第七十八話「次の休み」
新入生大会の要項が配られてから、数日が経った。
「じゃあ、今日はここまで。次回までに三章の演習問題をやっておくように。最後の二問はまだ授業で扱っていない範囲を含むため、分からなければ飛ばして構わない」
教師が教本を閉じると、教室のあちこちで椅子の動く音がした。
「飛ばしていいって言われると、逆に気になるな」
隣でガレスが教本の後ろを開いたので、リネットが横から覗き込む。
「さっきまで眠そうだったのに、そこは見るのね」
「最後に気になること言われたら見るだろ」
「まあ、それは分かるわ」
俺も二人のやり取りを聞きながら、最後の問題だけ確認した。
確かに見覚えのない式が混じっている。
今すぐ解き始めたい気持ちもあったけれど、今日はこのあと研究室にも行くつもりだから、教本を閉じて鞄にしまった。
今日は総合科一年の三クラス合同の授業だったため、周りには一組と二組の学生も混じっている。
授業が終わっても、教室からすぐ出ていく生徒は半分ほどだった。
残った者たちは次の授業の準備をしたり、机を寄せて話したりしている。
前の席では、女子生徒が隣の学生に椅子を向けていた。
「そっち、班決まった?」
「昨日やっと。最後の一人で揉めた」
「誰になったの?」
「ケイン。そっちは?」
「もう決まってるわ」
大会の話も聞こえてくる。
斜め前では、一組の男子生徒と二組の女子生徒が、互いの班について話していた。
「一組はやっぱりヴァレリウスの班が本命だろ。エヴァンもいるし」
「二組ならセリウスじゃない?」
「三組はメルヴィンとアストリアが一緒なんでしょ。あそこも強いよ」
「でも助っ人二人取るって話だろ?」
「それでどうなるかだな」
大会について話す声は多かった。
それでも学院全体が大会一色になったわけではなく、窓際では休日に帝都のどこに行くかで話している生徒がいるし、前の席ではさっきの授業について教師を捕まえて質問している生徒もいる。
班については、他組を含めて大体決まり始めているらしい。
専科助っ人は、まだ正式に誰を取ったという話までは聞いていなかった。
「でも、メルヴィン最近ずっと専科棟にいるよな」
「昨日は治癒科にいたって聞いた」
「軍事魔法科の上位にも話聞いてたらしいよ」
「じゃあ本当に二人取るんだ」
少し離れた席からそんな会話が聞こえてきた。
数日前、食堂でルシアンが「二人とも取る」と言っていたのを聞いていた学生もいる。
あの時は驚いただけだった学生たちも、本人が実際に専科の学生と話し始めれば、さすがに気になるらしい。
しかも、動いているのは総合科だけではなかった。
専科側から、自分を助っ人候補として売り込む学生もいる。
大会当日は上級生も教員も観戦する。
入試で上位だったり、自分の実技に自信があったりする専科生の中には、せっかくなら大会で活躍して名前を覚えてもらいたいと考える者もいるらしく、向こうから総合科の班に話を持ちかけることもある。
俺も、この数日で二度呼び止められたことがあった。
昨日は講義棟を出たところで、知らない女子生徒に声をかけられた。
『アストリア君だよね?』
『うん』
『私、探索系の専科なんだけど、まだ助っ人決めてない? 野外実習は得意だし、踏査区なら役に立てると思う』
自分から来るものなのかと少し驚いたが、助っ人探しはルシアンに任せている。
『候補探しはルシアンがやってるんだ。よかったら名前と所属を教えて。伝えておくよ』
所属と名前を聞き、その日の夜にルシアンに伝えた。
『今日、探索系の専科の子に声をかけられた。名前は——』
『分かった。明日、僕から話してみるよ』
ルシアンはそれ以上何も言わなかった。
似たようなことがもう一度あったから、直接候補を探しているルシアンのところには、もっと多くの学生が来ているのかもしれない。
「レイン」
名前を呼ばれて顔を上げると、当のルシアンが鞄を肩に掛けていた。
「今日、昼どうする?」
「食堂行こうと思ってるけど」
「そっか。ごめん。僕は先に約束がある。軍事魔法科で一人会って、そのあと探索系にも寄る」
「また昼抜く気?」
「途中で何か買うよ。昨日もちゃんと食べたし」
