遥かな『自由』へ
「ッ――!!」
その言葉を聞いた瞬間、ソラは目を覚ました。
額に滲んだ大量の汗が流れ落ち、頬にいくつもの筋を作る。
身体を起こそうとするが思ったように手足が動かない。手は震え、足には力が入らない。そして、全身のあちこちからは強烈な痛み。
骨の芯までうずくようなその激痛に顔を歪めつつも、ソラはその痛みを無視して、腹筋に力を入れて上体を起こす。
辺りを見渡せば、立ち並ぶ背の高い樹木が目に入る。どうやら自分はどこかの森の中にでもいるらしい。
「痛っ…」
不意に強烈な痛みが肩口から走る。
痛んだ箇所を見てみれば、そこには包帯が巻かれていて、その白い生地の上に薄く血が滲んでいた。
そこでソラは自身の状態について初めて気が付く。素肌が見えている部分の方が少ないほどに、全身にぐるぐると包帯が巻かれている。
巻かれた包帯のところどころには点々と赤黒い染みが付いていて、その部分からジクジクとした痛みが伝わってくる。
その点の傷は恐らく銃創。マクスウェルに打ち込まれた数発の弾丸は、ソラの体を貫くまでは行かなかったものの、その体に大きな損傷を与えている。
それを見てソラは思い出した。燃える街、金髪の男、そして去っていく少女。
「そうだ、ルキナは…ぐッ!」
急いで立ち上がろうとするが、また激痛。ソラの体は彼自身の意思に反して動かず、力を込めた個所から鋭い痛みが走る。
「クソッ―――」
「動いちゃダメッ!」
それでも立ち上がろうとしたソラを甲高い声が遮った。それはソラにとってみれば聞きなじみのある声で、
「…セナ?」
「ソラ――」
振り返ればそこには水の入った桶を手に持ったセナが立っていた。
冒険者装備の上着を脱ぎ、タンクトップと長いズボンという恰好で、その顔は煤で汚れ、汗で数本の髪の毛が額にへばりついている。
どうやら彼の体に掛けられていた服は彼女のものだったらしい。
「ソラッ!!」
「ぐぇっ」
突如彼女は手に持っていた桶をほっぽりだし、ソラの体に文字通り飛びついた。その衝撃でソラの肺から空気が漏れ出し、変な声が喉から溢れる。
「重、痛ッ」
「よかった…!!死んじゃうんじゃないかって…!!」
「わかった!分かったから離れろ…」
「イヤ!」
抱きしめられた体から伝わる柔らかい体の感触ではなく、彼女に強く締め付けられる体の痛みにソラは悶える。
ソラは腕で彼女の体を押しのけようとするが、彼女はソラの胸に顔を埋めたまま離れようとしない。
「いいから離れろって…」
ソラがそう言っても彼女は彼の胸の中で頭を左右に振り、拒絶の意思を伝えてくる。よく見てみれば彼女の体は震えていて、鼻をすする音も聞こえてくる
胸元から彼女の体温と鼓動を感じながら、ソラは溜息を吐いて、しばらくの間彼女のしたいようにさせることにした。
「…落ち着いたか?」
「…ん」
セナの体の震えが静まったころにソラは声をかけると、彼女は漸くソラの体から離れた。
セナの顔を見てみれば、目元は涙で濡れて赤く充血している。そして鼻からは透明な鼻水があふれていた。
そんな彼女の顔が押し付けられていた胸は汗と涙、そして鼻水でべしょべしょになっていて、ソラはもう一度溜息をついた。
「…とりあえず顔拭けよ。布とか、そこらへんになんか無い」
「チーンッ!!」
「…」
気づけば彼女は傍に置かれていたボロボロの上着で顔を拭きつつ鼻をかんでいた。
それは勿論ソラの上着であり、ソラは何となく悲しい気分になった。
まあもともと損傷も激しかったし、先ほど銃で撃たれたせいで穴だらけ、血まみれになっていたので別にいいかと思い直す。
「ここはどこだ?というかあれからどうなった?」
「…ここはウチの裏山の中。街もスラムも燃えちゃったけど、ここまでは火が回ってきてないみたい。他にもいっぱい逃げてきてる人がいるよ」
言われてみれば山の中からは人々の喧噪が聞こえてくる。スラムの人間達は殆ど死んだかと思っていたが、思った以上に逃げ伸びているようだ。
「あの金髪がどっか行ったのを見て、倒れたアンタをここまで引っ張ってきたの…全然起きないし、ホントに心配したんだから」
「そう、か…」
言いながらぐずりだすセナに向けてなんて言葉をかけるべきかわからず、ソラは言葉を詰まらせた。
そして、まるで昔一緒に生活していた時の関係に戻ったかのような不思議な感覚をソラは感じていた。
