第八十三話「最初の実験」
制服の袖に腕を通す前に、手首を見る。
濃い茶色の細い革紐。その中央に、小さな魔晶石が一つだけ通っている。
昨日、リリィと買ったブレスレットだ。
風呂に入る時に一度外して、朝になってまた着けた。
制服の袖を下ろせば、ほとんど見えなくなる。それでも腕を動かすたび、革紐が手首に触れて、着けていることだけは分かった。
昨日のことが、少しだけ頭に浮かぶ。
人混みの中で繋いだ手。
学院まで戻ってきてから交わした言葉。
「レイン、そろそろ行く?」
ルシアンの声に振り返る。
「うん」
鞄を持って立ち上がる。
俺はルシアンと部屋を出て、食堂に向かった。
* * *
二連休が終われば、学院はいつもの流れに戻った。
朝から講義を受け、休み時間になれば次の教室に移る。
ただ、廊下でも教室でも、大会の話をする声は休み前より増えていた。
「治癒科、もう結構声掛けられてるらしいぞ」
「うちも一人くらい取る?」
「一人でも一点減るんだろ。もう少し待ってからでよくないか?」
「でも待ってる間に、いい奴から決まるんじゃない?」
そんな会話が、あちこちから聞こえる。
実際に専科の学生に声を掛け始めた班は増えているらしい。
一方で、正式に助っ人を決めたという話は、まだそれほど多くなかった。
強い専科生を加える価値はある。
でも、一人取れば一点。二人なら二点。
特に予選では、その差を嫌う班も多い。
前より動いている。
けれど、まだ誰もが助っ人を取る空気になったわけではない。
次の授業に向かっていた時だった。
少し先で、ルシアンが立ち止まっている。
相手は治癒魔法科の女子生徒だった。
「実習で判断に迷った時、同じ一年なら誰を頼る?」
通り過ぎかけた足が、少しだけ遅くなった。
女子生徒はすぐには答えず、考えている。
「迷ったときって、先生じゃなくて?」
「先生に聞く前。ちょっと確認したい時とか」
「ああ。それなら……ミラかな」
「ミラ?」
「うん」
ルシアンが小さな紙に何かを書き込む。
「よく聞くの?」
「うん。治癒の順番とか、これ自分たちだけで触っていいのかなって迷った時とか」
「なるほど。ありがとう」
「これ、大会?」
「一応ね」
「ミラに声掛けるの?」
「まだ決めてないよ」
そこで会話が終わった。
女子生徒は友人のところに戻り、ルシアンもこちらに歩いてくる。
「今の、助っ人探し?」
「うん」
「誰が治癒魔法上手いかじゃないんだ」
「それも聞いてるよ」
「でも今は、誰を頼るかって」
「実際に困った時に頼られてる人と、試験で点を取る人が同じとは限らないからね」
「……なるほど」
そこまで言うと、ルシアンはもう紙を折っていた。
これ以上説明するつもりはなさそうだ。
俺も隣を歩く。
誰が一番上手いか。
誰が一番強いか。
俺なら、まずそこから聞くと思う。
けど、ルシアンは違うらしい。
* * *
昼食を終え、午後の講義棟に向かう途中でも、ルシアンは呼び止められた。
「メルヴィン」
声を掛けたのは、一組の男子生徒だった。
「昨日頼まれてた件だけど」
「ああ」
「治癒科のノロに聞いた。話していいって」
「本当?」
「今日は無理らしい。明日の昼なら空いてる」
「十分。ありがとう」
「それと、前に言ってた店。今度教えてくれよ」
「もちろん」
男子生徒は手を上げ、そのまま別の方向に歩いていった。
ルシアンも何事もなかったように歩き出す。
「今の人も、入学してから知り合った人?」
「そうだよ」
「いつ?」
「最初の方」
「最初の方って」
学院に入ってから、まだそれほど長く経っていない。
それなのに、一組の学生から治癒科の学生まで話が繋がっている。
思えば、ルシアンは入学してすぐからこんな感じだった。
廊下を歩けば知らない学生から声を掛けられる。
