第2話 予言の目覚め
帝国暦1262年、春の終わり。
黒棘の家に、穏やかな陽光が差し込んでいた。
雪が完全に溶け、裏山の木々が薄緑の芽を吹き始めていた。
孤児院の子供たちは外で遊び回り、笑い声が絶えなかった。
ヴェルナとミリアーナの「黒棘の双剣」は、すっかり孤児院の中心となっていた。
ヴェルナは十歳になり、ますます逞しくなっていた。
棍棒を振るう力は大人顔負けで、野良犬の群れを追い払った話は今も子供たちの間で語り草になっていた。
ミリアーナは九歳。
黒髪を丁寧に結い、いつも穏やかな笑顔を浮かべ、子供たちの相談役として慕われていた。
二人はいつも一緒にいた。
食事の時間、勉強の時間、寝る時間。ヴェルナが荒々しく行動すれば、ミリアーナが冷静にフォローする。
完璧な補完関係だった。
「ミリアーナ、今日も一緒に山に行くぞ。
新しい木の実を見つけたんだ」
ヴェルナが元気よく誘うと、ミリアーナは優しく頷いた。
「ええ。でも、無理はしないでね、ヴェルナ」
しかし、その夜——すべてが変わった。
深夜、孤児院は静まり返っていた。
ミリアーナは自分の粗末なベッドで、激しい頭痛にうめいていた。
額に汗がびっしょりと浮かび、息が荒い。
隣で寝息を立てるヴェルナの姿が、ぼんやりと見えた。
「……痛い……」
小さな体が震えた。
突然、視界が真っ白に染まった。
頭の中に、見たこともない光景が洪水のように流れ込んできた。
——未来の断片——
燃え盛る帝都。
血に染まった玉座の間。
黒い翼を広げたヴェルナが、笑いながら皇帝の首を掴み上げている。
赤い瞳は狂気に満ち、地面には無数の骸が転がっていた。
七剣の仲間たちが、ヴェルナの剣によって次々と倒れていく。
大陸全体が炎と血の海に沈み、最後にヴェルナ自身が孤独の中で灰と化す姿。
「いや……!」
ミリアーナは声を押し殺して叫んだ。
体が硬直し、両目から熱い血の涙が流れ落ちた。
口の中に鉄の味が広がり、吐き気が込み上げる。
予言はさらに続いた。
ヴェルナが「黒翼の魔王」として帝国を滅ぼす未来。
自分自身がその引き金となる可能性。
そして——自分がヴェルナを裏切り、憎しみの対象になることでしか、その最悪の未来を回避できないという、残酷な選択肢。
幻視が終わった瞬間、ミリアーナはベッドから転げ落ちた。
床に血の染みが広がる。
激しい頭痛が脳を針で刺すように襲ってきた。
「……ヴェルナ……あなたが……そんなことに……」
彼女は震える手で口を押さえた。
記憶が、欠け始めていた。
昨日の夕方、ヴェルナと一緒に食べた木の実の味。
二人が笑いながら交わした「永遠に一緒にいよう」という約束の細部。
それらが、霧のように薄れていく。
「う……あ……」
ミリアーナは床にうずくまり、必死に声を殺して泣いた。
小さな肩が激しく震え、血の涙が床板を濡らした。
翌朝、ミリアーナはいつもの笑顔を無理やり作って起きた。
顔色は悪く、目の下に薄い隈ができていたが、ヴェルナには気づかれないよう努めた。
「おはよう、ヴェルナ。今日も一緒に頑張りましょうね」
「ん? なんか顔色悪いぞ。風邪か?」
ヴェルナが心配そうに覗き込む。
ミリアーナは首を振り、微笑んだ。
「大丈夫。ただ、少し眠れなかっただけ。 あなたが守ってくれるから、私は平気よ」
その言葉に、ヴェルナは照れくさそうに鼻を鳴らした。
「ああ、任せろ。お前は頭脳でいろ。俺が全部守ってやる」
ミリアーナの胸が、痛く締め付けられた。
昨夜見た未来——ヴェルナが狂気に飲み込まれ、大陸を滅ぼす姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
私は……あなたを救うために、悪にならなければならない。
その決意が、幼いミリアーナの心に重くのしかかった。
その日から、ミリアーナの苦悩は始まった。
予言の力は、時折突然発動した。
夜中に目が覚め、血を吐きながら未来の断片を見る。
毎回、代償は重くなった。
それは記憶の欠落。
ヴェルナと初めて手を繋いだ日の詳細を、完全に忘れた。
ただ「温かかった」という感覚だけが残る。大切な思い出が、砂のようにこぼれ落ちていく。
それは肉体の崩壊
十歳を過ぎた頃から、予言の後遺症で体が熱を持ち、激しい吐き気に襲われるようになった。
胸や背中に、古代魔術文字のような薄い痣が浮かび上がり、消えなくなった。
まだ幼い体に、それはあまりにも残酷だった。
ある夜、ミリアーナは一人で裏山に逃げ、木の根元にうずくまった。
「どうして……私なの?
