蒼炎の悪魔①
【階層世界イエソド――スラム入り口】
「なんだここは…」
豪奢な服に身を包んだ、金髪の美丈夫――マクスウェルが周りを見て呟く。
彼の背後には燃え盛る炎と爆ぜた建物、そして燃え盛る死体が列をなしている。
それはまるで轍のように、彼がここに来るまで何をしてきたのかを雄弁と語っていた。
そんな彼が目の前に広がる光景を見て絶句する。
それはイエソドでは当たり前の光景。薄汚れたスラムの住民たちがボロボロの建物の中で生活をしている。
彼からしてみれば街側も貧相で見るに堪えないものだったが、こちらはもはや常軌を逸している。
「おぇえッ」
辺りから漂う饐えたような異臭と糞尿の匂いが鼻をつき、彼はえづかずにはいられなかった。
その瞬間、彼の脳裏には自身の過去の光景がフラッシュバックする。
――妾の母。
――家畜小屋。
――嗤う兄弟たち。
――そして、炎。
「――清めなければ」
彼は一言、口の中で小さく呟いた。
「清めなければ、浄化しなければ、祓わなければ――燃やさなければッ!!」
マクスウェルは両手で頭を掻きむしりながら一人叫ぶ。手には力がこもり、整えられた長い爪が頭皮を裂いてしまいそうになる。だが、そんなことを彼は気にしない。
その声には怨念が籠り、どす黒く、粘ついた暗い感情が彼の体から溢れ出している。
彼は血走った目で前方に広がるスラム街を睨みつけているが、もしかするとその視線の先にあるのは目の前のスラムではなく、思い出したくない己の過去なのかもしれない。
「汚らわしい、下賤な下層のケダモノどもをッ!!汚されたこの世界をッ!!燃やし、清め尽くさなければッ!!」
最早、彼の頭からは任務の事はすっかり無くなっていた。
今、彼の中にあるのは、目の前の"忌まわしき過去"を葬り去ることだけ。
「私は――僕は違う」
彼は一人呟く。その言葉を聞く人間は誰もいない。
周囲にいる人間は突如として現れた上層の人間らしきマクスウェルを恐れ、とっくのとうに彼の前から逃げ出している。
「僕は、お前らとは違う。僕は強い。僕は美しい。僕は――高貴だ」
それはきっと彼のトラウマなのだろう。自身に対して言い聞かせるように、自身を褒めたたえるその言葉はどこか空虚で幼稚だ。
その呟きに狂気が満ち始めたその時――
「いたぞッ!!」
不意に彼の背後から大きな声が上がる。
路地の奥から、鎖帷子の擦れる音と革靴の踏み鳴らす音が、次々と響き始める。
重なり合ったその音は、あっという間にマクスウェルを取り囲み――気づけば十数人の男たちが彼を包囲していた。
通りの両端には、屈強な体格の男たちがずらりと立ち並んでいる。
粗削りな鎧、手製の槍、しかしその目は素人のそれではない。
恐怖と怒りが入り混じった光を宿し、まるで獲物を追い詰めた猟犬のように彼を見据えている。
背後にも影が動く。屋根の上にも、人影。
気づけば、逃げ道は一つとして残されていない。
彼らはイエソドの自警団。
街側の冒険者たちで構成された彼らは、このイエソドにおける唯一の治安機関であり、街の秩序を保つための存在である。
そんな彼らがマクスウェルを取り囲む。目的は勿論、彼の確保、もしくは殺害。
「あなたがこの大火災の仕立て人だということは分かっているっ!」
「大人しく投降してくださいッ!!」
「さもなければ、上層の人間といえど容赦はしないッ!!」
彼らは口々にそんなことをマクスウェルに向って叫ぶ。
もちろん、彼らはイエソドの人間であるため、マクスウェルが権限によって自害を命令すれば、即座に死んでしまうだろう。
だが、権限の及ぶ範囲は、彼の視界に入っている人間に限定される。たとえ目の前の数人を権限で殺そうとも、背後の者たちから一斉に襲われればひとたまりもない。
故に自警団は彼のことを円状に取り囲んで視界に入る人数を限定し、かつ建物の屋根の上などにも数人が隠れ潜んでいた。
それに彼らは全員が冒険者。しかもその実力はイエソドの中でも指折りだ。
いくら上層の人間といえど、ここまで完全な状態で囲まれれば何も出来はしまい。
――そのはずだった。
「――るさい」
「何を言って――」
「うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいッ!!この僕に雑音聞かせるなあああアァぁああ!!」
マクスウェルがそう叫んだ瞬間、ぼおっと轟音が響き渡る。
それは燃え盛る炎の音。
すなわち――マクスウェルの前方に展開していた自警団の面々が一斉に青い炎に包まれた音だ。
