再訪と破滅の兆し
【イエソド第1層――廃墟の森】
「ふッ――」
両手でつかんだ斧が右から左へ弧を描くように振りぬかれる。
その刃先に纏わりつく風がごうっと音をたてながら切り裂かれて、振り回される斧の勢いの凄まじさを証明していた。
「GUGYAAAAAAAAAAAAA!!」
「うるせえよ」
その斧は叫びながら向かってくる大きなケモノ――オークの頭を狙ったものである。叫びに含まれるのは怒りか、あるいは恐怖か。
対して斧の持ち主であるソラには何の感情もなく、ただ目の前のモンスターを屠らんとしていた。
「GAAAAA――」
そして斧は吸い込まれるようにオークの頭に直撃し、その鼻から上と下を簡単に切り離した。
頭部の上部分が回転しながら宙を舞って、鮮血をまき散らす。残った全身部分は直立したまま、断末魔の声を暫く口から漏らしたままだった。言うまでもなく即死している。
そして数秒後、その死体からは力が抜けて、音を立てて地面に倒れ伏す。断面からあふれる血が地面を赤く染めていた。
そんな一連の狩りを後方から見ていた一人の少女は、ぐっと右手の親指を立てた。
「ないすはんと」
「それやめれるか?」
その言葉がどうしても煽りに聞こえてしまうソラは、嫌そうな顔をして少女、ルキナに向かって文句を言った。
すると更にルキナは左手の親指をぐぐっと立てた。どうやら誉めが足りてないという意味だと理解したらしい。
「……」
ソラは無言で空を仰ぎながら、深くため息を吐いた。
ルキナとの初めての冒険から、既に4日ほど経過している。
セナとの戦闘後、疲れ果てた体を引きずりながら"出口"を抜けると、そこは彼らが塔に入った際の大きな扉の目の前だった。
出口を抜ければそこに出るのは当たり前のことだが、塔初心者のルキナは「おー」と声を上げていた。
しかし、その時のソラは、そんなルキナの気の抜けた声に返事をする余裕もないほど身体的疲労が溜まっており、今にも倒れそうなほどであった。
そのため、倒したモンスターの討伐報酬をギルドで受け取ることもせず、ソラとルキナは塔の前からスラムの離れの拠点まで直帰した。
ソラが覚えているのはそこまでで、気が付けば次の日の朝になっていた。
起きたソラの目の前には、腹を空かせたルキナが待ち構えており、彼女の腹からなるぐうという音にソラは苦笑するしかなかった。
『次はいつ登る?』
トレントやクラッグクラブ等の討伐報酬をギルドで入手した直後、ルキナはソラにそう言った。
ソラとしては当初、ルキナは彼と登るのを諦めるだろうと踏んでいたのだが、その想定は裏切られることになった。
何故なのかはわからないが、ルキナはソラのことを信頼しているらしい。
ソラはたまたま彼女を拾っただけで、大した付き合いがあるわけでもないというのに、ルキナは彼のことを慕っていた。生まれたての雛が親を求めるような、そんな引力だった。
そして、ソラとしても彼女といることを続けていた。
いつものソラであれば、他人と少しでも接することを厭い自分から離れていくはずだ。それなのに彼女とは一週間以上ともに過ごしたというのに不快感を感じておらず、自分から離れようという気もなかった。
ソラはそんな自分の感情にどこか変なものを感じながら、彼女の申し出を了承することにした。
――『自由』。
ルキナに教えてもらったもの。ルキナの求めているものであり、ソラも求めているもの。
ソラがそれを得ることはできないだろうが、ルキナになら掴めるかもしれない。
そして、それは塔の果てにあるのだという。
きっとソラは塔を登ることはできないだろう。だが、彼女の行くであろう困難な旅路を少しでも明るくすることはできるはずだ。
ソラはそう思って、彼女と共に冒険することを続けていた。
ここは塔の第一層、入り口から東に向けて歩いた先にある"廃墟の森"。要するにルキナを拾った場所だ。
今回の冒険の目的はルキナを拾った場所の調査だ。
『まず、私が倒れてた場所を見てみたい』
塔に入ることにソラが同意した直後、ルキナはそう言い出した。
これから本格的に塔を登っていくとなると、第1層には用はなくなる。そうなる前に一回自身が居た場所を調査したいというのがルキナの要望だった。
そして彼らは再びこの場所に赴いていた。
辺りに散らばる廃墟の群れは依然変わらずにその場所を覆いつくし、その陰にはモンスターが潜み、そこに現れる冒険者を今か今かと待ち構えている。
襲い掛かってくる何体ものモンスターを狩り殺して進んだその先に見えるのは――
「やっと見えた。あれだ」
「あれが――」
廃墟の隙間から見えるのは、周りの景色とかけ離れたどこか異質なものだ。
遠くからではよくわからない質感の黒くて丸い建造物。――ドームだ。
昔は近づけば近づくほどにどこか異質な圧力を感じていたドームだったが、今となっては何も感じない。
また前よりも周囲に潜むモンスターの量が増えているような気がした。
――あのモンスターが死んだからか?
