SIGMA 1.転移
大学へ進学し、六つ歳の離れた幼馴染である白附雫の家庭教師を終えた帰りに、それは青年の身に突然降りかかった。
「あれ……?」
先程までアスファルトの上を踏みしめていたはずだが、今の青年の足元はアスファルトよりも硬く雲よりも柔らかい、非現実的な場所となっていた。
周囲も白く、果てが見えない空間だ。
青年はかつてプレイしていたゲームに出てくる城を連想したが、いやあれはお菓子に変えられていたなと思い返した。
「そんなことよりここどこだよ」
青年は帰りの寄り道などせず約束を違えない勤勉な大学生であった。
雫の家庭教師においては必要な道具を全て雫の家に置いたままであり、その往復で青年に荷物は無い。
上は「Justice」などと書かれた雫曰く意味わかんない変なTシャツ、下は年中履いても問題無いと考えているジーパン、そして靴下にサンダルという雫の家を訪れる際のお決まりの軽装だった。勉強には不要ということで財布も携帯電話も持っていなかった。
アリアドネの糸のように道標にできそうなものが何一つ無かったが、このままでは埒があかないと判断した青年はとりあえず歩いてみることにした。いつか壁に当たるかもしれない、いつか扉が現れるかもしれない、そう信じて。
――青年の体感で三十分ほどが経過しても何の成果も得られなかった。
景色も一向に変わる気配が無く、まだ田舎の田畑を眺めていた方がマシだと思い始めてきた。
「誰かいねえのかよ〜」
人より根気強い自信のある青年だったが、どこまでも変わらない風景と非現実的な空間には流石に気が滅入ってしまった。
ちょうどその時だった。
「何事かと思えばまた迷い人か。ん?」
「うわっ!」
真っ白な空間の虚空より突如、トーガのような服を着た男が姿を現した。
宙を見上げていた青年の眼前に現れたため、青年は驚きのあまり後ろへ倒れてしまった。
「大丈夫か?」
「あ、ありがとうございます……」
男に差し出された手を取り、青年は立ち上がる。
手の感触が無い。
そして同時に悟った。目の前の男は人ではなく、この空間も人のものではない。
「驚かせたな。だが安心したまえ。君を元の場所に帰してやろう」
男は両手を広げ、青年にそう告げた。
「帰してくれるんですか!」
「当然だよ。ここは君のいるべき場所ではない」
両手を広げたまま男はにっこりと微笑む。その言葉、その表情になぜか青年は安心してしまった。
「じゃあね」
男の両掌が輝き始め、その眩しさに青年は目を瞑った。
――サンダルで踏みしめるは土の感触。木々の香り、虫の鳴き声。
青年が目を開いたそこは、見知らぬ林の中だった。
「どこだよここ……」
帰路に戻してもらえると思っていた青年は、自分が騙されたと考えた。
そもそも一瞬で見知らぬ林の中に移動するなど人智を超越している所業である。青年は男のことをとりあえず神と呼ぶことにし、林の中の散策を始めた。
近所に森林公園と呼ばれる林はあるものの、そこに生えている木とは比べ物にならないほどの巨木が乱立している。何の木かわからないうちは不用意に触れるとカブれる可能性があると考え、時折木の根が隆起している不安定な足場を一歩ずつ踏みしめて歩いていく。
辺りが薄暗いことから夜なのだろうと勝手に決めつけていたが、よくよく周囲を見渡してみると靄に包まれていることに気付いたため朝だと断定した。
地面に若干の傾斜があることに気付いた青年は、上の方を目指して歩みを進めていった。山で遭難した場合は上を目指せという豆知識を実践したのだが、この判断は間違いでなかったとすぐに思い知ることとなる。
しばらく歩くと、やや開けた場所があることに気付いた。
木でできた家らしきものが建っているが、他に建造物は見当たらない。林の真ん中で生活しているのだろうかと疑問に思っていると、突如背後から喉元に殺気を感じた。
「Kainonasuchi sokunintonamichi misuchimichi? Kainonami sokunitonamichi misuchimichi nonanitonani?」
聞いたことのない女の声による言語と喉元の手刀で、青年は身の危険を感じ、咄嗟にだがゆっくりと両手を上げた。
「えっと、ここどこですかね?日本語わかります?」
振り返ると命を取られるかもしれない。そう思った青年は家のある方を向いたまま背後を振り返らずに尋ねてみた。
「……Sokunitoitoisokunitonanimoninochisunin nochinonanitonani minikara monisuchi nonasuchikaranochiminisunimininochin」
喉元の手刀が下ろされたようで、青年は手を上げたまま後ろを振り返った。
そこには綺麗な黒髪をポニーテールにした豊満な胸の女性がいた。下には道着のようなものを履いているが、上はさらしを巻いているのみであり年頃の男子である青年の股間には非常に悪い格好であった。よく見ると手刀をしていたであろう手にはバンテージが巻かれており、腰には拳銃のホルスターのようなものがついているが拳銃らしきものが刺さっているようには見えない。そして女はサンダルはおろか靴下すら履いておらず素足のまま林の中に立っていた。
女はそのまま青年の隣を抜けて家らしき建物に向かって歩いて行った。青年がそれを眺めていると、途中で振り返り左の手のひらを上に向けて掬うような動作をした。
「ついてこい、ってことか?」
今の青年には頼るアテも無く林の中に放置されるのも困るため、ついていくことにした。しかし何よりもやや歳上であろう黒髪ポニテ武道美人と少しでもお近付きになれるのなら満更でもないと思ったのが、一番の決め手だった。
残念なことに、青年の言葉は何一つ女に届かず、女の言葉も何一つ青年には届かなかった。
しかし女が興味を示したものがあった。青年の履いていたサンダルである。エスカレーターの巻き込み事故に繋がるということで一時期非難を浴びていたものだが、女は興味深そうに目を輝かせて検分を始めた。
一方で青年は観察するだけであったが家の中の物に興味を持った。特に本棚である。本棚はその人の性格を表す、などというが本のタイトルは何一つ読むことができなかった。アルファベットでもなければハングル文字やアラビア文字でもない。かといってロシア語の速記のような文字でもなかった。
謎の言語に文字、さらに未知の場所への不可解な移動。青年はこれを異世界転移だと考えた。もしかしたら地球のどこか違う場所に放り出されたのかもしれないが、それにしては女の格好がアジア人に近すぎる。艶のある黒髪や顔立ちは日本人に近く、履いている道着も細部は違うが空手や柔道のそれに近い。何よりも腰のホルスターのようなものが異質である。
どうせ異世界転移するのであれば日本語の通じる世界がよかったと考えたが、そう都合の良いものではないらしいと諦めた。
元の世界へ帰る術も見当がつかないので、とりあえず言葉を教えてほしいということを女に伝えてみた。当然伝わるものでもないが、本棚の適当な本を取り出して開いては首を傾げてを繰り返した。その姿を見てため息を吐いた女は本を取り上げて本棚へ戻し、青年の頭をわしゃわしゃと撫でると台所のような場所に向かって歩き始めた。
この日から青年と女の奇妙な共同生活が始まった。




