追憶と地獄
【イエソド第9層――???】
物心ついたときには、アタシの傍には一人の大人がいた。
白髪のジジイだけど体格は良くてガッチリとした感じだった。そこらの若い男よりよっぽど元気そうだったし、実際誰かから襲われたりしても余裕で返り討ちにしてた。
剃らないから長く伸びた白髭がモフモフとしてて、小さいころはよく触ってた。
よく笑い、よく怒り、よく泣く。ジジイのくせにまるで子供みたいに無邪気なやつだった。
アタシにとってはそんなジジイが親代わり。あのスラムという掃き溜めの中でアタシが生きていられたのはジジイに拾ってもらったからだろう。
そして、アタシはジジイのことが好きだった。もちろん男としてではなく、親としてだけど。
そんなジジイはある日別の男の子を拾ってきた。
長めの黒髪が目元まで覆っていて、どこか陰気に見える奴。
だけど隙間から見える青い目は、まるで遠くに見える青空のような綺麗な色をしていた。
『今日からコイツも家族だッ!!』
いつものようにガハハと大声で笑いながら、あのジジイはそう言った。
そして、そんなジジイのことをソイツは鬱陶しいものを見るかのような目で見つめていた。
それが、アタシが初めてソイツ――ソラと出会った時のことだった。
ソラは初めから変な奴だった。
ジジイが話しかけても無視するか、不愛想に短く言葉を返すだけ。ほかの奴に話しかけられたらシカトを決め込んでいた。
いつも何かに怒っていて、この世界の全てが不満だとでも言うみたい。すれ違う人間すべてが敵で、目に映る全てのものに憎悪を向けているように見えた。
だけど、そんな奴でもアタシにとっては初めての同年代の男で、だから恐怖と好奇心が一緒に沸いてきた。
だから、勇気をもって話しかけてみた。
『どうしてそんなに怒ってるの?』
そしたら、いつも不愛想に黙りこくってるアイツは私の方を向いた。
口をへの字型にキュッと結んで如何にも怒っていますっていう顔だったけど、やっぱり髪の合間から除く青い瞳だけはまるで宝石のように綺麗だった。
そして口を開くと、一言。
『話しかけんな』
アタシはその言葉にびっくりして、思わず大声で泣いちゃった。そんな泣き声すらもソラにとっては雑音でしかなかったみたいで、凄い迷惑そうな顔をしていた。
それがアタシとソラの初めての会話だ。
それからアタシはアイツのことが嫌いになった。少し話しかけただけで怒られたのだからしょうがないことだろう。
アイツとは目も合わせないし、アイツが何かするたびに睨みつけた。
そして、そんなことをしていてもソラはこっちのことを全く見ようともしなかった。なんてムカつく奴なんだ、とその時は思っていた。
そしてジジイはそんなアタシたちのことを笑いながら見守っていた。
そんなある日のこと。ジジイは塔にモンスター狩りに出かけていて、拠点には私たち二人しかいない日だった。
ジジイはいつも自分がいないときには外に出ないようにってアタシたちに言いつけていた。
だけど、ソラはその言いつけを守ったことはなかった。いつもアタシを置いて一人でどこかに出かけて、夜になると帰ってくる。
そんなアイツにアタシはいつも怒るけど、アイツはアタシの言葉なんか完全に無視。何を言っても応えた様子はなかった。
そんなことをしてるうちに、それだったらアタシも外へ出てみたいと思うようになった。
子供ながらの対抗心もあったのかもしれない。アイツだって言いつけなんか守っていないんだから、アタシも守んなくてもいいはずだ。
そう思ってその日は拠点を出てスラムを駆け回ったのだ。
いつもはジジイに連れられて見ているだけだったから、一人でいろんな場所を見て回るのは新鮮だった。特に露店通りでは、いつもの串焼きをタダでもらうことができたし、いろんな人に話しかけてもらえて楽しかった。
ただ、みんなに言われたのが「日が暮れる前に帰りなさい」という言葉だった。
でも、アタシの中では夜になるまでは帰らないって気持ちがあった。だってソラはいつも夜まで帰ってこないし。アイツには負けたくなかったし。
そして夕方まで露店通り辺りを冒険して、日が沈みだし夜の暗さがやってくる。
辺りの影が濃くなり、人も少なくなり、夜闇が迫ってくる。そうすると、やっぱり怖くなってきた。
