怒れる自由よ、万鎖を壊せ③
先手を取ったのはマクスウェルだった。
先程と同様、瞬時に自身の領域境界ギリギリまでソラに接近する。正しく一瞬の出来事。常人であればその動きの軌跡を捉えることも出来ないだろう。
そうしながら彼は大気中の水素や酸素を領域内に取り込みつつ、その他の分子を領域外に押し出す。
結果、水素と酸素…その他可燃性気体の混合気体が彼の界約領域内を満たす。
そして右腕を前に突き出して、
【爆ぜろッ!!】
魔術により、手の先に炎を作り、その気体に着火。
すなわち水素爆発。
鼓膜をぶち破るほどの爆音、それと同時に強烈な衝撃波が発生する。
そしてその音と衝撃波はどちらもマクスウェルへは向かわずに、彼の前方に立ったたままのソラに向って集中的に襲い掛かる。
正しく必殺。例えどんな生物であろうが、食らってしまえばひとたまりもないはずだ。
しかし、
「はっ」
ソラは鼻で笑いながらその衝撃に対して右手を突き出すと、そこに走る羽の鎖が再度青く輝きだす。
そしてそのまま無造作に右手を振るって――衝撃波を引き裂いた。
「な―――」
「今度はこっちの番だ」
驚愕に目を見開くマクスウェルをよそに、ソラは嗤って右足を高らかに掲げる。
太ももから脹脛にかけての筋肉が、服の上からでもわかるほど盛り上がり、そして彼の右半身の紋様がより一層強く輝く。
その瞬間、マクスウェルは何かが軋むような音を聞いた。そしてその正体を瞬時に悟る。
それは彼自身の界約が出す音。この瞬間もソラという存在を全力で排斥しようとする彼自身の界約がフル稼働し、今にも崩れそうな音をたてながら軋んでいるのだ。
マクスウェルの背筋に滝のような汗が流れる。彼を襲うのは得体の知れないものに対する恐怖、いや死の恐怖か。
その嫌な予感に急かされて、マクスウェルは自身の界約をフル稼働。咄嗟に自身の足元に水素と酸素を集中させる。
「オオオおおぉオオオ!!」
ソラが唸りを上げながら、右足を斧のように振り下ろす。それに対して、マクスウェルは足先の混合気体を爆破して――
その瞬間、世界が割れた。
先程までのマクスウェルが起こしていた水素爆発による爆音など比べ物にならない、本当に世界が崩れてしまうのではないかと思うほどの轟音がイエソド中に木霊する。
地面に踵がめり込んだ瞬間、震源地であるソラの周囲の地面は沈み込む。そしてそこを震源として大地が波のようにうねり、周囲に地震が巻き起こる。
その波は全方位に向けて拡散、その激流に呑み込まれ、周囲の崩れかけの建物が音を立てて崩れ落ちていく。
踵落としだ。それだけの事だった。
しかしその威力は端的に言って災害と言っていいほどの破壊を振りまいていた。
「な、んだと…!!?」
呆然と呟くのは上空に逃げ伸びていたマクスウェルだ。
足先に集中させた気体を爆発させて、その衝撃波の向きを自身の外界に向けて限定する。攻撃に利用していたその能力を、マクスウェルは推進力としても利用していた。先程からの不可解な高速移動の正体はこれだ。
その技を持って、マクスウェルは何とか震源地から上空に逃げ出していた。
しかし、マクスウェルの顔には安堵の感情ではなく、今なお止まない恐怖の感情が浮かんでいた。
上から見ればより一層分かりやすい。ソラが踵落としを行った震源地は、隕石でも落ちたのかと思うほど綺麗に円形に窪み、地面には蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。
砂と灰を巻き上げながら周囲の建物が崩壊し、まるでソラに頭を垂れるかのように轟音と共に横たわる。
正しく災害。最早、それは人が単独で起こせる破壊の域を超えている。
そんな破壊を巻き起こした当人は、震源にて一人嗤う。
「避けられたか」
三日月のように歪んだ口元からそんな独り言がこぼれる。
そして、その瞳が捉えているのは上空を浮かぶマクスウェル。