その時、教室の入口に立っていた女子生徒がこちらに軽く手を上げた。襟元の銀線は一本だから一年生だ。
ルシアンも気づいたらしい。
「もう来てた。じゃあ、夜に」
「うん」
ルシアンは教室を出ると、その女子生徒と何か話しながら廊下を歩いていった。
入学してから、俺とルシアンはかなりの時間を一緒に過ごしていた。
朝起きて食堂に行き、授業を受け、昼も一緒に食べることが多かったし、放課後に別行動をしても寮に戻れば同じ部屋だ。
けれど、この数日は朝食と授業中、それから夜に寮で話すくらいの日もある。
「本当に動いてるわね」
リネットが入口の方を見た。
「誰を探してるんだろうな」
ガレスが言う。
「まだ聞いてない」
「任せるって言ってたもんな」
「うん」
もちろん、気にはなっている。
学院の中を歩いていると、ルシアンが専科生と話しているところを何度も見かけた。
入試で上位だったと噂される学生と話している時は、大会に出るつもりなのか、もう他の班から声をかけられたのか、予選ではどの課題区が得意そうか、といった大会そのものの話をしている。
一方で、ただ実習の話をして終わっていることもあった。
『昨日の野外実習、途中から雨だったんだって?』
『そう。北側がぬかるんで、予定の経路が使えなくなった』
『大変だったね』
『でも、カイルが朝から地面見てたんだよ。雨が来たら南に回ろうって先に言っててさ。だから思ったより早く戻れた』
『それは助かったね』
『あいつ、そういうところ細かいから』
そんな、ただ実習の失敗談を聞いているだけに見える会話もある。
有名な優等生に声をかける一方で、誰かと実習の話だけして別れることもある。
ルシアンが何を基準に候補を絞っているのかは、まだ分からなかった。
「じゃあ俺も訓練場行くかな」
ガレスが立ち上がる。
「今日は班の練習じゃないよね?」
「ああ。自主練。大会までに身体強化をもう少し安定させたい」
「頑張って」
「おう」
リネットとエミールにもそれぞれ予定があり、教室を出たところで別れた。
今日は午前で授業が終わりだ。
午後は研究室に行くつもりだけれど、その前に昼を食べておきたい。
俺は一人で食堂に向かった。
* * *
食堂の入口が見えたところで、思わず足が鈍った。
「……長いな」
いつも混んでいるとはいえ、今日は入口の外まで列が伸びている。
前にも似たような日があった。その時はルシアンと一緒で、途中でエマとリリィに会い、四人で購買に行った。
今日は一人だし、普通に並ぼう。
そう思って最後尾に向かったところで、食堂の入口から少し離れた場所に見覚えのある淡い金髪が見えた。
(リリィだ)
リリィの前には、男子生徒が二人いた。
二人とも制服の襟元には銀線が一本。腰には同じ形の訓練杖を下げている。以前、演習場の近くで軍事魔法科の学生が使っていたものだ。
二人は食堂に入る前にリリィを見つけて声をかけたらしく、列の外側で立ち話をしている。
治癒科の女子は、他学科の男子から人気があるらしい。
前にルシアンが、そんなことを言っていたのを思い出した。
俺は横目で見ながら、食堂の列の最後尾に並んだ。
「今度の休日、演習場の方来ない?」
男子の一人が言った。
「軍事魔法科の公開演習があるんだけど、見てるだけでも結構面白いと思う」
「うーん……その日は、ちょっと用事があるかも」
「まだ決まってない?」
「うん。まだ」
もう一人が横から口を挟む。
「じゃあ途中からでも見に来ない? 終わったあと、飯でも食おうぜ」
「ごめん。予定が分からないから」
「そっか」
そこで話が終わるのかと思ったが、最初の男子が公開演習の内容を話し始めた。
リリィは普通に返事をしている。嫌そうな顔をしているわけでもなく、露骨に離れようとしているわけでもない。
(知り合いなのかな)
列が少し進み、俺も前に詰める。
「治癒科だと、こういう演習はあまり見ないだろ?」
「合同実習で見ることはあるよ」
「あ、そうなんだ」
「うん」
そこで、また会話が途切れた。
リリィは聞かれたことには答えるけれど、さっきから一度も自分から質問を返していない。
(……あんまり乗り気じゃない?)
