閑話「幸福の始まり」
人と人との縁には、それぞれ積み重ねてきた時間があります。
今回は、レオンとテレシアが夫婦になるまでの、小さな物語をお届けします。
人と人との繋がりには、必ずそこに至るまでの物語がある。
そんなことは、前世の俺も頭では理解していたはずだった。
けれど、あの頃の俺は、他人の人生を表面に見える「結果」だけで判断していたのだ。
高級車に乗る同級生。美しい女性と結婚した知人。華やかな人生を歩んでいるように見える人々――彼らがそこに至るまでの努力や苦悩、積み重ねてきた時間に想いを馳せることもなく、ただ自分と比べ、羨み、嫉妬していた。
しかし、この世界で新たな人生を歩み始めた今、少しずつ分かるようになってきた。
どれほど幸せそうに見える人にも、決して平坦ではない道のりがあったのだということを。
そして、俺を無条件の愛で包んでくれる二人にも、二人だけの物語がある。 父と母が出会い、互いを深く慈しむようになるまでの、愛おしい物語が。
それを知るきっかけとなったのは、ある午後のことだった。
肌触りの良い上質なシルクの布に包まれながらうたた寝していた俺の耳に、部屋の外の廊下から、古参の使用人が新人の侍女へ忍ばせ声で語る昔話が聞こえてきたのだ。
「……そうよ、今のあんなに仲睦まじいお二人からは想像もつかないでしょうけれどね」
扉の向こうで、ベテランの侍女がクスクスと楽しそうに声を潜める。
―――
父レオン・アストリアは、その武骨な佇まいから想像される通り、武勇と知性の双方において群を抜いていた。 物心ついた頃から厳しい鍛錬を重ね、二十歳を過ぎてからはアストリア領軍の総司令官として自ら先陣に立ち、兵を率いてきた。その背中は兵士たちから深く敬愛され、領民からも絶大な信頼を集めていたという。
先代当主が嫡男のレオンに家督を譲ると決めた時も、異を唱える者は誰一人としていなかった。
だが、非の打ち所がない英傑に見えるレオンには、たった一つ、致命的な弱点があった。――身内以外の女性に対して、とんでもなく無愛想になってしまうことだ。
屋敷の使用人や身内の女性とは普通に話せるのだが、一歩外に出て年頃の女性を前にすると、極度に緊張して口が完全に開かなくなってしまう。端的に言えば、筋金入りの不器用な朴念仁だったのだ。
ただでさえ大樹のように威圧感のある体躯と、射抜くような鋭い眼光を持つ男である。蝶よ花よと育てられた華奢な貴族令嬢に対し、ぶっきらぼうに黙り込んでしまえば、相手が恐怖で引きつってしまうのも無理はなかった。
当然のごとく、レオンの結婚相手探しは難航を極めた。
本来、貴族同士の縁談といえば、家柄や財産を調査し、条件をすり合わせた上で、お茶会や舞踏会で何度も顔を合わせ、じっくりと親睦を深めてから指輪を交わすのが当然の手順だ。
帝都から遠く離れた東の辺境にあり、資源も乏しい弱小貴族であるアストリア家にとって、政略結婚の相手としての魅力は決して高くなかった。だからこそ、レオン自身の男としての誠実さや魅力で相手の心を射止めなければならなかったのだが、彼のあまりの不器用さがそれを阻んでしまった。
顔合わせの席で、数万の兵を率いる男が汗をかき、固まり、一言も発せなくなってしまう。本人に悪気はないのだが、その重苦しい沈黙と鋭い眼光に耐えかね、令嬢側から「恐ろしい」と断られるのが、もはや常態化していたのだ。
貴族社会において、後継者の不在は千年以上続くアストリア家の断絶を意味する。側室を作るような器用さもないレオンの頑なさに、家令のオスカー・クロイスは胃を痛めながら近隣の諸貴族を訪ね回り、いくつものお見合いを取りまとめては破談になる日々に頭を抱えていたという。
そんな折、絶望的な状況の中で浮上した最後の頼みの綱――それが、母テレシアとの縁談だった。