ここ数年は会う度に彼女に罵倒されていたが、その毒舌も今はない。泣かれると少し気まずくなるのもかつてと同じだ。
だからソラは当時と同じように、
「…ごめん」
彼女の頭を優しくなでながら謝罪の言葉をかけた。
そうするとセナは鼻をすすりながらまた抱き着いてくる。その華奢で壊れてしまいそうな感触と青い果実のような匂いはかつてと変わらない。この瞬間だけソラは10年前に戻ったかのような気分になった。
暫くそうして彼女をあやしていたソラだったが、そうもしていられないことを思い出す。
「…あれからどれくらいたった?」
「わかんないけど、多分1時間くらいだと思う…」
「1時間…まだ間に合うな」
ソラはそう言って、足に力を込めてよろよろと立ち上がろうとする。ふらつく足元はまるで酔っ払いか老人のようで、誰から見ても満身創痍と言った状態だ。
そんなソラの様子を見てセナは目を剥きながら慌てて声を上げる。
「ちょ、え、動いちゃダメだってッ!」
「…今ならまだ間に合うはずなんだ。早く行かないと」
「は…何する気?」
「ルキナを助ける」
あの男は間違いなく街にある転移門に向っている。
スラムの地理を知らない者が、入り組んだ路地を抜けてあそこまでたどり着くのにはそれなりに時間がかかるはずで、走ればまだ間に合うはずだろう。
「ルキナって…あの白髪女?」
「そうだ、アイツをあの金髪クソ野郎から連れ戻す」
「……はァ!?」
ソラの言っていることが理解できていなかったセナだったが、数秒ほど考えて漸く彼のしようとしていることを理解したらしく大きな声を上げた。
「アンタ何言ってんの!?わざわざ死にに行く気!?」
「別に死ぬと決まったわけじゃないだろ、もしかしたらうまく行くかもしれない」
「はァ!?無理に決まってんでしょッ!!さっき殺されかけたの忘れたの!?」
「覚えてる」
「ならアホってことねッ!…というか、そもそもどうやってアイツの能力を躱してあの白髪女を助け出すのよ。魔術、権限、能力、全部持ってないアンタが!?」
「それは…これから考える」
「じゃあ答えを教えてあげる。答えは"無理"よッ!絶対、ぜええええったい無理!」
「……」
ソラが何かを言う度にセナは強く否定してくる。そして、それに対してソラは返す言葉もない。ぐうの音も出ないほどの正論だ。
確かに彼女の言う通りだ。どうやったってルキナを助け出すのは不可能だ。少なくとも彼自身の理性もそう言っている。
「…そもそもなんで助け出す必要があんのよ?アイツの言ってた感じだとあの白髪女も殺されることはないでしょ?」
「だろうな」
そもそもルキナを殺すことが目的なら既に彼女は殺されていたことだろうし、ソラも死んでいたはずだ。
少なくともマクスウェルにはルキナを殺す意思はないのは間違いない。
「ならあの子のことは忘れなさい。行ったって助け出すことは無理だし、あの子も殺されないだろうし。もしかしたら連れてかれた先で幸せに過ごすかもしれないわよ?」
「…お前、それマジで言ってんのか?」
「マジもマジ、大マジよ。そもそもあんな子、街でもスラムでも見たことないわよ。多分上層の人間なのはアンタもわかってんでしょ?」
「…アイツは記憶がないって言ってた」
「何それ、めちゃくちゃ怪しいじゃない。どうせ上層の人間が気まぐれに家出して、それをあの金髪のクソ野郎が連れ戻しに来たってだけかもしれないわ。というかそれが一番辻褄が合いそうじゃない?」
「そうとは限らないだろ」
「アタシはそう思いなさいって言ってんの。どうせ助け出すことはできないんだから、そう思って忘れなさいって」
「……」
「そもそもあの女が殺されたからって何なの?アンタには関係ないじゃない。赤の他人なんてアンタにとってはどうでもいいんでしょ?」
「……それは」
セナの言うことはいちいち正しい。
彼女の言う通り、ルキナのことをソラは全く知らない。彼女がどこからどうやってイエソドまで来て、どんな人生を生きてきて、どんな人と関わってきたのか。
もしかしたら上層から何らかの理由で逃げてきて、連れ戻されそうになっているというだけかもしれない。その隠れ蓑としてソラは利用されていただけかもしれない。
これから殺されないかもしれないし、殺されるかもしれない。そして、それはソラには関係ない。彼女がこれからどうなろうが、イエソドにいるソラの人生には何の影響も出ないだろう。