専科の学生とも話している。
時々、上級生まで混ざる。
「何?」
ルシアンがこちらを見る。
「本当に知り合い多いなと思って」
「そうかな」
「多いよ」
「話したことある人なら、それなりに増えたけど」
「それを知り合いって言うんじゃないの?」
「そうかもね」
本人は大したことだと思っていないらしい。
午後の講義棟が見えてくる。
「今日の放課後も、助っ人探しに行くの?」
「そのつもり。レインは研究だよね?」
「うん」
二連休前に、マルティナ教授に提出していた研究計画が認められた。
必要な器具の使用許可も出ている。
「今日から実験できる」
「嬉しそうだね」
「やっとだから」
「ちゃんと大会のことも覚えててよ?」
「覚えてるよ」
「ならいいけど」
ルシアンが笑う。
研究と大会。
どちらも進み始めている。
午後の授業が終わる頃には、放課後の方が気になっていた。
* * *
最後の授業が終わると、一組の教室に向かった。
扉の近くで少し待っていると、黒髪の男子生徒が出てくる。
「エヴァン」
「アストリア」
俺に気づくと、手にしていた小さな手帳を鞄にしまった。
「行ける?」
「ああ。準備はしてきた」
「ありがとう」
「俺は言われた通りに魔法を使えばいいんだな?」
「基本はそう。細かい手順はリアと確認する」
「分かった」
並んで研究棟に向かう。
入口近くまで来ると、リアが待っていた。
手には研究計画と、借りた器具が入っている箱を持っている。
「レイン」
「待った?」
「今来たところ」
「箱持つよ」
「大丈夫よ」
「でも、測定器入ってるんでしょ?」
「じゃあお願い」
受け取る。
思ったより重かった。
その間に、エヴァンがリアに向き直る。
「セリウスさん。今日はよろしくお願いします」
いつも俺と話す時より、少し声が硬い。
「こちらこそ。手伝ってくれてありがとう」
リアはいつも通りだった。
淡い金髪と琥珀色の瞳に、整った顔立ち。それにセリウス公爵家の名前まである。
普段ほとんど話したことがなければ、エヴァンが多少緊張するのも分からなくはない。
「レイン、その箱、傾けないで」
「え?」
「中の器具が寄るから」
「先に言ってよ」
「普通、箱は傾けないでしょう」
持ち直す。
エヴァンが一瞬だけ俺とリアを見た。
何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
そのまま三人で訓練場に向かう。
「そういえば」
途中でリアがエヴァンを見る。
「あなた、アルドリックの班なのよね」
「ああ」
「もう班で合わせてる?」
返事まで、一拍空いた。
「それは俺から言えることじゃない」
「そう」
リアはすぐに引いた。
「大会では別の班だものね」
「悪い」
「謝らなくていいわ」
俺にも一つ気になることがあった。
「助っ人は?」
エヴァンがこちらを見る。
「アストリア」
「何?」
「今の話を聞いていたか?」
「聞いてた」
「なら同じだ」
「あ」
言われて気づいた。
「ごめん」
「別にいい。班で決めることを俺一人で話せないだけだ」
徹底している。
研究を手伝うことと、大会の情報を渡すことは完全に別らしい。
しばらく歩いたところで、今度はエヴァンから聞かれた。
「一つ確認したい」
「何?」
「なぜ俺なんだ?」
「実験の術者?」
「ああ」
「同じことを何度もやってもらうから、エヴァンが向いてると思った」
「それだけでは分からない」
やっぱり理由まで確認する。
「条件を途中で勝手に変えない人がよかったんだよ。分からない指示があったら、自分で適当に決めずに聞いてくれる人」
そこで少し考える。
「エヴァン、くそ真面目だからね」
「そんなことはない」
「真面目な人ほど、自分は真面目じゃないって言うから」
「……それは偏見だろ」
