第五話「才能の片鱗」
重い瞼を開くと、ぼやけた視界の中に三つの影が浮かんでいた。
焦点を合わせようと何度か瞬きを繰り返す。
最初に映り込んだのは、テレシアの顔だった。その碧い瞳には溢れんばかりの涙が溜まり、今にも零れ落ちそうに目元を歪ませている。
その隣にはレオンとオスカーが立っていた。二人の表情には明らかな安堵の色が差していたものの、その奥には重々しい怒りと厳しさが冷たく宿っている。
「あ……っ……」
喉を焼き切られたような痛みが走り、かすれた掠れ声しか吐き出せない。 その音を聞きつけた瞬間だった。
「レイン……!」
テレシアがたまらずといった様子で膝をつき、俺の身体を強く抱きしめた。
「……無事で、本当によかった……っ」
耳元で、締めつけられるような声が震える。 彼女の細い肩は小刻みに揺れ、やがて温かな雫がぽとぽとと俺の頬を濡らした。抱きしめられた胸元から伝わる激しい鼓動と体温に、俺は自分が取り返しのつかない過ちを犯したのだと、遅まきながら思い知らされた。
喉の渇きと、頭を万力で締めつけられるような激しい痛みに耐えながら、ゆっくりと周囲を見回す。
そこは自分の部屋ではなかった。 見覚えのない白い漆喰の壁に、簡素な木製の家具。窓の外はすでに濃い紫色の夕闇に包まれており、壁に設置された燭台の小さな炎が静かに揺れている。
気絶する直前、燃え盛る書庫の中で意識を失ったはずの俺がなぜここにいるのか。混乱する頭で状況を整理しようとしていると、ベッドの脇に控えていた人物が静かに一歩前へ出た。
白髪の混じった黒髪を整え、清潔な白衣を纏った壮年の男性だ。その胸元には、三つ葉の紋章が刻まれた銀細工の記章が留められている。屋敷での暮らしの中で目にしたことのある、治癒魔術師の証だ。
彼は緊張の解けないレオンたちに向かい、穏やかな口調で語りかけた。
「黒煙を大量に吸い込まれたため肺を激しく痛めておられましたが、治癒魔法による処置は大方完了しております。酷い咳き込みと、強いショックによる頭痛・激しい倦怠感はしばらく残るでしょうが……幸いにも、命に別状はございません」
治癒魔術師の言葉を聞き、テレシアは胸を撫で下ろすように大きな息を吐き出した。
「念のため、一週間ほどはこちらの治癒院でお預かりし、経過を診させていただきます。静養に立ち入る者も制限いたしますので、ご安心ください」
俺は倒れた後、オスカーに助け出され、屋敷から一番近いこの治療院へ運び込まれたらしい。 自分の無茶が引き起こした結末の重さに、俺はただ無言で唇を噛みしめることしかできなかった。
―――
一週間後。
身体の痛みが引き、屋敷の自室へと戻った俺を待っていたのは、静まり返った部屋と、レオンとオスカーの重苦しい威圧感だった。
中でも、以前から「あの奥の部屋には決して入ってはならない」と厳しく言いつけていたレオンの怒りは凄まじかった。大樹のような巨躯から放たれる圧倒的な威圧感は、前世で大人として生きてきた俺の精神をもってしても、息が詰まり、思わず身体をすくませてしまうほどだった。
「……レイン。どこから火打石を持ち出したのかは知らんが、幼いお前が火を弄ぶことがどれほど恐ろしい事態を招くか、分かっているのか」
レオンの固い声が降ってくる。
当たり前だ。6歳未満の子供が魔法を使えるはずがない以上、二人もオスカーも、俺がどこからか火種を拾い込み、部屋の中で不注意に火遊びをしてボヤを起こしたのだと完全に思い込んでいるようだった。
隣に立つテレシアも、いつもの優しい微笑みを完全に消し、悲痛な表情で俺を見つめている。
俺は自分を包む空気の重さに耐えきれず、ベッドの上で深く頭を下げた。
「……ごめんなさい。約束を破って、危険な部屋に入りました。それに……アストリア家の大切な本を、たくさん燃やしてしまいました。本当に、ごめんなさい……」
