蒼炎の悪魔②
「能力は二つ――一つは炎、もう一つは動きを止める界約」
「了解」
ソラは走りながら、現在判明している情報を端的に共有する。
しかし共有したはいいものの、どうするべきかは定まっていない。現状のままではマクスウェルを殺すことは不可能ということは彼らもわかっている。
最初の問題は視認されたままだと権限が使われるということだろう。煙に紛れ、常に奴の視線から外れるように動きながら、懐に飛び込む必要がある。
だが、その次の問題、いかに界約を突破するかが鬼門となっている。先ほどの強襲もいとも容易く防がれたところを見るに、マクスウェルの界約は視界外の行動も停止させられる凶悪なシロモノに違いない。
効果範囲は奴の周囲2mといったところか、その中にあるものの動きを停止させるという能力であるなら、単純な切る、突く、叩く、殴るといった攻撃は絶対に通らない。
「じゃあ、どうやって殺せばいい――」
ソラは自身に問いかける。頭の中の殺意はその答えを教えてはくれない。そして、理性はただただ逃げろと伝えてくるだけだ。
なんとも役に立たない自分の精神に嫌気がさしたその時だった。
「簡単」
ルキナが一言呟いた。
「止められないものを使えばいい」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「どこだ!?どこにいる!?」
大声でわめいているのは、煙の中で標的を見失ったマクスウェルだ。
自身が騒いでいることで、己の位置を相手に伝えていることに気づいていない程度には彼は愚かで、更に言えば戦闘というものに対する経験にも乏しかった。
騎士団副団長という肩書とは裏腹に、剣の腕前だとか、体術だとか、戦術だとか、戦略だとか、そういった一切を彼は持っていない。
何故ならば彼にとっての戦闘とは非常に単純な作業だ。とにかく魔術で敵を燃やせばいいだけ。彼の持つ蒼炎の魔術は対生物に極めて有効な上、いくら攻撃されようが彼の界約はそれらを全て無効化する。そういったものを鍛錬する必要性がなかったのだ。
故に、こういった状況に対する対処法を彼が知るわけもなく、閉ざされた視界に苛立ち、その感情を振り回して辺りに怒鳴り声を響かせることしか彼にはできない
「虫けらが――姿を現せッ!」
「おらよ」
もくもくと立ち込める煙に向ってマクスウェルがそう叫んだ直後、横合いから涼し気な声が響いた。
その瞬間、斧を振りかぶったソラが煙の中から現れ、マクスウェルに向って思いっきり振り下ろした。
「は⁉」
「チッ――やっぱ無理か」
勿論、その斧が届くことはない。
振り下ろされた斧はマクスウェルに届く前に静止して、それ以上どれだけ力を籠めようと動くことはない。
「貴様…ッ!!【燃え――】」
そして、目の前に現れたソラのことをマクスウェルが逃がすはずもない。動きの止まったソラに向って魔術を起動しようとする。
だがしかし、
「じゃあな、ゴミ野郎」
ソラはそんなマクスウェルのことを鼻で笑いながら、瞬時に先ほどと同じように後方に広がる煙へと飛び込み、マクスウェルの視界外へと消えていった。
「―――」
取り残されたマクスウェルは一瞬呆然としたのち、
「アあああああぁぁぁあ嗚呼あああああッ!!」
突如として、その場で怒りの叫び声をあげた。
彼の端正な顔には青筋が浮かび、その目は怒りで充血している。
彼にとって、下層の人間達はゴミや虫、家畜に等しい。そんな者から命を狙われ、そして思い通りに殺せず、挙句の果てには鼻で笑われる。
当然、そんなことは天に向かって伸びる塔のように高い彼のプライドが許すはずもないし、ましてや彼の情緒はそれを堪えることが出来るほど成熟していない。
「許さない」
ひとしきり絶叫を終えた、マクスウェルがポツリと呟いた、その直後、
「許さない―――許さない許さない許さないィいいいいいぃいいッ!!下層のゴミがッ!!この僕を愚弄するかァぁぁっぁああ!!」
彼は再び天に向って叫ぶ。
その目は怒りに燃えて、むき出しの歯が唾液の糸を引く。