「そう来なくっちゃなぁ」
ソラは上空に漂う獲物を見ながら、少し身を屈めて、
「次は俺からだ」
そう呟いて、ソラが右足で地面を蹴る。
直後、地面が爆発したかのようにたわんだ。
跳躍。ソラがしたのはただそれだけの事。しかし、その力が強すぎて反作用により地面がはじけたのだ。
「な――」
マクスウェルが咄嗟のことに声を上げる間もなく、ソラは空を駆け抜ける。
その速度は、水素爆発の勢いを利用するマクスウェルとほぼ同等。たかが地面を蹴っただけの跳躍が、界約を利用した技に匹敵する脅威と化している。
爆発を利用して空を飛ぶマクスウェルと、謎のチカラで空を跳ぶソラ。二つの彗星が夜空を駆ける。
「今度は当たるかなあはははハハハハハッはハハハあ!!」
青い光をたなびかせ、空中を疾走するように飛びながらソラは嗤う。
まるで子供が遊具で遊んでいるかのような、そんな無邪気な笑い声。しかし、そこには殺意と憤怒、そして狂気が込められている。
目の前に迫る悪魔、それに追いつかれればどうなるか、マクスウェルには容易に想像がついていた。
「クソッ…!!」
悪態をつきながらマクスウェルは再び界約を稼働させる。
排斥の界約は何故か通用しない。水素爆発も効かなかった。ならばどうするか。
自己の能力を真に理解したマクスウェルは自身にできることを本能的に理解している。しかし、それだけではだめだ。
必要なのは思考すること。
なんでも出来る万能性。それをただ使うのでは足りない。
この究極のチカラを活かすために頭を回せ。そして、理性を使い思考を巡らせ、目の前の悪魔を葬り去る何かを作らなければならない。
「考えろ…!!」
そこにいたのは今までの愚かで癇癪持ちの、能力を使うのではなく、能力に使われていただけのマクスウェルではない。
能力を跳ねのけるような脅威の存在。死を間近に感じたことで生まれた恐怖。トラウマを刺激されたことにより発露した憤怒。
それらが一つに重なった結果起こるのは――進化。
「考えろ、考えろ…ッ!!」
強すぎるチカラを持て余していたマクスウェルは、自身の研鑽を怠っていたことは事実だ。それゆえに戦闘に関する経験も知識もないのはその通り。
彼の細腕ではまともに剣を振るうことも出来ず、体力の無さも折り紙付きで多少の階段でも息切れしてしまう。
だが、彼はそれを補って余りある、界約を使用することに対する天性の才覚を持っていた。
己の支配領域下において、形ある物体だけでなく、形のない大気中の分子すら対象とできる知覚精度。更に、空気中に無数に存在する分子それぞれに対して、排斥・受容を選択しているという驚異の情報処理能力。
自身の能力を自覚する前から無意識のうちに周囲の気温操作を行っていたように、彼には界約の応用に対する天賦の才があったのだ。
「はハハハハハは嗚呼あはははッはッ!!」
耳をふさぎたくなるような、邪悪な笑い声。それが風を纏ってマクスウェルの元へ届く。
悪魔だ。哄笑を上げる悪魔が迫ってくる。だが、それがどうした。
「今、ここで殺す方法を…ッ!!」
恐怖が加速し、それと同時に湧き上がる殺意が火を噴いた。
思考が巡る。界約が脈動する。
「―――〈痛苦を焦がせ、悪魔の法則〉ッ!!」
マクスウェルが雄たけびを上げる。
それは彼が人生で初めて上げた声。己の能力を全力で振るうものだけが出せる魂の叫び。
血走るマクスウェルの瞳が赤く発光し、それと同時に目から血涙が溢れ出す。極限まで思考する脳が炎もかくやと思うほどの熱を持つ。
その瞬間、彼の界約が何かを捉えて―――
「消しとべぇぇぇええええッ!!」
「は―――」
そう叫んだと同時、先ほどソラが起こした破壊の轟音すら上回る、超特大の破裂音が世界を揺さぶった。
最初に、静寂。
マクスウェルを中心に、彼の界約が支配する領域の境界外壁を取り囲むように空間がわずかに歪み、空気が沈んだ。
