第七十五話「久しぶり」
昼の鐘が鳴ると同時に、俺とルシアンは教本を鞄にしまった。
「今日も売店?」
「そうだね。この曜日の食堂は混むし」
学院に入ってから分かったことの一つだ。
授業の組み方によって、食堂が混む日はかなり違う。
特に今日は、午前で授業の一区切りがつく専科が多いらしく、少し出遅れるだけで席を探すのにも苦労する。
以前、エマとリリィと一緒に食べた時もそうだった。それ以来、この曜日だけは四人で売店に寄って、中庭で昼を食べることが何となく続いている。
もっとも、先週は治癒魔法科の課外授業があって、二人は来られなかったのだけれど。
(結構、久しぶりだな)
教室を出て売店に向かう。
講義棟から続く通路には、同じように昼食に向かう学生が増え始めていた。
「いた」
ルシアンの声に前を見る。
売店の前で、見覚えのある二人がこちらを見つけた。
肩口で揃えた栗色の髪のエマと、その隣には横に細く編んだ淡い金髪のリリィ。
「久しぶり」
エマが手を上げる。
「二週間ぶりくらい?」
「多分、そのくらい」
「先週はごめんね。課外授業が思ったより長くて」
リリィが言った。
「別に謝ることじゃないでしょ」
「そうだけど」
「今日はちゃんと四人揃ったね」
ルシアンが言いながら売店に入る。
中はもう学生で混み始めていた。
棚には昼用のパンや果物、焼き菓子が並んでいる。奥では店員が次々と空いた場所に商品を補充していた。
俺は人の間を抜けながら、昼に食べるものを探す。
今日は——。
「レイン君」
「ん?」
少し先にいたリリィが振り返る。
「この前食べてたの、まだあるよ」
リリィの視線の先を見ると、棚の端に肉を挟んだパンが二つ残っていた。
「あ、本当だ」
一つ取る。
「ありがとう」
「ううん」
リリィはそう答えてから、自分の手元を見る。
もう自分のパンは持っていた。
「飲み物は?」
「果実水にする」
「赤い方?」
「うん」
前と同じものを棚から取る。
その横からエマが顔を出した。
「なんかリリィ、レイン君の昼ご飯まで覚えてるね」
「前に一緒に買ったから覚えてただけ」
「私が何食べたか覚えてる?」
「エマは毎回違うでしょ」
「確かに」
エマはあっさり納得して、今度は別の棚を見始めた。
俺も小さな焼き菓子を一つ追加する。
前にルシアンから、それだけでは少ないと言われたのを思い出したからだ。
会計を済ませ、四人で売店を出た。
中庭にはすでに何組もの学生がいる。
大きな木の下に置かれた長椅子の一つが空いていたので、そこに座った。
木の葉の間から日差しが落ちている。
風もある。
食堂の騒がしさと比べれば、こっちの方がずっと落ち着いていた。
(のどかでいいなあ)
包みを開けてパンを一口食べる。
「そういえば」
エマが言った。
「レイン君」
「ん?」
「惜しかったわね」
何のことかはすぐ分かった。
「アルドリックとの試合?」
「そう」
「あれから会ってなかったもんね」
リリィもこちらを見る。
二人ともあの日、模擬戦を見に来ていた。
俺がアルドリックに負けた日。
その後は特別選抜を巡る話が広がって、授業以外でも随分と騒がしくなった。
考えてみれば、それが全部終わってから二人とまともに話すのは初めてだ。
「本当に惜しかったよね。最後、どっちが勝つのか全然分からなかった」
エマが言う。
「私、あんな近くでちゃんと模擬戦見たの初めてだったし」
「私も」
リリィが頷いた。
「二人ともすごかった、っていうのは分かったんだけど……何をしてるのか途中から全然分からなかった」
「俺も、後から全部説明しろって言われたら難しいかも」
「本人なのに?」
「あのときは必死だったから」
「そっか」
リリィは納得したようだった。
そこから少し間が空く。
俺がパンを食べていると、リリィがもう一度こちらを見た。
「でも、レイン君って、あんな雰囲気にもなるんだね」
「どういうこと?」
「試合の時」
リリィが少し考えてから言う。
「いつも話してる時と全然違ったから。すごく集中してて、周りの声も聞こえてなさそうだった」
「そうだった?」
「うん」
「僕も少し驚いたよ」
ルシアンが横から言った。
「そんなに?」
「試合前から、アルドリックしか見てなかった」
言われてみると、否定はできない。
始まる前から、アルドリックがどう動くかばかり考えていた。
「それに」
リリィが続ける。
「負けた後、すごく落ち込んでたでしょ」
「……まあ」