「なっ――畜生ッ!!」
それを見ていた周りの者たちは、目の前で行われた狂気の沙汰に思わず言葉を失う。
しかし、それでも彼らは熟練の冒険者だ。瞬時に戦闘態勢を整えて、捕縛から殺害に目的を切り替える。
地上の冒険者たちは手に持った槍を構え、それぞれ別方向からマクスウェルに向って突進。
そして、屋根の上にいた者たちは手に持った弓から、マクスウェルの頭に目掛けて矢を放つ。
近接攻撃と遠距離攻撃。しかもそれら全てが別方向から放たれている。その連携は、正しく上位冒険者たちのなせる業だろう。
そしてそれらの攻撃は確かにマクスウェルに直撃する――かのように見えた。
「――は?」
槍による突貫を仕掛けた一人の冒険者が思わず声を漏らす。
それもそうだろう。
彼らが行った一斉攻撃は、その全てがマクスウェルに届かず止まっていた。そう、止まっていたのだ。
彼に向けて放たれた矢は、マクスウェルの頭上数m辺りでピタリと静止している。彼に向って繰り出された槍も停止し、彼の胴体から離れた場所で止まっている。
まるでそこには見えない壁があるかのように、いくらその槍を押し込もうとしてもそれ以上前に進めない。飛翔の勢いを失ったすべての矢が、まるで熟れた果実のようにポトリと地面に落ちる。
そして、
【燃えろ】
マクスウェルがそう呟いた瞬間、槍を突き出した男は全身に熱を感じた。
そして自分の視界が青く染まり、皮膚に激痛が走ったその時にはもう手遅れで、自身が燃えているということにも気づかずにその生涯を終えた。
その炎の矛先は、マクスウェルの視界に入るものすべてに向いている。
【燃えろ、燃えろ―――燃えろ燃えろ燃えろォおおおッ!!】
地上の自警団の面々が燃える。青い炎に包まれ、絶叫しながら死んでいく。
これが蒼炎の悪魔の前に立ちふさがったものの末路か。彼らは全て、マクスウェルに指一本触れることさえできず、青い炎に包まれて死んでいく。
「ははははははっ、あはっ、あはははッはハハハ!!」
マクスウェルは高らかに笑う。
壊れたようなその笑い方は、どこか聞くものの正気を失わせるような響きをしていた。
「浄化だッ!!この世にへばりつくゴミを一掃し、美しき我が炎で染め上げるッ!!それこそ私の使命に違いないッ!!」
どれだけ鍛えようが、どれだけ塔を登ろうがマクスウェルの前では関係ない。彼にとっては等しくゴミなのだ。
どう考えても頭がおかしいとしか思えない。少なくとも正気の人間ではない。
激痛の中絶命していく彼らの無残な姿、そして自分たちが相対している特大の狂気を前にして、屋根上の弓矢部隊は戦意を喪失してしまう。
そして、一人が呟いた。
「――悪魔」
呟いた瞬間、その彼もまた青い炎に包まれる。
そう、悪魔だ。
イエソドを火の海に変え、民草どころか冒険者たちすら無傷のままにいともたやすく葬り去る、炎の悪魔。
「全て燃やそう!この腐った階層丸ごとッ!!」
マクスウェルが甲高い笑い声をあげながらそう叫んだ瞬間、周囲のスラムの建物も燃え上がる。
その青い火柱は暗い夜空を、冷酷に、残酷に明るく照らす。
きっとこれから起こるのは街と同じことだ。スラムという括りが無くなるまで、この炎は広がり続ける。
そして上位者である彼を止められるものは、この階層には何処にもいない。
下層の人間は上位者の気まぐれで生きているに過ぎない、と誰かが言った。
そして今日、イエソドはその気まぐれで滅びるのだろう。
それが下層の運命。
そして、その運命に抗えるものは、今はまだいない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
【階層世界イエソド――塔入り口】
「な―――」
肩に担いだ荷物が、地面に落ちて音を立てた。
ソラが塔の"出口"を跨いだ直後感じたのは、酷い匂いだった。
それは鼻孔を焼き尽くすような炎の匂いだ。焚き木で感じるあの煙の匂いを数十倍にしたような濃い匂い。
しかし、それだけではない。
死臭だ。人が焼け爛れ、臓物が溢れ出し、それすら焼き果てた時のあの匂いだった。
そして次に感じたのは音。木が燃える音。建物が燃える音。――人が燃える音。
人というのは実にいろいろな音を出す。苦痛に悶え苦しむ声。助けを求める叫び。死に際の断末魔。人の悲鳴がいくつも重なり、まるで合唱のようにすら聞こえる。
そして、視界を埋め尽くす黒い煙と青い炎。それらは人と街を覆いつくし、世界は青と黒の二色で染まっている。
