SIGMA 2.修行
「そうじゃない。しっかり腰を落とせ」
女――Ρの修行は厳しいものだった。
言葉の勉強も兼ねて武術の修行もすることになったのである。
Ρは『鉄拳』と呼ばれる一子相伝の武術の使い手らしく、山林の中に山小屋を構えて修行に勤しんでいるという。厳密には実子への伝授ではないため一子相伝ではないのだが、異世界に転移したという事実に比べれば些細なことだろう。
言葉に限らずこの世界の基礎知識について青年は知らないことしかなかったため、それを教えてもらいながら武術も教えられるという実にハードな生活を送ることになった。
まずこの世界の言語形態は日本語とは全く違うことを理解した。どちらかといえば英語の方が近いのだが、それでも英語よりも複雑な文法だった。
また異世界の定番と言うべきか、機械人形なる人を殺すだけの生命体が存在していることも判明した。これに対抗する力が断魔晶であり、Ρの腰のホルスターに入っているものがそれだとも教えてもらった。
Ρはこの断魔晶を用いて機械人形を倒し、機械人形の親玉である『ドゥクス』を倒さんと頑張る組織『教会』に所属する教会騎士の一人でもあるというが、Ρ自身は断魔晶を特別な力とは思っていないらしく教会騎士の仕事も放ったらかしているという。
暦も地球とは異なり、およそ三百六十日で一年であることに変わりはないが、一ヶ月はおよそ四十日で九ヶ月しかないという。
世界は五つの大陸が存在しているようで、この山小屋のある大陸は南東にある南東大陸だという。地図の右端から真っ直ぐ突き進むと左端へ、上から真っ直ぐ突き進むと下へ出るような世界のようで、この星が球状ではないと青年は理解した。どこのRPGの地図だよと思いながら眺めていると、中央大陸の沿岸に他の四大陸の沿岸が綺麗に当て嵌まりそうであることに気付く。
「五つの大陸って元々一つだったんですか?」
「そういう話もあるな。こんな本もあるから暇な時に読めばいい」
そう言ってΡは『ダンダーリャ英雄譚』なる本を青年へ渡した。村を出奔したダンダーリャが村の近所を縄張りとする獅子を倒してから世界中を巡り、終盤では世界を支配する巨悪と戦った余波で一つの大陸は五つへと分かたれたという話である。そして最後には空間を裂きダンダーリャは姿を消して話が終わる。断魔晶のある世界とはいえ突拍子もない話であり青年にとってはあまりそそられない話だった。
そしてこれは青年が自分で気付いたことだが、どうやらこの世界の重力は地球よりも弱いようで、軽くジャンプしただけでも地球にいた頃よりも高く跳ぶことができた。
「は?そんなの自力なわけがないだろう」
「いやでも師匠は木よりもずっと高く跳んでたじゃないですか」
「それじゃ闘気の修行でもするか?お前にはまだ早いよΣ」
闘気というものがこの世界には存在し、それを身に纏うことで教会騎士は戦うらしい。この闘気は攻撃の威力を上げるだけでなく、防御にも移動にも応用が効く便利なものだという。
青年はΣという名前を与えられ、本格的にΡの元で修行を積むことになった。
一応この世界の言葉を理解した後に自己紹介をしたのだが、名前が難解でわかりづらいと言われΣという名前を与えられたのである。
寄りつく者は身体目当ての下郎ばかりでΡには弟子が全然できなかったらしく、純粋に自分の元で修行を積むΣのことを弟子として勝手に認定したようだ。Σも当初はΡのグラマラスな身体に惹かれたものだが、修行でしごかれていると下心などとうの昔に消え失せていた。
しかしΣはずっと『鉄拳』の修行のみで、闘気については全く教えてもらえなかった。Ρ曰く、機械人形と戦わず人を倒すための活人拳で闘気は要らないとのことである。
そんな修行に明け暮れる日々を過ごし、気付けば実に五年もの月日が経っていた。
「そういえば師匠の師匠はどんな人だったんですか?」
ここしばらくは時折Ρの機械人形討伐を見学しながら自分の動きを洗練することを続けていた。
相変わらずΡの肉体は美しく眼福だと思っていたところで、ふと先程の疑問が浮かび上がってきたのだ。
「どんな?それは見た目の話か?性格の話か?」
「どっちもです」
小屋の近くには一際高い木が生えており、そこから伸びている頑丈な枝に膝を引っ掛けてΡは腹筋をしながら思い返してみた。