怒りのままに頭を病的な勢いで掻きむしり、その結果艶やかな金髪が乱れて、まるで幽鬼のような見た目へ変貌する。
「逃がすものかッ!!手足をもいで、生きたまま燃やして地獄を味合わせてやるッ!!」
その宣言の直後、マクスウェルはソラが消えた煙の中に向って全力で走り出す。
そして、それがソラの狙い通りの結果であることにマクスウェルは一切気づくことはなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ソラは動いては一撃、逃げては挑発を繰り返した。
「どうした?さっきから何もできてねえな」
「さっさと魔術だろうが権限だろうが当ててみろよ」
「上層の人間ってこんなに頭わりい奴もいるんだな」
そのたびマクスウェルは激怒したが、煙の中ではソラを捉えられない。
最早、マクスウェルの頭の中からルキナという少女を捕まえるという任務のことは消え失せて、目の前にいる下層のゴミを殺すことしか考えられない。
「がッ…はぁ、はぁ…こ、殺す…ッ、殺してやるぞ…ッ!!」
久方ぶりの全力疾走と極度の怒りが相まって過呼吸状態となった彼は、息を切らしてその殺意を口に出すことしかできない。
そして荒い息を上げながら顔を上げると――気づけば前方にソラが無防備な状態で立っていた。
「き、貴様――」
「おら、目の前に来てやったぞ?」
気楽な調子でソラは言う。その口調には皮肉をたっぷりと混ぜて、口角を上げてマクスウェルを嘲りながらソラは続ける。
「殺したいんだろ?吠えてないでさっさとやってみろよ、」
そこで一呼吸溜めて、
「口だけの犬が」
マクスウェルに向って最大級の侮蔑の言葉を放った。
――汚らわしい下賤の犬が。
マクスウェルは、かつて彼の兄弟から放たれたそんな言葉を思い出す――いや、思い出させられた。
このスラムを見たときに溢れてきたものと同様の、忌まわしき記憶の数々が再び彼の頭の中を駆け巡る。
犬。かつていた兄弟たちは彼に向ってそう言った。
「やめろ」
下賤な身の上の母は家畜小屋のような離れで死んだ。父はそんな母のことを気にも留めなかった。
「やめろやめろ」
彼の兄弟たちはこぞって彼を虐げた。言葉だけでなく、時には木剣で彼のことを袋叩きにもした。
そしてある時、長兄は習いたての炎の魔術で彼を燃やそうとして―――
「やめろォおおおオオオおおおおおおおおおおおおおおおおオオオ!!」
その記憶を遮るかのようにマクスウェルは叫びながら目の前のソラに向って走り出す。その顔には怒りだけでなく、恐怖、あるいは焦燥といったものが浮かんでいる。
いつしか煙は晴れ、その目は確とソラを認識している。だが、その感情たちが彼の目と頭を曇らせた。
権限か魔術を使えば事は済むはずだ。それなのに、もはやそのことにすら思い至らないほど、彼は過去の記憶に追い詰められていた。
――なんだコイツ?
その鬼気迫る様子のマクスウェルを見ながら、ソラは怪訝な表情を浮かべる。それはそうだ、彼からすれば煙も晴れた状況で権限も魔術も使わずに突進してくるのだから訳が分からないだろう。
だが、その状況は願ったりかなったりだ。
マクスウェルは気づいていない。
煽られて追いかけさせられた結果、自身がどんな場所にいるのか。そして、もう一人の少女がどこにいるのか。そして――自身がとうに罠の中に落ちていることに。
「それじゃあ」
走り来るマクスウェルに向ってソラは言う。
「死ね」
ソラがそう吐き捨てた直後、マクスウェルの傍で青く燃え盛っていたソラの拠点が音を立てて崩れ落ちた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「物の動きは止められても、炎を止めることはできないはず」
先程、煙の中で走りながらルキナはそう言った。
「…炎でアイツを燃やすってことか?だけど、どうやる?俺たちじゃあアイツみたいに炎を起こすことはできないしな」
「炎を起こす必要はない」
「…どういうことだ?」
「もう燃えてるものでアレを囲えばいい」
そういってルキナは煙の中からでもうっすらと見える、燃えた拠点を指さした。