アイツへの対抗心は消え失せて、早く帰らないとって言う思いがあふれてきて、走って帰ろうとした。
その瞬間、アタシは後ろから2人の男に襲い掛かられた。
気が付いたらそこはどこかの建物の中だった。頭が痛むし、どうやら頭を殴られて失神した様だった。
アタシは手足を縛り付けられている上に、口には猿轡をかまされていて、声を上げることもできない。
そして目の前にはアタシを襲った二人の男がいた。
そいつらの目的はジジイへの復讐だった。どうやら昔、ジジイに絡んだ時にボコボコにされたとかどうとかで、その復讐なのだとか。
そんな復讐をいつしようかと思っていたら、ジジイの連れの女の子が一人で目の前をうろついてたから攫ってみたといっていた。
そんな状況説明の言葉が、恐怖で頭の中を埋め尽くされているアタシの耳を左から右へ通り抜けてく。
上半身裸の男たち。その両手には鉄の棒。縛られたアタシ。
これから何をされるのか。子供ながらに大体想像がついていた。
この状況から至る結末なんて、惨めに嬲られて殺される以外ないだろう。
目から涙がこぼれ、叫ぼうとするが口をふさぐ猿轡が邪魔で声が出せない。
体を動かそうとするが、手足が縛られているからまるで芋虫のようにのたうち回るしかできない。
男たちの手が迫ってくる。私の恐怖に歪む顔に興奮しているのか、ハァハァという気持ち悪い息遣いが耳に届く。
アタシの人生はここで終わり。ジジイの言いつけを守らず外に出て、変態二人に嬲られて殺される。
せめて最後にジジイに会いたかった――そんなことを思いながら絶望した瞬間だった。
気づけば、目の前の男たちのうちの片方がバタリと倒れていた。
頭から血を流して――というか頭がひしゃげて陥没し、変形した頭蓋から眼球が飛び出して目の前に転がっていた。言うまでもないけど、そいつは即死していた。
そして倒れた男の後ろには――返り血で赤く染まったソラがいた。
その両手には拳よりも大きな石が握られていて、それでもって思いっきり男をぶん殴ったんだと思う。
『テメェ、何してやがるッ!!』
もう一人の男が慌てて右手に持った鉄の棒をソラの頭に向かって振り回す。
ソラは咄嗟に石を捨てながら両腕を重ねて防御の体勢を取るけど、結局少年相応の体格でしかないから、大人の膂力にはかなわなくて吹き飛ばされる。
その体は勢いのまま壁に衝突して、ソラはカハッと息を吐いてた。
その状態から、ソラは壁を使って体をぐぐぐっと持ち上げて、何とか立ち上がる。だけどその左手はブランブランって揺れてた。重ねた両手で頭は守れたみたいだけど、上にしていた左腕は折れちゃったみたいだった。
目の前には大人の男。その手には鉄の棒。折れた左腕。
正直、絶望的な状況だ。ただの少年が何とかできるものではない。
アタシは逃げてって叫びたかったけど、それすら猿轡で声に出せない。
でも、ソラは全く絶望なんてしていなかった。
『ムカつくんだよ…』
そのいつも通りの青い目はいつもと同じように怒りに満ちていた。
いつものように何かにムカついたあの不愛想な顔で、そんなことを呟きながら右手を握りしめると、そのまま目の前の男に向って飛び込んだ。
『何しやがるッ!!』
『ぐぶっ――』
だけどソラは所詮は子供だし、その右手が男にたどり着く前に右足でお腹に蹴りを入れられてまた吹き飛んでた。
ソラはさっきと同じ場所の壁にぶつかりながら口から血を吐き出す。見るからに重傷だ。
大人と子供、折れた左腕と痛めた腹、素手と鉄の武器。どう考えたって勝てるはずなんかない。
だけどその目は変わってなかった。
『気持ち悪いんだよ』
目に映るのは燃えるような怒りの感情。
傷ついた体を強引に起こしながら、ソラは目の前の男を睨んでた。
満身創痍の状態なのに、いつものようになんでそんなに怒ってるのか不思議なくらい、アイツは怒っていた。
だけどそれは目の前の男に向けられたものでもないし、私に向けられたものでもない――いやそれは違うかな。
正確に言うと、多分、アイツは本当にこの世の全てにムカついていたんだと思う。世界の全てにムカついて、世界の全てが憎くて、世界の全てが許せなかったんだと思う。