夏の陽炎のように揺らぎながら、しかしそこだけが異様に冷たい。
直後、領域境界内面に一点の明かりが灯る。
赤。いや、白。
空気そのものが灼熱へと反転し、目に見えないはずの大気が発光する。外縁は凍りついたまま、内側だけが地獄の炉と化す。
見えない拳が内側へ叩きつけられるように、空間が一瞬、ぎゅっと縮む。
そして、解放。
その時起こったのは太陽とも見まがうほどの白い閃光。
遅れて空気が爆ぜて――世界を揺さぶり、そして引き裂いた。
排斥と受容、その力の及ぶ範囲は彼の周囲数mほどだ。しかし、その能力対象は細かく、大気中の分子までも捉えている。
マクスウェルが起こしたのは、その分子の排斥・受容の応用による、爆縮と反動爆発だ。
低速で動く分子は彼の領域から排斥され、境界壁面を覆う。
高速で動く分子は彼の領域に受容され、境界内面のある一点にだけ存在を許可される。
中心は高温の分子、その外縁は極限まで低速な分子が配置されることでその間には極端な気圧差が生じる。
あとは一瞬だけ界約による排斥・受容をオフにするだけ。
まず起こることは、圧力差のままに中心に向って空気が沈みこむ爆縮。
その直後、極限まで圧縮された気体がプラズマと化して一気に解放される。その結果、先ほどまでの水素爆発とはくらべものにならないほどの威力の衝撃波が彼を中心として解き放たれたのだ。
外から見れば、突如として現れた小さな太陽が爆発したように見えたことだろう。
しかも、その爆発の向かう先は全方位ではなく、マクスウェルとは反対方向のみに限定される。すなわち、目前にまで迫って来ていたソラにその衝撃が全て直撃する。
その爆発の衝撃全てが1人の人間を襲うのだ。誰であろうが、どんな鎧を着ていようが、塵も残さないはずだ。
急激に膨張する白い光はソラを襲い、そのまま消し飛ばしてーー
「その服は良いけど」
視界を満たす白の中から、声が聞こえる。
そして次に見えたのは、青い光。
白く染まる景色を、青が引き裂く。
その正体は人の体だ。その誰かの右半身に光る模様がプラズマの光すらかき消さんばかりに強く輝き――
「長袖じゃなくてもいいなァ」
ソラがげらげらと嗤いながら、マクスウェルの前へと姿を現した。
「な、んで―――」
マクスウェルの口から零れるのは疑問。
先程の爆発は間違いなく至上の一撃。彼の全身全霊を賭した、正しく渾身の一撃。
それを受け止めたはずのソラは、爆発に吹き飛ぶわけでもなく、マクスウェルの目の前で笑っていた。
「あ…ありえない」
マクスウェルの言う通り、そんなことはありえない。
有機物であれ、無機物であれ、この世に存在する物質の中で、あの爆発を至近距離で耐えられる物質等存在しないはずだ。
それは最早、小型の太陽を受け止めることに等しい。当然耐えられるもの等あるわけがない。
「それがありえちゃうんだよなあ」
そうだというのに、目の前の男は快活に、そして悪辣に笑っていた。
その肌には一切の傷がついていない。まるで何事もなかったかのようなつるりとした肌に、強く光る青い鎖が巻き付いている。
「なんなんだ―――」
マクスウェルが呆然と呟く。
この瞬間も回転し続けるマクスウェルの界約が悲鳴を上げている。
目の前の男が何かしらの異能を使用しているのは間違いない。だが、その詳細が分からず、マクスウェルは困惑する。
権限も効かず、魔術もノーダメージ。界約も一切の効果をなさず、プラズマ爆発ですら一切の痛痒を与えられない。
まるで意味が分からない。理不尽極まりないその力は、人の身を明らかに逸脱している。
世界のルールを全てを無視しているかのような、そんな目の前の悪魔を見て、マクスウェルは叫ぶ。
「なんなんだ、貴様はッ!!?」
「俺?俺は自由だ」
ソラは、まるで当たり前のことでも答えるかのような憮然とした態度で答えを返す。
マクスウェルは恐らくそんなことを聞いたのではないのだと思うが、ソラにはそんなことは関係ない。