ソラはルキナを拾った時に出会ったモンスターのことを思い出す。
仮面のような目も口も鼻も凹凸すらもないツルリとした表情、白くつやつやとした謎の材質で出来た肌、
どこか異質で、まるで生物ですらない無機物のようなあの怪物。
見たことも聞いたこともないあのモンスターは、尋常ではないほどに素早く、硬く、そして強大な力を持っていた。
振り返ってみると、その圧力はエルダートレントに近いもの、あるいはそれ以上であったように感じられた。
恐らくドームを守護していたのだろうあの化物を恐れて、他のモンスター達はあのドームから離れていたのではないだろうか。
しかし、あのモンスターはもういない。アレはルキナの界約によって一瞬で圧殺された。
ゆえに、各モンスターはドーム付近までその生息領域を伸ばし始めているのだろう。
ソラとルキナは横たわる瓦礫の群れを潜り抜けながらドームに向って前進する。
道中では、様々なモンスターが襲い掛かってくるが、所詮は第一層の敵であり、彼らにとっては何の脅威でもない。
待ち伏せていた3匹のゴブリンは、ソラが一回斧を振り回しただけで3匹ともミンチとなって地面に沈む。
背後から襲い掛かろうとしていたグレーウルフはルキナの界約によって動きを止められ、そのまま首筋に短剣を突き立てられ血を流しながら死んでいった。
そうするうちに崩れ落ちた瓦礫の隙間からしか見えなかった球状の建造物が、彼らの目の前に姿を現し、二人はその足を止めた。
周りに散らばる瓦礫や廃墟とは違い、まるで新造されたようにツルリとした巨大な建造物は、その場から明らかに浮いている。
頭上の青い空から漏れる光のすべてを呑み込んで、全く反射もしないその壁面の黒さもまた異質で、そんな何できているのかもわからない外壁に囲われたその半球の威容に、ソラは改めて威圧感を感じる。
しかし、そこは以前とは何かが違っていた。
具体的に何が違うとは言葉で表現できないが、ドームから感じる異質さが減退している。
それに、前に感じていた謎の鼓動もまるで聞こえず、その気配すらも感じられない。
もはや周りに転がる廃墟との違いも殆ど無いように見え、そこにあったはずの何かが消えているようだった。
それはまるで――
「中身が無くなったみたいだ」
ソラは小さく呟きながら、ドームの黒い外壁を触る。硬く、滑らかなその壁面は少しひんやりとしている。
ルキナの方を振り返ってみれば、彼女は声も出さずにただただドームをじっと見つめていた。
目の前の巨大な建造物を前にして、まるで時が止まったかのように固まったまま動かない。
その目に浮かぶ感情はソラには分からない。ただ、少なくとも、喜びではない。
むしろ、その逆。
恐怖、怒り、嫌悪、あるいは失望。そういった何か負の感情が彼女の瞳の中に渦を巻いているようにソラは感じた。
「何か思い出せるか?」
ソラは、その場で黙ってドームを見上げるルキナに問いかける。
暫くそのまま無言の時間が流れ、やがてルキナは口を開く。
「何も」
「…そうか」
ここに来れば少しは彼女の記憶も戻るのではないかと多少は期待していたソラであったが、物事はそんなにうまくは行かないようである。
ドームを見つめ続けるルキナをおいて、ソラは周辺を少し見て回る。
あの時と同様、モンスターの気配は微塵も感じられない。いくらあの怪物が死んだといっても、モンスター達には未だアレに対する恐怖が沁みついているのであろう。
外周を這うように少し歩けば、以前彼がドームへ侵入した際の出入り口となった場所が見つかる。
出入口といっても単純に壁面を破壊した結果侵入できただけであったが、今ではあの化物が壊したはずのその場所には一切の傷跡もなく、その壊れていたという痕跡すらなくなっていた。
それでも、ソラがその場所から侵入したと分かったのは、その近くにはひび割れた地面が残っていたからだ。それはルキナがあのモンスターを圧殺した場所だ。
そこにはあの怪物の姿形は微塵も残っていない。あるのは完全にすり潰され円状に広がったドス黒い染みだけ。
大地に残る罅割れと、乾燥した体液の黒さだけがそこで起こったことを証明している。
どれほどの質量があればそんな現象が起こるのだろうかとソラが考えたとき、
「…ん?」
ふと、彼の脳裏に一個の疑問が湧いた。
――ルキナにそんな出力が出せるのか?