じゃあアタシなんか見捨てればいいじゃん。早く逃げなよ。死んじゃうよ――そんな言葉を吐こうにもアタシは猿轡で喋れないし、ただただ無言で泣きじゃくることしかできなかった。
『ガキが…ただじゃすまさねぇぞ』
だけど、男にはそんなソラの様子なんて関係ないし、右手に持った棒を構えた。
次にその攻撃に当たってしまえば恐らくソラは死んじゃうだろう。頭にでもあたってしまえば目の前で倒れてる男みたいに目玉も飛び出ちゃうかもしれない。
そんな未来が簡単に想像がついたから、アタシは必死でにげてって言う視線を送ったけど、アイツはアタシのことなんか見ちゃいなかった。
それどころか目の前の男を睨みつけて、見下したような態度でそいつを鼻で笑った。
『…うるせぇよ、ゴミが。とっとと来い腰抜け』
『――ぶっ殺す!!』
あの状況で挑発って、何でそんなことをするのか、アタシにはさっぱりわからない。
ただそんな挑発が思いっきり刺さって、男はソラに向かって全力で駆けだした。
両手で強く握りしめた棒を上段に構えて、あとは振り下ろすだけの状況。当たればソラの死は確定。
そんな悲惨な結末は目に見えていたはずなのに。アタシはアイツから目を離すことができなかった。
だってアイツの目は何もあきらめちゃいなかったから。
『死ねッ!!』
男は構えた棒を大きく振りかぶって、ソラに向かって全力で振り下ろした――その瞬間。
ソラは身を屈めて男の大きく開いた足の間に向かってジャンプした。
ソラの体は空を飛ぶ鳥のように宙を舞い――気づけば男の背後を取っていた。
その動きはすごい機敏で、今までの動きは何だったのかと思っちゃった。
というか多分、それまでは敢えてゆっくり動いていたんだと思う。男が大ぶりの攻撃を外して決定的な隙を晒すその時のために。
男の方は突然目の前から子供が消え失せたことに対して、何が起こったのかもわからず、呆然としていた。
そしてそんな隙をソラはもちろん見逃さない。
まず、ソラは体を低い位置に沈める。
そして、
『はァッ!!』
『え――おぶッ!!』
全身の力を足元から伝わせるようにして、右の拳をがら空きの男の股間めがけて突き上げた。
その一撃はもちろんクリーンヒット。
男は口から泡を吹きながら、両手に持った棒を落として、地面にうち崩れた。
いくら子供だったとはいえその時からソラの馬鹿力は健在だったし、多分潰れちゃってたんじゃないかな。
冷や汗をだらだら垂らして泣きながら悶えるソイツの姿は凄い滑稽で、さっきまでの恐怖も飛んでっちゃってた。
『――俺は、別にソイツが攫われようがどうでもいい』
そんな中、ソラが静かにしゃべりだした。
男は苦痛にのたうち回ってて、多分話なんて聞いてないだろう。だけど、ソラはそのまま続ける。
『ソイツが殴られようが、犯されようが、殺されようが、俺には関係ないし、別に何したっていいと思う』
そして男が手から離して地面に転がった鉄の棒を折れてない右腕で拾う。
『だけど』
それを今度はソラが振りかぶって、
『お前は俺の前で人を縛ったッ!!』
全力で振り下ろした。
ソラの力で振り下ろされた棒は、男の体を強く打ち据えて、鈍い音を鳴らした。
今までは股間の痛みに苦悶していた男が、今度は棒で殴られた箇所を抑えて絶叫する。
大人の男の甲高い絶叫が気持ち悪くて、アタシは吐きそうになった。
『ムカつくんだよ気持ち悪いんだよ許せないんだよッ!!他者を縛ろうとする奴と、縛られてることにも気づかずのうのうと生きる奴がッ!!』
『いっ、痛、やめ、やめてくれえええ!!』
ソラは棒を振り下ろす。最初は肩、次は腹、そして足。
何回も何回も何回も何回も――まるで八つ当たりのように振り下ろす。
『口と腕と足、お前はソイツの3か所を縛った!だから俺はお前の体の33か所を壊して殺す!!』
『あ、ああぁぁあ…』
ソラは叫びながらもずっと棒を振るって、男をしばき続けてた。
男は体中の骨が折れてるし、骨が肌を突き破って、血がどくどくと流れ始めてた。叫び声も力が無くなって、もう呻き声しかあげてない。
正直に言って気が狂ってるとしか思えない。
というか怒るところそこ?縛られてることより攫われてること怒らないの?3か所縛ったから33か所破壊って何?