彼は答えたいことを答えただけ。マクスウェルのことなど一切考えていない。
「俺は自由。俺は全てのやりたいことをやる。俺は全てをやりたいようにやる。邪魔なものは全て壊す」
やりたいことをやりたいようにやる――それがソラの誓いなのだから。
他者の意見、世界のルール、常識、理性、何もかもがどうでもいい。
そして、そんな全てを破壊することこそ彼の祈り。彼の誓い。そして、
「じゃあ」
それこそが彼の―――
「とりあえず一本な」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その衝突は一瞬だった。
空中を高速で飛翔していた二人の影が一瞬重なる。
端からは白い爆発に覆い隠されて、何も見えなかったことだろう。
だがしかし、ルキナは見ていた。
白い光を嗤いながら食い破る、誰かの姿を。そして、それが振るう右腕が何かを掴み、引き裂くところを。
「アアあぁぁぁああああああああああああッ!!?!?」
絶叫。
白い爆発の轟音が鳴り響く夜の空に、誰かの叫び声が重なっていた。一瞬の出来事で何が起こったのかは正確にはわからない。
直後、空中を駆け抜けていた二つの彗星のうち片方が地に落ちる。鈍い衝突音が響き渡り、それと同時に砂埃が舞い上がる。
それが晴れたときにそこにいたのは、
「あ、ああぁ、が、あああああ…ッ!!??」
金髪の上位者。街を焼き、スラムを滅ぼし、セナを踏みつけにして、ルキナを縛り、ソラを殺さんとしていた『蒼炎の悪魔』――マクスウェルが、地に這いつくばって右腕を抑えていた。
ぼたぼたと音を立てて地面に落ちるのは、滝のように溢れ出す脂汗と、赤くて熱い血液。彼が必死で押さえつける右腕の肘辺りから、鮮血が溢れ出して止まらない。
何故ならそこにはあるべきものがない。すなわち。
「腕…ッ!!ぼ、僕の腕ぇえええ…!!」
右腕。正確にはその肘から先だけが、綺麗さっぱりなくなっていた。
勿論、綺麗さっぱりというのは誇張した表現だ。実際には力任せに引き裂かれた断面には凹凸が目立ち、その中でも一本の骨が突き出ている。
服の上からちぎられたのだろうか、彼の纏う上等な長袖の服も右肘から先が欠損しており、精巧に編まれた完璧な対称性を誇る騎士服がアンバランスな形に変化している。
だが、それはあくまで彼にとっての加工の第一段階なのかもしれない。
「ちょうどいい袖の長さになったなァ」
腕を抑えて慟哭するマクスウェルを嗤いながら空から眺めるソラは、自らが引き裂いた服を見ながら薄く笑う。
その右手には未だ血の滴るマクスウェルの右腕が握られている…が、ソラはすぐにそれをゴミのように投げ捨てる。
「次は左。あ、右ももう少し短くてもいいかもな。下履きはどうしよう、今のままでもいいし短くしてもいいなァ」
そしてまた嗤う。
月夜に響くマクスウェルの悲痛な叫びと相反する、狂気に満ちた歓喜の笑い声。
ソラのしていることは単純明快。彼は自身がこれから着る衣服の仕立てをしているのだ。
無くなってしまった自分の衣服の代わりに、マクスウェルの着ている上質な衣服を羽織ることは彼の中で既に決まっている。
そしてソラは、その服のサイズ感をこの場で調整している。すなわちマクスウェルを生きたマネキンとして、ちょうどいい袖の長さを決めているのだ。
端的に言って、どうかしている。明らかに常人の思考ではない。
「ほら、早く立てよ、犬コロ。たかだか腕の一本だろう、泣きわめいてないで噛みついて来いよ、犬らしく。さあ、さあ、さあ、さああああははははっはハハハハハッ!!」
さんざめく笑い声が地面に蹲るマクスウェルの中で木霊する。
彼のトラウマを刺激するその単語を聞いて湧き上がるのは怒りではなく、恐怖。
侮辱に打ち震え、怒りに燃えていた先程までの彼は最早どこにもいない。
今やただ喪失した腕の痛みに耐えかね、恐怖にむせび泣く一人の小さな子供がいるのみ。