アレは一瞬でつぶされていた。それは目の前で見ていたから確かな事実である。
ルキナの能力である質量操作――おそらくは極限まで重くなった自重によって潰れたのであろう。
しかし、今までの冒険の中でルキナがそんな強度を出力した記憶はソラにはなかった。
もしそんなことができるのであれば、エルダートレントやセナとの闘いの時に使っていれば即座に殺すこともできていたように思う。
勿論、疲労による気絶を考慮したとか、ルキナも言っていたように対人戦だとレジストされるといった事情があるかもしれない。
「ソラ」
「うおっ」
ソラは不意に背後からかけられた声に驚く。そこにはいつの間にかルキナが立っていた。
その可憐な顔を見れば見るほど、あの時、あの化物を瞬殺した人物と同一人物だとは思えない。
まるであの時と今とでは人が違うような――
「どうかした?」
「いや…何でもない」
難しい顔をしてルキナの顔を見つめるソラに、彼女は首を傾げる。
ソラは何でもないように返事をするが、どこか腑に落ちないものを感じていた。
「とりあえず、中に入ってみたい」
ドームを見ながらルキナは言った。
確かに外から見てるだけでは何もわからないし、結局彼女も何も思い出せなかった。
そうなれば実際にその中に入り、彼女が倒れていた場所まで見てみた方がよいだろう。
「問題はどうやって入るかだな」
あの時は怪物の力で無理やり壁面を破壊することで侵入できたが、あのモンスターはもういない。
そしてソラの力ではこの壁を破壊することができないのは以前確認済みだ。
ではどうするか、とソラが考えていた時だった。
「ソラ」
「どうし……え?」
そこには首から上だけをドームの壁から出して、こちらを見るルキナの姿があった。
他の部位は完全に壁の中に埋まっており、頸だけが壁面から生えたように見えた。
「……どうやった、それ?」
「なんかいけた」
そういえば以前も、彼女と一緒であれば壁の中を沈むようにして脱出することができたのを思い出す。
あの時も、外から見るとこのように壁から人が生えたように見えていたのだろうか。
「ソラも入ってみて」
「…」
今度は壁の中から右腕を出し、ちょいちょいと手招きをするルキナを、ソラは無言で見つめる。
そして、ルキナが沈んでいる壁の前に近寄り、意を決して右足を踏み出す。
あの時と同様、壁に沈むような異質な感触に気味の悪いものを感じるが、それを無視して全身を壁の中に進めれば、少ししてその奇妙な感覚がなくなり視界が開ける。
そこには、真っ暗な廊下と仄かに光る謎の模様が広がっていた。あの時と同じ、ドームの中だ。
そして目の前には先に入って待っていたルキナがいる。
「じゃあ、行こ」
「…そうだな」
そうして二人は廊下を歩き出す。
目指すのはドーム中央の階段、そしてその先にある地下空間。つまりルキナが倒れていた場所だ。
「これは――」
ルキナが声を上げる。彼女にとっては異様な光景だろう。
廃墟の森のドーム。ここはその中心にある長い階段を抜けた先に広がる地下空間だ。誰が何のために作ったのかもわからない謎の場所。
そこは以前と殆ど変わっていない。変化点があるとすれば倒れていたルキナが居なくなったことだけだろう。
そんな場所に彼らは再び足を踏み入れていた。
だだっ広い空間が全て真っ黒な壁でおおわれて、床の模様が光を放ち、薄ぼんやりとした青白い輝きが空間全体を満たしていた。
それ以外には何もない。
足音が反響するたび、深い沈黙が、奥底で波打つ。
ただ、永遠にも似た静寂が、まるでこの場所そのものが生きているかのように、彼らを見つめ返していた。
そんな中、ルキナはゆっくりと歩き出す。
ルキナはゆっくりと歩き出す。足取りはどこかおぼつかなく、光に引かれているようでもあった。
「…ルキナ?」
ソラはそんな彼女の様子にどこか不安を抱き、彼女の後ろを着いていく。
ルキナが立ち止まったのは床の中心、光る謎の模様の上だった。
