記憶
・・・数年前。一人の少年が養父に連れられて屋敷にやってきた。
養父は代々ブローシュ家に仕えるコックだった。
少年の実の両親は流行病で亡くなり、遠戚の養父と同じようにブローシュ家で働くことを条件に引き取られたのだ。
執事見習いとして、ひげをたくわえた初老の男に一から仕事を教わる少年。
執事の仕事量は想像以上で、初老の男も手加減しないためみっちり仕込まれていった。
しかし、彼はまだ両親を亡くしたことの悲しみから立ち直れておらず、
日中働き通しで疲れているにも関わらず眠れない日が続いていた。
ある晩目が冴えてしまってどうしようもなくなり、少年は屋敷の敷地内にある庭へこっそり足を踏み入れる。
月明かりの下少しの間散歩をしていた少年は、突然屋敷の窓が開く音に気がつきぎょっとした。
見上げると、そこにはブローシュ伯爵夫人が窓を開け放ち寝間着姿で立っている。
反射的に身を隠そうとした少年だったが、遅かった。
こちらに気がついた夫人がなんと手招きをしてきたのだ。
大慌てで屋敷内に戻り、階段を音をたてないように気をつけながら大股で駆け上がる。
夫人の部屋の前に着くと、息を整えてからノックをした。
(かってに庭を出歩くなんて・・・。クビにされて路頭に迷うかもしれない・・・。)
びくつきながら待っていると、すぐに夫人が扉を静かに開けて顔を出してきた。
暗い廊下のロウソクの灯りだけでも輝いて見える豊かな金髪。
そして、まるでエメラルドのように吸い込まれそうな深みのある緑色の瞳。
初めて夫人を間近にし、思わず見とれてしまう少年。
だが、我に返るとすぐに視線をそらしてしまう。
『お、奥様・・・。夜分に大変お騒がせいたしました。
無断で屋敷の庭に入ってしまい・・・その・・・・、本当に申し訳・・・。』
『あなた、眠れないの?』
柔らかく落ち着いた声だった。
少年は夫人を見上げる。
『実は私もなのよ。あなた、ちょっと付き合ってくれる?』
予想外の返答に困惑する少年だったが、言われたとおりに夫人の後ろをついていった。
階段を下り、長い廊下をひたすら進む。
すると夫人はある部屋の前で立ちどまり、持っていた鍵を差し込んで扉をあけた。
部屋の中に入ると、苦味と香辛料のような刺激の混じった独特なにおいがかすかに鼻先に感じる。
『そこに座ってくれる?』
少年は言われるままに、近くにあった背の低い椅子に腰かける。
夫人はまっすぐに一つの棚へ近づくと、小さな小瓶を複数取り出した。
小瓶の中には乾燥された植物がいくつも入っているようだ。
するとひと瓶ずつからそれを少量取り出し、鉢に入れてゴリゴリとすりはじめた。
しばらく待っていると、夫人が水の入ったコップに先ほどまですっていた植物を注ぐ。
粉状になったそれは瞬時に水に溶け込み、水の色が緑から次第に青になっていった。
不思議そうにその様子を見つめる少年。
ふふふ、とかすかに笑い声が聞こえた。
『うちの子たちも、特に次男もあなたと同じように不思議そうに見ていたわ。
いまじゃあ薬学の本はほとんど読み切ってしまって、医療魔術ばかりに凝っているんだけど。
新鮮な反応がまた見れてうれしいわ。』
夫人はコップを少年に差し出し、それを飲むように言った。
薬草の混ざった水は少し苦かったが、一気にそれを飲み干してしまう。
『今飲んだのは気を落ち着かせる効果のある薬草が入ってたの。環境が変わってまだ落ち着かないでしょうから、眠れなくなってしまうのは珍しくないわ。』
夫人は空の小瓶に残りの粉末を入れて少年に差し出した。
『また眠れない日があったら、同じようにスプーン一杯分を水に溶かして飲みなさい。
翌朝はすっきり起きられるわ。』
『・・・お怒りにならないんですか?庭に入っていたことを・・・』