そう見える。
だからといって俺が入るような話でもない。
しばらくすると、リリィが抱えていた教本を持ち直した。
「ごめん、私そろそろ行くね」
「ああ。またな」
「うん。また」
二人と別れたリリィがこちらに歩いてきて、数歩進んだところで俺と目が合った。
「あ」
「リリィ」
「レイン君」
男子二人はそのまま、俺の後ろに伸びた列の最後尾に向かった。
リリィは俺のところまで来ると、食堂の列を見た。
「お昼?」
「うん」
「やっぱり混んでるね」
「毎回こうな気がする」
「この時間はね」
列が少し動き、俺も一歩前に詰める。
リリィがこちらを見上げた。
「……いつからそこにいたの?」
「ついさっき並んだところ」
「ふうん」
「何?」
「別に」
返事はそれだけだった。
「リリィはお昼まだ?」
「まだ」
「食堂なら、俺も最後尾に並び直すよ」
リリィは一度、俺の後ろに伸びた列を見た。
さっきの男子二人も並んでいる。
「……今日は購買でもいいかな」
「じゃあ俺も購買にする。外で食べよう」
「でも、せっかく並んでたのに」
「まだほとんど進んでないし。一人で食べるより、リリィと食べた方が楽しいから」
リリィが一瞬黙った。
「……そっか」
それから、少し先に歩き出す。
「行こ」
「うん」
俺も列から外れ、その横に並んだ。
* * *
購買で昼食を買い、中庭に出る。
リリィは食堂側に近い長椅子を通り過ぎ、そのまま中庭の奥まで歩いていった。
植え込みの向こうに、通路から少し引っ込んだ長椅子が一つ空いている。
食堂の入口からはほとんど見えない場所だった。
二人で座り、包みを開く。
「今日はエマいないんだね」
「午後から実習なの。先に治癒棟に行ってる」
「リリィは?」
「私は今日は午前で終わり。課題はあるけど、寮でできるから」
「そっか」
「レイン君は研究室?」
「うん。食べ終わったら行くつもり」
そこで一度、会話が止まった。
今までリリィとは何度も話している。食堂でも、中庭でも、授業の帰りにも話した。
でも思い返してみると、いつもエマかルシアンがいた。
二人だけで座って昼を食べるのは、たぶん初めてだ。
二人で座ると、長椅子はずいぶん余る。
それなのに互いに端まで離れるわけでもなく、少し身体を動かせば隣の袖が視界に入るくらいの距離にいた。
植え込みを抜けてきた風がわずかに強まると、隣から甘いミルクのような香りがかすかにした。
前にも近くにいた時に何度か感じたことがある。
リリィの香りだ。
「大会の練習は今日ないの?」
先に話したのはリリィだった。
「今日はないよ。休日に半日ずつやることになった」
「半日?」
「一日全部使うと、研究室とか図書館に行けなくなるから」
「そこは譲らなかったんだ」
「だってそっちも大事だし」
「レイン君らしいね」
リリィがパンを一口食べる。
「リリィたちも大会の話してる?」
「してるよ。助っ人で出たいって子もいるし、出ないって子もいる。最近、総合科の子が治癒棟に来ることも増えたかな。助っ人探しで」
「ルシアンもこの前行ってたと思う」
「見たよ。何人かと話してた」
「今ずっとあんな感じ」
「大変そう」
「本人はそうでもなさそうだけどね」
むしろ、夜に寮に戻ってきても疲れているようには見えない。何人と話したのか聞けば普通に答えるし、そのまま別の本を読み始める。
そこから授業の話になった。
治癒魔法科では最近、複数の模擬患者を同時に受け持ち、診察と処置の優先順位を決める実習が始まったらしい。
「同時に診るの?」
「最初に全員を短く見て、危ない人から順番を決めるの。でも途中で状態が変わるから、最初に決めた順番のままじゃ駄目なこともある」
「そのたびに変えるんだ」
「うん。最後に、誰を先にしたかだけじゃなくて、何を見てそう決めたのかまで説明させられる」
「それは面白そう」
「ほら。レイン君、絶対そこに食いつくと思った」
「どうやって判断するのか気になる」
「話し始めたら、お昼終わらなくなるよ」
「あれ、そんなに長い?」
「前も魔力循環の話でずっと質問してたでしょ」
「あれは面白かったから」
「今回も同じじゃん」
リリィが笑った。
その笑顔を見て、先日の話を思い出した。
「そういえば」
「うん?」
「前に言ってた魔導具店なんだけど」
リリィの手が止まる。
「次の休み、空いてる?」
聞いてから、さっき食堂の前で聞いた会話が頭に戻ってきた。
「あ、いや」
「何?」
「用事あるって言ってたっけ」
リリィが黙った。
「……リリィ?」
「……やっぱり聞いてたんじゃん」
「あ」
しまった。
「ついさっき並んだところって言ってたよね」
「……ごめん」
「ふーん」
リリィは食べかけのパンを包み紙の上に戻した。
「食堂に来たのは本当にさっきで」
「来た時間の話じゃないよ。聞いてたのに、聞いてないみたいにしたこと」
「ごめんって」
リリィはすぐには返さなかった。
植え込みの葉が風で擦れる。
「見られてたら嫌かなと思ったんだ」
俺は続けた。
「あんまり乗り気じゃなさそうだったし、戻るって言ったあとで同じ食堂にいたら気まずいかなって」