強く輝く、10個の円と22個の線でつながった一つの図形。それが何なのかはソラには分からない。
分からないが――強いて言うなら何かの"構造"を示す、一種の設計図のような何かに思えた。
何故そう思ったのかはソラ自身でもわからない。
ただその模様はどこか見覚えのある何かの構造のような気がしてならないのだ。まるでいつも身近に接しているような、そんな気が。
「――覚えてる」
痛いほどの静寂が場を支配する中で、ルキナが唐突にそう呟いた。
ソラが何かを尋ねるより前に、ルキナは話を続ける。
「これは"世界の構造"」
模様の上で屈みこみ、その模様の中で下端にある円を丁寧になぞる。
ソラ自身、何故その円を"下端"と思ったのかもわかっていない。だが、なんとなくそんな気がしたのだ。
「マルクト――始まりにして終わりの地。虚無と憤怒の"王国"。地獄の門との接続点」
それはこの世界の最も下にある"もの"。
奈落の底の底の底。イエソドの人間ですら及びもしない、最低の闇がそこにはある――ソラは何も知らないはずなのに、そんな予感がした。
次にその円の縁から真上に伸びる線を通った先にある別の円を示す。
「イエソド――"基礎"たる世界、人が生息しうる限界点にして、全てから支配される奴隷の監獄」
どこか彼女ではない誰かがルキナの姿を借りて喋っているような、滔々と語るその声に不気味な違和感を覚えつつも、ソラは口を挟まずその声を聴き続ける。
それはソラが住まう世界の名称。そして彼が憎むものそのものだ。
自分たちの下に人はおらず、上からは常に支配される。それは正しく監獄に他ならない。
上位者たちの不満のはけ口となり、見下され、蔑まれ、殴られ、殺される。イエソドの住人はそのすべてが奴隷である。
だからだろうか、わざわざ自分たちで街とスラムという区分けを作り、同じような人間同士でいがみ合っている。
「ホド――技術を研鑽し、天に至る"栄光"を貴ぶ世界。磨き、究める学徒たちの学び場」
「ネツァク――力を磨き、天に至る障害を踏破する"勝利"を貴ぶ世界。鍛え、打倒する戦士たちの闘技場」
「ティファレト――人の輝かしさを貴ぶ世界。機能、造形、ありとあらゆる"美"の庭園」
「ゲブラ――自身と他者、人を律する規律を貴ぶ世界。自らの意思で縛られる、"峻厳"たる被虐者たちの楽園」
「ケセド――自身と他者、人を慈しむ愛を貴ぶ世界。"慈悲"という名の枷を人に嵌める加虐者たちの巣窟」
次から次へと線で繋がれた円を指さしていたルキナの声がそこで止まる。
何かを口に出そうとするが、開いては閉じを繰り返すのみで、開いては閉じるだけで、もうそこに言葉はなかった。
そこでルキナはあきらめたように目を閉じた。
「…覚えているのはここまで。これ以上は分からない」
溜息をつきながらそう語るルキナに対し、ソラの頭の中では、彼女の口から語られた言葉が渦を巻いていた。
唐突に語られた文字群、マルクト、イエソド、ホド、ネツァク、ティファレト、ゲブラ、ケセド――
その中の一部は特に聞きなじみのある単語であり、それ故にソラにも彼女の語りが何を示していたのかを察することができる。
「…この模様は塔の各階層世界か?」
「その通り」
ルキナは両腕を頭の上に掲げ、大きな〇を作りながら彼の推測に対して肯定する。
そんなシュールな光景を無視して、ソラは更に考える。
彼の知っている世界は、彼の住むイエソドとその上層たるホド、ネツァクのみだ。しかし、更にその上の階層があること自体はソラも知っていた。
もし、この模様がルキナの言う通り世界の構造を示しているのだとしたら、世界は合計で10個あるということになる。
10個の円は直列に並んでいるわけではなく、ところどころ並列に並んでおり、それはおそらく"権限"のランクごとに分かれているのだろうと推測できる。
例えば横並びになっているホドとネツァクは同一ランクの権限しか持っておらず、お互いに対する命令権は持っていないのだろう。
