蒼炎の来訪
【イエソド第1層――ドーム地下】
「結局、何か思い出せたのか?」
ソラは冷たい地べたに胡坐をかいて、目の前でうろうろと彼の前を行ったり来たりしているルキナを眺めて言った。
かれこれこの場所に来て一時間は経過しているが、最初に床の模様について喋ったきりで、それ以降ルキナは沈黙し続けていた。
ルキナはソラの言葉にピタリと足を止めると、
「何も」
ソラに向かってそう呟いた。
ソラは溜息を吐いて、この空間の天井を見上げる。
結局、彼女がなんでこんな場所で倒れていたのか、そもそも彼女は誰で、どうやってここまで来たのかもわからないままだ。
恐らくはどこか上層の人間であろうという推測は立つものの、それなら何故イエソド第1層で倒れていたのか。
それに、何故彼女だけがこのドームの壁を抜けられるのかも分からない。ソラに対してはただの硬い壁だったはずが、彼女が近くにいるときだけ水のような質感に変化していた。つまり、ドームは彼女だけを受け入れたのだ。
いや、彼女を受け入れたというか、むしろ彼女のためにこの空間があるような――自身でもどうしてそう感じるのかわからない、異様な感覚がソラにはあった。
すると途端に目の前のルキナがどこか不気味なものに見えてくる。
たまたま足を踏み入れたドームの中で倒れていた、常軌を逸した美貌の少女。おまけに強力な異能を持ち、身体能力も高い。そんな偶然があり得るのだろうか。
もしかすると自分は騙されているのではないか。
実は記憶を失って等いなくて、何かの意図があってソラを欺いているのではないか。
そしていつか彼のことを裏切るのではないか。
しかし、そこまで考えた上で、
「…ま、いいか」
「?」
ソラはそれらの全ての考えをどうでもいいものと結論付けた。
結局、人の事など他人ではわからない。嘘をついているのか、真実を言っているのか、そのどちらも正誤の判断は出来ないのだ。であれば、考えるだけ無駄だ。
そもそも騙されていたからなんだというのだ。欺かれ、裏切られたとしてどうなるのだ。
どうせ、ソラはただのスラムの人間だ。金もなければ能力もない。自身を騙して得することなんて、彼の頭では一つたりとも思いつかなかった。
それに、彼女はそんなことをする人間ではない。出会って一週間ほどの人間に抱くには奇妙に感じるほどの信頼感が、ソラにはあった。
ソラの前には不思議そうな顔をしたルキナが立っている。
その顔をマジマジと見つめてみるが、やはり嘘をついているようには思えない。
「何でもない。とりあえずなんもなさそうだし、ここ出るか?」
「了解」
ソラの提案に対して、ルキナは特に不満そうな素振りも見せず承諾する。
一時間中ぐるぐるとこの場所を歩き回ったが何も思い出せなかったのだ。これ以上ここにいても無意味だと彼女も感じたのだろう。
ソラは立ち上がり、ルキナと共にその場に背を向ける。
相も変わらず何もない空間。まるで時が止まっているかのように静寂を維持するこの場所には、未だいくつもの謎が残り続けている。
そのことに若干の名残惜しさを感じるが、それを無視して先へ進む。
床に刻まれた世界の構造図が、ぼんやりと光を放っていた。その光はふたりの背を追うように、出口まで届いていた。
「とう」
「よっ、と」
ルキナがぴょんと跳び、ソラは壁にぶつかるつもりで踏み出した。
本来なら跳ね返されるはずだった。だが伝わったのは別の感触。一瞬の息苦しさの後、強烈な光と新鮮な空気。
「やっぱ慣れないな…」
目を細めながら呟く。
ドームを抜けていた。相変わらずルキナが傍にいるときだけ、壁は水のように変質して通してくれる。
試しに一人で壁面に当たってみたが、硬い感触を返すのみで変化はなかった。やはり謎は謎のままだ。
