8話 小さな約束
充実した創太の日常は、穏やかなものになっていた。
そんなある日から、観客席の最前列に、いつも同じ場所に座る小さなウサギ獣人の女の子がやってくるようになった。
歳の頃は7、8歳だろうか。白く長い耳をぴょこぴょこと揺らしながら、結界の向こうの創太を、大きな瞳でじっと見つめている。
周囲の子供たちは、火を起こす創太を見て「すごい!」「お母さん見て!」と大声ではしゃいでいた。
だが、そのウサギの女の子だけは、いつも一言も喋らない。ただ静かに、前を向いて創太の動きを目で追うだけだった。
そして、周りがどんなに騒がしくても、まるで声が聞こえないかのように真っ直ぐ、前しか見てなかった。
元社畜で周囲の空気を読むことに長けていた創太は、ふと気になり、焼き魚を食べ終えた箸を置いて、結界の境界線ギリギリまで歩み寄った。
女の子はビクッと体を強張らせたが、逃げようとはしなかった。
近くで見ると、彼女の服は少し古びていて、いつも一人きりだった。
実は、彼女――リーリには、辛い身の上話があった。生まれつき耳が聞こえないリーリは、言葉を喋ることができなかった。
この世界にはまだ「手話」がなく、耳が聞こえない者は意思疎通を諦めるしかない時代。学校にも馴染めず、周囲からは「何も分からない可哀想な子」と腫れ物のように扱われていた。
「あの子と一緒にいても楽しくない」と友達からも置いてきぼりにされ、行き場を失ったリーリが、寂しさを紛らわせるために毎日通っていたのが、この動物園だったのだ。
そんな孤独なリーリの前に、全裸のハダカザル(39歳)がしゃがみ込んだ。
創太は岩の上に腰掛け、女の子と目線を合わせると、まずは自分の胸に手を当て、それから頭を下げた。
『こんにちは』という意味の、丁寧なビジネスお辞儀。リーリは不思議そうに小首を傾げた。
創太はふと思いつき、自分の耳を指さしてから、首を横に振ってみせた。『お耳、聞こえないの?』
その瞬間、リーリの大きな瞳が丸くなった。今まで出会った大人はみんな、自分に大声で話しかけるか、哀れみの目を向けるだけだった。
なのに、この目の前の生き物は、自分と同じ「言葉を使わない方法」で、真っ直ぐに自分に問いかけてくれたのだ。
ハダカザルは言葉が分からないからいつものようにジェスチャーで会話しようとしただけだったが結果オーライ。
リーリは小さく頷くと、自分の耳を指さし、同じように首を振った。
(やっぱりそうか。耳が聞こえないんだな……。そうなると喋るのも厳しいのかな。)
創太は優しく微笑むと、かつて日本の会社でボランティアとして習った「手話」の記憶を呼び起こした。
両手の親指を立てて、交互に前後に動かす。日本の手話で『友達』という意味だ。
それから創太は、自分を指さし、次に結界の向こうのリーリを指さした。
『俺たち、友達になろう』
リーリは息を呑んだ。言葉は聞こえない。だけど、指先と表情だけで、目の前のハダカザルが自分をひとりの「人間(知性体)」として扱い、温かいメッセージを届けてくれている。
その意味が、彼女の閉ざされていた心に痛いほど伝わってきた。「……っ」リーリの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
世界から拒絶されていると思っていた自分が、檻の中の、誰とも言葉が通じないはずのハダカザルと、今、世界で二人だけの言葉で繋がっている。
彼女は泣き笑いのような表情を浮かべながら、不器用な手つきで、創太の真似をして親指を交互に動かした。
『ともだち』
二人は結界越しに、小さな手を合わせるようにして笑い合った。その様子を、物陰から担当飼育員のナターシャが見つめていた。
彼女の翡翠色の瞳には、もう恐怖の色はなかった。あるのは、深い驚きと、胸を打たれるような感動だ。
(あのハダカザル……呪術を使っているんじゃないわ。指先の動きだけで、孤独だったあの女の子と心を通わせている……。なんて優しくて、高潔な生き物なの……!)
ナターシャは胸を熱くしながら、その光景を静かに魔導携帯に収めた。この動画は夜、SNSに投稿され、『【涙腺崩壊】ハダカザル、耳の聞こえない少女と「指先の言葉」で心を通わせる』として、世界中に凄まじい感動の嵐を巻き起こした。
この日を境に、リーリの人生は180度変わった。彼女は毎日創太のもとに通い、驚くべき速さで「指先の言葉」を吸収していった。
たった、一つの出会いが、今まで踏み出せなかった一歩からやっと前に進む事が出来たのだった。
創太に会うたび、リーリの表情はどんどん明るく、豊かになっていく。
リーリはのちに、この異世界で初めて「手話体系」を確立し、数多くの障害を持つ人々を救うことになる、歴史的な偉人の幼き日の姿であった。
そんな未来のことはまだ誰も知らない。
全裸のおっさんと、小さなウサギの女の子は、今日も檻の境界線で、楽しそうに手と手を動かして笑い合うのだった。
待遇はナターシャの冷たい視線が少しだけ和らいだ。だけど、ハダカザルの体を刺す冷たい視線を防ぐ服は手に入らなかった。