全ては可能性で、そしてそのすべての可能性の未来でソラの日常には変化がないだろう。彼女の今後よりは街とスラムが燃えた明日をどう生きるべきかを考えた方がよっぽど建設的だ。
そんなことは分かってる。そうだ分かっているのだ。
――それでも。
「アイツは"自由"になりたいんだと」
「…はぁ?何それ」
「誰にも、何にも縛られない、なんでもしたいことが出来る――そんな風になりたいんだと」
「…だから?」
脳裏に浮かぶのは、粥を食べて泣いたあの顔。
裏山で鳥を見上げたあの横顔。
だからソラの本能が叫ぶ。
「だから助け出すんだ。このクソみたいな世界から抜け出そうとしているアイツを、縛られたアイツを」
「…何で?」
「ムカつくから」
――あの金髪野郎をぶち殺して、自由を求める彼女を助け出せ。
ソラの本能が怒りのままにそう叫ぶ。
誰かを縛ろうとする奴は嫌いだ。そして、誰かに縛られたままのうのうと生きている奴はもっと嫌いだ。そして、そいつらを憎むだけで何もできないカスみたいな自分が一番嫌いだ。
空を飛ぶ鳥を見上げて、ああなれたらいいなと思うだけで何もしない。そんな惨めで、怠惰で、哀れで、無能な自分が一番嫌いだ。
しかしルキナは違った。ソラに"自由"を教えてくれた。ソラに一緒に飛ぼうと誘ってくれた。
誰かの支配を乗り越えて、塔を登った先にあるという"自由"を本当に目指していた。彼女のことは何一つ知らないがそれだけは真実であるとソラは確信していた。
そんな彼女を縛り付けるあの男は――
「ムカつくんだよ――あのクソ野郎が。人を縛って、見下して、踏みつけにしてるあのゴミが」
「…ッ」
セナはこのソラの表情を見たことがあった。
その目は彼女が攫われた時、ソラに憧れたあの日と同じ輝きを放っている。青い瞳に映るのは、見ているだけで身が焼けてしまうほどの、地獄の業火のような憤怒と殺意。
こうなった彼は止められない。かつて自分を助け出した時と同様に、絶対に上位者に立ち向かおうとする。
「殺す、絶対に殺す、死んでも殺す。手足を引きちぎって、ぐちゃぐちゃにしてやる」
最早、彼に静止の言葉は通じない。いくら理性に訴えかけてもこうなったソラは止まらない。セナはそのことを深く理解していた。
だから彼女にできるのは――
『動くな』
「ッ――」
立ち上がり、走り出そうとしていたソラの体が急に動きを止める。いや止められる。
それはセナの界約。近くにいる対象の動きを止める停止の異能。界約も権限も魔術も使えないソラではその力に抗うことはできない。
「お前…!!」
「ごめんね。でも、こうしないとソラは死んじゃうから」
いつもの揶揄うような、どこか小悪魔めいた声色ではなく、無機質な冷たい声が囁くようにセナの口から零れる。
「ねえ、どうしてあの娘を助ける必要があるの?」
凍てつくほど静かな言葉がソラを縫い留める。
「どうして私を置いていこうとするの?」
ソラの体は依然として動かず、その場で立ちすくむのみ。
ソラが怒りを湛えた目でセナを見れば―――
『行かないで』
あの時と同じ言葉がソラの体を縛り付ける。
彼女の顔に浮かんでいたのは――壮絶なまでの"覚悟"だった。
「アタシは他の誰かがどこで死のうが何していようがどうでもいい。あの白髪女だって、生きていても死んでもいてもなんとも思わない。ただ――」
その目に浮かぶ大粒の涙が、彼女の頬を伝って地面に落ちる。
そして、ソラは彼女の両目に映る自分自身の傷だらけの姿を見て、ようやく気付いた。
「ソラが死ぬのだけは嫌」
彼女に会うたびに罵倒されていたのは、嫌われているのだと思っていた。
育ての親を見殺しにした無能なソラのことを許せないからだと、そう考えていた。
でも違った。
「ソラだけはどこにも行っちゃダメ」
彼女はソラが手の届かないどこかへ行くのが嫌だったのだ。
彼が死んでしまわないように、彼が"冒険"をしないように、常に彼に自分自身の無能さを思い出させるように振舞った。
「アタシにはソラだけ。ソラだけいれば後の全てはどうだっていい」
彼女の両手がソラの首の裏に回って、植物の蔓のように絡みつく。
「ソラは遠くに行きたいんでしょ?ここじゃないどこかへ飛んでいきたいって、アンタはいつも鳥を見ながら言ってたよね」
彼女の顔がソラの顔に近づく。彼女の花のようなどこか甘い香りが、ソラの鼻孔に入って脳を擽る。