「とりあえず性格はカスの一言に尽きるな。修行とか言いながら私の体をべたべた触ってきやがった変人だ。今でも許せねえ」
「ということは男の人ですか?」
「いや、女だ。男みたいな性格だったけどな」
Ρの体を触っていた師匠というのが女だと聞いてなんとなくΣは安心した。
「そういうところはカスだったけどな。それでも身寄りの無い私を育て鍛えてくれたことに恩義は感じてるよ」
腹筋を止めることなく、淡々とΡは語り続ける。
「でも死んじまったからなあ」
「戦いで、ですか?」
「ああ」
そう言うと、Ρは腹筋をやめて木の枝に宙吊りになった。
「実は『鉄拳』の中には闘気の修行もちゃんと含まれてるんだ。それで強くなった気でいた私は遭遇した機械人形から逃げずに戦おうとしたんだよ。何体か倒して慢心してるところで後ろにいたヤツから不意を突かれそうになった。それを庇ってくれた結果、師匠は致命傷を負って、戦いの後に死んじまった。……私が死なせたんだ」
段々と声量は小さくなり、最後には呟くように言っていたものの、全てΣの耳には入っていた。
「……すみません」
「だから私はお前に闘気を教えないんだ。調子に乗られても困るからな」
辛いことを思い出させてしまったと謝るΣだったが、Ρの声の調子は既にいつも通りに戻っていた。
「私に無駄話をさせたな?いつもの倍はやってもらうからな?」
「ひええ」
迂闊に話題を出してはいけないと心に誓ったΣだったが、それと同時に闘気の使い方を見て盗むことも決意した。
そんな話を聞いてからおよそ一ヶ月が経ったある日、二人の日常は唐突に終わりを告げることになる。
それはカラッと晴れた日の夜に訪れた。
「起きろ!」
寝ているΣの耳に入ってきたΡの声で、Σは咄嗟に反応して布団から飛び起きた。
Σの視界には手を伸ばしてΣを庇うΡの後ろ姿と、見たことのないオールバックの男の姿があった。
「私に何かあったら『教会』の南東大陸支部に行け。そこならお前を助けてくれる」
「えっ」
「いいから」
そう言ってこちらを振り向いたΡの額からは血が流れているのが見えた。
「何の用だ、『ドゥクス』」
Ρは目の前の男へと話しかける。
Σはその名に聞き覚えがあった。機械人形を世界へばら撒き、人を殺すことに精を出している集団の名だったはずだ。
「さっきも言ったがね。君を純粋な戦力としてスカウトしたいんだよ」
そう言って男は歩み寄ってくる。
両掌をこちらに見せてきており、一見すると無防備なように見える。しかし修行を経たΣにはそうではないことが理解できていた。
それは無論Ρも同様であった。
だからこそΡは無闇に反撃には転じず、Σを庇いながら構えるだけであった。
「お前達の人殺しに加担するつもりなど無い」
「人殺し?心外だな。我々は好んで人を殺しているわけではない。できれば死んでほしくなどないというのに」
行動とは裏腹に矛盾に塗れた言葉だったが、どうやら男は本気でそう思っているらしい。
「でもどうしてもと言うなら……そこの弟子かな?彼を殺せば力を貸してくれるのかな?」
「貴様!」
男の脅し文句に激昂したΡは、床が割れんばかりの勢いで地を蹴り男へ左ストレートを叩き込む。
しかし男は最小限の動きでそれを回避し、右の手刀をΡ目掛けて振り下ろした。
Ρがそれだけでやられるはずもなく、右に避けたかと思えばそのまま男の左の二の腕を掴んで床へ男を叩きつけた。
「いいぞ、それでこそ私の欲する人材だ」
「黙れ!」
足元の男の顔目掛けてΡは蹴り抜いたが、男はそれを額で受け止めた。
「怒りで動きが単調になっているぞ?」
Ρの蹴った足を掴み、そのまま足を引っ張ることで男はΡを床へと叩きつけた。
「Σ!行け!」
Ρはそう叫ぶと、腰の断魔晶をΣへと投げつけた。
「えっ」
「振り向くな!走れ!」
Σはしばし逡巡した。
しかし今の力のまま男に一矢報いることができるとも思えなかった。
その結果――Σは逃げ出した。
幼い頃の鬼ごっこよりも、運動会のかけっこよりも、これまで生きてきた中で最も速い走りだっただろう。
「……まあ、彼の成長に期待しようか」
そんな声が聞こえた気がした。
あの忌々しい『ドゥクス』めが。いつか必ず――。