彼女の説明と床の模様からすると、イエソドは下から2番目の階層であり、その次のランクはホド・ネツァク、その更に上はティファレトという階層ということだ。
そうして、階層を登っていくとたどり着くのは頂上の一個の円。恐らくそれこそが塔の頂上。
「"ケテル"」
そんなことを考えているとルキナがまた喋りだす。その右手は10個の円の頂点、正しく今ソラが見ていたものを指し示していた。
「…それがこの階層世界の名前か?」
「そう。頂上の階層。それが"ケテル"。どんな場所かは知らないけど、私はこの場所に行かないといけないことだけは覚えてる」
「…『自由』のために?」
「そう」
そこで彼女は話を区切る。
頂上に至れば何故自由になれるのか、それは彼女自身分かっていないらしい。
なのに自由になれるということだけは知っている。そんな矛盾を彼女は信じている、あるいは信じ込もうとしているようにソラは思えた。
「塔を登って"ケテル"に到達する。そこに何があるのかはわからない。だけどその果てには必ず『自由』がある」
「…」
「そのためにはいくつもの階層を潜り抜ける必要がある。そこで何が起こるのか、どんなモンスターを踏破しないといけないのかもわからない」
一つ分かることは、その道のりは困難極まりないということだけだ。
ソラの育ての親も、あれだけ塔を調べつくしたうえで、上の階層であるホドやネツァクに到達することなくイエソドのスラムで朽ち果てた。すなわち、塔を登って上の階層を目指すというのはそれだけ難しいことなのだ。
この床の模様からすると、イエソドから登らなければいけない階層は5個ある。層にしてみれば50は超えるだろう。
倒さなければならないモンスターは軽く千を超え、万にも届くかもしれない。
「だけど、ソラとなら行けると思う」
「―――」
だが、先日も言われた通り、彼女は何故かソラのことを信じていた。それこそ塔の頂上に自由があることと同じくらいには――
いつか夢見た空を飛ぶことは、ソラにとってはもうとっくに過ぎ去ってしまった過去に他ならない。
常識やルール、自身の能力に縛られたソラにとって、もはや塔に登るということは不可能な事だった。
故に、彼女の期待に対して、ソラの中からは否定の言葉が次々と噴き出そうになる。
――俺は違う。
――所詮はセナの言う通りの無能、ただの木偶の坊だ。
――才能がない。
――能力がない。
――足手まといになるだけ。
脳裏にあふれるのは、そんな常識への敗北を意味する言葉。
潔いと言えば恰好はいいが、実際のところ、現実に負け、挑戦を諦めた人間の哀れな言葉だ。
そんなありきたりな諦めの言葉たちは、しかし、ルキナに遮られた。
「返事は今じゃなくてもいい。一緒に行きたくなったら言ってほしい」
「ルキナ、俺は――」
「でも、きっとわかるはず。今のあなたはまだ理解できていないけど、いつかきっと」
ルキナはソラの返事を聞こうともせず、ただただ自身の思う事を口にする。間違いなく、ソラという人間はいつか必ず空を飛べると彼女は確信している。
ソラには分からない、わかるわけもない。
自身が信じられない自分のことを、目の前の少女はなぜ信じることができるのか。
そして、彼が理解できていないこととは何か。
「…何を言ってる?」
「私の言っている意味。そして――」
そこでルキナはふっと笑ってこういうのだ。
「あなた自身に生えた"翼"の意味を」
ルキナはそれ以上は語らず、ドームの壁面の模様に視線を戻した。
ソラは、彼女に気づかれないように小さく息を吐いた。
翼の意味、なんてものはわからない。だが、わからないながらも、胸の奥に妙な熱があるのは確かだった。
ありえない、と思っていたはずなのに。
あの巨大な塔を登るなどと、一週間前の自分が聞けば一笑に付したはずなのに。
それが何故なのか、ソラ自身にも説明がつかない。
ただ、隣のこの少女が「行ける」と言うと、不思議とそんな気がしてくる。
それはきっと、初めて他人の言葉に縋った瞬間で。
