第八十二話「リリィの番」
魔導具店を出てから、リリィは迷わず人通りの多い通りを進んでいった。
さっきまで歩いていた辺りよりも、飲食店が多い。
店先で肉を焼いている店。
大きな鍋から湯気を立てている店。
焼きたてのパンを窓際に並べている店。
歩いているだけで、いくつもの匂いが流れてくる。
「何食べるの?」
「まだ決めてない」
「行きたいところがあるんじゃなかった?」
「あるよ。何軒か」
「何軒か?」
リリィが振り返る。
「一軒しか候補がなかったら、混んでた時に困るでしょ?」
「そんなに用意してるんだ」
「食べることは大事だから」
言い切った。
昨日ルシアンが言っていた。
リリィは食べるのが好きで、特に甘いものが好きだと。
その時は、そこまで見ていなかったと思った。
さっき魔導具店を歩いていた俺と同じくらい、リリィの目が店先を見ている。
「まずお昼ね」
「甘いものじゃないんだ」
「さすがに先にご飯食べる」
「何がいい?」
「レイン君は?」
「俺?」
「嫌いなものとかない?」
「特には」
「じゃあ、こっち」
また一本細い道に入る。
大通りに面した店より小さな食堂が並んでいた。
「ここ」
リリィが指したのは、木の看板を掲げた店だった。
入口の横に今日の料理らしい札が何枚か掛かっている。
「前に来たことある?」
「うん。家族とも来たことあるし、エマとも一回」
「おすすめは?」
「煮込み料理もおいしいけど、今日は焼いた鶏肉かな」
「じゃあそれにする」
「まだメニュー表も見てないのに?」
「リリィが言うなら大丈夫かなって」
「責任重大だなあ」
そう言いながら、リリィは笑った。
* * *
店の中は思ったより混んでいた。
それでも二人分の席は空いていて、窓際の小さな卓に案内された。
俺はリリィが勧めた鶏肉の料理。
リリィは少し迷って、別の煮込み料理を選んだ。
「同じのじゃないんだ」
「だって、違うの頼んだ方が二つ見られるでしょ」
「なるほど」
「レイン君、そういうの考えない?」
「俺は食べたいものを頼むのが多いかも」
「たしかにそれが普通だよね」
料理を待ちながら窓の外を見る。
昨日は、今日何を話せばいいのかとあれだけ考えていた。
でも、実際に二人でいると、ほとんど会話は途切れない。
「そういえば」
リリィが俺の袖口を見る。
「ちゃんと着けてるね」
「さっき買ったばかりだよ」
「そうだけど」
自分の袖を少し持ち上げる。
淡いベージュの革紐が覗いた。
「私も」
「うん」
同じ小さな魔晶石。
見ると、また手首の辺りを意識してしまう。
リリィもすぐ袖を戻した。
「学院だと見えないね」
「袖の中だし」
「それがいいかなって思ったの」
「どうして?」
「ずっと見えてたら、ちょっと……」
途中で言葉が止まる。
「ちょっと?」
「何でもない」
「気になる」
「気にしなくていいの」
そう言って水を飲んだ。
少しして料理が運ばれてきた。
「いただきます」
鶏肉を切って口に入れる。
表面は香ばしく焼けていて、中は柔らかい。
香草の匂いもちょうどいい。
「おいしい」
「でしょ?」
リリィが得意そうに言う。
「リリィが作ったわけじゃないけど」
「店を選んだのは私だから」
「それでいいんだ」
「いいの」
リリィも煮込みを食べる。
「ん」
「どう?」
「やっぱりこっちもおいしい」
「それも前に食べたの?」
「一口だけ」
「一口?」
「お母さんが頼んだのをもらった」
そういうことか。
「レイン君のもおいしそう」
「食べる?」
「いいの?」
「うん」
まだ手をつけていない端の部分を切り分ける。
小皿に乗せて渡した。
「ありがとう」
リリィが食べる。
「おいしい」
「そっちも?」
「食べる?」
「うん」
今度は煮込みの具を少し小皿に分けてもらった。
確かにこっちもおいしい。
「次来たらどっちにしよう」
「もう次の話?」
「だって両方おいしいし」