「でも、向いてると思ったのは本当」
「そうか」
納得したのかしていないのか分からない返事だった。
ただ、少ししてからまた口を開いた。
「ヴァレリウスの方が適任ではないのか?」
「アルドリックも考えたよ」
「なら、なぜ外した?」
「魔力量が大きすぎるから」
エヴァンが俺を見る。
「今回の最初の実験では、魔法を使う前と使った後で、どれだけ減ったかを俺が見分けられるか調べたいんだ」
「ああ」
「元の魔力量が大きすぎたら、同じだけ減っても見た目の差が小さくなるかもしれない。最初から難しい条件にする必要はないかなって」
「なるほど」
「リアは測る側だし」
「私が術者をやったら、記録する人が居なくなるもの」
「メルヴィンは?」
「今日も助っ人探し」
「そうか」
エヴァンは短く頷いた。
「なら分かった」
訓練場が見えてきた。
* * *
借りていたのは、訓練場の端の一区画だった。
標的が並び、区画の端には簡単な机が置かれている。
持ってきた箱を机に置く。
「これでいい?」
「ええ」
リアが箱を開き、必要なものを取り出していく。
測定器。
記録用紙。
研究計画。
その横に、発動中の術者を俺から見えなくするための衝立も用意してあった。
「思ってたより本格的だな」
エヴァンが机を見る。
「実験するんだから。手は抜かないわ」
リアが測定器の状態を確かめる。
俺も横から覗き込んだ。
「これが、今回使う測定器?」
「ええ。使用前と使用後の値を取るのに使うわ」
「触っていい?」
「まだ駄目」
「まだ?」
「確認が終わってない」
「分かった」
触るのをやめる。
リアが記録用紙を二つに分けた。
「それと、もう一人呼んでるから」
「もう一人?」
「術者役。個人差もあるでしょうから、別の人でも同じ手順を試したいの」
「エヴァンと一緒に比べるの?」
「一緒にはしない。術者は固定。エヴァンの測定はエヴァンだけで一つの系列にする。もう一人は別に取る」
「誰?」
「私の班の人よ」
リアの班。
二組の学生が中心のはずだ。
何人か顔は分かるが、俺が話したことのある相手は少ない。
(誰だろう)
入口を見る。
「時間なら、もう——」
リアが言いかけた時だった。
「悪い。間に合った?」
訓練場の入口から声がした。
振り返る。
最初に目についたのは、赤い髪だった。
前髪を中央ではっきり分け、襟足にかけて少し長く残している。
俺より少し背が低く、細身だ。小柄ではあるけれど、顔つきや立ち方に幼さはない。
制服の第一ボタンは外したまま。耳元には小さな銀のピアスまである。
学院の中でもかなり目立つ格好だった。
(ちゃらそう)
見た瞬間、そんな言葉が浮かんだ。
リアの隣に並べると、余計に雰囲気が違う。
(なんでこの人を班に入れたんだろう)
リアなら、班員もかなり考えて選びそうなのに。
そんなことを考えていると、赤髪の少年が俺を見た。
青みがかった瞳が止まる。
次の瞬間、口元がにやりと笑った。
「お。久しぶりだなぁ、レイン」
「……え?」
俺の名前を知っている。
いや。
この顔。
どこかで見たことがある。
「……」
「ちょっと待て」
俺の反応を見て、少年が手を上げる。
「まさか忘れてたわけじゃないよなあ?」
「いや、見覚えはあるんだけど」
「それ、忘れてる奴の答えじゃん」
「ちょっと待って」
もう一度見る。
赤い髪。
青みがかった瞳。
笑った時の顔。
今の髪型ではなく、もっと短く整えられた髪を思い浮かべる。
きっちり締めた正装。
州都セレスタ。
レオンについて出た式典。
「あ」
「お?」
「フェリクス?」
「遅い!」
フェリクス・グレイベル。
アストリア領に隣接するグレイベル領。その領主家の息子だ。
俺が成人の儀を終えてから、州都の式典などで何度か顔を合わせている。
「全然違うもん」
