、見渡す限りが壁であった。先ほどまでの緊張感と打って変わって、今度は凍える程の静寂があたりを支配していた。


「追ってこない……」


先ほど実際にやって見せた通り、化け物の膂力をもってすれば、壁面を破壊し、内部まで追ってくることは可能なはずだ。それを警戒し身構えたが、数十秒経っても壁が破壊される気配はなかった。

そもそも、奴は何の目的で彼を狙ったのかを考える。奴が現れたのは、彼がドームを攻撃した直後だった。思い返せば、ドームの周囲を小一時間は探索していたはずなのに、奴が現れたのはそんなピンポイントなタイミングだった。


そう考えると、奴の目的はドームの守護なのかもしれない。ドームを破壊する程の膂力を持っているが、故意にドームを破壊することはしないのではないか。

かなり希望的観測が混じっているが、その予想は彼にとってしっくりと来るものだった。

そうすると心の中に余裕が生まれ、周りを見渡す余裕が出てくる。

あたりはほの暗く、だだっ広い空間となっているようだ。壁面と床面中には奇妙な模様が走り、それらが薄く発光することで、あたりを微かに照らしている。

光源はそれ以外になく、他にモノがあるわけでもない。あたりを見渡すが、その空間にあるのは謎の模様と静寂だけだ。


「なんだここは…」


思わず独り言が零れる。まるで何かの儀式場の様だ。

先ほどのような化け物がまた出てくる可能性も考えて、身構えながらゆっくりと当たりを探索する。模様の浮かんだ平面が見渡す限りに広がっている。歩いても歩いても同じような光景が連続するのみだ。

少なくとももともとここを調査する切っ掛けとなった、謎の音の正体はここにはないように思えた。

そうして歩くこと数分、ちょうどその空間の真ん中当たりに位置するであろう場所に、一つのモノがあった。


「階段?」


それは下へと続く階段だった。どれくらい続いているかはわからないが、上から見る限りだと終わりが見えない。階段には光る模様がなく、奥に行けば行くほど、光が届かず、深く昏い闇が続いているように見えた。


その闇はまるで獣の口の中のように思え、常人にとっては恐怖を喚起させるものに違いない。だが、彼は先ほど死地を潜り抜けたばかリなうえに、そもそも常人からかけ離れた精神性を持っていた。

ゆえに、何が待っているかわからない階段の先に興味が湧く。この空間には、この階段以外のモノがない以上、先ほどの音の正体もこの先にあるだろうと考えられる。

であれば、行くしかない。

彼は先ほどの死を覚悟するようなスリルを忘れ、心の中の興味に従い、階段を慎重に降りていった。


――そうして歩くこと数分。光が一切無くなり、自分が進んでいるのかもわからなくなる程の昏い闇と静寂が支配する中、ついに彼の正面から微かな光が差した。

それは床面から縦に伸びて、彼の頭上を遥かに超えた位置まで届くような形状の光だ。その光が差し込む場所を両手で押してみる。どうやら、そこは両開きの大きな扉になっていた様だ。横2m、縦に4~5m程であろうか。

その大きさに見合って、かなり重い扉であったが、彼の腕力であれば開くことが出来る。

両手に力を込め、ゆっくりと扉を押し広げていくと、そこには異様な光景が広がっていた。



そこにあったのは半径100mほどの円形の空間であった。周りを囲む壁面は真っ黒で、上階の壁面と同じ材質に見える。ただし、上階と違うのは、こちらの壁面には模様が浮かんでいないことだ。ただただ、無機質な黒い壁面が広がっている。