「別の料理もあるよ。これとかも美味しそう」
「……それも食べたい」
候補が増えている。
「リリィ、食べたいのばっかりだね」
「ほんと困っちゃう」
全然困っている顔ではなかった。
* * *
昼食を終えると、再び通りに出た。
「次は?」
「少し歩く」
「甘いもの?」
「まだ内緒」
「そうでしょ」
「さあ。どうかな?」
さっきより機嫌よく歩いている。
途中、露店の前で足を止める。
焼き菓子。
果物。
小さな瓶に入った蜂蜜。
リリィは一つずつ見るが、買わずに進んでいく。
「買わないの?」
「欲しいけど。今食べたら、このあと食べられなくなるから」
「ちゃんと考えてるんだ」
「当たり前だよ」
そこまで真剣なのか。
そのまま通りを歩いていると、少し前から子どもの声が聞こえた。
幼い男の子が、両親らしい二人の少し前を歩いている。
手には小さな木製の玩具を持っていた。
その玩具を見ながら歩いていたせいだと思う。
石畳の継ぎ目に足を取られた。
「あっ」
前に倒れる。
両手をついた。
一瞬遅れて、大きな泣き声が上がった。
「いたい!」
母親がすぐ駆け寄る。
「大丈夫? 見せて」
近くを歩いていた俺たちも、自然に足が止まった。
男の子の右の掌が擦れていた。
血が滲んでいる。
(深くはなさそうだ)
俺がそう思った時には、リリィが肩掛け鞄を開いていた。
中から学生証を取り出し、母親に見せる。
「学院の治癒魔法科です。浅い擦り傷なら治癒魔法を使えます。見せてもらってもいいですか?」
母親は学生証を確認してから、男の子を見る。
「すみません。お願いします」
リリィが男の子の前にしゃがんだ。
「少しだけ手、見せてくれる?」
「……いたい」
「うん。すぐ終わるよ」
泣きながら差し出された手を、傷に触れないよう支える。
さっき買った淡いベージュの革紐が、袖口から少し覗いた。
リリィは鞄から小さな瓶を取り出した。
「少しだけしみるかもしれないよ」
透明な水を掌に少しずつ流す。
血と細かな砂が洗い流されていく。
男の子が顔をしかめたが、リリィは急がず、傷の中に小石が残っていないことまで確かめてから瓶を置いた。
それから掌の上に手をかざす。
「光よ、傷を包み、その痛みを癒せ」
淡い光が掌を包む。
流れる魔力は小さい。
傷の周囲だけに集まり、擦れた表面をゆっくり塞いでいく。
少しして光が消えた。
「どう?」
男の子が自分の手を見る。
さっきまで赤く擦れていた部分が、薄く残る程度になっている。
「……いたくない」
「よかった」
泣き声が止まった。
母親が頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いえ。これくらいなら」
父親も礼を言う。
男の子まで母親に促されて、
「ありがとう」
と小さく言った。
「もう転ばないようにね」
「うん」
家族が歩き出す。
男の子は何度か自分の掌を見ながら、両親の間に戻っていった。
リリィは瓶の蓋を閉めて、鞄に戻した。
「その水、いつも持ってるの?」
「うん。傷を洗う用」
「傷を?」
「いつ怪我するか分からないから、普段から持ち歩いてるの。治癒魔法を使う前に、汚れはちゃんと落とさないと駄目だし」
「水で洗ってから治すんだね」
「うん。今くらいの擦り傷なら、治癒科じゃなくても治せる人はいるけど、汚れを残したまま塞いだら駄目だから」
「もっと深い傷は?」
「勝手に治さないほうがいい」
返事が早かった。
「傷って、見えてるところだけとは限らないから。中まで傷ついてるのに表面だけ閉じたら、逆に危ないこともあるし」
「なるほど」
「ちゃんと診て治療するなら、それは治癒術師の仕事」
リリィが言う。
「治癒魔法って、傷を塞げれば終わりじゃないから」
歩き出す。
俺も隣に並んだ。
少し進んだところで、リリィが言った。
「私も、子どもの頃に大きな怪我したことあるから、こういうのは気になるんだと思う」