なるほど、彼女の狙いは奴を直接燃やすことではなくて、炎の中に奴を閉じ込めることだろう。
つまり、
「――あそこに閉じ込めるのか」
「ちょっと違う」
そんな単純な考えを呟いたソラに対して、ルキナはそれを短く否定した。
確かに拠点の中に閉じ込めるというのは無理がある。いくら何でももう燃えてる家屋の中に自分から飛び込んでくるものはいないだろう。
マクスウェルを家屋の中に誘導するのではなく――
「あれに向って落とす」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
壁のひび割れが生き物のように走り、煤と粉じんがぱらぱらと頭上から降ってくる。
天井の梁が悲鳴を上げるようにしなり、限界を悟ったかのように折れる。
裂け目から白い砂煙とむせ返るような黒煙が舞い上がる。その向こうで石と木材が崩れ落ちる轟音が連続して響いた。
そして――ついにガラガラと音を立てて、彼らの拠点は崩壊しだした。
「なッ…!!」
負の感情に頭を支配されていたマクスウェルも、自身の真横で建物が崩壊すれば流石に気が付く。怒りで震える唇からも、思わず驚愕の言葉が漏れ出る。
所詮スラムに建てられたボロ家だが、それでもソラの育ての親が自ら作った小屋の大きさはそれなりのものだ。それこそ、倒壊すれば家の前の道くらい軽く覆い隠す程度には。
つまり――そんな道のど真ん中にいるマクスウェルは、その時点で燃える拠点に巻き込まれることが確定していた。
ソラとルキナの作戦は極めて単純なものだ。
ルキナは煙に紛れて身を隠しつつ、拠点を支える支柱を壊していく。拠点を構成するそれらは燃えていることもあり耐久性は減少し、かつルキナの界約で軽くすることで簡単に破壊が可能だった。
その間、ソラは煙を使ってヒットアンドアウェイを繰り返し、時間を稼ぎながら、マクスウェルを拠点のすぐ近くまで誘導する。
そして、絶好のタイミングでソラは姿を現して相手の気を逸らし、ルキナは拠点を全力で蹴り飛ばして、狙った方向へ倒壊させる。
瓦礫は止められても、炎自体、そして熱というのは止められないだろう。
ルキナが狙っていたのはそこだった。正確に言うと彼女にはもう一個の狙いがあったが、基本的にはその通り。
燃え盛る家屋ごと倒壊させ、瓦礫でマクスウェルの周囲を塞ぐ。
即ち蒸し焼き、ということだ。
即興の作戦。コミュニケーションもなし。それでも連携は、狙い通りに機能していた。
炭化し、崩れた柱が床に激突し、細かな破片が爆ぜるように飛び散った。
空気そのものが揺さぶられ、腹の底に響く重い振動が押し寄せる。
巨大な獣が咆哮するような音とともに、建物は一気に崩れ落ちていく。
木、石、煤、灰が混じった連続的な破砕音が耳をつんざき、視界は舞い上がる粉塵と黒煙で染まり、晴れたはずの煙がまた周囲を満たした。
地面に衝突するたび、破片が跳ね、さらに新たな瓦礫が滑り落ちて連鎖するように倒壊していく。
そして音が止み、ソラの視界が晴れたとき――彼の目の前には燃える瓦礫の山があるのみだった。
彼らが10数年間過ごしてきた拠点は消え失せて、それらは全てマクスウェルを殺すための武器として使われた。
後悔はない。
マクスウェルを殺すためにはこうするしかなかった。それでも視線はしばらく瓦礫の山に留まった。
「やったった」
気づけば隣にはルキナがいる。ムフンと鼻息を上げながらそういう彼女は無表情ながらもどこか誇らしげだ。
しかし、よく見ればその手足にはいくつかの火傷の跡がある。燃え盛る拠点の中で支柱を壊していたのだ。そうなるのも仕方がないだろう。
「あー…よくやった」
「もっと褒めるがよい」
「…最高のタイミングだった。流石だよ」
「むふー」
火傷の痛みもあるだろうにそれを感じさせないおちゃらけた雰囲気のルキナに、ソラは呆れつつも称賛の言葉を放った。
少なくとも彼女が居なければ確実にソラは死んでいたし、マクスウェルを打倒することもできなかっただろう。それは紛れもない事実である。