いろんな感想がアタシの頭の中を駆け巡る。
『はははッ、アハハハハハッ!!』
ソラは男を殴り続けながら、歯を剥いて高らかに笑う。
アタシにとって、それが初めてソラが笑ったのを見た瞬間。
多分、ソラにとっては八つ当たりだったんだろう。ソラは鬱憤を発散するための道具としてその男を使ってた。
本当、頭がおかしい。変な奴とかいう次元じゃない。完全にイカレちゃってる。
だというのに。
『ははははッ…あれ、死んだか』
気づけば男は死んでいて、ソラは舌打ちをして右手に持った棒を適当に投げ捨てる。
男の死体は見るも無残で殆ど原型が残っていない肉の塊みたいな形状になってた。
そして、ソラはアタシに近づいてくる。
普通の子供なら多分、ソラに怯えて逃げようとしたりするんだろうなと思う。
というか実際怖すぎるし。大人殺しながら笑う奴とか普通に異常だし。それが子供のあるべき姿のはずだ。
だというのに――アタシにとってはソラが輝いて見えたから。
ソラはアタシの前で屈んで、右腕だけでアタシの猿轡をひきちぎった。
そしてたった一言。
『帰るぞ』
その時からソラはアタシのヒーロー。
不愛想だし、イカレちらかしてるけど、アタシを助けてくれた人。
誰よりも頭がおかしいけど、誰よりも芯の強い、この世界で唯一の人。
ジジイが話してくれるおとぎ話の英雄なんかよりも格好いい――アタシだけの英雄。
そのあとは二人で一緒に帰り、待ち構えていたジジイに二人で一緒に怒られた。ソラに至っては左腕が折れてるし吐血してるしで重傷だったから、ジジイは泣きじゃくってた。
アタシは無事にジジイの元に戻れた安心で泣いてたけど、ソラはいつものように不愛想な顔でジジイの泣き説教を聞いていた。
それからというもの、アタシは何をするにもソラの後ろについていくようになった。
アイツはいつも鬱陶しそうな顔をしてアタシを巻こうとするけど、それでもアイツについてった。
ネズミを二人で捕まえたり、二人で一緒にジジイから冒険について教えてもらったり、ジジイに内緒で二人で露店通りに行ったり、街にも行ってみたりした。
その中でも一番覚えているのは、二人で見た裏山からの景色だ。
ジジイが冒険に出たとき、アイツがいつものようにしれーっと住処を抜け出したからアタシもついてくことにした。
やっぱりソラは鬱陶しそうにしてたけど、もうどうでもよくなったのか、最終的にはあきらめて、アタシがついてくことを認めてた。
ソラがいつも一人で来ていた場所、彼にとってのお気に入り。アタシはそこについていくことを許されたのだ。
そうしてたどり着いたのは拠点の裏の山の頂上。この世界の全てが眼下に納まるその景色は、アタシが今まで見てきた中で最も綺麗な場所だった。
『すごいねっ!』
その感動をそのまま言葉に乗せて、アタシはソラの方を振り返った。
その瞬間、アタシは見た。いや――見てしまった。
ソラは景色を見ていなかった。一羽の鳥だけを、目で追っていた。
その顔に怒りはなかった。怒りがないと、こんなに遠い顔になるのか、と思った。
青い目が鳥を映したまま、ゆっくりと空に溶けていくみたいで、私はなんとなく声をかけられなかった。
その時、アタシには分かった。
多分、いつかきっと――ソラはあの鳥のようにどこかに羽ばたいていく。
縛ることも縛られることも嫌うソラなら、いつかこの狭い世界を抜け出して、どこかへ行ってしまうのだろう。
その時にはきっとアタシは彼の傍にはいない。
だってアタシは今で十分満足しているから。ジジイがいて、ソラがいる。スラムで生きていくことは大変だけど、二人がいればそれだけで十分幸せ。
多分、ソラからすればそんなアタシは『縛られて』いるんだろう。ソラにとって憎むべき人間の一人に過ぎないのかもしれない。
だから、ソラがあの空を飛翔するときに、アタシは足枷として捨てられるんだろうってわかってしまった。
だからアタシはあの日願った。
ジジイが死んだ――いや殺されたあの日。ソラもズタボロにされて、残ったのはアタシだけ。
そんなあの日のあの瞬間に、願ってしまった。
どうか、どうかソラだけは――
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ん…」
目を覚ますと、そこは冷たい石の床の上だった。
目の前には焚き木の跡。その火は殆ど消えかかっているが、燻ぶった火の残滓が白い煙を吐き出している。