小さな声で謝罪を口にしながら、俺はぎゅっと拳を握りしめた。弁解の余地などどこにもない。両親の信頼を裏切り、館を危険に晒したのだ。
レオンはしばらくの間、腕を組んだまま無言で俺を見下ろしていた。重苦しい沈黙が部屋を支配し、やがて、地鳴りのような低い声が聞こえた。
「本が燃えたことなど、どうでもいい」
「……え?」
予想外の言葉に、俺は思わず顔を上げた。
レオンは引き結んでいた唇をわずかに緩め、けれど真摯な眼差しで、まっすぐに俺の目を見つめ返してきた。
「そんなものは、金を積めばいくらでも買い直せる。どれほど貴重な書物であろうと、失われた知識は再び集めれば済む話だ」
レオンは俺の前にしゃがみ込むと、視線の高さを合わせ、鋼のように太い手を俺の小さな肩に置いた。
「だが……お前の命は、二度と買い戻せんのだ」
肩に伝わる手のひらが、かすかに震えているのが分かった。
「お前が死ねば、残された私やテレシアがどれほど悲しむか、分かっているのか。……愛しているからこそ、私は怒っているのだ、レイン」
「あなた……」
テレシアが目元を拭い、レオンの背中にそっと手を添える。
胸の奥が、痛いほど強く締めつけられた。
前世の俺は、成果を出さなければ、誰より優れていなければ愛されないと思い込んで生きていた。
だが、この人たちは違う。何の成果も出せず、ただ愚かな過ちを犯して死にかけた俺を、ただ「生きていること」そのものを愛してくれている。
「っ……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
俺は幼い子供のように声を上げて泣いた。何度も何度も謝罪を繰り返し、溢れ出る涙を拭うことすら忘れて、二人の胸に顔をうずめた。
―――
しばらくして俺の涙が収まり、室内の緊張がようやく和らいだ頃、控えていたオスカーが静かに一歩前へ出た。眼鏡の奥の灰色の瞳を細め、不思議そうに首をひねりながら尋ねてくる。
「それにしても、レイン様。旦那様の仰る通り火種の持ち込みを疑い、現場を検分いたしましたが……火打ち石や魔法道具の痕跡は一切見つかりませんでした。……一体どうやって火をおつけになったのですか?」
「火を……つけようとしたわけじゃないんです」
俺は濡れた目を擦りながら、必死に首を横に振った。
「本を読んでいたら……突然、目の前に大きな火の玉が現れて……」
その言葉が出た瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。 オスカーが眉根を寄せ、室内が急速に静まり返っていく。
「……どのような本をお読みになっていたのですか?」
「確か……『火属性魔法 初級Ⅰ』という本です。表紙を開いたら点火魔法のことが書いてあって……一番下の『小さき火よ、灯れ』という言葉を見た瞬間、急に身体から力が抜けて……そうしたら、目の前に火が出たんです」
言い終えた瞬間、オスカーの顔から一切の余裕が消え失せた。背筋を極限まで伸ばしたまま、まるで置物のように動きを止めている。
レオンもテレシアも、オスカーの尋常ではない反応に息を呑んだ。
オスカーは数秒間立ち尽くしていたが、やがて擦れた声で、慎重に問いを重ねた。
「……その言葉を、声に出して唱えられたのですね?」
「いいえ」
俺は首を振った。
「声は出していません。口を閉じたまま、心の中で読んだだけです」
部屋から、完全に音が消えた。
テレシアが小さく息を呑み、レオンの鋭い瞳が信じられないといった光を帯びて俺に注がれる。
オスカーは震える手で眼鏡のブリッジを押し上げると、青ざめた顔のまま、息を詰まらせるように漏らした。
「……声も出さず、目を通しただけで……? まさか……無詠唱で魔法を……?」
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