「な、んでだよぉ…」
額からは脂汗、目からは涙、そして鼻水とよだれと、穴という穴から汁を垂らしながら、マクスウェルは一人、言葉を漏らす。
「なんで、なんでなんだ…ッ!!なんで僕がこんな目にィ…ッ!!」
「そりゃあお前が俺を縛ったからだ」
蹲って泣き言を喚くマクスウェルに向って、ソラはすんと急に無表情になる。
「お前は俺を縛った。俺の上に立ち、俺の体に鎖を巻いて、俺の自由を妨げた。だから殺す。絶対に殺す」
怒り。ソラの第一感情。
ソラは自分の自由を妨げたものを絶対に許さない。自由を得た今でもソラの中の憤怒は変わっていない。むしろその蒼い瞳の中に輝く憤怒は今も尚、苛烈さを増し続けている。
その極限の質量を持った憤怒の感情が言葉に乗って、マクスウェルの体にのしかかる。
「下を縛るのが好きなんだろう?下を従えて、頭を踏んで、それで満足なんだろう?」
静かな声でソラはマクスウェルに問いかけるが、当のマクスウェルは恐怖で二の句も継げずにいた。
彼が感じているのは、まるで死刑台に立つ囚人のような、あるいは屠殺される家畜のような、そんな死の恐怖。
「まあ、楽しむことはおまえの自由だ。好きにすればいい」
先程までの狂ったような態度とは打って変わって、落ち着いた態度でソラはマクスウェルを肯定する。
「でもな」
だがそれは決して怒りが静まったというわけではない。
むしろその逆。燃え盛る憤怒の波が、次に爆発する瞬間のために一瞬引いただけなのだ。
いかなる能力か、宙に浮いていたソラは、月の光を受けてゆっくりと地上に降り立ちながら、
「お前も自由だし、俺も自由だ。だから俺は好きなようにする。やりたいことをやる。食べたいものを食べる。欲しいものは奪う。邪魔な壁は壊す。そして―――」
そして、また怒りと嗤いが同時に点火する。
「俺の『自由』を邪魔する奴らは全て殺すッ!!」
歯を剥き、目を見開いて嗤うソラが謳うように叫ぶ。
「ああいいだろう、お前も自由にやれよ?自分より下を従えるのも嬲るのも殺すのもお前の自由だ。ならば、俺がお前らの全てを奪い、壊して、殺すことも自由だろッ!!」
強者が弱者を従える。弱肉強食の論理。
この世界では結局それが全てだ。財力を持つ者、権力を持つ者、腕力を持つ者、権限を持つ者、界約を持つ者、そういった特別な者たちがそうではない者たちを支配できるのが、この世界の道理である。
上の人間は何をしたっていい、強ければ何をしてもいい…それがこの世界の本質で、それはイエソドであろうが、上層の世界であろうが変わらないのだ。
ならばそんなものより更に強いものが現れたなら?富も名声も力も権限も異能も全てをぐちゃぐちゃに壊せる、そんな存在があるのなら?
「俺を縛る奴、縛ろうとする奴、上から見下ろす奴―――全部全部壊し尽くす!このクソみてえな世界を引き裂いて、この世のどこにも上がいなくなるまで鏖殺だッ!!」
答えは単純。全て彼の思うがままだ。
弱肉強食を是とするならば、その頂点に君臨するものは何をしたって許される。
他者の自由を踏みにじり、己の自由を突き通すことが出来るのは力があるもののみだ。
すなわち、この世界では最も強いものこそが自由を得られる――ソラはそう気づいたのだ。
「ああ、面白い、面白いなァ―――これこそ俺の自由ッ!!」
上位者に逆らえないという世界のルールを踏み倒し、空から見下ろす者たち全てを虐殺する。
世界を壊し、他者を殺しつくせば彼は自由になれるのだと、それこそが自由なのだとソラは叫ぶ。
「あははははぎゃはははははあははひゃははははは嗚呼あははははっはああッ!!」
「あ、が、あ…」
マクスウェルは目の前の狂気を前にして思う。
これは世界の破壊者だ。この世の道理を破壊する、地の底で微睡む悪魔を解き放ってしまったのだ。
目の前のこれはもう止まらない。この悪魔はきっと上にいる者すべてを殺戮する。