「何が?」
「見た目」
「そりゃ式典の時は、こんな格好できないからな」
自分の髪をつまむ。
「髪ももっと短かったよね?」
「整えられてたんだよ。俺はこっちの方が好き」
「ピアスもしてなかった」
「親父の横でこれ着けてたら、ぶん殴られるぜ」
「そうなんだ」
「てか、そこまで覚えてて出てこなかったのかよ」
「今と違いすぎるから」
「俺は一発で分かったぞ?」
「俺はそんなに変わってないし」
「それはそう」
思っていたより話しやすい。
というか、以前会った時もこんな話し方だっただろうか。
公の場ではもう少し大人しくしていた気がする。
「知り合いだったの?」
リアが聞く。
「家が隣の領地だから、何回か」
「何回か、だってさ」
フェリクスがわざとらしく肩を落とす。
「俺はちゃんと覚えてたのになぁ」
「だからごめんって」
「まあいいけど」
言いながら、まったく気にしていない顔だった。
「グレイベル」
横からエヴァンが声を掛ける。
フェリクスがそちらを見る。
「お、エヴァン」
「今日はよろしく頼む」
エヴァンが少し姿勢を正した。
リアに挨拶した時ほどではない。
それでも、俺に話す時より妙にきっちりしている。
フェリクスは一瞬きょとんとしてから笑った。
「おいおいエヴァン。なんだよ、そんなにかしこまっちゃって?」
「かしこまってはいない」
「いや、十分固いって」
「普段通りだ」
「まあ、そういうことにしとくか」
エヴァンは言い返さなかった。
それが少し意外だった。
前に話した時の印象だと、エヴァンは相手が誰でも気になることはそのまま言う。
フェリクスには、最初から何か一段置いて話しているように見える。
(何だろう)
見た目だけなら、エヴァンとはかなり合わなさそうなのに。
「フェリクス」
「ん?」
「始めるわよ」
「おっけい」
リアに呼ばれると、フェリクスは素直に机の方に来た。
リアと同じ二組。
しかも大会では同じ班。
さっき感じた疑問は残ったままだった。
* * *
「最初に手順を確認するわ」
リアが研究計画を開く。
俺とエヴァン、フェリクスが机を囲んだ。
「今回確かめたいのは、レインが術者の魔力量の減少を正しく見分けられるかどうか」
紙の上を指す。
「最初から具体的な魔力量を当ててもらうことはしない。同じ術者で何度か測定して、魔法使用前後の差を比較する。その後、レインが減少量の大きかった順番を答える」
エヴァンが計画書を見る。
「魔法は固定するということでいいか?」
「ええ。一つの測定系列では同じ魔法を使う」
「術者も?」
「固定。まずエヴァンだけで一連の測定をする。その後、必要ならフェリクスでも同じ手順を取る。二人の結果は混ぜない」
「了解した」
「はいよ」
ほとんど同時に返事が返ってくる。
言い方が違いすぎた。
リアは気にせず続ける。
「発動前は、術者の魔力量をレインと測定器でそれぞれ観測する。数値はレインには見せない」
「うん」
「その後、レインは衝立の後ろに移動する。発動中の術者も魔法も見せない」
俺は用意された衝立を見る。
「詠唱はどうすんの?」
フェリクスが聞く。
「聞かせない。魔法の規模を音から推測する可能性もあるから、発動中は耳も塞いでもらう。火球を見せないようにしても、音で大きさが分かったら意味がないでしょう」
「なるほどね。結構ガチじゃん」
「魔法が終わった後、もう一度術者を観測する。使用前と使用後の測定器の差と、レインが見た差を記録する」
フェリクスが一度だけ計画書を見直す。
「つまり、使う前だけレインに見せる。魔法使ってる間は見せないし聞かせない。終わったらまた見せる。それを何回かやって、最後にレインが見た減り方の順番と、測定器の結果を比べるってことな」
「そう」
「なるほど。分かった」
エヴァンも頷く。