だからこそ、心の底にずっと張り付いていた諦めが、自分を縛る何かが、薄くなった気がしたのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
【階層世界ティファレト――???】
重苦しい静寂が満ちていた。広く、明るく、そして荘厳な空間だった。
天を突くような柱が並び立ち、頭上の天蓋はどこまでも高く、闇と光とが溶け合っている。
白一色の壁面は磨き抜かれ一切の汚れもなく、その輝き故に目が痛くなるほどだった。
全てが静まり返ったようなその場所は、足を踏み入れるたびに床が低く響く。その音すら、この場を乱す不敬に思える。
見渡せば目に入る調度品の数々は極めて品の良いモノで揃えられており、足元に敷かれた赤い絨毯はふかふかとした踏み心地をその上に立つものに伝えている。
そしてその奥には、大きな椅子――いや、玉座があった。
漆黒の石で築かれた高壇の上、黄金の装飾と宝玉が幾重にも嵌め込まれた椅子は、まるでひとつの城塞のように威容を放っている。
背凭れは天井へ届くほどにそびえ、その頂には10個の円と22個の線で構成された奇妙な模様があった。
その大きな玉座の上に、足を組んで座る男、いや少年の姿があった。
まるで絵画から飛び出てきたようなとでも言うべきであろうか。
白磁を思わせる肌は薄く光を透かし、細い手首や鎖骨の線が豪奢な衣の隙間から覗いている。
短いブロンドの髪から覗く長い睫毛に縁取られた瞳は翡翠のように澄み、こちらを映し返すたび、現実離れした冷ややかさと柔らかさが同居していた。
彼を一言で言い表すなら——華奢、そして美。その二つが、息づく存在としてそこにあった。
だが、その翡翠色の目の中には、別の何かがあった。そこに宿るのは、猜疑あるいは野心か。正確にその中にある感情は読めないが、本人の華奢な見た目に反するその苛烈さだけは見て取れた。
そしてその両隣には、これまた見目麗しい二人の女性が侍っていた。
一人は燃えるような赤い短髪に褐色の肌を持った、勝気そうな見た目の長身の美女。もう一人は氷の如く透き通るような青い長髪に病的なまでに白い肌を持った、冷ややかな表情をした低身長の美少女だ。
相反する見た目を持った二人が、真ん中の彼――王の周りに侍り、守護していた。
そしてそんな彼らの前には一人の男がいた。
王の前に跪き頭を垂れるその男もまた、目の前の王とその側近と同じく、かなりの美男子であった。
床に垂れるほどのブロンドの長髪が天井からの光を鮮やかに反射する。
玉座に座する王からは見えないように伏したその顔には、切れ長の目と高い鼻、薄い唇がバランスよく配置されている。
王ほど美しいわけではないが、それでも彫刻のように整った造形である。
服装は華美にして、機能的。彼の大きな痩身を覆う、美しさと動きやすさをあわせもったその服は、この階層世界――ティファレトの騎士団の象徴だ。
静寂が支配するその場で、最初に言葉を発したのは、王の隣に侍る青髪の少女だった。
彼女が冷ややかな表情のまま、目の前で跪く男に向かって話しかける。
「ではルクスフレア卿、勅命を受けていただけますね?」
「はっ」
男――マクスウェル・アモン・ルクスフレアは短く肯定の意を示す。
しかしその直後、マクスウェルは顔を上げる。そこに浮かんでいたのは――傲慢。
「ただし、賢明なる陛下に置かれましては、私の些末な望みを叶えていただきとうございます」
「貴様ッ――」
王の横に侍る赤髪の美女が、怒りを顕わにして一喝しようとするが、彼女の横にいる王が手を彼女に向ける。
そのジェスチャーを受けて、彼女は何かを言いたそうにしつつも、それ以上の言葉を噤んだ。
「それで要望は?」
青髪の彼女が彼に問いかける。
ただしその言葉は先程よりも一層冷え込んだものであり、彼女もまた現在の展開を面白いとは思っていない事が明白だった。
冷たい怒りを含んだその言葉に、しかし、マクスウェルは微塵も恐れを為した様子はなかった。
それは上記を逸した精神力が為せる技か、それともただ鈍感なだけなのか。