「これからどうする? 登る?」
「そうだな…」
いつも通りの無表情。ただ心なしか、ウキウキした気配がある。どうやらとにかく登りたいらしい。
ソラは太陽光を手で遮りながら考えた。
「…いや、一回戻るぞ」
「えー」
「ここから2層の階段まではかなり遠いんだよ。登るなら一回帰ったほうがいい」
「前みたいに森の階段使ったらすぐでは?」
「嫌だ。またエルダートレントにかち合うなんて御免だ。しかもこっから森はアホみたいに遠いぞ? 7時間以上はかかるだろうな」
「ぐぬぬ」
ルキナはまだこの塔内部の地理を把握できていない。逆にソラはこの層の地理を知り尽くしている。
ルキナはソラに諭されて、それに対する反論の言葉を思いつくことが出来ずに呻いた。
ソラの話は正論だ。廃墟の森の奥地であるドームから、以前使った"帰らずの森"の階段は非常に遠い。
直線的に進むのは地形的に不可能であり、7時間以上かかるだろうというその見込みはかなり正確なものだった。
それに、またエルダートレントと遭遇したらたまったものではない。ルキナからしてみれば何とかできる自信があるのかもしれないが、ソラはまた同じことが出来る保証はない。
そして、一回戻るのは他にも理由がある。
「ここからちょっと歩いたら"出口"があんだよ。いったん戻ってから入りなおした方が時間も短く済むはずだ」
それは塔攻略のテクニックの一つだ。
廃墟の森等の"入り口"から遠い場所で探索したものの階段が見つからなかった場合、そこから既に見つけている階段まで歩くのは酷く非効率な場合が多い。
そこで、"出口"の特性を利用する。"出口"を潜り抜けると塔に侵入した際の入り口まで強制的に戻される。
そのため、一回戻って入りなおすことで、そういった僻地から帰還するまでの道のりをスキップして"入り口"から再度塔攻略をやり直せるのだ。
この場所に最も近い出口は歩いて30分から1時間程度だろう。もし登り続けたいのなら、一旦出てから入り直した方が早いとソラは結論づけた。
「…しょうがない。したがってやろう」
「お前はなんで上から目線なんだよ」
正論をぶつけられすぎたルキナは、どこか不機嫌そうな顔でソラの案を受け入れるのであった。
【階層世界イエソド――ホド・ネツァク広場】
今日もまた"街"のホド・ネツァク広場は人であふれていた。
洒落た服に身を包み、小奇麗な喫茶で紅茶を楽しむ貴婦人たち。広場の噴水の縁に腰掛け、愛を語り合う若い男女のカップル。
広場に併設された公園では子供たちが走りながら大きな声で笑いあい、そんな様子を見ている母親たちは近所の噂をネタにして談笑する。
誰しもが幸せそうな笑みを浮かべ、楽し気に他人と交流する。いつもの景色だ。
いや、そのはずだった。
だが忘れてはいけない。
イエソドは"基礎"の階層。各階層世界からすれば最低ランクの世界であり、街の人間もほかの層から見れば奴隷の群れに他ならない。
彼らを彩る財力、権力は上層のおこぼれで出来ており、彼らは上位者の気まぐれで生きているに過ぎない。
故に、上位者の気まぐれで彼らの日常は途端に崩れてしまうのもまた道理であろう。
まるで浪打際の砂で出来た城が、突如として押し寄せた小高い波にさらわれてしまうかのように。
その時、広場の中心の円形の床――転移門が突如として強く発光する。
それは上位者が現れる合図であり、街の人間にとっては福音でも、警告でもある。
ここで上位者に気に入られたりすれば何かしらの恩恵を受けることもできるし、機嫌でも損ねようものならその場で殺される可能性だってある。
故に、その場にいた者たちは皆、それぞれが即座に行動を始めた。