「に、逃げなきゃ」
もはやマクスウェルの頭の中には、下層の人間に対する傲りだとか、怒りだとか、侮りだとか、そういった感情は一切ない。
あるのはただ一つ、死の恐怖。このままではマクスウェルは間違いなく殺される。あの悪魔が死神となって彼の命を奪い取る。
膝に力が入らず、豪奢な衣の裾が絡まる。苛立ちと恐怖が入り混じり、指先が震える。
「は、早く…早く逃げなきゃ……」
声は掠れ、威厳の欠片もない。
石床の冷たさが残った左の掌に滲む。宝石を散りばめた指輪が床を擦り、嫌な音を立てる。
心臓がバクバクと音を鳴らし、肺からは荒い息がこぼれ続ける。止まない激痛が脳を揺さぶり、喪失した右腕を見ればショックで気絶してしまいそうになる。
それでも精一杯力を込めて、その身を持ち上げる。
逃げ先ならある。
広場の転移門。先程は何故か利用できなかったが、それが治ってる可能性に賭けてあそこに駆け込みティファレトに転移する。最早それしか道はない。
走れば30秒ほどで届く距離だ。界約による高速移動を使えば、瞬時にあの場所へ辿りつけるであろう。
そう思い、何とか立ち上がろうとしたその時だった。
「これから一つ、遊びをしまーす」
にっこりと笑いながらソラがマクスウェルの背中に声をかけた。
マクスウェルは恐怖に体をビクつかせ、声も出せずにその場で固まってしまう。
「ルールは単純、鬼ごっこ。これから3秒間待つから逃げてみろ。抵抗は自由、時間制限はナシ。逃げれたらお前の勝ち。簡単だろ?」
悪魔が嗤う。愉快そうにけらけらと。
ソラは逃げられたらどうなるかについては提示した。しかし捕まったらどうなる?
ソラの中では目の前の上位者を殺すことは既定路線だ。そして彼はその過程すらも楽しもうとしている。
捕まってしまったのならば、その末路はきっと悲惨なものになるに違いない。
「それじゃあカウント開始な」
マクスウェルはやるとは一言も言っていないが、ソラにはそんなことは関係ない。
ソラは右手の人差し指、中指、薬指を立てて、宣言する。
「3」
マクスウェルは必死に立ち上がろうとするが、うまく体が動かない。
体勢さえ整えられたら逃げられるのだ。界約を使えばすぐなのだ。
それは分かっているというのに、焦燥感が彼の動きを阻害する。
「2」
そうこうしているうちに、ソラが立てた3本指のうち薬指を畳む。
迫りくる恐怖がマクスウェルの焦りを更に加速させ、もたつく足をからめとる。
その足元を見て、マクスウェルは思わず驚愕の声を上げた。
「1」
そこには無数の手が絡みついている。
幼い手、しわくちゃの手、女の手、男の手、黒焦げの手、生焼けの手、手、手、手。
それらがしがみついて、マクスウェルのことを引きずり降ろそうと地に引っ張る。
それはきっと、彼がこれまで蔑んできた者たち。これまで彼が無惨に殺してきた数々のゴミたちのもの。
気づけば辺りには無数の屍が転がっている。そして、そのすべてが彼を見つめて、囁いてくる。
―――おまえも来い、こっちに来い、死んで同じになれ。
勿論、これは幻覚だ。恐怖に駆られたマクスウェルが頭の中で勝手に作り出した空想の産物に過ぎない。
「消えろ……消えろッ!」
足を振り上げようとするが動かない。力を入れた足に伝わる冷たい感触。
絡みつく指が、衣の裾を裂き、靴を引き、皮膚へと食い込む錯覚を与える。
「ぼくは選ばれた存在だぞ……!貴様らとは違う……!」
叫びは虚空に吸われる。屍の瞳は瞬きをしない。ただ、知っている。
彼が命乞いを聞き流した夜を。彼が慈悲を笑った朝を。
彼にゴミと蔑まれた屈辱を。彼に踏みにじられた痛みを。自由を奪われた、その怒りを。
「助け――」
伸ばした手を、誰も取らない。あれほど多くの命を掴み、引きずり、落としてきたその手を。
その目が見開かれたまま、天を仰ぐ。だが空はない。
あるのは、無数の顔。
そして——
「ぜろ」
悪魔の笑み。