それは正しくこの世の終わりだ。溢れんばかりの灰と、森とすら形容できそうな炎と、そして無数の死が、このイエソドを埋め尽くしていた。
「これは――」
炎に包まれた塔の外の様子に、ソラとルキナは二人して目を見開いた。
朝までは普通の景色だった。スラムのボロ小屋と廃墟、道路の両脇に寝転ぶ物乞い、そんな当たり前の風景が広がっていたはずだった。
今は違う。あるのは炎と灰と死骸だ。ボロ小屋は形もなくなり、廃墟も黒焦げで倒壊しているものが多い。それらの残骸の下には人の死骸が積み重なっているのだろう。
「な、んだ、これは…!?」
「…ソラ、スラムだけじゃないみたい」
「は!?」
ルキナに言われるがままに周りを見渡せば――燃えた町が視界に入る。
街を街たらしめていた、整列された街並み――それを形成していた建物の残骸がもうもうに黒い煙を上げている。
その奥に見える一番高い火柱はある場所は間違いなく街長の住宅であろう。豪奢で広々とした邸宅は見る者すべてに威圧感を与えるほど巨大だったが、その分火が回るのも遅いらしい。
それ以外にも青い炎は見渡す限りの街並みを悉く燃やしている。
スラムと街。360°、燃えていない角度など、どこにもない。
つまり、燃えているのは――世界だ。
街、スラムという括りではない。いや、こうなってしまった以上、もはや街とスラムという区別は必要ないだろう。
何故ならばすべては残骸。昨日まではあった世界の区分けは炎によって燃やし尽くされている。
「――」
自身が生まれ、育ってきた世界の全てが、青い炎によって燃えていく。
何が起きた、何故起きた、そんな疑問がソラの頭の中を駆け巡るが、それらは言葉とならず、ただただ絶句して立ち尽くすことしかできない。
わかることはたった一つ。
最早、イエソドという世界は崩壊したのだ。彼の、いや彼らのこれまでの思い出の場所は全てが燃え果てるだろう。
全ては燃え盛る青い炎の中へと消えていく。
「ッ――!!」
そのことに思い至った瞬間、気づけばソラは全力で走り始めていた。
自分でも何故そうしているのかはわからない。だが、何故か走らなければならない、そんな気がしたのだ。
はちきれんばかりに力が込められた両足が、積もり積もった灰を踏みぬく。
朝から夕まで歩き続けていた両足が悲鳴を上げるが、それも無視。
ただ前へ、早く前へ。
ソラは燃えるスラムの通りを駆け抜ける。
「行こう」
そんなソラの横を、ルキナが並走していた。彼女はいつも通りの無表情。その赤い瞳からは何の感情も伺えない。
そして、ソラはそんなルキナに見向きもせず、声をかけることもなく、ただただ前を見据えて走り抜ける。
目指すのはスラム。その端にある彼の拠点。彼と彼女と育て親の思い出が詰まった、自身を縛り付けるあの場所。
理性的に考えれば、拠点の中の物資は回収しておきたいというのはあるし、スラムの端にあるあそこならまだ燃えていない可能性もある。
だが、そういったこととは関係なく、あそこまで向かわないといけないと、彼の中の何かが叫ぶのだ。
それはあの日、ドームに向かった時と同様の感覚。
彼を構成してきた今までの全てが音を立てて崩壊するような、そんな何かがそこにはある気がしていた。
そしてソラは気づかない。
燃えゆく街とスラム、その中を走り抜けていくソラの背中を見ながら、隣の少女が口の端を少しだけ歪めて、笑っていることに。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ソラとルキナは駆ける。炎の熱で服の端が燃え、額には大粒の汗がにじむが気にしない。
スラムを構成する廃墟の群れは青い業火で燃え崩れ、かつての面影は殆どない。
もともと狭い道であったスラムの各通りは殆どが灰と炎で埋め尽くされて、彼らの行く道をふさいでいる。
そんな道を時には迂回し、時には踏みしめ、時には飛び越え、時には破壊しながらソラとルキナは駆け抜ける。
そんな中、通り抜けた残骸の中にふと見慣れた廃墟の面影を感じて、走りながら周りを見渡す。
「――露店通り?」
隣を走るルキナがぼそりと呟いた。
その言葉に駆け抜けた道の端を見てみれば、燃えカスとなったテントの残骸、そして溶けて殆ど原型を失った防具等が散らばっていた。つまり、ここはかつての露店通り。
燃える大地を踏みしめた彼の足元には、無数の焼死体が転がっている。
きっとこの中には彼の知っている者もいるのだろう。もはやどれが誰か、判別することはできない。全ては黒い炭となっている。