喫茶にいた貴婦人たちは姿勢を正して、息を殺して広場を見つめる。
噴水にいた若い男女はその場で膝をついて頭を垂れる。
談笑していた母親たちの顔は青ざめ、広場で遊んでいた子供たちの手を強引に掴んで、急いでその場から離れる。
そして次の瞬間、一層強く転移門が光輝き、人々は全員目を瞑った。
やがてその光が収まり、人々は恐る恐る目を開ける。
――そこにいたのは、"美"というものを体現するかのような、一人の長身の人間だった。
目を閉じたその表情は美しく、その輝くような白い肌には染みの一つもない。男性か女性かもわからないほど、その顔は余りにも整い過ぎており、どこか人間らしさもないように感じる。
白を基調とした服装は豪奢で、ホドやネツァクから来る上位者たちと比較しても遥かに出来のいい生地と装飾でその身を飾っている。
特徴のある炎のような紋章が胸に刻まれており、どこか特別な家系か何かに属する人間であることは明白だ。
腰まで届くような黄金色の髪が、風にたなびいてさらりと音を鳴らし、その冷涼たる響きにすら人々は美を感じてしまうほどだ。
その場にいる人々は皆瞬きすることも忘れて、彼、あるいは彼女の美貌に見惚れてしまっていた。
そんな中、注目を浴びた当人はゆっくりと目を開ける。
切れ長の目にはサファイアのような蒼い瞳。そんな瞳で周りにいる者たちをちらりと眺めて、少し鼻を鳴らす。
広場に満ちる匂いに、その眉がほんの一瞬だけ歪む。この匂いを、彼は知っている気がした。
だがその感覚はすぐに、純粋な嫌悪に塗り潰された。
「――臭いな」
少し高い男性的な声がその口から発せられる。ただその音は小さく、周りにいる誰にも聞こえていない。
その場の人間は例外なく彼の美に陶酔しており、彼の言葉も耳に届かないようだ。
跪いた体勢で彼のことを見上げ続けている人間達を見下ろし、彼は一言呟いた。
[頭が高い。汚い顔を私に見せないでくれたまえ、家畜共]
その瞬間、彼の目が強く光り、彼を見つめていた人々は地面に目を向けた。いや、向けさせられた。
権限――彼の目に入る全ての下層の人間に対して命令を行える絶対権。彼はそれを行使して、その場の人間達に強引に頭を垂れさせたのだ。
「ここは本当に臭いね。家畜小屋以下だ」
彼は美しい顔を顰めながら、周囲に傅く人々に対して目を向ける。その目には嫌悪や憎悪といった悪意しかない。
そして彼は群衆の中の一人に目を向ける。
「そこのきみ」
彼はその男に向って声をかける。それは先ほど噴水のそばでパートナーと愛をささやきあっていた男であった。隣ではその彼女が恐怖で小刻みに震えながら跪いている。
しかしその男は、自分が問いかけられているとは気づかなかった。それも当然、男は先ほどから権限によって地面に頭を向けているため、彼の問いかけが誰を対象としているのかわからなかったのだ。
故に彼は上位者の言葉を無視してしまった。それはつまり――
【燃えろ】
金髪の上位者が一言呟いた次の瞬間――その男の全身が青く燃え上がった。
「――え、あ、嗚呼ああぁああぁあッ!!あっ、熱いッ!熱いいいいいィィいい!!」
男の甲高い絶叫が周囲に響き渡る。彼の全身を焼く炎の勢いは凄まじく、周囲の人々の肌すら焼けてしまうかのようだった。
人肉の焼ける音と匂いが周囲に充満するが、あまりの出来事にその場にいる誰もが声を上げることすらできない。
ただマクスウェルだけが、満足げに、どこか恍惚とした目で炎を眺めている。その姿は、花火を見る子供のようだった。
男はその場で踊り狂うように地面を転がりながら熱から逃げようとするが、その炎は一向に消える気配がない。
「あァあああぁッ!!たすけてッ、助けてェええええッ!!」