「ここ最近、リリィが結構心配してたんだから」
エマが何でもないことのように言った。
「ちょっと、エマ」
「何よ。本当でしょ」
「そうだけど、今言わなくてもいいじゃない」
リリィがエマを見る。
エマは気にした様子もなく飲み物を口にした。
「試合で落ち込んで、その後は特別選抜のことで騒ぎになってたし。大丈夫かなって、何回か言ってたのよ」
「エマ」
「はいはい」
今度こそエマが話を切る。
俺はリリィを見る。
少し困ったような顔をしていた。
「そっか」
「……うん」
「心配かけてごめんね」
「謝らないで。勝手に心配してただけだから」
「でも、ありがとう」
そう言うと、リリィは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子で聞いてくる。
「もう大丈夫?」
「うん」
今度は迷わず答えられた。
「もう大丈夫だよ」
学院から特別選抜についての回答も出た。
エヴァンとも話した。
アルドリックに負けたことは、今でも悔しい。
でも、それはもう、何日も引きずって何も手につかなくなるような悔しさではなかった。
次に戦うならどうするか。
今はそっちを考えられる。
「ならよかった」
リリィが言った。
「本当にね」
エマも続く。
「前に会った時は、ずっと何か考えてたし」
「そんなに分かりやすかった?」
「分かりやすかった」
「分かりやすかったよ」
エマとリリィの答えが重なった。
隣を見る。
「ルシアンも?」
「僕は毎日見てたから」
それは答えになっているような、なっていないような気がする。
ただ。
二週間ぶりに四人で中庭に座って、昼を食べている。
周りでは他の学生たちも、授業の話や午後の予定を話していた。
少し前まであれだけ学院中で聞こえていた特別選抜という言葉も、今日は耳に入ってこない。
代わりに聞こえるのは、食堂の新しい料理がどうだったとか、課題をまだ終えていないとか、次の実技が嫌だとか、そんな話ばかりだった。
俺もパンの残りを食べる。
ようやく、いつもの学院生活に戻った気がした。
「そういえば、昨日は何してたの?」
エマが聞いてきた。
「昨日?」
「放課後。ルシアンは先に寮に戻ったってさっき言ってたでしょ」
「ああ。それなら、研究棟に行ってたんだ」
「研究棟?」
リリィが聞き返す。
「マルティナ教授の研究室」
「あのマルティナ教授?」
「知ってるの?」
「名前くらいなら。学院の先生だし」
「それに、魔法理論の研究者として有名だもん」
エマも覚えていたらしい。
「実は、二年前に会ったことがあって、学院に入ったら研究室を使っていいって言われてたんだ」
「二年前から?」
「そう」
「それでやっと行ったんだね」
ルシアンが言う。
「色々あったから」
「それはそうか」
入学してから授業が始まって、アルドリックと模擬戦をして、その直後から特別選抜の騒ぎが始まった。
研究棟に行きたいとは思っていたのに、結局昨日までかかってしまった。
「研究室では何したの?」
エマが聞く。
「今は実験のやり方を考えてるところ」
「また魔法?」
「うん」
答えると、エマが笑った。
「やっぱりそこは変わらないのね」
「変えるつもりないし」
「前は控えるって言ってなかった?」
リリィにも言われる。
「あれは、人と話す時に魔法の話ばっかりするのを少し控えようと思っただけ」
「研究するのは別?」
「別」
「そこははっきりしてるんだ」
リリィが笑う。
「でも、それだとレイン君、放課後もずっと学院にいるんじゃない?」
「大体そうかも」
「休日は?」
「図書館に行ったり。今なら研究室にも行くと思う」
「帝都には?」
「帝都?」
「うん。街の方」
聞かれて考える。
学院に来た初日は、馬車の窓からずっと街を見ていた。
その後も必要な物を買いに外に出たことはある。
でも。
「ほとんど見てないな」
「え?」
リリィが俺を見る。
「本当に?」
「学院の近くなら歩いたよ」
「そういう意味じゃなくて」
リリィが一度切り、再び口を開く。
「中央通りとか、市場とか。お店が集まってるところとか」
「行ってない」
「帝都に来て、もう結構経つよ?」
「授業あるし」
「じゃあ休日は?」
「図書館かなぁ」
リリィが黙る。
隣でエマが笑いを堪えていた。
「何?」
「いや。レイン君らしいなと思って」
「そう?」
「帝都に来たのに、学院だけで満足してるんだもの」
「満足はしてるかも」