そして床面も上階と異なっていた。床面には特異な模様が刻まれていたが、上階と比べると非常にシンプルなモノだった。

10個の円と22個の線で構成された縦長の模様。それが強く発光することで、当たりを照らしていた。

床面には一本の線が入っており、それが模様の中心を通って空間の端から端まで続いている。

そして最も異様なことは―――空間の中心で人間が倒れていること。


彼は周囲を警戒し、身構えながら、倒れている人物まで慎重に近づく。

そしてその人物をしっかりと確認した瞬間――時が止まった。



それは少女だった。


宝石のような艶のついた白銀の髪が肩口まで伸びている。体つきはスレンダーながら、まとっているローブの上からでもわかる豊かな胸が女性でであることを主張していた。


顔を見た。

思考が、止まった。


整っているとか、美しいとか、そういう言葉では足りない。スラムにいる人間とも、上層から降りてくる商人や貴族とも、まるで違う何かだった。この世界のどこを探しても見つからない――そんな確信が、理屈を飛び越えて頭の中に落ちてきた。


何故こんな場所にいる。どうやって侵入した。何故倒れている。聞きたいことは山ほどあった。だが口は動かず、足も動かず、彼はただ立ち尽くしていた。

そして、漸く意識を持ち直し、一度精神を鎮めるために、フーと一息深呼吸する。そして、落ち着いて彼女の状態を把握する。


彼女は、スラムでは見たことのないような純白の無地のローブをまとっていた。だがその新品のように見えるローブはボロボロで血も滲み、穴も空いている。

横に膝をつけ、耳を口のそばまで持っていく。どうやら呼吸はしている様だ。慎重に彼女の手首を掴み、脈を確認する。脈はかなり遅い。顔色は青ざめており、衰弱しているように見える。

ローブを脱がせ、全身の状態を確認しようとするが――


「―――」


またもや意識が固まる。彼女のローブの下が全裸だったからだ。ツヤとハリのある純白の肌、ふくよかな胸の谷間や、艶めいた太ももが目に入ってしまう。

一瞬、彼の中のドス黒い性欲が首をもたげるが、それをどうにか抑制し、落ち着いて外傷を確認する。

体のそこかしこに青あざができているが、裂傷などはあまり見当たらない。

周りにはこの少女を傷つけるようなモノ等見当たらず、その状況もまた彼を混乱させる。


状況としては、この少女は傷を負いながら何とかこのドームに侵入し、この下の階まで降りてきたところ、力尽きて気絶し倒れたといった所だろうか。まったくもって、謎めいた状況である。

彼女を助けるのであれば、落ち着いた場所での治療が必要だろう。この場所で横たわらせているだけでは体も冷えるばかリだ。今の手持ちにはこの食料も水も足りていない。この衰弱具合からすると、このまま数日放置すれば命を落としてしまうことだろう。


「……」


だが、彼女を助ける道理は彼にはない。そもそも彼は他人が好きではない。いくら可憐な少女が相手だからと言ってそれは変わらない。

色々と気になることはあるが、彼女を救おうとするなら、様々な面倒が発生するだろう。それを抱え込んでまで彼女を助ける価値があるだろうか。


彼の育ったスラムのルールは残酷だ。弱いモノは強いモノから奪われる。金、物、食料、体――命でさえも。

スラムでは、弱者を助けることなどありえない。例え仲間であっても、弱者は容赦なく切り捨てられる。そうしなければ自身も生き残れないからだ。

そして、そのようにして切り捨てられた者は独りで生き抜いていく力を磨かなければならない。ちょうど彼のように。


スラムの論理ならば、この少女は弱者で救いようがない。ゆえに、助ける道理も義理もない。

もし助けるのであれば、あの掃き溜めの畜生にも劣る"上層"の変態共にでも売りつけるべきだ。

と、彼の理性は囁いていた。

だが、彼の直観は別の言葉を発していた。――この女を助けろと。

理由も意味もない、何故なのかも分からない。ただ、彼の中の何かがそうした方が良いと叫ぶのだ。そしてそれは理性の囁きを遥かに上回る音量で彼の中で響いていた。

そして、彼は決断する。


「よっ、と」


少女の女性らしく軽い体をゆっくりと抱え上げると、両腕に少女の体のしっとりとした柔らかさ、程よい弾力がローブ越しにも感じられた。それらによる甘い誘惑を無視して彼女を背中に背負う。