仮眠のつもりが、どうやら少し寝てしまっていたらしい。懐かしい夢を見たような気がする。
そう思って、彼女――セナはゆっくりと体を起こし、ぐーっと腕を伸ばす。
そして、目の前にある一つのものを見上げる。
「はぁ…漸くここまできたわね」
そこはセナの悲願であった場所だった。
イエソド第9層――朽ち果てし神殿の最奥、第10層への扉の目の前である。
彼女の育ての親の説明によれば、イエソドの層は10層で構築されており、そこを乗り越えればホド、あるいはネツァクに辿りつけるのだという。
つまり、彼女が残すはあと一層。それを超えてしまえば彼女は晴れてホド、ネツァクの権限を手に入れて上位者の仲間入りを果たすのだ。
そうなれば歴史上殆どいなかった"踏破者"の一人としてイエソドの歴史に刻まれることだろう。
「……」
だが、彼女にとって、そんなことはどうでもいいことであった。
いや、どうでもいいというのは違うだろうか。それを目的として塔を登っていたことは確かだ。
だが、そのゴールが彼女にとっては違ったのだ。上位者となることは彼女にとってあくまでも手段でしかない。
彼女のゴール――それは今も昔も変わらない。
「さて――進むか、退くか。決めないとね」
ここまで来るのにかかったのは約一週間。漸く、9層の迷路の中から正しい道を選択し、ここまでたどり着くことができた。
その道順もメモに取った。もはや、一度退いたとしてもここまで戻ることはそう難しいことではない。
しかし、現在の彼女のコンディションは絶好調だ。
ここに来るまでに研ぎ澄ませた神経は未だ健在で、何が来ようとも対応できる自信があった。
それに、少しだけとは言え睡眠もとれた。体力もある程度回復しただろう。
進むか、退くか。
そう考えたとき、一人の存在が頭の中に浮かんだ。
「――ソラ」
多分、彼のことを夢に見たからであろうか。ここまで来たというのに、彼に会いたいという気持ちがあふれ出てくる。
あのぶっきらぼうな態度で、不愛想に文句を言う彼の姿を、もう一度見たい。
何故なら、もしかしたら10層で自分が死んでしまうかもしれないから。死んでしまうかもしれないのなら、その前に一度、会っておきたい。
そして伝えるのだ。
「アタシが踏破したら―――」
そのあとの言葉は続かなかった。今はまだ、胸の内に秘めておく。たとえ一人だと言えど、その言葉は今口に出すにはもったいない。
そんなセンチな気持ちになる自身に、セナは少し自嘲してしまう。
はて、自分はこんな乙女な人間だっただろうか。いつも彼のことを罵っているくせに、自身が受け入れてもらえると何故か思っている。
しかし、急がなければならない。彼の隣には新しい女がいた。
背はセナより低いだろうに、肉感的な体型をしていたあの白髪女。しかも顔はセナよりも美しい。
能力も優れていて、何より人間嫌いのソラが忌避感を持っていない。
アレは不味い。間違いなく、セナにとって最大の障害となるに違いない。
アレよりも優れていることを速やかに証明しなければならない。
だが、今はとにかく彼に会いたい。死んで後悔をのこさないように、会って話をしたい。
そんなことをセナは頭の中でぐるぐると考え――方針を決めた。
「一旦、退く。そして明後日――踏破する」
今日明日は体を休めて、万全の体調で10層の踏破に挑む。そしてそれまでにソラに会って、話をしよう。
そうしたら自分に怖いものはない。全てを乗り越え、上位者となれる。
セナはそう確信していた。
そうと決まれば、話は早い。
彼女は自身のバッグの中から、丸まった古びた羊皮紙を取り出す。
日焼けし色あせた表面に、まるで干し草のような匂いがするそれは、イエソドでは高級品である冒険者用の代物だ。
――帰還スクロール。それを開けば、自身が入った塔の入り口まで転移できる、持ち運び可能な"出口"である。
何回も使えるわけではなく、一度使えばもうそのスクロールはただの羊皮紙となってしまう。そんな使い捨ての道具であるが、冒険者にとっては垂涎の品物で、特にイエソドでは殆ど出回っていない。
並みの冒険者の30年の稼ぎを全部当てても買えないであろうそれは、セナにとっても高い買い物ではあった。
しかし、それでも買う価値のある一品だ。何せ塔から即座に、かつ安全に脱出できる唯一の方法だ。