ヴェルナを愛しているのに……裏切らなければならないなんて……」
血の涙が頰を伝う。
その予言に従うことで、ミリアーナは孤児院の地下の古い書庫の奥で一冊の禁書を見つけた。
それは「影の系譜」と呼ばれる秘密機関に関する記録だった。
------【影の系譜 概要記録】------
『影の系譜』は、帝国暦812年に創設された極秘機関である。
その目的は、古代魔導王時代に生み出された「予言の因子」を持つ血族を監視・保護・利用することにある。
この因子は稀にしか発現せず、発現した者は「予言の器」と呼ばれる。
器は未来の断片を見ることができるが、その代償として記憶・肉体・精神を大きく蝕まれる。
影の系譜は、帝国の表舞台から姿を消し、辺境の孤児院や慈善施設を隠れ蓑として活動している。
なぜなら、戦争や魔物の襲撃で両親を失った子供たちの中に、予言の因子を持つ者が高確率で現れるからだ。
彼らは孤児院を「因子発掘の場」として長年監視を続け、適格者を見つけ次第、密かに接触・教育を行っている。
現在の目的はただ一つ——帝国の存続と、魔導王時代の悲劇を繰り返さないための「運命の修正」である。
-------【影の系譜 概要 完】------
ミリアーナは震える手でその記録を閉じた。
自分が「予言の器」であることを、初めて明確に理解した。
その夜、地下室で影の系譜の使者たちが現れた。
白髪の老人が、冷たい声で告げた。
「ミリアーナ・ヴァルハイト……汝は予言の器。
我らが数百年にわたり守り続けてきた因子を、ようやく発現させたか。
これより汝は、帝国の未来を導く道具となる」
ミリアーナは血の涙を拭い、幼いながらもはっきりと言った。
「……ヴェルナを、救うために使うのなら、私は従います」
老人は満足げに頷いた。
「よい子だ。だが、忘れるな。
器に感情は不要。
汝はヴェルナ・ド・ルシフェルを、魔王化から救うための悪とならねばならない」
数日後。
ヴェルナと二人はいつものように裏山で遊んでいた。
ヴェルナが大きな石を投げて遊ぶ姿を見て、ミリアーナは静かに微笑んだ。
「ヴェルナ。私はずっと、あなたの味方でいるからね」
「当たり前だろ。お前は俺の頭脳なんだから」
ヴェルナの無邪気な笑顔が、ミリアーナの心を抉った。
この笑顔を、いつか自分が自らの手で歪めなければならない。
予言の代償は、すでに始まっていた。
記憶が失われ、体が蝕まれ、心が削られていく。
ミリアーナは空を見上げた。青い春の空が、どこか遠く感じられた。
「ごめんね、ヴェルナ……
私は、あなたを救うために……一番残酷な道を選ぶわ」
小さな声で、彼女は独り誓った。
予言の目覚めは、ミリアーナに永遠の呪いをもたらした。
愛する者を守るために、自らを悪に染める運命。
その決意が、後に血塗られた帝国の歴史を塗り替えることになる——。