テレシアの母親は、帝国三大貴族の一つ「メルヴィン家」前当主の側室だった。帝国法において、側室の子も正妻の子と同等の権利を持つと定められているとはいえ、血統と格式を重んじる貴族社会の実情は甘くない。そのため、側室の娘であるテレシアの立場は複雑であり、アストリア家にとっても慎重な判断が求められる案件だった。
しかし同時に、これは辺境の小貴族に過ぎないアストリア家が帝国中央との繋がりを得る千載一遇の好機でもあった。
そして何より、レオンにはもう後がなかった。
「これが最後の機会です、レオン様」
オスカーの悲壮感すら漂う決意のもと、アストリア家の屋敷で顔合わせが行われることとなった。
顔合わせの場として選ばれたのは、屋敷の庭園の散歩。初対面の令嬢を歩かせるなど貴族の作法としては異例だったが、これを提案したのは、意外にもテレシア本人だったという。
やがて、貴族の乗り物にしては質素な馬車が屋敷の車寄せに到着し、一人の女性がそっと降り立った。
その姿を目にした瞬間、レオンは息を呑んだ。
透き通るような肌と、触れれば折れてしまいそうなほど華奢な佇まい。 幾度となく見合いの席に臨んできたレオンだったが、目の前の女性ほど息を呑むほど美しい令嬢を見たことがなかった。
戦場でいかなる死地を前にしても揺らがなかったレオンの心が、その時ばかりは激しく乱れた。そして同時に、重い自虐と諦念が胸を削る。
(――今回も、ダメだろう)
どうせ自分のこの威圧的な姿と無骨な態度に怯え、逃げ出してしまうのだと。
案の定、二人きりで庭園の小道を歩き始めても、レオンは緊張のあまり声が出なかった。何か話さなければと焦るほど頭の中は真っ白になり、身構えるあまり肩に力が入ってしまう。
だが――不思議なことが起きた。
テレシアは、レオンに臆する様子を一切見せなかったのだ。
自分よりはるかに巨大な男が真隣で押し黙っていることなど意にも介さないように、彼女は庭園に咲く一輪の花に目を留めると、心底嬉しそうに微笑んだ。
「あの星霊花……見たことがないほど澄んだ青色をしていますね。とても綺麗です」
淑女としての品位を保ちながらも、まるで宝物を見つけた少女のように無垢に瞳を輝かせる。
立っているだけで人に恐怖を与える自分を前にして、こんなにも自然で温かな笑顔を向けてくれた女性は、レオンの人生で初めてだった。
溢れ出る感情を抑えきれず、レオンは思わず口を開いていた。
「……あなたは、私が恐ろしくないのですか」
吐き出した瞬間、レオンは激しい後悔に襲われた。 初対面の令嬢に向かって、なんて不作法で愚かな質問をしてしまったのか。聞こえていなければいい――そう祈るように固まったレオンの前で、テレシアはぴたりと足を止め、静かにに振り返った。
「レオン様の瞳の奥には、あたたかさが宿っていますから」
何でもない当然の事実であるかのように、彼女は言った。 穏やかな口調とは裏腹に、その紺碧の瞳には、揺るぎない確信が宿っていた。
レオンは息を止め、呆然と立ち尽くした。
今まで、誰もそんな言葉をかけてくれなかった。
見た目が怖い、無口で何を考えているか分からない、そう避けられ続けてきた。
だが、この人は――自分の厳めしい外見ではなく、その奥にある心を見ようとしてくれたのだ。
胸の奥から湧き上がる感情に突き動かされ、レオンはまっすぐに彼女を見つめた。
「……テレシア」
「はい、レオン様」
「私は……あなたと、これから先ももっと多くの時間を重ねたい」
逃げることなく、飾ることもなく、不器用な男は絞り出すように言葉を続けた。
「私の妻になっていただけませんか」
巧みな口説き文句も、洗練された詩も何一つ浮かばなかった。 ただ、胸の中で生まれた真っ直ぐな想いを、そのままぶつけることしかできなかった。
テレシアは少しだけ驚いたように目を細め、それから、庭園のどの花よりも美しく微笑んだ。
「はい。喜んでお受けいたします」
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