「い、イヤァぁぁァぁあああああッ!!」
そんな様子を見て漸く意識を取り戻したのであろう、パートナーである女が悲痛な叫び声をあげる。
だが、彼女には何もできない。先ほどの命令により地面に頭をこすりつけながら、隣に顔を向けることしかできないのだ。
燃えている彼を抱きしめることも介抱することもできず、ただ叫び声をあげながら燃えていく彼の姿をその目で見届けるしかない。
[五月蠅い。騒ぐな、雌ブタ]
そんな彼女に向って、更に上位者から命令が飛んでくる。
彼女はそんなことも気にせずに絶叫を上げ続けようとするが、彼女の体は自動でその命令に従ってしまう。
目から大粒の涙をこぼしながら、口を大きく開けて叫ぼうとするが、その口からは何の音も出てこない。
炎は彼の肌を焼き尽くし、その下の筋繊維を晒しだす。そこに滲む血は蒸気となって辺りを満たす。
「あ、熱い…ゆるしてェ…」
「――貴様はこの私を無視した」
「お許し、おゆ、るしをぉお…」
「この、この…マクスウェル・アモン・ルクスフレアを、貴様は無視したァあっぁあああッ!!」
燃える苦痛の中で跪いて許しを請う男に対して、金髪の上位者――マクスウェルは顔を真っ赤に染め上げながら叫ぶ。
その憤怒はまさしく男を焼く烈火のごとく唐突に燃え上がり、広場中にその絶叫が響き渡る。
それは子供の癇癪か、あるいは赤子の泣き声か。
「燃え尽きろッ!!死んで己の罪を贖えッ!!」
「あ、あああ…」
やがて男の体の筋肉が燃え尽き、その体の動きが止まる。そのうち筋肉すら尽き果てて、中の臓物が地面にまろび出てくることだろう。
燃やした上位者と燃え尽きる男とその横で無音の叫びをあげる女、そしてその光景を跪きながら見つめるしかない群衆たち。
それは正しく、地獄のような光景だ。
「なんだ、これは…」
そんな時だった。その地獄に気づかずに、たった今広場に足を踏み入れた集団がいた。
黒いローブを身にまとった男たち。その中の一人は額に包帯を巻いており、その包帯にも薄く血が滲んでいる。
それはホドから転移してきた集団。間違いなく数日前、ソラとルキナがこの場所で見かけた者たちであった。
彼らの一人、先頭を歩いていた金髪の男が、目の前の状況に困惑し、呆然と声を上げる。
声に気づいたのか、マクスウェルはそんな彼らにもちらりと目を向ける。
そんな彼の目線を不愉快に思ったのは、額に包帯を巻いた短髪の男――先日ルキナに石をぶつけられた張本人だ。
「おいッそこのおま――ふぐッ!!」
「―――エドリックッ!!あの方の胸の紋章を見ろッ!!」
エドリックと呼ばれた短髪の男はマクスウェルを睨みつけて彼に悪態を吐こうとするが、その瞬間、集団の戦闘にいた金髪の男が急いで彼の口を手で押さえながら声を荒げる。
マクスウェルの胸の紋章――赤く燃え盛る炎の印章は"美"の階層たるティファレトの名門、ルクスフレア家の証。
そしてティファレトはホドの上位階層であり、すなわちマクスウェルはホドの人間にとっても上位者かつ、その中でも上澄みに位置する存在である。
自身も貴族の出自故にそれに気づいた金髪の男、ライナルト・フォン・デルマーはエドリックの口をふさぎながら強引に跪かせ、自身も跪いて頭を垂れる。
その鬼気迫る様子に気づいた周りの男たちも、急いでその場に膝をつき、頭を下げる。
「お初にお目にかかります、ルクスフレア卿。御前に立てることを、身に余る誉れと存じます」
「んん?…ああ。ホドの学生達か。ちょうどいいところに来てくれた」
マクスウェルは目の前で膝をつく彼らのことを訝し気に見つめると、やがて何者なのか気づいた様子で、顔を弛緩させた。