ルキナの満足げな表情にソラは苦笑しつつも、
「ありがとう、おかげでアイツを殺せた――」
そう言った瞬間だった。
[動くな]
どこかからそんな声が響いた。直後、ソラの体がまるで石になってしまったかのように動かなくなる。
「な――」
ソラが驚きの声が上げると同時に、パンと乾いた音が鳴って――ソラの肩口に小さな穴が開いた。
「がッ…!?」
「ソラッ!!」
肩が焼けるように熱い。溢れ出す赤い血液すらも生ぬるく感じてしまうほどに傷口が熱を持っている。穴の開いた肩を手で押さえようとするが、その手は全く動かない。
そんなソラに向って、ルキナはいつも冷静な彼女らしからぬ悲痛な声を上げる。
だが、ソラはそのことに構っている余裕はなかった。彼の視線は眼前の脅威に向けられていた。
目の前の瓦礫の山の中から2つの青い光が覗いている。そしてその光はソラも数回見たことがあるものであった。
「権限…ッ!!」
それは視認した対象に向って命令を下すことが出来る上位者の特権。すなわち、"権限"の発動に伴う瞳の発光現象に他ならない。
つまり――マクスウェルの権限が執行されたということを意味していた。
「こんな程度で私が死ぬとでも思っていたのかい?」
瓦礫の山の中からそんな声が聞こえてくる。
直後、瓦礫の山が動き出し――
「――な、んだそれ」
目の前に広がる異様な光景に、ソラはそんな言葉を口に出すことしかできなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それは球状の形をしていた。いや、形があると視認をすることはできないため、恐らくそうであろうとしか言えない。
何が言いたいかというと――結論、それは見えない壁だ。マクスウェルを中心とした球状の見えない壁があるかのように、瓦礫と炎がマクスウェルを避けていた。
「これが私の界約だよ」
マクスウェルが歩くたび、その壁も移動するかのように瓦礫と炎を退かしていく。
しかも炎の熱すらマクスウェルに届いていないようで、マクスウェルは涼し気な表情すら浮かべていた。
そしてその事象を見るにあたってようやくソラは理解した。
先程からマクスウェルへ攻撃をした際に、動きが止まったように感じたがそれは違った。恐らくあの見えない壁のせいで攻撃が止められただけだったのだ。
そう考えると、マクスウェルは近くの敵に対しても大きな火柱が立つような魔術を使っていた。一歩間違えればその炎に自身が巻き込まれるかもしれないのに、そんなものを使うのはおかしいと気づくべきだった。
――つまりマクスウェルの界約は「動きを止める能力」ではない。
「界約…イエソド程度の教育レベルでは知らないかもしれないが、こういった能力はそう呼ばれていてね。他がどうかは知らないが、ティファレトでは個々の能力に王が自ら名をつけられる」
先程まで怒りに我を忘れていたはずのマクスウェルは、自身の生命が脅かされたことにより冷静さを取り戻していた。
そこにはいつものような芝居がかった態度はなく、ただ淡々と無表情で言葉を紡いでいく。
「〈痛苦を焦がせ悪魔の法則〉―――私の界約はそう呼ばれている」
彼の周囲にある炎も瓦礫も、決して彼を傷つけることはない。
蒼炎の悪魔が支配する領域において、その身に痛みを与えることはできない。
「その力は、簡単に言うと『傷害事象の禁止』。私を傷つけうるものすべてを私の周囲で禁止する――いや正確には私の周囲の空間に、私を傷つけることが出来なくなるというルールを追加するというのが適切だろうね」
先程からソラとルキナの攻撃が通らなかったのは、マクスウェルの周囲に付与されたそのルールが原因だろう。傷つけることが出来ないという界約に従って、ソラとルキナの体は彼への攻撃を勝手に止めてしまったということだ。
そしてその界約の対象範囲は人からの攻撃にとどまらない。傷つけることが出来なくなるというルールを空間そのものに付与する以上、炎や熱、雷等どんなの自然現象であっても彼を害することはできない。
「ふざ、けんなよ…ッ」