「アタシね、10層に到達したの。これで漸くイエソドを抜け出せる――」
ソラはセナの界約で動きを止められ身じろぎすることもできずに彼女の顔を見つめることしかできない。
「そしたらまた一緒に暮らそ?こんな世界なんか捨てて、一緒に上に行こ?アンタの望み、全部アタシがかなえてあげる」
セナは、あの時こう思った。ソラはきっと彼女と一緒だと無理をする。あの時セナを助け出そうとしたときのように、無茶な戦いを仕掛けて死ぬかもしれない。
彼女が数年前、ソラの元から離れたのはそのためだ。
ソラにこれ以上危険なことをさせないように、自分一人で塔を登り切るためにソラから離れていた。
そして今、塔の攻略目前、イエソドが崩壊したこの瞬間こそ、彼女にとってのチャンスなのだ。
「ね、ソラ。だから――」
『―――だからどこにも行かないで。ずっとアタシの傍にいて。一生一緒にいてね、アタシだけのヒーロー』
セナはソラの耳元で囁いてソラを誘惑する。彼女の柔らかな体が蛇のようにソラの体に纏わりついて――
そしてソラは、
「――気持ち悪い」
端的に一言そう返した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「…え?」
セナが困惑の声を上げる。それはソラの返答の内容に対するものではない。
ソラが彼女の界約の影響下で口を動かしているという状況そのものに対して、彼女は驚愕していた。
「気持ち悪いんだよ、その考えが」
ソラは心底不快とでもいうかのようにそう吐き捨てた。
「ああ、なるほど。ようやくわかった。最近のお前がどうしても鬱陶しいと思っていた理由が」
彼女の目が動揺に揺れるのも無視して、ソラは滔々と語り続ける。
「どこにも行くな、か。そうか、お前は俺を縛ろうとしていたんだな」
それはソラにとっての逆鱗。セナは無自覚にもそれを踏みにじっていた。
何処にも行かないで――彼女のそのたった一つの願いは、ソラの本質と完全に相反するものだった。
「俺は俺のしたいことをする。お前にかなえてもらう必要なんてない」
ソラは両手でセナの肩を押して、彼女の体を遠ざける。
「な、なんで…!?」
気づけば体が動くようになっている。何故かはソラにも全く分からないが、彼はその状況を自然と受け入れた。それに対して、セナは目の前の事象が理解できずに愕然としていた。
彼女は今この瞬間も界約を解いてはいない。それなのになぜかソラは動き続けている。
「俺は俺を縛ろうとする奴を絶対に許さない」
溢れ出す怒りがソラの口から言葉を紡いでいく。
ソラ自身、何故自分がここまで激怒しているのかはわからない。
ただ許せない。人を縛るもの全てに腹が立つ。それがものであれ、人であれ、そして肉親だったとしても。
「次にやったらお前でも殺す」
「…っ」
ソラの目に憤怒と殺意の炎が灯る。その眼光がセナの体をとらえて射抜く。自身に向けられたその極大の感情にセナは身をすくめて息を呑む。
しかし、それも一瞬のこと。ソラはすぐに彼女ではなく別の方角を見る。それは勿論、塔の方向。ひいてはルキナが連れ去られたであろう街の転移門の方角だ。
「よし――行くか」
ソラは両足に力を籠める。全身に走る痛みは続いており動くのも一苦労で、体中から脂汗が止まらない。そんな満身創痍の状態なことは変わっていない。
しかし、彼の中から湧き上がる怒りの感情が彼に走れと訴えかけ続ける。
「今の俺の望みは――あのゴミをぶち殺して、ルキナを助ける。ただそれだけだ」
「ソラっ!!」
セナの声がソラの背中にかかる。しかしそれは足を止める理由にならない。
「じゃあな」
ソラは一言そう呟いて、右足を大きく踏み出す。
「待っ――」
動かないで、止まって、置いていかないで――その願いが具象化した彼女の界約はもはや機能していない。
体の動きを止めようと彼の体に纏わりついた異能の力から、ソラはするりと抜け出し地面を蹴りだす。
走り出したソラの背中に向けて、セナは慌てて手を伸ばすが、その手はソラに届かず空を切る。
何処にも行かないでという彼女の願いとは裏腹に、暗い山道を全力で駆けていくソラの後ろ姿を、セナは呆然として見つめることしかできない。
彼女の手の中から飛び立っていくソラの姿は、まるで空を飛翔するあの鳥たちのようで。
地を這う彼女はただその姿を遠目に眺めることしかできない。
「そっか」
その時セナは漸く気が付いた。