自身を敬う態度に気をよくしたのか、マクスウェルも比較的柔らかい態度で彼らに声をかける。
そして、朗らかな表情で
「実はこの掃き溜めで重要な任務があってね、この劣等共に話を聞いていたんだ。
だが、家畜には人間の言葉がわからないらしくて、困っていたところだったんだよ。ちょっと質問させてもらってもいいかい?」
「ハッ!全身全霊、私が持ちうるすべてを持ってお答えいたしますッ!」
「ははっ、いい返事だ!では早速質問なんだけれど――」
覇気のこもるライナルトの返答に朗らかに微笑んでいるマクスウェルであるが、その横にはまだ燃えつづけているかつて男だったオブジェとそれを前に無音で泣き続ける女がいる。
ライナルトはその異様な光景に気を取られてしまいそうになるが、そんな己の心を律して、努めて平静であろうとする。
もしマクスウェルという龍の逆鱗に触れてしまえば己も同じ運命をたどってしまうことは明白だ。
故に、ライナルトはマクスウェルの言葉の一言一句も聞き逃さぬよう、耳を全力でその声に傾けた。
そんな彼からの質問は――
「この掃き溜めで、白い髪、赤い目の少女を見なかったかい?」
「あいつだッ!!」
その瞬間、ライナルトに無理やり地面に押さえつけられていた顔を強引に押し上げながら、エドリックが大きな声を上げた。
「おい、エドリックッ!」
「離せライナルト!!白髪赤目ッ、俺に石を投げた女だッ!!」
「ふむ――もう少し詳しく話を聞かせてくれたまえ」
ライナルトはマクスウェルの気分を害しかねないエドリックの物言いを危惧するが、それに反してマクスウェルは鷹揚にエドリックの無礼な態度を許容し、話の続きを求めた。
「……先日我々がこの広場に到着した際、このエドリックに向って石を投げた者がいました」
「それが白髪赤目の少女だったということかい?」
「いえ、私は見ていないのですが――」
「俺は見たんだッ!!あれは絶対その女だったッ!!」
エドリックが大声で叫ぶ度にライナルトは冷や汗を流しながら彼を止めようとする。
ライナルトから見れば、マクスウェルは爆弾だ。そしてエドリックは火薬だ。引火すれば、この広場ごと吹き飛ぶ。
しかし、ライナルトの危惧に反して、マクスウェルはむしろ涼やかな表情でエドリックの言葉を聞いていた。
「その少女はどこへ?」
「あの路地を抜けてどこかへ消えました。この"街"の者が言うにはおそらく"スラム"の人間だと」
「スラム?」
「ええ、この広場から南の方角にある大通りの先にある地域です。この街の人間達よりも遥かに汚らしく、およそ同じ人間とは思えない者たちが住んでいる場所だと聞き及んでおります」
「この街の…"人間"?」
その言葉にマクスウェルはふっと笑った。まるで面白い冗談を耳にしたかのように優しく笑って――
「今、この場所のどこに私以外の"人間"がいるんだい?」
彼にとってこの場所には同格の"人間"なんていないのだ。"街"の住人はもちろん、目の前のライナルト一向すら、彼にとっては"人間"未満の生物に他ならない。
それを悟ったライナルトは胸の奥から怒りがこみあげてくるが、それをグッとこらえて無言を通す。
彼の気分を害してしまった時の末路は目の前に転がっているのだ。一時の怒りのために自らの命を棒に振る必要はない。
ライナルトはそれなりに賢い。学院の中でも秀才で通っているし、日々の鍛錬も座学も欠かさず、能力を磨き続けている。
そんなライナルトの問題点は、こみ上げてきた怒りを抑えるために意識を向けたせいで、『上位者には逆らってはいけない』というルールも忘れるような愚か者がいることを失念していたことだった。
「テメェッ!!」