そして彼はその場から歩き出す。目指すは"塔"を出て、スラムをしばらく歩いたところにある住処だ。

どうせ、上層の奴らに売りつけるにせよ、まずはこの女の容態を安定させてからだ。と、彼は自分に言い聞かせて、ひとまずこの少女を助けることに決めた。


――そして、この選択が彼の運命の全てを変えたのだ。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「さて、どうするか」


少女を担いだ彼は、上階への階段を上りながら、独り呟く。彼の頭を悩ませていることは、このドームからどうやって脱出するかという方法だ。

そもそも彼がこのドームに侵入できたのは、外にいた奇怪な化け物がご丁寧に穴を開けてくれたからであり、彼自身の力では開けることはできなかった。

そしてその穴はすでに塞がっていることは先ほど確認済みだ。ということは、別の経路での脱出が必要となる。


少女の容態からして、なるべく急いでこの場から脱出したい。そのためにも今後のプランを考えなければならない。

このドームには謎の模様が描かれた空間と地下へ進む階段、そして謎の地下空間があった。それしかないとも言えるが、このことからわかることがある。

それは、このドームは確かに人の手が入って作られたものだということだ。この構造は自然にできたものではなく、人が何かしらの意図を持って作ったとしか考えられない。


そうすると絶対に必要なモノがある。この場所が人工物なら、出入りするための口が必ずあるはずだ。

外部からでは見つけられなかったが、おそらくは巧妙に隠されているだけで、外に出ることも外から入ることも可能な場所があると考えられる。

そのためにはまず、ドームの壁面を改めて調査する必要がある。

そう考え、狭く長い上階までの階段を、少女を背負って進んでいく。相変わらず少女はぐったりと気を失ったままで、起きる気配は微塵もない。


歩きながら、彼は思考を更に巡らせる。

結局、下の階ではこの少女以外に見つかるモノはなく、何の戦利品も得られなかった。このドームから聞こえたであろう音の正体も不明なままだ。

次に、このドームが一体何なのか。それもまったく分からなかった。上階には奇妙な模様の書かれた空間、下階には奇妙な床があるのみ。このドームは人工的に作られたモノであることは明白だが、その意図は分からない。

何らかの儀式的な意味があるようにも思えたが、そういったものに関する知見は彼にはないし、スラムで知ってるものもいないだろう。

そして、外の怪物。今まで出会ったどんなモンスターよりも強く、恐ろしかった。

あんな化け物は今まで見たことも聞いたこともない。もしかすると奴と出会った人間は全て残らず殺されてしまい、情報が出回らなかったという可能性もある。


そう考えると、廃墟の森が不人気な理由もそこにあるのかもしれない。ある日、廃墟の森を探索していた人間が失踪。それが数人程続けば、ここには何かがあるだろうとみんな考えるはずだ。そうした結果、この場所からは人が消えたのかもしれない。


もしかすると塔の上層に生息しているモンスターが何らかの理由で、下層まで降りてきて、偶然この廃墟の森にすみ着いた可能性がある。

そしてこのドーム近辺を縄張りとし、縄張りに侵入した彼に攻撃を加えた、というのがあり得る線であろうか。少なくともあの化け物の強度はこの階層にはそぐわないし、それが一番妥当に思えた。