『あら、どうして?何も変なことをしていたわけじゃないでしょう?私も夜のお散歩は好きよ。』
そう言って夫人の柔らかい手が少年の頭を優しくなでた。
少年は夫人の整った顔で正面からじっと見つめられ恥ずかしくなり、顔を赤くしながら目線をそらした。
2人はまた長い廊下を歩き、夫人は少年を自室のある階段まで送り届けてくれた。
少年は階段を上がる途中一瞬振り返り、彼女がまだこちらを見上げているのを見てどこか安堵する自分がいることに気が付く。
布団に入り込むと、夫人の言っていたようにいつの間にか眠ってしまっていたらしく、ぱっちりと目が覚めて窓を見ると、久しぶりの晴れた空に金色の太陽が昇っていた。
それから少したって、突然伯爵が一人の女性を屋敷に引き連れてきた。
メイドや執事の仲間から聞いた話だと、その女性はなんと高級娼婦だったらしい。
既婚している貴族の男性が愛人を持つことは珍しいことではなかった時代ではあるものの、堂々と自分の家族に愛人を紹介し屋敷に引き連れるのは非常識な行動だった。
まして、愛妻家であり誠実なところが定評のあるブローシュ伯爵に何があったのか皆目見当がつかないと、しばらくの間屋敷の中はもちろん、ロンドン中が彼女の話題でいっぱいだった。
『・・・きっと伯爵に言い寄ったんだよ。』
『金が目的なのかねえ・・・?』
『高級娼婦ってんなら、何かしら才がないとなれないんじゃないのかい?まあ、詳しくは知らないけどさあ・・・。』
『でもまあ、美人ではあるよね。肌が白くって陶器みたいに透き通ってる・・・!!』
『・・・でもあの赤い瞳、ちょっと薄気味悪くないかい?』
『・・・卑しい仕事をしていたことには変わりないだろう・・・。
俺たちあの人のことなんて呼べばいいんだい?・・・【奥様】かい??』
屋敷で働く皆が彼女に注目していた。
そして数日後、彼女の傍仕えとなる人員が割かれることとなり、何の因果かそのうちの一人に少年も選ばれてしまう。
そうして曰くつきの愛人との生活が突然始まったが、思っていたよりも大人しい人だと少年は感じた。
彼女は朝起きるとすぐに庭の散歩をし、季節ごとに咲く花を楽しむ。
その際は必ずノートを持ち寄って熱心に何やら書き込んでいる姿を見かけるあたり、植物が好きなんだろうと思っていた。
また普段から口数が少なく、狩りやパーティーなどに呼ばれない限りは自室にこもって読書に耽っている。
ただ、少し気になったのはその読書の最中はだれにも部屋に入れないということだった。
伯爵でさえ、用があり訪ねてきても扉はカギがかけられ中からは何も音がしない。
少年も不安になり外から覗けるかと試したことがあったが、カーテンで閉め切られており何もわからなかった。
伯爵はそれを見て、新しい環境に慣れておらず塞いでいるのではないかとしばらく心配していた。
ある晩、ブローシュ家の夫人と愛人ともにパーティに呼ばれることがあった。
パーティの主催者は世間で無類の噂好きとされる変わり者の侯爵。
愛人を本邸に引き連れて一緒に暮らしているという、なんとも噂好きの人間が好みそうな話を聞きつけたのだろう。
だが、伯爵はその招待状が届いた際に嫌な顔など全く見せず、むしろ愛人をお披露目できることをさも嬉しそうな様子であった。
パーティへ行く準備にせかされる執事やメイドたち。
そんな中、少年はたまたま廊下にいた。
すると伯爵の愛人が、薔薇のように赤いたっぷりのレーススカートドレスを身にまとって廊下の奥から歩いてくる・・・と同時に向かいの扉が開きアンドレアス様が普段着で部屋から出てきた。
一瞬彼女とアンドレアス様の目が合ったがお互い何も話さずすれ違う。
少年はそれをお互いに気まずいから、と特に不思議に思わなかった。