「俺は指定された手順を守ればいいんだな」
「そうして」
「了解した」
「じゃあ、まず観測時の状態を確認しましょう」
リアが測定器を持つ。
「研究計画通り、観測する時は普段かけている魔力の制御を解いてもらう。エヴァン、できる?」
「やってみる」
「制御まで外すの?」
フェリクスが聞いた。
「外してもらわないと、俺には全部見えないから」
「全部?」
俺は頷く。
魔術師は、普段から持っている魔力をそのまま表には出さない。
魔力を抑えることは、最初に習う制御の一つだ。
必要以上の魔力を出したままにすれば暴走の危険が増えるし、戦闘では自分があとどれだけ魔法を使えるのかまで相手に教えることになる。
だから、使わない魔力は抑えておく。
「例えば、普段の俺に百くらいの魔力が見えてる人がいるとするでしょ?」
「うん」
「その人が魔法で百使ったからって、俺にはゼロには見えないんだ」
「なんで?」
「抑えてた分から補われるから」
フェリクスが少し考える。
「見えてないところにも残ってる?」
「そう。見えないところに別のバケツがあって、表に出てる分を使うたびに、そこから水を汲み足してる感じ」
「ふーん」
「だから隠してる分を使い切るまでは、百使ってもまた百くらいに見えることがある。前と後で本当にどれだけ減ったかを見るなら、最初にその隠れてる分まで見せてもらわないといけない」
リアが測定器を持ち直す。
「そのために、観測する時だけ制御を解いてもらうの」
「なるほどね」
フェリクスが頷いた。
エヴァンが訓練場の中央に立つ。
俺も正面に移動した。
意識を向ける。
胸から腹部。
そこから腕や脚に伸びる魔力の流れが見える。
今見えているのは、普段のエヴァンだ。
「今は?」
リアが聞く。
「いつもと同じくらい」
「じゃあエヴァン。普段抑えている分も含めて、できるだけ制御を解いて」
「分かった」
エヴァンが一度、自分の両手を見る。
「……やってみる」
息を吐いた。
次の瞬間。
「うわ」
視界の中で、エヴァンの魔力が一気に膨らんだ。
身体の奥に抑え込まれていた光がほどけるように広がり、胸から腹、肩、腕、脚まで流れていく。
頬の肌が、かすかにひりついた。
五歳の頃、初めて間近で見たセレナの魔力を思い出す。
ただ、あの時は制御された魔力が僅かに漏れていただけだった。
今は違う。
エヴァンが、自分から抑えを外している。
「どう?」
リアが聞く。
「全然違う」
「そんなに?」
「うん」
普段、人を見る時とはまるで違った。
いつもなら制御に隠れている魔力まで、今は一度に見えている。
エヴァンの身体全体を、さっきまでよりずっと大きな光が巡っていた。
「本人は?」
「ちょっと変な感じはする」
エヴァンが答える。
「普段ここまで解くことはないからな」
「そのままでいて」
「ああ」
「測るわ」
リアが測定器の値を確認し、記録用紙に書き込む。
「レインは?」
「見てる」
「どう見える?」
「全身にかなり広がってる。制御を解いた直後だからか、一か所ごとの密度はそこまで高くない」
腕。
脚。
腹。
胸。
今まで見えていなかった分まで含めて、全体を追う。
ここまで他人の魔力をむき出しに近い状態で長く見ることは、ほとんどない。
「この状態を使用前として記録する?」
リアが聞く。
「ちょっと待って」
「何?」
「動いてる」
全身に広がった魔力が、ゆっくり位置を変えていた。
腕に広がっていた光が少し薄くなる。
脚も同じだ。
その分、身体の中央。
胸のあたりの密度が徐々に上がっていく。
エヴァン本人は、その場に立ったまま動いていない。
「エヴァン、何かした?」
「していない」
「本当に?」
「少なくとも、意識して集めてはいない」
さらに見る。
完全に止まるわけではない。
細かな流れは続いている。