そのような、ここに至るまでに起こった一連の不明点について考えながら歩いていると、目の前には真っ黒な壁面があった。どうやらドームの内壁面まで戻ってきたようだ。


先ほどと変わらず、薄く発光する模様が走る壁面を眺める。やはり、特に扉らしきモノや仕掛けなども見当たらない。

今度は、壁の内周を歩きながら、辺りを注意深く観察してみる。しかし、歩けども歩けども、そこには同じような壁があるばかりで、何の発見もなかった。

そこで、もう一度感触を手で確かめてみるべく、壁を手のひらで触る。


――直後、手が壁の中に沈んだ。


「あん?」


まるで水の中に手を入れたような妙な感触だ。手を引っ込めると、そこには何も変わらない己の手があった。


「どういうことだ……?」


外で確認した限りでは、確かにただの壁だった。手の甲で叩いたら金属のような音が鳴り、斧で全力で殴ってみても一切傷が着かず、その強度もかなりのモノがあったはずだ。

外から入る時と内から出る時で強度が違うというのはどういうことか。先ほどと今では何が違うのか。簡単に思いつくのは――


「こいつか?」


彼は背中に背負った少女を見ながら呟くと、壁から少し離れた場所に少女の体をおろし、自分独りでもう一度壁へ近づく。

そして、先ほどと同じように手のひらを壁に当てると、今度は固い感触が返ってきた。間違いなく、外で確認したときと同様の感触である。

今度はおろした少女をもう一度背負い、固い感触が返ってきた壁へ近づき、壁に向かって右足で進む。

ズブリ、と足が壁の中へ沈む。痛みや不快感は一切ない。沈んだ右足の裏からは地面のような固い感触が返ってきた。

彼は意を決して歩を進め、体を全て壁の中に沈めると――


「うぉっ」


次の瞬間、唐突に光が目に入り、思わず腕で目の上をふさぐ。今まで薄暗いドームの中にいたので、目が慣れていないのだ。

何度も瞬きさせて、光に目を慣れさせる。そうして薄目で辺りを見渡すと、このドームに入る前と同様の瓦礫の山、地平線まで続く廃墟の森が目の前に広がっていた。どうやら脱出できたようだ。


そして改めて彼は思う。――この女は一体何だ。

そもそも、壁という固体が液体に変わるというのが分からないし、この少女が近くにいると壁を通過できた理由も分からない。やはりこの少女はこの意図不明のドームと何か関連があると見て間違いないだろう。


背負った少女をもう一度見てみるが、彫刻めいたその顔は青ざめたままで、息も浅い。早急に住処に帰り看病をしないと命に障る可能性がある。

そう思い、帰宅するための道のりを探すべく、正面を向いた時。


「あー…忘れてた」


目の前には大きな壁があった。いや、壁というのは現実逃避の結果の比喩表現であり、実際には壁ではなく、そこにあったのは巨大な人型のオブジェのようなものだった。

先ほど彼を苦しめた化け物が、先ほどと同様に目の前に立ちふさがっていた。

彼の身長を大きく超える、のっぺりとした目も鼻も口もない無貌の人型が、確かに彼のことを見ている。そして、無造作に巨大な左腕を振り回す。


「がッ!!」


唐突に現れた異形に動揺し、その左腕を避けることはできなかった。化け物の適当な一撃は彼の左の横っ腹に直撃し、体が真横に吹き飛び宙を舞う。

しかし、痛む体を無視して空中で体勢を回転。背負った少女が傷つかないように右肩を真下にして、数mほど横の地面に激突。肩から地面に激突した痛みと地面と擦れる痛みが伝わってくる。


「クソが……!!」


だがそれ以上に化け物から殴られた腹部が激しく痛む。もしかするとあばらの1、2本は折れてしまったかもしれない。

口の中に生暖かい血の味が広がる。地面に衝突した右肩は、幸い骨は折れていないようだ。しかし、出血が激しく、しばらく右腕を動かすことはできないだろう。

また地面とぶつかった衝撃で、背負っていた少女も投げ出され、彼の隣に転がっていた。地面に直接激突したわけでないとはいえ、大きな衝撃を受けたであろう彼女は未だに目を覚まさない。

