第四話「ボヤ騒ぎ」
こちらの世界に転生してから、俺は大きな病気や大怪我をすることもなく、健やかに成長していた。
それもすべて、母であるテレシアと父レオン、そして屋敷の使用人たちが、惜しみない愛情を注いで育ててくれたおかげだ。
前世の寒々とした孤独を知る身にとって、彼らが注いでくれる温もりは、何物にも代えがたい救いだった。
二歳を迎える頃には、この世界の言葉をほとんど不自由なく話せるようになっていた。 もっとも、それは誰にも見られないよう、一人きりになれる短い時間を見つけては、小声で繰り返し発声の練習を重ねた成果だ。
人前では、どこまでも「年相応の幼子」として振る舞うよう細心の注意を払っていた。前世で大人だった俺にとって、この演技は想像以上に神経をすり減らす作業だったが、それでも周囲に違和感を抱かせるわけにはいかなかった。
もし、大人の知識を持つ俺が思うままに喋り始めれば、周囲は間違いなく「恐ろしく早熟で異常な子供」だと目を見るだろう。テレシアとレオンも、俺に対して過度な期待や戸惑いを抱いてしまうかもしれない。
それだけなら、まだましだ。
この世界には『魔法』が存在する。もしも精神を操ったり、他者の身体を乗っ取ったりする魔法が存在するのだとすれば、「どこかの何者かが子供の体を奪った」と疑われる可能性すら否定できない。
そうなれば、俺を愛してくれる二人を、深く傷つけ、恐怖させ、悲しませることになる。
それだけは、何があっても避けたかった。
二人は俺を、単なるアストリア家の後継者としてではなく、一人の愛しい息子として抱きしめてくれたのだ。
だから俺は、前世の記憶と自分を胸の奥底へ深く押し込め、この世界では一人の子供として生き抜くことを心に誓っていた。
―――
三歳を迎える頃には、幼い身体もだいぶ思い通りに動かせるようになってきた。
すると、それを待ち構えていたかのように、伯爵家嫡男としての本格的な英才教育が始まった。
「本日よりレイン様の教育を担当させていただきます、オスカー・クロイスと申します」
金縁の眼鏡をかけ、白銀の髪に手入れの行き届いた上品な口ひげを蓄えた老人が、静かに名乗った。
そうして右手をそっと胸に添えると、音もなく綺麗な所作で腰を折る。一連の動きには一切の無駄がなく、まるで長年磨き上げられた芸術品を鑑賞しているかのような錯覚すら覚えた。
クロイス家は代々、家令としてアストリア家を支えてきた名家である。オスカーはその現当主であり、屋敷の使用人たちを束ねる一方で、領地の行政実務や当主であるレオンの補佐まで完璧にこなしているという。
そして、アストリア家の未来を担う嫡男――俺の後継者教育もまた、彼に全幅の信頼とともに託されていた。
「よろしくお願いします、オスカー」
幼い声を意識しながら挨拶を返すと、オスカーは静かに身を起こした。初老の面影を残しながらも、背筋は槍のようにまっすぐ伸びている。その佇まいからは、長年厳しい職務を果たしてきた者だけが纏う、静かな威厳と風格が滲みでていた。
「レイン様は将来、由緒あるアストリア家の家名を背負うお方。まずは貴族としての正しき礼儀作法、そして立ち振る舞いから身につけていただきます」
穏やかな微笑みを絶やさない口調とは裏腹に、眼鏡の奥に覗く灰色の瞳には、教育係としての厳格な光が宿っていた。
―――
それからの二年間、俺の日常は一変した。
オスカーのもとで、礼儀作法をはじめ、文字の読み書き、算術、帝国の地理や歴史の基礎、果てはヴァイオリンに似た弦楽器の演奏や絵画鑑賞といった芸術に至るまで、貴族として必要な教養を徹底的に叩き込まれたのだ。
このアルカディア帝国において、貴族とは単に高い身分に甘んじる存在ではない。それに相応しい知性と品格、そして他者を束ねるだけの実力を示してこそ、初めて一人前と認められる。
ゆえに、オスカーの教えは苛烈を極めた。 朝起きてからの姿勢一つ、指先の角度一つまで細かく指導され、毎日のように広大な図書室で大量の課題と向き合った。