もしかするとこの中には、あの老婆もいるのかもしれない。
実際、ソラはもう一つ、確かに見つけてしまっていた。
「……」
倒れた焚き火台の下敷きになった、痩せた男の焼け焦げた体。
その横には、網から転がり落ちたまま黒く縮んだ肉串が、数本散らばっている。
まだ幼いころ、セナとソラと育ての親の三人でこの店の肉を噛り付いたことがある。肉の脂で口の周りをベタベタにしながら、セナは子供らしく笑っていた。
「……行くぞ!」
ソラは、その光景を頭の奥に押し込めて、また走り出す。
立ち止まっている暇はない。死を悼んでいる暇などない。こうしているうちにも、彼の中の本能とも呼べる何かが走れと叫ぶ。
それに急かされて、ソラは大地に転がる骸を踏み抜いて走る。
こうしている間にも炎はどんどん燃え広がっているように見えた。
走りだした頃は燃えていなかった部分にも火が燃え移っており、視界の中に炎が映らない角度はない。
ならば急がなければならない。全てが燃えるその前に。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そうして彼らはどれだけ走っただろう。数十分走ったようにも、数分しか走ってないようにも感じられた。
だが、体は確かに悲鳴を上げている。ドクンドクンという心臓の音がいつもの数倍は早く感じる。足も悲鳴をあげ、今にも崩れ落ちてしまいそうなほどだ。
口からは荒い呼吸が漏れ、体からは滝のような汗が滲んでいる。それらが、彼らが全力で、かつ長時間走ったことの証明になっていた。
そう。
彼らは全力を尽くしたのだ。しかし――全ては遅すぎた。
「――」
呆然と立ち尽くす彼の目の前には、今まさに燃え盛る廃墟があった。
周りの廃墟と同様に炎上するそれは、隅々が黒く炭化し始めている。全体が炎に包まれて、中に入ることも不可能だろう。
燃える。燃える。全てが燃える。
幼いころに連れてこられた我が家。
育ての親が食料や金をとってきている間に、セナとソラで家事をしていた。
外に置いている焚き火台でいつも飯を作る。セナが初めて作った料理は、黒焦げの肉と生煮えの粥。とても食えたもんじゃなかったのでそう言ったら泣かれた。
洗濯物を乾かそうとして、焚き火台の近くに置いておいたら燃えてしまったこともあった。
外見も中身もボロボロで、隙間から風が入って来て肌寒い時もあった。そしたらセナがくっついてきて、鬱陶しいけど振り払わなかった。
星が見えるような晴れた夜は、皆で屋上で空を見上げた。流れ星が見えたときにはセナが大喜びしてた。
そして、彼は死んで、裏山に墓を建てた。
セナは泣いていた。ソラは泣かなかった。
そんな全ての思い出がソラの頭の中を駆け回る。そしてそのすべてが炎へ消える。
だが、そんなことよりも問題なのは。
「下層のブタの分際で、どうして私に盾突くのか――本当に君たちは頭が悪いのだね」
「ひッ…!!」
そんな燃え盛る彼の拠点の前に二人の人間がいた。
一人は長い金髪の美青年だ。豪奢な服に身を包んだ彼は間違いなく上層の人間であろう。
炎によって発生する熱風が、彼の金色の長い髪をたなびかせている様は絵画にでもなりそうなほどの美しさだ。
だが、そんな彼の性根がその姿と同様に美しいとは限らない。線が細く、風が吹けば骨が折れてしまいそうなほど華奢に見える彼は、しかし、圧倒的な力を持って目の前にいる少女を足蹴にして見下ろしていた。
そんな美青年に顔を踏みにじられているのは一人の少女。
体全体が煤で汚れて、高価な冒険者装備も傷まみれ。布が破けた個所から除く綺麗な肌には血が滲んでいる。
そしてその少女の顔を認識した途端、ソラの頭は一瞬で沸騰した。
「セナッ――!!」
踏みつけられているのはセナだ。特徴的な赤いツインテールが土と灰に塗れて汚れている。
顔は苦痛に歪み、その目には怒りと隠し切れない恐怖が滲んでいる。
彼女は、目の前の男によって地面に縛られていた。それは昔みた光景と全く同じものだったから。
ソラの頭に血が上る。頭の中にあるのは狂ったような憤怒の感情。強烈な怒りが彼の視界を狭くして、周りのもの、目の前の状況すら頭の片隅に追いやられる。
あるのは知人と、それを縛り付ける存在。
「ソラ、ちょっと待っ――」
隣から聞こえてくる冷静な静止の言葉ももはやソラの耳には届かない。
疲れ果てたはずの体に、力がみなぎる。怒り、憎悪、殺意、それらが彼のエネルギーとなって、両手足を奮い立たせる。
「ぶち殺す」