初めて聞いた。
「大きな怪我?」
「うん」
さっきまでより声が静かになる。
「結構ひどかったみたい。私、全部は覚えてないんだけど」
「どこ?」
「膝」
リリィが自分の脚に一度だけ目を落とした。
「今も跡が残ってる」
「今も?」
「うん。普段は見えないけどね」
スカートに隠れている辺りだろうか。
「その時、治癒魔法で助けてもらったの」
「それで治癒魔法科に?」
「それも理由の一つ」
「他にもあるの?」
「うん」
リリィが俺を見る。
「それだけだと、ちょっと綺麗すぎるでしょ」
「綺麗?」
「昔助けてもらったから、今度は私が人を救いたいです、って」
「リリィは違うの?」
「違わないけど、それだけじゃないよ」
少し考える。
「治癒魔法って、ちゃんと資格取れば仕事も安定してるし」
「そこもか」
「大事でしょ?」
「うん」
「私、別に将来ずっと無償で人を助け続けたいとか、そういう立派な人じゃないから」
「そこまでとは思ってないよ」
「ならいいけど」
口元が少し緩んだ。
「怪我した時に治してもらって、こういうことができるんだって思った。それで興味を持って。調べてみたら仕事にもなるし、だったらちゃんと勉強してみたいなって」
「それで治癒科なんだ」
「うん」
少し歩いてから、リリィが続ける。
「でも、子ども専門の治癒院で働くのは難しいかも」
「さっきは慣れてるように見えたけど」
「だからだよ。泣いてる子がいたら、毎回気になっちゃうもん」
「それは駄目なの?」
「毎日だと疲れそうでしょ。仕事なら、もう少し冷静に見られないと」
「向いてるようにも聞こえるけど」
「それとは別なの」
言い切る。
俺は少し笑った。
* * *
大きな通りに戻ると、さっきより人が増えていた。
昼を食べ終えた人たちが店から出てきたらしい。
向こうから来る人。
露店の前で止まる人。
荷物を抱えて横切る人。
二人で並んだまま歩くには、少し窮屈になっている。
「こっち」
リリィが人の間を抜ける。
俺もその後ろについていく。
けれど、間に一組の家族が入った。
リリィの淡い金髪が少し遠くなる。
「リリィ」
呼ぶと、リリィが振り返る。
その間にも人が横を通る。
今度は荷物を抱えた二人組がこちらに来た。
(これ、離れたら困るな)
俺はこの辺りの道をほとんど知らない。
目的の店も知らない。
はぐれれば、探すだけでも一苦労だ。
人が一人通り過ぎる隙に前に出る。
リリィの手がすぐ近くにあった。
一瞬だけ迷った。
触れると分かっていて、手を伸ばす。
その手を取った。
「……あ」
リリィが振り返る。
柔らかい手。
思っていたより小さい。
さっきリリィに袖を摘まれた時とは違う。
今は、掌の温度がそのまま伝わってくる。
「はぐれそうだから」
言うと、リリィは繋いだ手を見る。
それから俺を見る。
「……うん」
手は離れなかった。
むしろ、人が横を通った時に少しだけ握り返された。
胸の奥が変に騒がしくなる。
必要だから取った。
はぐれたら本当に困る。
それは間違いない。
でも、袖を掴むことだってできた。
俺は自分から、リリィの手を取った。
そのことは、どうしても意識してしまう。
「こっちだよ」
「うん」
今度は離れない。
人混みの中を、手を繋いだまま進む。
淡い金髪がすぐ前にある。
時々、リリィがこちらを確認する。
そのたびに目が合う。
少しして、人の流れが途切れた。
通りを一本曲がる。
もう、離れる心配はない。
歩幅を緩める。
繋いでいた指がほどけた。
リリィの手が離れる。
「……着いたよ」
少しだけ小さな声だった。
「ここ?」
「うん」
目の前には、甘味店があった。
俺も何も言わなかった。
ただ、離れたばかりの右手の温もりが妙に気になった。
* * *
店先から、甘い匂いがしていた。
大きな硝子窓の向こうには、色の違う菓子が並んでいる。
「ここ、来たかった店?」
「何回も来てる」