「ふざけてなどいないが、まあそう思うのも無理はない。極論、この界約がある限り、私を傷つけることは不可能だ」
つまり、無敵だ。彼を害するものは界約に阻まれ、殺すことどころか傷一つもつけることはできないだろう。
ゆっくりと歩きながら、マクスウェルは右手に持っていた長い鉄製の筒を構える。その筒の先からは白い煙が上がっていた。
外面に掘られた幾何学的な模様は、それが魔術的な加工を施された何らかの道具であることを意味している。
そして、その筒の先をソラに向けながら左手で真ん中を支えて、右手は取っ手のようなものを握りしめ――引き金を引いた。
またしても音が鳴って、直後、今後はソラの左腿に小さな穴が開いた。
「ぐッ…あぁッ…!!」
ソラの口から苦痛の声が漏れ出て、思わずソラは崩れ落ちそうになるが、マクスウェルの権限が彼の体が倒れることを許さない。
どうやら何かが大きな血管を貫いたようだ。太ももから出る血の量は肩口から漏れ出るそれよりはるかに多い。
ソラが上げる苦しみの声を聴きながら、マクスウェルは少しの喜びを混ぜた声色でひとりごつ。
「ホド製の魔導銃――下層のゴミが作ったにしては良いシロモノだ。狙ったところに正確に飛んでくれる」
マクスウェルはソラ達に向って静かに語り掛ける。
「楽には殺さないさ」
そもそも殺すことが目的であれば、権限だろうが魔術であろうが使えばいいのだ。
権限で縛られている上に、銃弾で風穴をあけられているソラはもはや動くことすらできない。自死の命令でも、蒼炎の魔術でも、使ってしまえばソラの命は絶えるだろう。
だがそうしないのは、ソラのことを苦しめるためだ。
「クソッ…」
ソラは荒い息を吐きながら、吐き捨てる。
マクスウェルの界約を突破することは、最初から不可能だったのだ。勝てるかもという可能性と己のうちから湧いてくる怒りに任せて、逃げるという選択肢を放棄してしまった。
だが、そんなことへの後悔よりもソラの中にあるのは―――己への失望だった。
所詮、彼は下層生まれの、それ以上でもそれ以下でもない人間。特別な能力も持たない、上の人間から見れば家畜に等しい存在。それこそがソラだ。
ソラがそのことを思い出した時には、気づけばマクスウェルは目の前にいた。
彼は右足を後ろに引いて、
「この…ゴミムシがッ!!」
全力でソラの腹部に向けて蹴りこんだ。足先が鳩尾にめり込み、それと同時にソラの肺から空気が漏れる。
「このッ!!下層のブタ風情がッ!!僕に盾突くッ!!なッ!!」
一発では気が済まないらしいマクスウェルは顔を真っ赤に染めながら、繰り返し繰り返し無防備なソラを蹴り続ける。
怒声は高く、裏返っている。威厳などない。その様はただ、自分より下がいると確認したい子供の癇癪のようだった。
やがて彼は荒い呼吸を繰り返しながら足を止める。
その足元には、二つの銃創から大量の血を流し続け、顔を真っ青に染めたソラの体が横たわっていた。
しかし、その瞳には未だ怒りが映る。ここまで一方的に虐げられてなお、その目は死んではいなかった。
その目に射すくめられたマクスウェルは、先ほどの脅威、いや恐怖を思い出して、冷や水をかけられたかのように冷静さを取り戻す。
荒い息を整えながら右手に持ったままの銃を両手で持ち直し、
「…これで終わりだ」
そう呟いて、ソラに向って銃を突きつけた。
あふれ出る血が、灰で塗れた地面を赤く染め上げている。どうやら血を流し過ぎたようでもはや意識がもちそうにもない。
つまりはここで終焉。
薄汚いスラムの人間が、一か八かで上位者に挑み、あっけもなく死ぬ。この世界ではありふれたテンプレートの死に方の一つ。
世界に何も残せず、影響も与えずに無様に消える。そんな当たり前の死に様。
それでもソラは、
「だ、から…どうした…!?」
マクスウェルを睨み続けた。
その身は権限に縛られ、動くことはできず、目の前の上位者を殴りつけることもできない。
自身に対する無力感、怒り、失望は依然として彼の中で暴れ狂っている。それでもマクスウェルへの怒りがあふれてやまないのだ。