ソラの口から漏れ出るのは静かな殺害宣言。その言葉は周りで燃え盛る炎の轟音によってかき消され、目の前の男には聞こえていない。
目の前にいるのが誰かなど知らないし、知る必要もない。ただ不快だから殺す。絶対殺す。
そして、瞬く間にソラは地面をけり上げ、目の前の派手な男に向って跳躍するように突撃した。
踏み抜いた地面につもっていた灰が宙を舞う。怒りのままに前へ進む両足からは一切の疲労も感じない。
走りながら背中の斧を構えて、大上段に構える。あと数メートルで男の元までたどり着く。
男は横から切りかかってこようとしているソラに気づいていないようで、何ら構えを取ろうともしていない。
だが、セナは違った。地面に倒れていた彼女は、その瞬間、走ってくるソラの存在を認識し、彼が何をしようとしているのかに気づいた。
だから地面に這いつくばりながら、決死の思いで叫んだ。
「ソラ、ダメッ!!」
だが、彼女の叫びは届かない。いや届いていたとして、彼が聞き入れるわけもない。ソラは足を止めることなく前進を続ける。
「ん?」
自身の足元にいる女の叫び声を聞いて、男は漸く横から迫ってくる激憤を湛えたソラに気が付いた。
だがもう遅い。彼は防御態勢を取れないし、例えとっていたとしても、ソラの剛力で振るわれる斧を受け止めようとすれば体をへし折られることだろう。そしてセナを踏みつけたままの体勢では避けることも不可能。
「死ねッ!!」
ソラは構えた斧を思いっきり振り下ろす。
それに込められた力、振りの速さ、殺意――間違いなく必殺の一撃だった。
目にもとまらぬスピードで振り降ろされるその斧は、もし当たればたとえ大きな岩だろうが打ち砕けると感じさせられた。
それは間違いなく当たれば殺すし、避けることはできない渾身の一撃となるはずだった。
だが――
「な――」
その場に響くはずだった絶命の断末魔は無い。むしろ驚愕の声を上げたのはソラの方だった。
何故ならば――振り下ろしたはずの斧が空中で静止していたからだ。
まるでそこに見えない壁があるかのように、どれだけ両腕に力を籠めようとそれ以上振り下ろすことが出来ない。
というよりも、まるでソラ自身の体が振り下ろすことを拒絶しているかのような、そんな異様な感覚。
――界約。
「なんだい、君は?」
「…ッ」
そのことにソラが思い至った時には遅かった。目の前の男は動きの止まったソラを認識し、怪訝そうな顔で彼のことをジロリと見つめていた。
ソラのことをじっくりと見定めるようなその不気味な視線に、ソラは思わず身震いする。
「まあいいか」
だがその目はすぐに色を変えた。まるで路傍の石を見るかのような、どうでもいいものに対する冷たいものへと変化する。
【燃えろ】
そう男が呟いたその瞬間、ソラは自身の足元に奇妙な熱を感じ、
「ソラッ!!」
全力で駆けてきたルキナに首元を掴まれ、そのまま後方へ吹き飛ばされる。
「がッ…!!」
ルキナに思い切り投げ飛ばされたソラの体が、受け身もとれずに、肩口から灰塗れの地面に激突する。来ていた布の服は破れ、肩からは擦りむいたような痛みが伝わってくる。
だがそれで済んだのだからよかったのだろう。直後、ソラのいた場所に夜空まで届かんばかりの大きな青い火柱が立ち上がり、彼の視界を青く染め上げた。
その熱は地面に倒れこんだソラでも感じるほどで、もしルキナに吹き飛ばされていなければ即死していただろう。
「ふむ、逃したか」
男がそう呟く。その言葉から察するに、この炎は彼が起こしたものなのだろう。
だが、問題はそれだけではない。
この世界を染め上げている青い炎。それと全く同じものを目の前の男は扱っている。すなわち、
「てめえが、燃やしたのか…街も、スラムも、ここも!?」
「ん?ああ、如何にも」
ソラが立ち上がりながら、男に向って問いかければ、彼はなんとも涼し気な、悪気も一切ないような顔でそう答えた。
「この私の蒼き炎でもって、この世界を浄化しているのだよ。見たまえ、この景色を。醜き全てが炎で満たされる、この美しき光景を」
そういって大仰な手振りで両腕を開き、芝居がかったセリフで彼は世界を見回す。彼が浮かべているのは陶酔、そして自己愛。自分の思想に酔った彼の仕草は美しくありつつも、計り知れないほどの邪悪を感じた。
それはスラムでも感じたことのないものだ。飢えに苦しみ、苦痛に嘆き、人を傷つけ、奪い、殺す。そういったスラムで良く見る、必要に迫られた結果の悪徳ではない、混じりけのない純粋な悪性。
美貌の中に潜むどす黒いそれは余りにも、
