SIGMA 3.入会
死に物狂いで山を駆け降りたΣは、今どこにいるかもわからないまま街道を探して走り続けた。
何度かΡに連れられて街へ行ったことはあったが、逃げなければならないとだけ考えていた頭に街へのルートなど思いつくはずもなく、気付けば空は白み始め、口の中が血の味でいっぱいになっていた。
「どうしたの?こんなところで」
仰向けになり途方に暮れていたΣの顔を覗き込んできたのは、黒を基調としていながらも白のアクセントと銀による意匠が凝らされた服を纏った金髪の女性だった。
その瞳と豊満な胸から目を逸らすと、その先には馬車が停まっていた。どうやらわざわざ馬車から降りて声をかけてくれたらしい。
「師匠が……『ドゥクス』に……」
Σは息絶え絶えとなりながらも、なんとか事態を女性に伝えた。
「そのお師匠様の名前は?」
「『鉄拳』Ρです。本名は知らないですけど」
Σを元気付けようとニコニコしながら話を聞いていた女性だが、Ρの名前を聞いた途端にその顔が険しいものになった。
「あなた怪我は?」
「してない……はずです……」
「そう。じゃあついてきてくれるかしら?」
「えっ」
帰る場所も無いΣにとってはある意味嬉しい誘いだったが、その行き先は想像していなかった場所だった。しかしそここそがΣの行くべき場所でもあった。
「私は教会騎士のメーテル・リジェンヌ。来てほしいの、『教会』の南東大陸支部へ」
メーテルは治癒の力を秘めた断魔晶の所有者であり、道中でΣは怪我を癒してもらった。どうやら走っている最中に何度か転んだことで肌がところどころ傷ついていたようだ。
Σは知る由も無かったが、なんとΡは『教会』南東大陸支部の支部長であるという。仕事をサボっては山で隠居し雑務を副支部長へ押し付けていたそうだが、戦闘面では『教会』屈指の強さであり機械人形の殲滅力の観点では『教会』でも三番目の高さだという。
南東大陸においては文字通りの最強だったことからメーテルはΡの名を聞いたことで頭を抱えたのだった。
そんな話を聞きながら馬車に揺られていると疲れからか視界が狭まっていき、目を覚ました時には白い天井と暖かいベッドがΣを包んでいた。
「ここは……」
「目ェ覚めたか、小僧」
どこからか男の声が聞こえた。右の窓の外には誰もおらず、正面にも誰もいない。左のドアの方にも誰も……と思いきや、視界の下の方に男が寝転がっているのが見えた。
「うわっ」
「元気そうだな。よし」
地面に寝転がっていた大男は起き上がり、Σの頭をポンポンと叩いた。
「俺は『教会』南東大陸支部副支部長のアラーテル・フォン・リーデンスだ。よろしくな小僧」
「あ、はい」
「寝起きで悪いんだが、詳しい話を聞かせてくれ。簡単なことはメーテルから聞いたが、ちゃんとしたことは直接聞かないといけないからな」
そう言ったアラーテル副支部長は椅子に腰掛けコップに水を入れると、Σに手渡した。毒なんか入ってねえよ、と言わんばかりにもう一つのコップにも水を入れ一気に飲み干し、話を聞きやすいように身体をΣの方へと近付けた。
アラーテル副支部長もメーテルと同じ服装をしており、Σはこれが『教会』の制服なのだろうと察した。その上で目の前の男を信頼しなければいけない、と腹を括り自分が転移してきたこと以外を包み隠さず話した。
「それでこの断魔晶を持っていたわけか」
「あ、それ」
「奪いやしねえよ。所有者は既にお前さんだ」
アラーテル副支部長曰く、断魔晶は人が産まれると共に世界のどこかに現れ、それが体内に宿るパターンと世界のランダムな場所に出現するパターンがあるらしい。前者は潜在型といい概念的な能力が多く身体能力も底上げされるが他者に譲渡できず、後者は武器の形に加工され戦闘に向いたものが多く他者への譲渡が可能だが身体能力は変わらない。
