12話 じゃんけんぽんの魔法
お風呂ブームが世界中へ広がり、創太が「風呂の神」として崇められるようになっても、檻の中の日常は変わらず穏やかだった。
ただ一つ変わったことといえば、ウサギ獣人の女の子・リーリとの交流だ。
毎日通ってくれる彼女は、創太が教える手話を少しずつ覚え、今では身振り手振りを交えながら、簡単な意思疎通ができるレベルになっていた。
ある日の夕方、観客がまばらになった時間帯。リーリはいつもより少し耳をへにょんと垂らして、悲しそうな顔で結界の前に座っていた。
創太は高級露天風呂から上がり、腰にバスタオルを巻いた姿で彼女の前にしゃがみ込む。
『どうしたの?』と、覚えたてのジェスチャーで問いかけた。
リーリは小さな手を一生懸命に動かした。
『学校、行った。でも、友達、いない。おしゃべり、だめ。寂しい』
言葉の壁、そして耳が聞こえないという心の壁。簡単なジェスチャーを覚えたリーリだったが、学校の子供たちはそれを受け入れてくれない。
結局、学校では孤立してしまっているようだった。
(なるほどな……。言葉の要らない、子供同士が一瞬で仲良くなれるような遊びがあればいいんだが……)
39歳のアラフォー元社畜は、腕を組んでうーんと唸った。
複雑なルールのゲームは、リーリが説明できない。言葉を使わず、ルールがシンプルで、勝っても負けても笑顔になれるもの。
(……よし、あれしかないな)
創太は顔を上げると、リーリに『これを見て』と手話で合図した。
そして、右手を握って突き出す。「石」。次に、人差し指と中指を出す。「ハサミ(チョキ)」。最後に、手のひらを広げる。「紙」。それぞれの強弱関係を、ジェスチャーを交えて丁寧に教え込んだ。
賢いリーリはすぐに理解し、目を輝かせる。『じゃん、けん、ぽん!』結界越しに、全裸のおっさんとウサギの女の子の手が突き出される。
グーとパー。
創太の負けだ。リーリが嬉しそうにパッと表情を明るくした。(よし、仕上げだ)創太は人差し指を立てて、リーリの顔の前に突き出した。
『じゃんけんの後に、こっちが指を動かした方向に、顔を向けるんだ。もし同じ方向を向いちゃったら、負け』日本が誇る究極のコミュニケーションゲーム、「あっち向いてホイ」の伝授だった。
『じゃんけんぽん! あっち向いて――ホイ!』創太が指を右に向けると、リーリもつられて右を向いてしまった。
「あはは、俺の勝ち!」と創太が笑うと、リーリは悔しそうに、でも本当に楽しそうに声を上げて笑った。
言葉はなくても、二人の間には完璧な笑顔の応酬があった。創太はリーリの両手を優しく包み込むようにして、手話で伝えた。
『これを、学校でやってごらん。言葉はいらない。きっと、みんな笑顔になるから』
リーリは力強く何度も頷き、その日は宝物を見つけたような笑顔で帰っていった。
それからの効果は劇的だった。リーリが学校で披露した「じゃんけん」と「あっち向いてホイ」は、言葉の要らない画期的なゲームとして、子供たちの間で爆発的な大流行を巻き起こした。
最初は遠巻きに見ていた子供たちも、「私にもやらせて!」「次は僕!」とリーリの周りに殺到。気づけばリーリは学校の輪の中心にいたのだ。
その結果――毎日、開園と同時に動物園に通いつめていたリーリの姿が、次第に少なくなっていった。週に5日だったのが、週に3日になり、やがて週末だけになり……。
また、前向きになった彼女は、読唇術も少しずつ出来るようになった。何と簡単な言葉も話せるようになったのだ。
学校に自分の居場所を見つけたリーリは、徐々に「普通の小学生」としての生活を送り始めたのだった。
夕暮れ時。
誰もいなくなった静かな展示スペースで、創太は一人、マイ箸で焼き魚をつつついた。
「……なんか、静かだな」
ぽつりと言葉が漏れる。サビ残と満員電車の世界から解放され、ここは天国のように快適だ。飯も美味い、トイレも風呂も最高。
だけど、ほんの少しだけ、胸の奥がチクリと痛むような寂しさがあった。
おじさんを置いて、少女は自分の世界へと歩き出していったのだ。
ふと、いつもリーリが座っていた最前列の観客席を見る。そこには当然、今は誰もいない。創太は箸を置くと、バスタオルを巻いたまま、誰もいない空間に向かって、そっと右手を突き出した。(チョキ)誰も「グー」を出してはくれない。
だけど、創太は夕日に染まる異世界の空を見上げながら、少しだけ誇らしげに、静かな微笑みを浮かべるのだった。
「……うまくやったな、リーリ」
寂しさと、前職で大きなプロジェクトを成功させた時のような、不器用な達成感。
アラフォーの男の胸には、心地よい秋風が吹き抜けていた。
待遇は相変わらずだった。だけど、檻の中は少しだけ、広くなったように感じられた。何か大事なものを見つけたように感じられた。しかし、服はどこにも見つからなかった。