その怒りが、彼に気絶することを許さない。暗くなる視界の中、最後の最後まで、目の前の男に向って殺意を放ち続ける。
――いつか、必ず。
もう言葉を発することもできないソラは、それでも銃口を睨みつけながら、心の中でそう誓った。
それはあの時と同じ誓い。ルキナに助けられたあの時に叫んだ祈りと同じもの。だが、それはもう叶わない。
そして、マクスウェルの指が銃の引き金にかかり――
「待った」
そんな中、ソラとマクスウェルの間に入る人間がいた。
もちろん、この場においてそれができるのは一人しかいない――ルキナだ。
「…退いてくれませんか、麗しき姫君。私はあなたを傷つけたくはないのです」
「そう。なら良かった」
「何を――」
言っている。そう口にしようとしたマクスウェルは、彼の魔導銃の銃口をルキナが、自身の頭に目掛けて固定したのを見て絶句した。
「ソラを殺すなら私も死ぬ」
「…何を馬鹿な」
「この状況を見てもそう言える?」
右手で銃口を額に固定し、左手に持った短剣は自身の首筋にピタリと当てている。
そして、その左手を首に沿ってすっと引き、自身の首から流れる一筋の赤い血をマクスウェルに見せつけた。
「おいッ!」
マクスウェルの目が青く光る。彼はうろたえつつも権限を使ってルキナの行動を止めようとする。
ルキナの左手の動きは止まらない。赤いラインが真横に伸びていき、血のしずくがルキナの白い肌に後を残す。
やがてその切っ先がツプリと傷口に差し込まれ――
[わかった、わかったからやめろッ!]
「……ッ」
マクスウェルの権限の行使が間に合う。彼の両目が輝くと同時にルキナの体全体に強制的な動作停止命令が下る。
「くそっ……死が怖くないのか……!?」
漸く動きを止めたルキナを見て、マクスウェルは冷や汗をかきながら呟く。
そして、マクスウェルは少し考える。
彼女の体は権限により動きを止められている。ということは今は自殺される恐れもないため、足元のゴミを殺すことも可能だ。
だが、彼女の目の前で殺したとあれば、今後、彼女が自由になった瞬間に自殺される恐れがある。
それは拙い。王からはこの少女を丁重に扱うように申し付けられている。
もし王に引き渡した直後に死なれでもしたら、その責任を取らされることは間違いない。
別にこのゴミを殺すのはいつでもできる。彼の家格と身分、財産があれば、殺し屋等いくらでも雇えるし、部下に命令するだけでも良い。
ならば今この場で殺すのは賢い選択とは言えない。
「…不本意だがッ!!…そのゴミを殺すことはやめてあげましょう」
「そう」
マクスウェルは怒りをグッとこらえるように唇の端を上の歯で噛み、血走った目でソラのことを見ながら、呻くようにそう言った。
それに対してルキナは冷めた声で頷く。
「だがあなたには――」
「わかっている。私はそちらに着いていく。その代わりに、これ以上ソラを傷つけることは辞めて」
「…いいでしょう。契約成立だ」
マクスウェルはパチンと指を鳴らす。
その瞬間ソラを縛っていた権限が解かれ、ソラの体が地面に崩れ落ちそうになる。同時に権限が解かれたルキナがそんな彼の体を支えて、そっと地面に横たえる。
そして、ルキナの口元がソラの耳元に近づく。
「ごめんなさい。こうなったのは全て私のせい」
その口から零れるのは謝罪の言葉。
待て、とソラは声に出そうとするが、喉が言うことを聞かず、形にならない呻き声だけが小さく漏れ出る。
朦朧とする意識の中、ソラは自身が関与できないところで話が進んでいっていることだけは理解していた。
視界に満ちる闇がどんどん濃くなり、極限の怒りで保っていた、意識を繋ぐ綱がちぎれかけているのを感じる。
「それじゃあ―――」
ルキナは立ち上がり、ソラに向けて背を向ける。
そして、
「またね」
そういって寂しげな笑みを浮かべながら、マクスウェルの方へ歩いていく。
――待てよ。行くな。
言葉にならないそれらを、無言のうちで叫びつつ、ソラは手を伸ばす。
だが、その手はルキナに届かず空を切り。
ソラの意識はそこでプツリと途絶えた。