「醜い」
ソラがそう思った時には、ルキナは同じことを男に向って呟いていた。
その瞬間、燃え上がる青い炎の熱風に煽られてルキナの頭からフードが脱げ、白銀のように輝く白髪が後方にたなびいた。そして、その赤い目は目の前の悪魔をしかと睨んでいた。
顕わになったルキナの容姿を見て、男は驚愕のあまり目を丸くする。
「白色の髪、ルビーのような赤い瞳、そして何より、美しきその貌――」
うわごとのようにそう呟いた直後、
「あはっ、あははははははははッ!!私は何と有能な人間なのか!醜き世界を掃除したうえで、我が王からの依頼も完璧に達成できるッ!!」
彼は空を見上げて狂ったように笑い出す。それは歓喜だろう。そして自身に対する肯定感。
万事が一切、全て思い通りになっているとでもいうかのようなその喜びの声は、ソラには酷く不気味なものに聞こえた。
そうしてひとしきり笑い終えたのち、男はその長身からルキナを見下ろして彼女に語り掛ける。
「漸く出会えましたな、麗しきご令嬢。私はティファレト聖炎騎士団副団長、マクスウェル・アモン・ルクスフレア――あなたを迎えに来たものです」
「…私はお前の事なんか知らない」
「ええ、そうですか。ですが、私と一緒に来てもらいますよ、それが依頼なのでね」
芝居がかった慇懃な態度に反して、マクスウェルはルキナを見下したような態度をとる。
彼女が自身と共に行くことは彼にとっては決定事項なのだろう。ルキナに対して了承を取るつもりもない。
「私をどこに連れていくつもり?」
「我が階層世界、"美"のティファレトへ。そこから先は私も分かりません。ただ、あなたを丁重に扱うように申し付けられております。決して無礼なことはしないと誓いますよ」
「ティファレト…」
そうルキナは呟いた。それは今日彼女の口から語られた階層世界の名前の一つだ。彼女の説明が正しく、かつ彼が本当にそこから来たというのであれば、ホドやネツァクよりも上層の人間ということになる。
そんな上層の人間らしい、蔑みつつもルキナを慎重に扱うかのような態度は、どこか人の気持ちを逆なでするようなものだ。
事実、ルキナはその彼を見て不快なものを見るかのように眉を顰めている。だが、彼はそのことにも気づいていない。所詮、下層の人間の事など気にもしていないのだ。
その表情のまま、ルキナは探るように問いかける。
「…もし、行かないと言ったら?」
「行かない?何故?この世界はもう終わっている。ここに残る理由などないでしょう?それに、」
そこで一つ息を吐いて、
「貴方の意思等関係ない」
その瞬間、それまで黙って聞いていたソラの頭が再び燃えるような怒りに支配される。
ゆっくりと地面から立ち上がったソラはルキナの横に並んだ。
「ソラ……」
ソラの体から立ち上る、どす黒い怒りに気づいたのだろう。ルキナが隣に並んだソラを気遣うかのように声をかける。
だが、ソラにはそんなことすら関係ない。あるのは目の前の男に対する怒りのみ。
「…てめえ、今なんつった?」
「先程も聞いたが、君は何だい?見たところ、イエソドの住人のように見えるが」
「そんなこと関係ねえだろ。いいから答えろ」
「…無礼な態度だが、今は気分がいい。答えてあげよう。『彼女の意思等関係ない』といったのだよ。騎士気取りの蛆虫クン」
怒りを湛えた表情でマクスウェルに問いかけたソラに返ってきたのは侮蔑の言葉だ。そしてソラを見るその視線には文字通り虫でも見るかのような冷たいものしかない。
「私は上から彼女を連れてくるように使命を受けているのだよ。故に、わざわざこんな肥溜めに私は来たんだ。その使命は必ず果たさなければならないのさ」
「…そうか」
静かに聞いていたソラは一言だけ返し、右手に持った斧の柄を潰さんばかりに強く握りしめ直す。
今の話を聞いて、覚悟は決まった。
「ルキナ――やるぞ」
「ソラ、アレは」
「わかってる。上層の人間だ。しかもホド、ネツァクよりも上の人間だ。だから、」
そこで言葉を一回区切り、
「権限を使われる前にぶち殺すッ!!」
そういってソラは右足を大きく前に踏みだし――地面に向って何かを投げつけた。
その瞬間、地面と衝突したその何かは割れて、その中から黒い煙がボフッという音と共に噴き出した。
「なッ…!!」
ソラが投げつけたのは露店通りの老婆特製の煙玉だ。
それは彼女が調合した特殊な軽い粉末が入ったカプセル状の玉であり、割れれば一瞬で周囲に煙が立ち込める。