「だから、アタシの力は――」
いつか羽ばたき、どこかへ飛んで行ってしまうソラに向って、どうかどこにも行かないでと、両翼を縛り付ける鎖。
あの空を舞う鳥に、いつまでもここにいてと、その体を大地に押さえつけるための祈り。
それこそがあの時、彼女が祈った願いの本質で、それゆえに彼女の界約は停止の力を得たのだろう。
ソラという鳥がどこかへ行ってしまわないための鳥かご。
「ああ――」
そしてそれ故に彼女の手はソラに届かない。
何故なら彼女には翼がない。重力に縛られた彼女では、飛び去って行くソラに追いつくことはできない。
一度鳥かごから解き放たれれば二度と戻ってくることはない。
―――あなたじゃ彼の鳥かごにはなれない。
白髪の少女に言われた言葉を思い出す。
「やっぱり飛んでっちゃうんだ」
そんな言葉を口からこぼしながら、セナは過ぎ去るソラの背中をその目でどこまでも追いかけ続けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『よくやった――』
ソラは荒い砂利道を走り抜けながら、アベルの最後の言葉を思い出す。
セナが界約に目覚めて上位者を殺した後、ソラとセナは這う這うの体で拠点に戻った。
そこには顔が真っ青の、壁にもたれかかって座り込む彼らの育ての親の姿があった。
辛そうに薄く目を開けた彼は、ボロボロのソラとセナの姿を見て、小さくそう呟いた。
『ソラ』
そして泣きながら自身の体にしがみつくセナを震える手で抱き留めながら、
『後は任せた』
ソラに向ってそう言って、彼はこの世を去った。
そのあとから、ソラの世界の全ては色あせた。
いや、正確に言えば既に色がなかった世界に漸く気づくようになったということなのだろうか。
親の亡骸を裏山に埋めてからというもの、変わらない日々を漫然と過ごした。
そのうち暫くしてセナは家を飛び出し一人で塔を攻略するようになった。界約の目覚めた彼女にとっては塔の攻略も簡単だったようで、瞬く間にソラの最大到達階層すら飛び越え一級の冒険者の仲間入りを果たした。
目的はきっと、安全な場所でソラと暮らすこと。上層に支配されるこの階層から抜け出して、別の世界でソラとまた一緒になることだったのだろう。
反対に、ソラは一人、彼らの拠点だったところでいつも通りの生活を続けた。
いつものように安全な場所で手頃な狩りだけ行って、いつもの帰り道を抜けて、いつもの拠点に戻ってくる。それまでとの違いは傍にいた老人と少女が消えたこと。
気が付けば、ソラの心は死んでいた。そして死んだように生きてきた。
目的もなく繰り返される日々の中、最底階層の最底辺の存在として、ただ生きる。
塔の攻略をする心も折れ、いつしか向上心も消えて、怒りと諦観だけで頭の中が埋め尽くされ、そして目に映る世界の全てが嫌いになった。
街のおこぼれで生きているだけのスラムの人間は嫌い。上層にこびへつらうだけの街の人間は更に嫌い。他者の上に立って、人を縛ろうとする上層の人間はさらにさらに嫌いで、何よりも何もできない自分が一番嫌い。
ソラはそんな厭世と自己嫌悪というナイフで、乾いた心をズタズタに切り裂きながら日々を生きてきた。
そう、ルキナに会うまでは。
諦めていた人生に「もしかしたら」という可能性が生まれたのだ。
彼女の語る『自由』は諦めで埋め尽くされたソラの視界に希望という名の色を加えた。彼女と一緒に塔を登って『自由』を掴み取るという夢のような未来が、ソラの心を潤した。
たとえその希望がどれだけか細く、実現性のないものだったとしても、ソラは間違いなく救われたのだ。
だからこそソラは走る。
諦めていた人生に生まれた可能性を摘み取らないためにひた走る。
「――ははっ」
ソラの顔に自然な笑みが生まれる。
この道の先には死が待っている。あの上層の悪魔に追いついたとして、どうすればルキナを助け出せるのかわからない。魔術、界約、権限、何一つ持たないソラには万が一にも勝ち目はないだろう。
そんなことはソラもとっくに理解している。だというのに、心の奥底から笑いがこみあげてくるのだ。
何故なら――
「これが俺の『自由』か」
家族とか、スラムとか、街とか、上層とか、理性とか、理屈とか、そういったすべてを無視して、真に己の心の欲することをする。
そんな生涯初めての『自由』をソラは味わっていたから。