食事の時間でさえもテーブルマナーの厳密なチェックが入り、気が休まる瞬間などほとんど存在しない。
指先や足が痺れ、前世の大人としての精神をもってしても、挫けそうになる瞬間が何度もあった。
けれど、オスカーの指導は冷酷ではなかった。 幼い俺の頭でも理解できるよう、物事の本質を噛み砕いて説明し、決して途中で投げ出さない。挨拶の角度一つ、計算の工程一つにも「なぜそうしなければならないのか」という理由を必ず添え、納得させた上で身体に染み込ませてくれた。
何より、俺を支えたのは両親の存在だった。
忙しい合間を縫っては俺の勉強部屋を覗き、愛おしそうに頭を撫でてくれるテレシア。
不器用ながらも「よく頑張っているな」と太い手で肩を叩いてくれるレオン。
二人が誇れるような息子になりたい――その一心で、俺は幼い歯を食いしばり、机に向かい続けた。
しかし……どれほど待っても、俺が最も期待していた『魔法』の授業だけは一向に始まらなかった。
学び始めて二年が経ち、待ちきれなくなった俺は、ある日の講義の合間に思い切ってオスカーへ尋ねた。
「あの、オスカー。魔法の勉強は、いつから始まるのですか?」
オスカーは羽ペンを置くと、穏やかな笑みを崩さぬまま、ゆっくりと首を横に振った。
「レイン様。幼少期の身体は、体内の魔力が極めて不安定な状態にございます。その段階で無理に魔力を動かし、術式を暴走させてしまえば、魔力器官を傷つけ、一生消えぬ重い後遺症を負うことになりかねません。ゆえにこの国では、法令および教育制度により、魔力が安定を見る六歳を迎えるまでは、特別な事情を除き、子供に魔法を使わせることも、教えることも厳しく禁じられているのです」
論理的で筋の通った説明だった。頭では、その危険性を理解できた。
……だが、前世からずっと憧れ続け、目の前に焦らし焦らされている魅惑の奇跡を前に、「あと一年待ちなさい」と言われて素直に引き下がれるほど、俺の分別は成熟していなかったのだ。
言葉を覚えて以来、俺の目にはずっと映っていた。
厨房の料理人が火を点ける時、庭師が花壇に水を撒く時――彼らの体から溢れ出す無数の『淡い光の粒』が渦を巻き、炎や水へと姿を変える幻想的な光景を。
その美しさに魅せられ、自分もあの光を動かしてみたいという欲望が、胸の奥で抑えきれないほど膨らんでいた。
―――
ある日の早朝。まだ館の使用人たちも動き出していない時間帯のことだ。
俺は隣ですやすやと心地よい寝息を立てているテレシアを起こさぬよう、静かにベッドを抜け出した。
冷たい石の床を踏みしめ、足音を殺して廊下を走る。
目指すは、屋敷の最も奥まった区画にある一室。 普段は固く閉ざされ、テレシアやレオンからも「危険だから決して近づいてはいけません」と強く念を押されていた部屋だ。
以前、商人らしき男たちが大量の重そうな木箱を運び込んでいるのを、物陰から盗み見たことがあった。箱の隙間から見えた分厚い革表紙の質感から、俺はあの部屋に無数の『魔導書』が保管されているのではないかと密かに踏んでいたのだ。
固い扉のノブを押し下げ、隙間から滑り込む。
部屋に入った瞬間、その予想が正解だったことを悟った。
薄っすらと朝靄の光が差し込む薄暗い室内には、天井まで届くような本棚が隙間なく並んでいた。漂うのは、古びた羊皮紙と革、そして乾いたインクが混ざり合った独特の匂い。その棚の一つ一つに、羊皮紙を束ねた重厚な書物がぎっしりと収められている。
『火属性魔法 初級Ⅰ』
『水属性魔法 初級Ⅰ』
『近代魔法史の諸相』
『魔力学入門』
背表紙に刻まれた文字を目にした瞬間、胸が打楽器のように激しく脈打った。約束を破っている罪悪感など、溢れ出す好奇心の前に吹き飛んでいく。
俺は爪先立ちになりながら、棚から『火属性魔法 初級Ⅰ』と題された一冊を慎重に引き抜いた。
手に取ると、ずっしりとした心地よい重みが幼い腕に伝わってくる。深い紺色の革表紙には、金糸を緻密に織り込んだ気品ある紋様が刻まれ、朝光を受けてほのかに輝いていた。