「ほら」
エマが笑う。
リリィは呆れたような顔をしていたけれど、すぐに話を続けた。
「帝都には、学院の外にも面白いところいっぱいあるよ」
「うーん。例えば?」
「食べ物なら、中央通りから一本入ったところに焼き菓子で有名なお店があるし、大きな市場もあるよ。休日はすごく混むけど」
「市場はちょっと見てみたい」
領都の市場とは規模が全く違うだろう。
「あと、本屋さんも多いの」
「学院の図書館があるのに?」
「学院には専門的な本が多いでしょ。街の本屋さんには普通の本もあるし」
「確かに」
「それと、有名な魔導具のお店」
そこで意識がそちらに向いた。
「魔導具?」
**「ほら」**
エマがすぐに気づく。
「急に食いついた」
「だって気になるし」
「今までの市場と書店より明らかに早かったよ」
それは仕方ない。
「どんな店なの?」
リリィに聞く。
「帝都では結構有名なところ。杖とか、普段使う魔導具とか、学院生が使うものも置いてるよ。あと、細かなアクセサリーとかもあるみたい。魔導具の機能もついてる」
「へえ。学院生も行くの?」
「うん。上級生もよく行くって聞くし、私も何度か行ったことあるよ」
「いいね。行ってみたいな」
リリィに聞く。
「場所分かる?」
「もちろん」
「じゃあ今度、教えてよ」
「教えるだけ?」
「え?」
リリィが一瞬止まってから、言い直した。
「場所だけ聞いても、初めてだと少し分かりにくいから。時間が合ったら、今度行ってみる?」
「行きたい」
「じゃあ、そのうちね」
「うん」
それだけで話は終わった。
「私、焼き菓子の店の方がいいんだけど」
エマが言う。
「エマは自分で行けるでしょ」
「リリィも魔導具屋くらい自分で行けるじゃない」
「そういう話じゃない」
隣のルシアンを見ると、残っていた果実を食べていた。
俺も飲み物を手に取った。
* * *
昼食を終え、四人で講義棟の方に戻る。
午後は俺とルシアンが総合科の授業。
エマとリリィは治癒魔法科の講義があるらしい。
「さっきの焼き菓子って、そんなに有名なの?」
歩きながら聞くと、リリィがこちらを見る。
「気になるの?」
「魔導具屋だけ聞くのも悪いかなと思って」
「気を遣うところそこなんだ」
エマが前から振り返った。
「でも美味しいよ。甘いの好きなら」
「嫌いじゃない」
「リリィはかなり好きだよね」
「そうかなあ」
「前に二つ食べてたじゃない」
「あれはお昼が少なかったから」
「二つも?」
「……美味しかったから」
少しだけ間があった。
「じゃあ好きなんじゃない?」
俺が言うと、リリィはこっちを見る。
「好きだけど」
「ならいいじゃん」
「そうだけど……なんかエマに言われるのと違う」
「何それ」
エマが笑う。
俺もつられて笑った。
授業でもない。
魔法でもない。
何か大事な話をしているわけでもない。
焼き菓子が好きかどうか。
それだけ。
でも、こうして同い年の女の子と何でもない話をしながら歩くこと自体、俺にはあまり経験がなかった。
領地にいた頃、同年代と話す機会がなかったわけではない。
ニコとはよく話した。
学院に来てからは、ルシアンたちとも毎日のように一緒にいる。
それでも、リリィのような同い年の普通の女の子と、授業とも家とも関係のない話をしながら歩くのは少し違った。
淡い金髪が歩くたびに揺れる。
可愛らしい子だとは前から思っていた。
だからなのかは分からないけれど、何となく新鮮だった。
「じゃあ、魔導具屋の近くにも何かある?」
「あるよ。食事するところも多いし、そのまま中央通りまで歩ける」
「じゃあ一日見て回れそうだね」
「一日?」
「せっかく行くなら」
リリィが少し驚いたように俺を見る。
「……そうだね。結構色んな場所見られると思う」
「なら楽しそう」
その先で道が分かれた。
エマとリリィが使う講義棟は右。
俺たちは左だ。
「じゃあまたね」
エマが手を上げる。
「うん」
「午後も頑張ってね」
リリィが言う。
「二人も」
別れてから、ルシアンと並んで歩く。
数歩進んだところで、隣から声がした。
「レイン」
「何?」
「いや、何でもない」
「何それ」
「本当に何でもないよ」
ルシアンはそれ以上何も言わなかった。
俺も聞き直さなかった。
午後の授業に遅れそうだ。
少しだけ歩調を速めた。
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