先日のルキナとの冒険でエルダートレントやゴブリンの群れに襲われた経験を踏まえ、今日の朝、塔に出向く前に購入していたのだ。
それは下手なポーションよりもはるかに高値だったが、しかしその分効果は絶大だ。
その煙はどこか薬品めいた匂いを放ちながらたちまち周囲を包み込み、咄嗟の出来事に驚いたマクスウェルは何もできず、気づけば彼の周囲は黒く塗り上げられていた。
権限を使うためにはしっかりと相手を視認しておく必要がある。逆に言えば、視界にさえ入っていなければ権限は発動できない。
マクスウェルはソラとルキナのことを見失い、冷静さを欠き、辺りをしきりに見回した。
そしてその瞬間を見逃さないものがいた。
「――邪魔なのよッ!!」
「おわっ」
彼に足蹴にされていたセナは、彼の足元から身を転がして逃げ出す。そして彼女に体重をかけていたマクスウェルは、突如足場が無くなった結果バランスを崩し、尻もちをついてしまいそうになる。
マクスウェルは間抜けな声を上げながら体勢を整えようとするが、そうすると今度は別のものに対する警戒が出来なくなることに彼は気づいていない。
彼の死角――彼の左斜め後方と右斜め後方に回り込んだソラとルキナのそれぞれが彼に向って突撃する。
彼らは数日共に過ごしただけの仲だが、それでも塔の中で濃密な時間を過ごしていた。その無言の連携はベテラン冒険者もかくやという精度であった。
立ち込める煙の中から、ほぼ同時に、別角度から強襲。それは間違いなく必殺のコンビネーションだった。
だが――
「またか…!!」
「界約ッ…!!」
二人の攻撃は未遂に終わる。何故ならば、彼らの攻撃はそれぞれが、マクスウェルの周囲2mほど前で止まってしまったからだ。
先程と同様、力を込めてもまるで動く気配がない。壁があるわけでもないことから、これは目の前の男の何かしらの能力と見て間違いないだろう。
界約を持っているルキナでさえ抵抗できず、ソラと同様に動きを止められている。間違いなく格上の相手だ。
そして、目の前に出てきた彼ら二人は、マクスウェルのもう一つの能力にとって格好の的だ。
【…燃えろッ!!】
そう彼が怒鳴った瞬間、ソラは嫌な予感を感じて後方へ跳躍し、ルキナも同じように、再び立ち込める黒い煙の中へ消える。
だが、その直後、立ち上った青い火柱が煙の中からでもソラとルキナの視界を埋め尽くした。
その火柱を見上げながら、また突撃のために身を屈めようとしたソラだったが、
「ダメっ!」
不意に、煙の中で誰かに右腕を掴まれた。思わずその腕の振りほどこうとしたソラだったが、伸びた腕の先の顔を見て彼は目を見開いた。
「セナ」
それは先ほどまでマクスウェルに虐げられていた彼女だった。
その体はボロボロで、服のあちこちは燃えて破れている。赤いツインテールの先も燃えたように短くなっている。
いまにも崩れ落ちてしまいそうなほど震えている彼女の腕には、しかし強く力が込められていて、ソラのことを決して離すまいとしていた。
「…離せよ」
「行っちゃダメっ!」
再び、マクスウェルに突撃しようとするソラに対して、そんな彼を行かせないようにセナは彼の腕を強く引っ張る。
そんなセナに対して、ソラは冷静に対応するが、セナは聞く耳を持とうとしない。
「アイツはダメ――絶対に勝てない!」
「…やってみなきゃわかんねえだろ」
「もうやったでしょッ!」
「いいから、アイツの情報を教えろ――アイツのあの力はなんだ?」
ヒステリックに叫ぶセナに対して、ソラは努めて冷静にセナから情報を引き出そうとする。
彼女がやられたということはソラにとっても信じがたい事象だ。何かしらカラクリがあるに違いない。
ならば、煙と轟音でマクスウェルがこちらに気づいていないうちにそのカラクリを解いて、突破口を見出さないといけない。
そんなソラの様子に、幾分かセナも冷静さを取り戻したのか、顔面蒼白になりながらも静かに話始める。
「…多分、アイツの能力は二つ。一つは炎を操る魔術」
「あれが魔術…」
魔術とはその名の通り、人間が用いる一つの"技術"だ。
精神力を消費して自分の望み通りの物理現象を引き起こす術であり、物理的な代償を伴わないその力は塔での探索だけではなく、人々の生活にも役立てられている。
しかし、それはイエソド以外の話だ。魔術とは人の技術であり、そして知恵でもある。その習得には高等な教育が必要となり、それはイエソドという最低階層では得られない。
故にイエソドで魔術を扱えるものは殆どおらず、ソラも知識として知っているものの、その利用者を見たのは初めてだ。