「来たことあるんだ」
「でも季節で変わるの」
そう言いながら、リリィはもう窓の中を見ている。
果物を使った菓子。
蜂蜜と木の実を使った焼き菓子。
白い乳菓に、色鮮やかな果実を載せたもの。
「今日これあるんだ。嬉しい」
「どれ?」
「これ」
指した先を見る。
「前来た時、売り切れてたの」
「じゃあそれにする?」
「でも、こっちも今の季節だけで……」
別の菓子を見る。
「……迷う」
さっきまで俺と話していた時より、窓に近い。
俺も何を見ているのか確かめようと横に並ぶ。
「こっち?」
「うん。でも待って。これも——」
リリィが俺の方に寄った。
多分、俺の前にある札を見ようとしただけだ。
肩が触れそうなくらい近い。
淡い金髪が視界の端に入る。
そして。
ふっと、甘い香りがした。
(あ)
菓子の匂いではない。
もっと柔らかい。
あの、甘いミルクのような香り。
中庭で隣に座った時にも感じた、リリィの香りだ。
今日も同じだった。
周りには蜂蜜や焼き菓子の甘い匂いが漂っているのに、近くまで来ると、それとは別に分かる。
リリィがまだ菓子を見比べている。
「どうしよう……」
本人は、距離が近くなっていることに気づいていないらしい。
「レイン君はどっちがいいと思う?」
そのまま顔を上げた。
丸くて柔らかな目が、すぐ近くから俺を見上げる。
近い。
「……え?」
「こっちとこっち」
「ああ」
菓子を見る。
見ようとする。
「こっちかな」
「果物の方?」
「うん」
「じゃあ私、もう一個にしようかな」
「なんで?」
「違うの頼んだら二つ食べられるでしょ」
「またそれ?」
「大事だよ」
ようやく少し離れた。
甘いミルクの香りも薄くなる。
俺は一度だけ息を吐いて、リリィの後について店に入った。
* * *
結局、リリィは蜂蜜と木の実を使った焼き菓子。
俺は赤い果実を使った冷たい乳菓を選んだ。
席について少し待つ。
菓子が運ばれてくると、リリィの目が俺の皿に向いた。
「そっちもおいしそう」
「リリィのも」
「じゃあ、あとで少し交換しよ」
「うん」
まずリリィが自分のものを食べる。
「ん」
「どう?」
「おいしい」
「それだけ?」
「すごくおいしい」
満足そうだった。
俺も自分の菓子を口に入れる。
冷たい。
ミルクの柔らかな甘さのあとに、果実の酸味が来る。
「こっちもおいしい」
「交換する?」
「うん」
小さく切り分けて交換した。
リリィが俺の方を食べる。
「酸っぱい」
「そこがおいしいんじゃない?」
「おいしいけど、私はこっちかな」
「俺はこっちの方が好き」
「え」
「何?」
「蜂蜜の方が甘いよ?」
「だから?」
「甘い方がおいしくない?」
「そうとは限らないでしょ」
リリィが俺を見る。
「レイン君、意外」
「何が?」
「もっと甘いの好きそう」
「どうして?」
「分からない。何となく」
「リリィの方がずっと甘いの好きだね」
「うん」
そこは否定しないらしい。
リリィが自分の焼き菓子をもう一口食べる。
さっき窓の前で近づいた時の香りが、ふと頭に蘇る。
菓子の甘さとは違う、あの柔らかなミルクのような香り。
たぶん次に同じ香りを感じたら、先にリリィの顔が浮かぶ。
「じゃあ今度来ても取り合いにならないね」
「何を?」
「どっち食べるか」
「また来る前提なんだ」
言ってから、リリィが止まる。
俺も一瞬遅れて気づいた。
「……嫌?」
「嫌じゃない」
すぐ答える。
「また来たい」
「そっか」
リリィは自分の皿に視線を戻した。
「じゃあ次は、別の食べよ」
「今のをまた食べるんじゃないの?」
「他にもあるから」
「やっぱり増えるね」
「うん」
笑った。
俺も笑う。
窓から午後の日差しが入る。
淡い金髪が少し明るく見えた。
魔導具店では、リリィは俺が気になったものを一つずつ聞いていた。
今は逆に、リリィが気になっていた店に俺が連れてきてもらっている。