思いもよらぬ罠にはまってしまった時、強大なモンスターが目の前に現れたとき、重傷を負い出口を探すのも困難な時、等々、このアイテムの使用タイミングは非常に多岐に渡る。
そんなシロモノを今、このタイミングで使う理由はただ一つ。
――ソラに早く会いたい。
それだけの理由。だが彼女にとってその理由は、貴重なアイテムを使わせるには十分すぎるほど重いものだった。
急いでスクロールを閉じていた紐をほどくと、スクロールの中央に刻まれた、星と円で形成された模様から強烈な光が発せられる。
その光に思わず目を閉じてしまうセナだったが、次の瞬間にはその光は止んでいた。
そしてゆっくりと目を開けるとそこには――
「…え?」
そこには地獄が広がっていた。
見慣れたはずの塔の入り口。そんな景色はしかし、黒い煙と青色に包まれていた。
その青色とは炎。青い炎が、建物を、樹木を、そして人を燃やしている。
住居が崩れ落ちる音、木の燃える音、人の燃える音、叫ぶ音、泣く音、苦しむ音、音音音音――。
それは正しく地獄絵図。それが見渡す限りに広がっている。
だが、そんなことはセナにとってどうでもいい。
問題なのは――
「――ソラ!!」
セナは背負っていたバッグをその場に落として、走りだす。目指すのはスラム。その端にある彼の拠点。
セナとソラと育て親の思い出が詰まった、かつて自分が捨てたあの場所へ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜の闇を、炎の蒼が塗り潰していた。
木造の家々が次々と崩れ落ち、火の粉が雨のように空を舞う。
焦げた風が吹き抜け、息を吸うだけで喉が焼けるようだ。
悲鳴が、絶叫が、泣き声が入り混じって響く。
子を抱えた母親が瓦礫を越えて走り、男が倒れた老人を引きずりながら路地を抜ける。
だが、どこへ逃げれば助かるのか、誰も知らない。
遠くで屋根が爆ぜ、火柱が夜空を貫いた。それに照らされた人々の顔は、恐怖と絶望に歪み、まるで地獄の群像のようだった。
助けを呼ぶ声も、怒号も、炎の唸りに飲み込まれていく。
やがて風向きが変わり、炎はさらに勢いを増す。逃げる者も、倒れた者も、皆が同じ運命に追われていた。
そんな中を一人の少女が駆け抜ける。自身の能力でもって空中に足場を作り、それを踏みしめてひた走る。
彼女はイエソド冒険者の中でもトップに位置する存在で、そんな彼女が全力で駆け抜けるのだ。その速度は常人では目で追うことも困難なほどであった。
彼女――セナはちらりと眼下の街を見る。
青い炎が轟々と照らす地面は人の死骸と倒壊した建物で埋め尽くされ、足の置き場も殆どない。そんな中を人々が逃げまどう。
皆生きることに必死だ。彼らはわけもわからず、どこに向かうべきなのかもわからずに、自分たちが住んでいた街の残骸と誰かも分からない死骸を踏みしめて、ただただ青い炎から逃げる。
上空を走るセナのことに気づくものなど誰もいない。
彼女は覚えていないであろうが、眼下の地獄には彼女の見知った人物もいくらか紛れている。彼女が指導した新米冒険者、数度ほど共に冒険したベテラン冒険者、彼女の熱心なパトロンたち。
彼らは彼女のことに気づいてはいないが、もし気づかれたら助けを求められるだろう。
だがもしそうなったとしても、彼女はそれに応じる気は一切なかった。
セナの能力を駆使すれば、この混沌を極めた街を救うことはできるかもしれない。
何が起こってこうなったのかはわからないが、少なくとも問題となっている青い炎を止める方法はいくらでもある。
だが、彼女は善人ではない。彼女にとって街がどうなろうが、誰が死のうがどうでもよいのだ。
彼女にとって大事なのはたった一人。
「ソラ―――」
そのただ一人の名前を呟きながら彼女はひた走る。
目指す先はスラムだ。彼の拠点の位置はセナも知っている。今そこにソラがいるかはわからないが、まずはそこを目指さなければならない。
彼との記憶が走馬灯のようにセナの頭の中を駆け巡る。昔はただ彼についていくことしかできなかった。親が死んだときも何もできず、ソラに助けてもらうことを待っていただけの自分。
だが、今は違う。今の彼女はイエソドの中でもトップの冒険者で、あと一歩で上位者になれるまで塔を登った実力者だ。あのころとは何もかもが違う。
だから――今度は、今度こそ。
そう思って走り続けた先に待っていたのは――