床に膝をつき、高鳴る鼓動を抑えながら表紙をめくる。
真っ先に目に飛び込んできたのは、整然とした文字で書かれた見出しだった。
『点火魔法 (俗称:火付け、火花、小火、イグニス)』
――火属性生活魔法の一種。微量の魔力を燃焼エネルギーへ変換し、小さな炎を発生させる。主として調理や暖炉、ランプへの着火に用いられる。生活魔法の中でも最も広く普及した術式であり、多くの地域では魔法教育の最初の段階として教授される。
詠唱――『小さき火よ、灯れ』
その最後の一文に視線を落とした、まさにその瞬間だった。
(あ――)
視界が、変容した。
詠唱の言葉を認識した途端、俺の全身の皮膚の内側から、無数の「淡い光の粒」が爆発的に溢れ出したのだ。
俺には、分かっていた。
幼い頃から使用人たちの魔法を「見て」きた俺には、魔法が完成するまでの正解の形――白い光が集まり、高密度の「赤い光」へと変わるイメージが、完璧に頭の中に出来上がっていた。
だが、俺は知らなかったのだ。 これが俺にとって、人生で初めての「魔力の出力」であることを。
加減という概念を持たない幼い体が、無意識のうちに、体内の魔力というアクセルを全力で踏み込んでしまったことを。
「つっ……、あ、がっ……!?」
劇的な激痛が全身を襲った。 膨大な量の魔力が、未発達な体内の巡り――魔力器官を一気に駆け巡り、まるで血管が内側から焼き切れるかのような強烈な熱と痛みが突き抜ける。
溢れ出た光の粒は渦を巻き、俺の目の前で恐ろしい密度へと一瞬で凝縮された。 白く輝いていた光が、一気に凶暴な真紅へと変質する。
――轟っ!!!!
地鳴りのような咆哮とともに、人の頭ほどもある巨大な火球が、突如として室内に現れた。
「しまっ……!?」
小さな火種を起こすつもりが、現れたのは暴徒を焼き払うような殺戮の炎だった。
制圧しようと焦って手を伸ばす。だが、生まれた火球は俺の意思などを遥かに置き去りにして、目の前の本棚へと一直線に牙をむいた。
ドカン、と乾いた爆風が弾ける。 炎は極上の餌を得た猛獣のように古びた魔導書へ飛び移り、乾燥した羊皮紙を瞬く間に呑み込んで燃え上がった。
「ひ……っ、は、走って……逃げ、ないと……」
頭ではそう叫んでいるのに、身体がピクリとも動かない。立ち上がろうとした膝が笑い、泥のように崩れ落ちる。
限界を超えた魔力の過剰使用――強烈な「魔力切れ」の反動が俺を襲っていた。 頭蓋を万力で締め上げられるような猛烈な頭痛、重度の貧血による激しい眩暈、吐き気。指一本動かす力すら、今の俺には残されていなかった。
床に倒れ伏した俺を嘲笑うかのように、炎は壁を伝い、隣の本棚へと勢いよく燃え広かっていく。
あっという間に室内は黒く濃厚な煙に満たされ、焼けた革と紙の鼻を突く焦げ臭さが立ち込めた。
吸ってはいけない。煙を吸えば死ぬ。 必死に口を閉じ、息を止めようとした。
しかし、幼い肺の限界はすぐに訪れた。 胸が限界を迎え、思い切り息を吸い込んでしまった瞬間――灼熱の黒煙が喉から肺胞へと直接流れ込んでくる。
「ケホッ! ガハッ、ごほっ……!」
焼けつくような痛みに咳き込み、その拍子にさらに煙を深く吸い込んでしまう。
視界が赤と黒の斑点に染まっていく。
耳の奥で、甲高いキーンという耳鳴りが鳴り響く。
意識が、冷たい暗闇へとゆっくり落ちていく。
(ごめん……テレシア……レオン……せっかく愛してくれたのに……)
脳裏に浮かぶのは、自分を愛してくれた二人の優しい笑顔だった。
愚かな好奇心のせいで、俺はまた、こんなところで死ぬのだろうか――。
視界が完全に黒に塗りつぶされかけた、その時だった。
バァン!! と、部屋の扉が破れるほどの勢いで開け放たれた。
「――水よ、集え!!」
切迫した、けれど力強い声が、燃え盛る地獄の底に鋭く響き渡る。
(この、声は……)
そこまで考えたところで俺の思考の糸は切れ、意識は深い深い闇へと沈んでいった。
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