そこにはライナルトによって地面に押さえつけられていた体を起こし、怒りのままに殴りかかろうとするエドリックがそこにいた。
彼は能力の無さと裏腹に、プライドだけは一流だ。マクスウェルの言葉は彼のそれに触れてしまったのだろう。
正しくライナルトが危惧した通り、火薬が爆発してしまったということだ。
エドリックは別に体を鍛えているわけでもない、腰を入れておらず腕の力だけを頼りに振り回されるパンチはどこか無様なものだった。
しかしそれは上位者に向けられたものだ。当たらずとも問題になるし、当たれば大問題だ。
そのあまりの暴挙を前にしてライナルトは頭が真っ白になり、体も動かすこともできず、口をあんぐりと開け、行く末を黙って見つめることしかできない。
その場にいるすべての人間が、彼の怒りの拳を見つめている。
極限の集中下、ゆっくりと進む時間の中で、徐々に拳がマクスウェルに近づくが――
不意にピタっとその動きが突然止まった。
突然エドリックの体が石になってしまったかのように、殴りかかる動きが完全に静止していた。
そしてエドリック本人も何がおこったのかわからず、目を丸くして己の腕を見つめている。
「なるほど」
そんな中、拳を向けられているマクスウェル一人だけが冷静だった。
しかし、癇癪持ちのマクスウェルにあるまじき冷静さはどこか不気味で――
「白髪赤目の少女はスラムとやらの人間で、そのスラムはここから南に向って歩けばたどり着けるということだね。貴重な情報をありがとう」
「えっあ、いや――」
「その情報に免じて、君の今までの無礼を許してあげよう。だが――」
ライナルトは冷静さを失い、口からは混乱のままに意味をなさない言葉が出てくるが、その様子を前にしてもマクスウェルは微笑むのみだ。
そして、その両目が怪しく光る。
[自分で首を断ち切って死ね]
次にその口から漏れ出たのは自死の命令だった。
その瞬間、エドリックの右腕が勝手に動き、腰元から短剣を抜き出すとそれを自身の首筋当てて、真横に線を引くように振られた。
断ち切られた首の切り傷からは噴水のように赤い血が噴き出して、エドリック自身の体を赤く染める。
彼の細腕では自身の頚骨を断ち切ることはできなかったのだろう。真横に開かれた傷口からは白い骨がちらりと見えるが、その傷口もすぐに赤で埋め尽くされる。
そして、エドリックは自身に何が起こったのかも分からずその両目の瞳が反転し、直立したまま死んだ。
「君たちが犯した罪はいくつもある」
突然の仲間の死にライナルト一向は誰も言葉を発せぬまま、マクスウェルの言葉だけが彼らの耳に入ってくる。
「まず、下賤な身の上で私の前に現れたこと。次に、けがらわしい体の匂いを私に嗅がせたこと。第三にその汚い口から出た言葉を私の耳に届けたこと――これら一切の罪を私は許そう」
余りにも一方的な罪の宣告。
ただ同じ場に居合わせて言葉を交わしただけで数え上げられるそれらの罪は理不尽極まりないものだ。
だが、それも仕方ない。
「だが。だがしかし、このゴミは私に向かって拳を振り上げ、あまつさえ殴りかかろうとした。これはいただけないだろう?」
何故なら、マクスウェルは上層の人間で、ライナルト達は下層の人間。
マクスウェルにとってライナルト達もまた、ただの畜生に等しい。
下層の人間達は上位者の気まぐれで生きている、いや、生かされているのにすぎないのだから。
「故に連帯責任だ」
そして、次に起こったことを一言で言うのなら――阿鼻叫喚の地獄絵図という言葉が適切だろう。
まず初めにライナルトの後ろで震えて蹲っていたホド一向の一人が青く燃え上がった。
その次に、泣き続けていた女が、パートナーの燃えカスの横で同じく火に包まれた。