この場から撤退するためにも、まずは無傷の左腕を使って立ち上がろうとする。しかし――


――起き…がれねぇ……。


全身に力が入らず、上半身を持ち上げたところで地面にべしゃっと倒れこむ。地面に転がったまま顔をあげてみれば、化け物はゆっくりとこちらへ歩いてきているのが見えた。


「動け……!!」


一歩、また一歩と歩みを進めてくる化け物を見ながら、自分の体に向かって叫ぶ。

振るえる左腕で何度も起き上がろうとするが、その度に全身から力が抜け、体勢を崩して倒れてしまう。

それでも尚立ち上がろうとするが、


「ゴホッ……!!」


胸からこみ上げてきた血が口から吐き出されると同時にまた倒れる。どうやら先程の衝撃は内臓まで届いていたようで、全身を倦怠感が襲う。

そして、気づけば目の前には化け物の姿。

ドームに入る前の状況と同様に、倒れこんでいる彼に向かって大剣を振り上げている。違うのは、彼の体が万全からはほど遠いということだけだ。同じような避け方はできない。


つまりはここで終焉。

薄汚いスラムの人間が、欲を掻いて冒険した結果、誰にも知られずに野垂れ死ぬ。この世界ではありふれたテンプレートの死に方の一つ。

世界に何も残せず、影響も与えずに無様に消える。そんな当たり前の死に様。

だが――


「ふざ、けんなッ……!!」


彼はそれに否と叫んだ。満身創痍で立ち上がることすらできず、全身から休めという警告が響いている。口の中に広がる血の味は増すばかりで、肩からの出血も止まっていない。

しかし、その体が起き上がらなくとも、顔だけを前に向け、今にも剣を振り下ろさんとしている化け物をにらみつけていた。

そして、その青い瞳が、怒りによって煌々と燃えていた。


「俺は死なない、まだ死ねねぇんだよ…!!」


目の前の化け物、いや、理不尽で雁字搦めなこの世界に向かって彼は叫ぶ。


「俺は…俺は!!」


何のために生きたいと思っているのか、死を目前にして彼は思い出す。かつて、彼がまだスラムの中でも一番の弱者であった時に誓ったこと。

このクソみたいな世界に対して、宣誓したことを。


「いつか必ず――この世界をぶっ壊すんだよ!!」


破壊の宣誓が辺りに響く。しかし、彼は依然として地面に倒れ伏し、化け物の次の一撃を避けることはできないだろう。

この後、彼の体は引き裂かれ、確実に死ぬ。

彼の宣誓はこれから死にゆく者の遺言に過ぎず、その言葉はこの世界のどこにも響くことはなく消えていく――はずだった。


だが、ここには彼と化け物以外にもう一人、彼の宣誓を聞き届けた者がいた。


大剣が彼に向って振り下ろされる。コンマ1秒後には彼は残骸となって果てているだろう。

だが、その剣の切っ先を、死を目前にした彼は全く見ていなかった。そんな事がかすむほどのものが、真横にあったのだ。


彼の横に少女が立っていた。

それは間違いなく、彼が先程まで背負ってきた少女であり、その彼女が両足で立っていた。

力が入らないのだろうか、全身が振るえ、今にも崩れ落ちそうだ。その顔も青ざめたままで、どこからどう見ても病人にしか見えない。

だがしかし――その赤い瞳だけは彼と同じように煌々と燃えていた。

その少女は、剣を振り下ろしている化け物を睨みつけながら、一言だけ呟いた。


『堕ちて』


次の瞬間、グシャっという嫌な音ともに、彼の目の前から化け物が消えた。同時に黒い液体が彼の顔にピシャっとかかる。

それは不思議な光景だった。倒れ伏している彼から見れば消えたように見えたことだろう。

実際には、化け物は潰れていた。怪物は、紙のような薄さにまで自身の体液や内臓もまとめて潰されている。ひしゃげて、原型も分からない程の薄さにまで圧縮されたその姿は、まるで人間に踏みつぶされた蟻のようであった。


その惨状を前にして、彼は呆然とするしかなかった。

その光景を作り出したであろう少女は、潰れた化物を虫を見るような冷酷な目で見ながら一息吐き、ゆっくりと目を閉じた。

直後、その体がゆっくりと傾いて。

そのまま地面に倒れ伏した。

ドサッ、と音が鳴る。

どうやら少女はまた気を失ったようだ。背中に背負っていたときと同様、浅い呼吸音が聞こえてくる。


「…あ?」


その場に残されたのは、潰れた化物の残骸と気を失った少女、そして地面に倒れ伏したままの彼の困惑の一言だけであった。

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