「レイン君?」
「何?」
「見てる」
「あ」
「何?」
「いや」
誤魔化そうとして。
やめた。
「楽しそうだなと思って」
「私が?」
「うん。甘いもの食べてるとき」
「そこ限定?」
「お店見ながら歩いてるときも」
「それならいいけど」
「魔導具店の俺も、こんな感じだった?」
「もっとだったよ」
「もっと?」
「うん」
「でも」
リリィが匙を置いた。
「今日は見られてよかった」
「何を?」
「レイン君が魔法とか魔導具見てる時、どんな感じなのか」
「学院でも見てない?」
「見るけど、授業とかだと私いないし」
「たしかに」
「話で聞くのと、実際見るのは違うから」
「そう?」
「うん。思ってたよりも楽しそうだった」
「俺も、今日リリィがどんな店好きなのか分かった」
「食べ物のお店ばっかりだけど」
「でも、学院で話してるだけじゃ分からなかったから」
リリィが少し考える。
「じゃあ、二人とも来てよかったね」
「うん」
* * *
店を出る頃には、日が少し傾き始めていた。
まだ帰るには早い。
それでも、午前に学院を出た時より光が柔らかくなっている。
「もう一軒行けるかな」
リリィが通りの先を見る。
「まだ食べるの?」
「お店見るだけ」
「本当に?」
「本当」
少し怪しい。
それから市場を歩いた。
リリィが前に買ったという焼き菓子の店。
家で使っている茶葉を扱う店。
季節になると果物が安いという露店。
俺にはどれも初めてだった。
途中で気になった魔導具があれば俺が立ち止まる。
そのたびリリィも一緒に見る。
逆にリリィが店先で止まれば、今度は俺が待つ。
気づけば日がかなり低くなっている。
「そろそろ戻る?」
リリィが言った。
「うん」
帰り道は、来た時より少しゆっくり歩いた。
学院が近づくにつれて、学生の姿がまた増えていく。
「今日、結構歩いたね」
「疲れた?」
「少し。でも楽しかった」
「俺も」
すぐに答えた。
正門が見えてくる。
朝ここを出た時には、まだ丸一日あると思っていた。
戻ってくると、随分早かった気がする。
正門の前で立ち止まる。
「じゃあ」
リリィが言う。
「今日はありがとう」
「俺の方こそ」
「魔導具のお店、行けてよかった?」
「うん。行けてよかった」
少し間を置く。
「……でも、今日はそれだけじゃない」
「それだけじゃない?」
「リリィと一緒だったから、楽しかった」
言ってから、自分でも少し驚いた。
でも訂正する気にはならなかった。
リリィは何も言わない。
俺を見る。
視線が一度だけ逸れる。
「……そういうこと、急に言うんだ」
「変だった?」
「違う」
返事はすぐだった。
リリィが手に持っていた鞄の紐を握り直す。
「嬉しかっただけ」
「そっか」
「うん」
少し間が空く。
今度はリリィが俺を見る。
「私も」
「何?」
「今日、レイン君と一緒だったから、楽しかったよ」
「……うん」
胸の奥が、また騒がしくなった。
「また行こうね」
「行こう」
今度は迷わなかった。
「次は、あの店も行きたい」
「どの店?」
「今日、途中で通った焼き菓子のお店。あと、もう一軒——」
「もう増えてる」
「いいでしょ」
「いいけど」
「レイン君も、今日見られなかった魔導具あるんでしょ?」
「ある」
「じゃあお互い様」
「それはそうか」
リリィが笑う。
それから一歩下がった。
「また明日」
「また明日」
小さく手を振る。
その時、羽織ものの袖が僅かに下がった。
淡いベージュの革紐。
同じ小さな魔晶石が、一瞬だけ見えた。
リリィはそのまま寮に向かって歩いていく。
俺も自分の袖口を見る。
濃い茶色の革紐は隠れている。
少し袖を上げる。
同じ石。
その下にある右手を見る。
人混みで握った、小さな手の感触を思い出した。
袖を戻す。
次がある。
そう思うと、今日が終わったことより、そっちの方が先に頭に浮かんだ。
それから俺も、自分の寮に向かった。