それでも、制御を解いた直後とは明らかに違った。
最初は全身に広く薄く。
今は胸の辺りを中心に、狭く濃く。
「リア、もう一回測って」
「分かった」
リアが測定器を使う。
さっきの記録と見比べた。
「ほとんど同じ」
「……やっぱり」
「レインにも同じ量に見えるの?」
「多分」
「見え方はかなり違うんでしょう?」
「うん」
もう一度、二つの状態を頭の中で重ねる。
「厳密には分からないけど、ざっくり体積×密度で考えたら同じくらいだと思う」
「体積?」
「魔力が広がってる範囲。最初は広いけど薄かった。今は狭くなった分、濃くなってる」
胸の辺りを指す。
「全部合わせたら、たぶんほとんど変わってない」
「測定器とも合ってるわね」
リアが二つの記録を並べる。
「面白いな、それ」
フェリクスが横からエヴァンを見る。
「何もしてないのに、勝手に寄ってくるの?」
「勝手に、というより……」
エヴァンが少し考える。
「完全に何も制御しないという状態に慣れていない」
「どういうこと?」
俺が聞く。
「普段は、魔力を抑えること自体をいちいち意識しない。もう身体に染みついているからな」
エヴァンは自分の胸元を見る。
「今は意識してそれを外している。だから、どこまでが本当に自然な動きで、どこからが普段の癖なのか、自分でも分からない」
「なるほど」
俺はもう一度魔力を見る。
胸の辺りに集まりながらも、細かな流れは止まっていない。
「でも」
流れを追いながら言う。
「これ自体は、そこまで問題じゃないかも」
リアがこちらを見る。
「どうして?」
「測定器では総量は変わってないんだよね?」
「少なくとも、今の二回はほぼ同じ」
「だったら、使用前と使用後で同じような状態を見ればいいんじゃない?」
制御を解いた直後は、一度大きく広がる。
けれど少し待てば、エヴァンの場合は胸の辺りに魔力が集まってくるらしい。
「魔法を使う前に、今みたいに自然に落ち着いたところを見る」
俺は続ける。
「それを使用前にする。魔法を使った後も、もう一回制御を解いて、流れが落ち着くまで待つ。それから使用後を見る」
リアが記録用紙に視線を落とす。
「分布そのものを無理に揃えるんじゃなくて、自然に落ち着いた状態同士を比べる?」
「うん」
「それなら、余計な操作は入らないわね」
エヴァンも頷く。
「俺は制御を解いた後、何もしないで待てばいいのか?」
「その方がいいと思う」
「それならできる」
「じゃあ」
リアが研究計画の余白に書き足していく。
制御解除。
自然状態まで待機。
使用前観測。
魔法発動。
再度制御解除。
自然状態まで待機。
使用後観測。
「観測間隔は決めてあるけど、この状態変化も記録しておきましょう」
「うん」
紙の上に新しい項目が増える。
俺はもう一度エヴァンを見る。
胸の辺りに集まった魔力は、まだ細かく循環している。
少し待つ。
さっき見た状態と比べる。
「今くらい」
「何が?」
リアが聞く。
「最初に落ち着いた時と近い」
「なら、ここを観測時点にすればいい?」
「多分」
「じゃあ、毎回レインに見てもらって、自然な状態に戻ったと判断したところで使用前と使用後を——」
「待った」
フェリクスが口を挟んだ。
机の上の研究計画を覗き込み、《自然状態まで待機》の文字を指で叩く。
「その『落ち着いた』って、レインが決めるんだよな?」
「うん」
「でもさ」
フェリクスが俺を見る。
「レインの目が正しいか調べる実験なのに、その前提をレインの目で決めたら駄目じゃね?」
リアの筆が止まった。
俺も研究計画を見る。
「……あ」
フェリクスが首を傾ける。
「それ、循環してね?」
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