察するに、指定した箇所に青い炎を起こすという魔術だろう。
極めて単純だが、遠距離で、かつ巨大な炎を発生させられるその魔術は、近距離攻撃しか手段を持たないソラやルキナにとってかなり厄介だ。
しかし、それだけではない。それだけであるならば既にソラとルキナはマクスウェルを殺していたはずだ。だがそうなってないのは、恐らくもう一つの能力が原因だ。
「もう一つは分からない…けど多分――」
「…お前と同じ、動きを止める力か」
コクリとセナが頷く。
出会いがしらの一発も、ソラとルキナの必殺の連携も、全ての攻撃はマクスウェルに到達せず、その手前で停止してしまった。
何が起こったのかは分からなかったが、ソラはその感触をどこか知っていたし、直近で受けた記憶があった。
それはセナによって動きを止められた時と同様の不快感。強引に体を停止させられ力では対処できないようなあの感覚。恐らくは同種の"界約"。
「動きを止める力と、炎を出す魔術、そして権限か…」
「逃げよう?ここにいたら殺されちゃう…!!」
セナは必死な顔でソラの腕を掴んで後ろへ引っ張る。遠い昔、彼女が遊んでほしい時もこうやって腕を掴まれたことを思い出す。その時と違うのは、今は彼女の方がソラよりもはるかに強いということだ。
そんな彼女が敵わなかった以上、敵の強さは明白だ。
近づけば動きを止められ、離れても魔術で丸焼きにされ、そして視認されたままだと権限を使われる。
正直、不利なんて言うレベルではない。はっきり言ってマクスウェルを倒すことはソラにはできないだろう。そんなことは端からソラも理解していた。
理性は逃げた方がいいとソラに囁いてくる。そしてソラ自身もそれが正しいと理解していた。
しかし、
「お前は勝手に逃げてろ――俺は絶対にアイツを殺す」
しかし何故だろう、それ以上に湧き上がってくる怒りの感情が、ソラに戦えと告げるのだ。
それはスラムを燃やされた怒りでもなく、知人を殺された怒りでもなく、拠点を潰された怒りでもない。
――貴方の意思等関係ない。
「アイツは、俺の目の前で誰かを縛った」
ここに到着した時、セナはマクスウェルの足で地面に縛り付けられていた。
「人の意思を無視した」
次に、ルキナの意思も関係なく、どこかへ連れ去ろうとした。
「ムカつくんだよ」
いつもの彼であれば無理をせず逃げているはずだ。命を懸けてまで戦う必要などどこにもない。
しかし、燃えるような激情が彼に逃げることを許さない。奴を殺せと頭の中に警鐘を鳴らしてくる。
「だから殺す。俺が、殺す」
その語り口は静かな落ち着いたものだったが、その実、彼の頭の中では気が狂うほどの情念が渦を巻いていた。
それは過去、何度も彼を駆り立ててきたものと同じ、怒りの感情。初めてセナを助けたあの日と同様の感情が、とめどなく、洪水のように溢れ出して彼を焼いている。
「ソラ、でもッ…!!」
「話は終わった?」
尚もソラを説得しようとするセナと反対側から、静かな声が彼の耳に届いた。
濛々と立ち込める煙の中から現れたのは白髪に赤目の少女、ルキナだ。
「そろそろ煙も晴れる。そうなったら私たちに勝ち目はない。今、決める必要がある。逃げるか、殺すか」
彼女は状況を端的にソラに告げる。そしてそのことはソラも承知だ。逃げるならば今しかないことも分かっている。
だが、
「当然、殺すだろ?逃げるくらいなら死んだ方がマシだ」
「同感」
「…ッ」
二人の目に宿る殺意を見て、初めてセナはルキナという少女の本質を理解した。
結局のところ、彼らは同種なのだ。外見や性別が違っても、支配を拒むその精神性は瓜二つ。
一見冷静に見えても、中身は怒りと憎悪に支配されている――そんなところまで一致している。触れれば火傷どころでは済まないような、そんな負の感情が二人の間で反響、共鳴している。
その瞬間、セナの中に激しい嫉妬と恐怖が沸き上がり、思わず掴んでいたソラの腕を放してしまった。
「じゃあ、」
「殺そう」
そして、それと同時にソラとルキナは同時に煙の中へ駆けだす。
セナは彼の背中に手を伸ばそうとするが、その手は届かず空を切った。
――待って。
そんな言葉を出そうとしても、喉元で突っかかってしまったかのように形にならない。
巻き上がった灰の中に二人の姿が消えていく。彼らの後ろについていこうとするが、その足は地面に縫い付けられたかのように地面から離れない。
彼女と彼らを分け隔てる黒い煙は、まるで巨大な壁であるかのように、彼女の前に立ちふさがっていた。