そして次はその横の老婆が燃え、その後ろの少年が燃え、そしてその友人が燃え―――
「この場にいる者たちは誰もこれを止められなかった。情報提供者の君以外の全てに死刑を宣告しよう」
蒼い、蒼い、どこまでも蒼い。
蒼い炎がその場にいる人々を焼き、その身の焦げる音と匂いが世界を埋め尽くす。
「あああああああああああああああッ!!」
「嫌だッ、イヤ、イヤああぁぁぁあぁ!!」
「助けてママッ!!ママァぁあッ!!」
「熱い、あ、嗚呼ああああ!!」
仲間や下層の人間達が絶叫の中で燃えていく中、ライナルトはただ恐怖のあまり、身をすくめることしかできなかった。
その間にも男の怒号、女の甲高い叫び、子どもの泣き声――それらが渦を巻き、熱と煙にかき消されながらも空を裂いた。
助けを求める声が、次の瞬間には炎の中に呑まれる。絶叫はやがて悲鳴の区別を失い、獣の咆哮のように響き渡った。
青空すら焦がさんとする蒼い炎は、憐れみも理性も知らぬまま、ただ全てを焼き尽くす。
その火はいつしか周りの店や街路樹にも燃え広がって、この街の全てを呑み込まんと拡大を始めつつあった。
そんな地獄の中でただ一人、マクスウェルだけが笑っていた。
「どうしたんだい?許された君は、私に送らなければいけない言葉があるんじゃないのかな?」
悪魔だ――そう思う。
思うだけで、体は動かない。仲間を振り返ることも、マクスウェルを見ることも、ライナルトにはできなかった。
ただできることは、
「か…寛大なご処置、ま、誠に感謝申し上げます」
自身にその悪魔の業が降りかからぬように、ただただ感謝の言葉を紡ぐしかない。
頭を垂れることで目の前の惨状から視線を必死に逸らして、歪な微笑みの形を保ったまま、喉の奥で息を詰める。
「よし。許してあげよう。さあどこへなりと行くがいいさ。早く私の視界の中から消えておくれ」
そして、マクスウェルはライナルトが動くことを許す。
その瞬間、ライナルトは焼け焦げた匂いと血の臭いが入り混じる中を、転げるように駆け出した。
恐怖のあまり、バタつく手足でもって、全力で広場の中央の転移門に向って逃げ出す。
仲間のことを助けようだとか、遺品を持ち帰ろうだとか、そういった意識は頭から抜け落ちて、ただ目の前の悪魔から逃げることだけに意識を向けていたのだ。
そんな彼の背中を見送りもせず、マクスウェルはその地獄の中で、深く、深呼吸をした。
まるで深い森の中で清浄な空気を吸うかのような深い呼吸。それを終えた後の顔は晴れ晴れとしていて、清々しさすら感じているようだ。
「ああ――炎はいい。この美しい炎こそが私の心を癒してくれる」
焦げた地面に足跡を残しながら、ゆっくりと歩を進める。
燃え盛る炎の中でも熱など微塵も感じていない様子で、自己陶酔に浸りながらただ歩く。
その目は誰も見ていない。視線の先には、ただ自分自身の幻想があった。
芝居がかったその口調は、先ほどまで癇癪を起していた人間とは思えずどこか滑稽で、彼の痛々しい幼稚性を表していた。
「スラムは南の大通りを挟んだ向こう――ということはこちらには少女はいないということだ」
呟きは誰に向けたものでもない。
焼け落ちる建物の崩壊音の中で、その声だけが妙に澄んで響く。
周囲ではまだ呻き声が上がっていた。だがその音すら彼にとっては福音に他ならない。
「ならば、燃やそう。燃やして清めよう。畜生の糞尿に塗れて穢れたこの地を我が聖なる炎で浄化しようじゃあないか」
歪んだ口の端に狂気が満ちる。
ティファレト聖炎騎士団が副団長にして、燃える炎を象徴とする名門ルクスフレア家序列一位、マクスウェル・アモン・ルクスフレア。
蒼炎の悪魔とも呼ばれる彼が、イエソド中を燃やし尽くすまであと――