リリィが男子二人と話していた。あまり乗り気ではなさそうだった。だから見られたことも気まずいだろうと、そのまま決めてしまった。
「さっき外で食べようって言ったのも?」
「うん。そういうつもりだった」
リリィは少しだけ俯き、包み紙の端を指で折った。
「気を遣ってくれてありがとね」
「うん」
「でも、私が嫌がってるとか、見られたくないとか、レイン君の中で先に決められるのは……ちょっと嫌かも」
「……そっか」
俺は勝手にそう見えたから、そうだと思った。
聞いてはいない。
「ごめん」
「もういいもん」
少し拗ねたように言ってから、リリィは折った包み紙の端をもう一度指で押さえた。
「気を遣ってくれたのも分かったし」
「うん」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
先に口を開いたのはリリィだった。
「じゃあ」
「うん?」
「今度の休み、一緒に出かけて」
「……俺がさっき誘ったけど」
「分かってる」
リリィは俺から視線を外さなかった。
「私からも誘いたいの」
「……うん」
「私が行きたいから、一緒に来て」
「行く」
「よし」
リリィがパンをもう一度手に取る。
「それと、魔導具のお店だけじゃないからね」
「他にも行く?」
「この前言ったでしょ。近くに色々あるって」
「言ってた」
「ご飯屋さんも行くし、お菓子屋さんも行く」
「一日?」
「レイン君が一日見て回るって言ったんじゃん」
「そうだった」
「気になるお店、いっぱいあるんだから」
「食べるの好きなんだね」
「大好き」
「意外とたくさん——」
途中で口を閉じた。
リリィがこちらを見る。
「何?」
「いや」
「今、何言おうとしたの?」
言わない方がいい気がする。
女の子に食べる量の話をするのは、たぶんあまり良くない。
でも、さっき勝手に決めたことで怒られたばかりだ。
「……意外とたくさん食べるもんね。前に焼き菓子二つ食べたって言ってたし」
リリィが二度瞬きをした。
「それ、女の子に言うこと?」
「……言わない方がよかった?」
「そこは自分で考えて」
「難しいな」
リリィが耐えきれなくなったように笑った。
さっきまで少し尖っていた口元がほどける。
屈託がない。
木漏れ日を受けた淡い金髪が頬の近くで揺れ、その動きに合わせるように、甘いミルクのような香りがふっと近づいた。
いつも見ているはずの顔なのに、その瞬間だけ妙に目が離せなかった。
(かわいい)
その一言が頭に浮かんだ途端、すぐ隣にリリィがいることまで急に意識してしまう。
俺は飲み物を手に取った。
「どうしたの?」
「喉乾いた」
「さっき飲んでたじゃん」
「また乾いた」
「変なの」
リリィはまだ笑いながら残りのパンを食べる。
「じゃあ、次の休みね」
「うん」
「正門で待ち合わせしよ。時間はまた決めよう」
「分かった」
「遅刻しないでね」
「しないよ」
「学院の初日に迷ったんでしょ?」
「何で知ってるの?」
「ルシアンから聞いた」
「あいつ……」
「帝都でも迷ったりして」
「今回はリリィがいるから大丈夫」
「最初から案内してもらう気なんだ」
「帝都全然分からないし」
「堂々としてるね」
また笑われた。
その後も、食べ終わるまで魔導具店で何を見るかや、近くにどんな店があるかを話した。
* * *
「じゃあ、私はこっち」
中庭を出たところで、リリィが立ち止まった。
「寮?」
「うん。一回戻って課題やる。レイン君は研究室だよね」
「うん」
「頑張ってね」
「リリィも」
「次の休み、忘れないでね」
「忘れないよ」
「なら大丈夫。じゃあ、またね」
「また」
手を振って別れ、俺は研究棟に向かった。
しばらく歩いたところで、さっき決まった予定を改めて頭の中で並べてみる。
次の休み、リリィと二人で帝都に出る。魔導具店を見て、そのあとも一緒に店を回って、昼も食べる。
そこまで考えたところで足が鈍った。
(……これ、デート?)
急に落ち着かなくなった。
さっきまで普通に話していたのに、いったんそう考えると次々に別のことが気になってくる。
(何着ていけばいい?)
休日に出かけるのだから、さすがに制服でなくてもいいはずだ。でも、どの服を選べばいいのかまでは分からない。
それ以前に、俺は帝都の店をほとんど知らない。
最初に帝都に来た時も窓の外を散々見ていたのに、覚えているのは魔導具や術式ばかりで、どこにどんな店があったのかは全然覚えていなかった。
リリィの方がずっと詳しい以上、案内するどころか案内される側になる。
(もっと街の方も見ておけばよかった……)
今さらそんなことを考えながら研究棟に入り、階段を上る。
研究室の扉まで来ても、リリィがまだ頭に残っていた。
このまま入ったら、研究室でも考えてしまいそうだ。
「ふぅ。よし」
俺は一度扉の前で立ち止まり、意識を研究に戻してから取っ手に手を掛けた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




