第六話「無詠唱」
「……声も出さず、目を通しただけで……? まさか……無詠唱で、魔法を……?」
オスカーの掠れた声が、静寂に包まれた室内に虚しく響いた。
「無詠唱……ですか?」
聞き慣れない単語に、俺は思わず問い返していた。 レオンとテレシアも、オスカーの只事ではない様子に息を呑み、固唾をのんでその顔を見つめている。
普段はどんな時でも冷静沈着で、完璧な礼儀作法を崩さないオスカーが、珍しく狼狽えたように視線を泳がせていた。彼は震える手で何度も眼鏡のブリッジを押し上げると、青ざめた顔のまま、搾り出すような声で語り始めた。
「レイン様……本来、適性年齢である六歳に満たないお子様は、体内の魔力が極めて不安定で、魔力を意識して動かす術も知りません。そのため、どれほど言葉を口にしようと魔力が応えることはなく、自力で魔法を発動させること自体が奇跡に近いのです」
オスカーはそう言うと、ゴクリと唾を呑み込んだ。
「仮に訓練も受けぬまま、偶然にも小さな火花を一瞬生み出しただけでも、生まれながらの『天才』として一躍噂になり、名だたる魔法学院からの特別な推薦や、有力貴族からの後見の申し出が殺到するほどの一大事にございます」
「ですが、それほどの天才であっても、声を張り上げて『詠唱』を唱えることでしか魔法を成立させられません。それを一切口にせず、ただ心の中で詠唱を反芻するだけで発動させる『無詠唱』などは……帝国でも一握りの熟練者しか到達できぬ、極めて高度な技術にございます」
オスカーは一度言葉を切り、灰色の瞳に深い光を宿して俺を見つめた。
「なぜそこまで重宝されるのかと申せば、無詠唱には圧倒的な利点があるからです。長々とした詠唱を口にする時間を大幅に短縮できるだけでなく、戦闘や謀略の場において、どんな魔法をいつ使うかを相手に悟らせず、一切の隙を晒さずに発動できる……まさに戦況を左右する決定的な優位性をもたらす技なのです。……かく言う私めとて、全盛期に奇跡的に数回成功させたことがある程度に過ぎません」
「それを……魔力制御の訓練すら一度も受けたことのない五歳のレイン様が、初めての魔法で、声も出さずに火球を呼び出されたなど……」
オスカーの言葉が、恐怖にも似た震えを帯びて途切れる。
「……もはや神童や天才などという言葉では片付けられません。帝国の千年におよぶ長い歴史を振り返っても、そのような異常事態はただの一例すら存在いたしません」
室内を支配する静寂が、より一層重みを増す。 俺が知らず知らずのうちに仕でかしてしまったことの「異常さ」が、オスカーの切切とした言葉によって、容赦なく突きつけられていた。
テレシアが痛々しそうに両手で口元を覆い、レオンの鋭い眉間には深い深いシワが刻まれている。
「さて……どうしたものでしょうか」
オスカーは困惑を隠しきれない様子で、深く溜め息を漏らした。
「レオン様、テレシア様もご存じの通り、レイン様はまだ魔法適性年齢である六歳に達しておりません。本来であれば、この年齢の子供に魔法を教えることは帝国法によって厳しく禁じられております」
そう言うと、オスカーは一度言葉を切り、真剣な眼差しで二人を見つめた。
「ですが……魔力の制御を正しく学ばせない限り、再び同じ事故が起きる可能性がございます。この屋敷では、日常的に魔法が使われていますからな。例えば、使用人が薪に火を灯す姿を見て、レイン様がその術式を無意識に頭の中で反芻してしまえば……今回以上の惨事になりかねません」
穏やかな口調を保ってはいるものの、オスカーの灰色の瞳の奥には、あり得ざる才能を前にした困惑と、指導者としての強い危機感が渦巻いていた。
「あなた……どういたしましょう」
すがるようなテレシアの問いかけに、レオンはしばらくの間、腕を組んだまま固く目を閉じていた。 重苦しい沈黙が部屋を包み込む。やがて、レオンは腹をくくったようにゆっくりと瞼を開いた。
「ひとまず……グランフォード総督に相談してみよう」
その力強い声に、俺は思わず背筋を伸ばした。
「どちらにせよ、我が領内で起きた魔法の無断使用については、州総督へ報告する義務がある。子供の過失とはいえ、無詠唱で発動したとなれば隠し通せるものでもない」
レオンは重々しく首を振ると、視線をオスカー、テレシア、事故の当事者である俺へと順番に向けた。
「総督から返答があるまでの間、オスカー、お前は常にレインと行動を共にしてくれ。頼めるか」
「かしこまりました」
オスカーが深く首を垂れる。
「テレシアも……すまないが、しばらくの間、レインと二人きりになる状況は避けてほしい。万が一、意図せぬ形で魔力が暴走した時、お前の身体では止めきれん」
「……分かりました、あなた」
不安に唇を噛みしめながらも、テレシアは頷いた。
「オスカー、使用人たちにも周知徹底してくれ。レインの目の前では、生活魔法であっても一切の使用を禁ずる、とな」
「承知いたしました。ただちに手配いたします」
命じ終えると、レオンは俺の前にゆっくりとしゃがみ込んだ。 技能への畏怖や困惑を押し殺し、大樹のような大きな手で俺の幼い両肩を包み込むと、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
「レイン。しばらくの間、魔法に関するものには決して触れるな。いいな」
その声には、厳しさと同時に、我が子を何としても守り抜こうとする父親の強い情愛が込められていた。
「……はい、父さん」
俺はただ、噛みしめるように深く頷くことしかできなかった。
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