そんなマクスウェルは芝居がかった様子で、王を一心に見つめながら言った。
「ぜひ、この私を近衛騎士団にお取立てください」
その言葉に王の両隣に侍る二人の女性から、威圧感が溢れ出す。その圧力は今にも目の前の男を殺してしまいそうなほどだ。
しかし、マクスウェルは微塵もひるんでいない。柳に風と言ったところだろうか、二人から漏れ出る殺意を全く気にしてもいなかった。
そんな彼の態度を見た赤髪の女が、我慢ならず腰に携えた剣に手をかけたその時、
「良いだろう」
二人の女に挟まれた王が短く言った。
その鈴が鳴るような細やかで澄み渡る響きが、謁見の間に響き渡り、赤髪の彼女は手を剣から離す。
その言葉に、思わずマクスウェルは口の端を緩めかけるが――
「ただし、必ず成功させよ」
そんな彼を咎めるかのように、王は男に向けて鋭い刃を言葉に乗せた。
その言葉の氷点下の如き冷たさに、マクスウェルは動揺し、額から一筋の脂汗を流す。
しかし何とか平静を装い、
「はっ、必ずや成功させて見せます――」
再び頭を垂れながら、そういうのだった。
マクスウェルが去った後、謁見の間では二人の女性が愚痴を言い合っていた。
赤髪の彼女――イグナシアは額に青筋を立てて、怒りの言葉をぶちまける。
「あの野郎、足元見やがってッ!!」
烈火のごとく怒るイグナシアに対して、青髪の彼女――グラシアは冷ややかな表情を見せていた。
ただし、それは怒っていないという意味ではなく、彼女の憤怒は表面にでにくいというだけの話である。
「全くです。王に向ってあの口の聞きよう――到底許せるものではありません」
グラシアはイグナシアと同様――もしかしたらそれ以上に怒りの感情を覚えていた。
そんな怒りに満ちた二人の美女に挟まれながら、しかし王はそれほど、マクスウェルへの怒りを持ち合わせていなかった。
それよりも、今回の勅命に対する疑問が彼の頭を占めていたのだ。
先程の勅命は彼がマクスウェルへ出したものだが、実際はティファレトよりも上位に位置する階層から依頼されたものだった。
『最低階層イエソドにいる、白髪、赤目の女を捕縛せよ』
他にも色々と付属の情報があったが、ざっくりといえばそれが依頼の内容であった。
もちろん上層の者の命令を否定する事はできない。
業腹なことだが、王といっても、上層から見れば所詮は下層の人間だ。権限を使われれば、命令に従わざるを得ない。
さらに言うと今回の依頼に関しては報酬をちらつかされた。そしてそれは間違いなく、この階層の発展に役立つものだった。
結局、王はその命令を受けざるを得なかった。
何故、ティファレトに依頼したのか。その女とは何者か。何が目的か――。
色々と聞きたい事はあったが、一番気になったことは"この依頼がマクスウェル・アモン・ルクスフレアを指定していたこと"だ。
騎士団の中でも、いろいろな意味で目立っているマクスウェルのことを、王はよく知っている。
確かに彼は優秀だ。その能力は極めて強力で、素質という点ではティファレトの中でも群を抜いている。
本人の気質柄、塔を上ることは望んでいないだろうが、もし挑戦したのなら上層に到達しうる逸材であるとも考えている。
もちろん、今回の依頼の達成もほぼ確実であると見ていい。
しかし、何故彼なのか。
他にも色々と人材がいる中で、よりにもよってと言える人選である。
そう言えるくらいには彼の背景――というか人格については問題があると感じていた。
もちろん上層の者たちはそんなことは知らないのかもしれないが、それならば何故彼を選択したのかという疑問は依然残る。
正直に言って、かなり不可解だ。しかし、それに対する質問は"権限"により禁じられていた。
それもまた王が不可解に思う点の一つであった。何か理由がなくば、質問を封じることはすまい。
つまり、この件には何かがある。
「少し探るか」
王は小さく呟く。
その言葉は誰にも届かず、彼の心の中で響くのみであった。