メーテルの断魔晶は前者であり、アラーテル副支部長とΡは後者の断魔晶であるという。
そしてΣの逃げる直前にΡの断魔晶はΣへ譲渡されたということになる。
「とりあえずこれだけは先に謝っておく。今『ドゥクス』をどうにかするのは無理だ。申し訳ない」
屈強な肉体の男は深々と頭を下げ、地面を濡らした。
「南東大陸で最強のΡが倒された。となれば少なくとも南東大陸だけでは歯が立たない。すぐにでもこちらへ攻め込まれれば南東大陸支部は壊滅する。その上で君に問いたい」
そう言ってアラーテル副支部長は顔を上げてΣの目の奥を覗き込んだ。
「住む場所は手配する。どこか遠くの地で隠れて暮らすか、我々と共にΡの仇を討つか。好きな方を選んでくれ」
「戦います」
いくらΡに鍛えられたとはいえ、元々Σは異世界から来た一般人である。戦う義務などどこにも存在しないのだが、Σはそれ以上にΡへの恩義を強く感じていた。
もしかしたら元の世界へ帰る手立てが見つかるかもしれない。そう考えてもいたのだが、今はこれを伝える必要は無いとも判断した。
戦うと即答されたアラーテル副支部長は少々驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかい表情へと変わり左手を差し出した。
「ありがとう。よろしく頼むよ小僧」
「Σです」
左手の握手は何かの理由でマナー違反だと思っていたが、どうやらこの世界では違うようだ。Ρとは握手なぞすることが無かったため知る由も無かった。改めてこの世界の常識に驚きながらもΣはアラーテル副支部長に左手を差し出し固く握手した。
Ρに鍛えられていたΣは教会騎士になった後、メキメキと頭角を現した。
Ρの修行が厳しかっただけであり、『教会』での修行はΣにとって朝飯前だった。さらに言えば持ち前の体術に加えて闘気の扱い方とΡの断魔晶の扱い方を学んだことで、これまでのΣとは比べ物にならないほどの成長となった。
しかし断魔晶についてはそんなΣであっても扱いに一苦労した。適当に宙に放って冷房代わりにしている姿以外を見たことがなかったため、発動条件が全くわからなかったのである。
「顕在型なんてのはな、起きろって適当に心で呼びかければ勝手に発動するんだよ。少なくとも俺のエレンはそうだ」
アラーテル副支部長にアドバイスを貰ったことでなんとか起動させることができたものの、周囲に冷気を発する断魔晶をどうやって戦闘に活かすのかは皆目見当がつかなかった。だからΡも断魔晶を使わなかったのか、とΣは結論づけた。
結局『鉄拳』と闘気だけで戦うようになり、入会から二ヶ月ほど経つ頃には一対一の戦いでアラーテル副支部長に肉薄するほどの強さを身につけた。
そしてその頃には断魔晶もΣに見せてこなかった姿を見せるようになった。
「他人へ譲渡した断魔晶は同じ進化をするとは限らない。元々Ρ支部長はまともに断魔晶を使っていなかったが、もしかしたら小僧はΡ支部長よりも上手く断魔晶を扱えるかもな」
周囲をほんのり凍てつかせるだけの断魔晶はその範囲をΣの拳の周囲だけに絞り始め、Σの打撃に冷気が加わるようになった。さらに崩廻に達すると広範囲を冷気で覆うようになり、攻防一体の冷気の空間を支配するまでに至った。断魔晶で創られる氷は熱に弱いとされているが、Σの断魔晶は熱すらも跳ね除け、『教会』で最も堅牢な盾と称されるほどだった。
遂には『教会』設立以降初となる顕在型断魔晶の崩廻Ⅱへと至ったことでΣは齢三十にして元帥の称号と『鉄拳』の二つ名を得ることになった。




