第七十四話「約束の机」
一組と三組の合同授業が終わると、エヴァンが自分の答案を持って俺の席まで来た。
「この前の課題、持ってきたか」
「うん」
鞄の中から、先日の課題の答案を取り出す。
こうして正面から見ると、エヴァンは同じ一年生の中でもずいぶんきっちりした印象だった。
短く整えた黒髪に、暗い灰色の目。
細身の身体に着た制服は襟元まで乱れがなく、袖もきれいに整っている。
エヴァンは向かいの席に座り、自分の答案を俺の横に置いた。
「まず、お前のを見てもいいか」
「どうぞ」
エヴァンが俺の答案を手に取る。
先日の課題は、大きな橋が十日間使えなくなった場合、周辺にどんな影響が出るかを考えるものだった。
途中で教師から、資料にある州内輸送量には州政府が直接管理する輸送だけでなく、その州内を通過する民間輸送も含まれる、と訂正が入った。
オスカーから領地のことを教わる中で、一つの条件が変わった時、そこから何に影響が出るかを考えるのは何度もやってきた。
だから俺は、訂正された条件を使っている場所を答案の中から探し、その部分を計算し直した。
エヴァンは違った。
訂正が入った時点で、それまで書いていたものを一度止め、新しい紙で最初から確認し直している。
同じ課題なのに、並べてみると途中の書き方から違っていた。
しばらく黙って俺の答案を追っていたエヴァンの指が、一か所で止まる。
「ここ」
「ん?」
指されたところを覗き込む。答案の後半に書いた、計算結果をもとにしたまとめだった。
「この判断、訂正する前の計算から出してないか」
「……あ」
少し前まで戻って確認する。
教師の訂正を受けたあと、輸送量そのものを使った計算は直していた。
けれど、その結果を使って途中で整理した内容から、さらに先に書いた部分が一つ残っている。
数字を直接書き直す場所ではなかったせいで、追う途中で抜けたらしい。
「ほんとだ」
俺が言うと、エヴァンはその箇所と前の計算をもう一度見比べた。
「変更された数字を使ってるところまでは直してるんだな」
「うん。そこから先を一個見落とした」
自分の答案を見返す。
訂正された条件を探し、その条件を使っている計算を拾うところまでは問題なかった。
ただ、その計算結果がさらに別の判断に使われているところまで追い切れていない。
今度はエヴァンの答案を借りて見る。
教師の訂正前に書いていた部分は途中まで残っているが、その先は別の紙で最初から組み直していた。
人口、輸送量、主要な生産物と備蓄。
それぞれの資料を一つずつ確認して、必要な数字を改めて拾っている。
そのおかげで、俺が残してしまった箇所も訂正されていた。
「これ、条件が変わったあと、やり直すのにかなり時間かかった?」
「かかった。最初から全部確認したからな」
「この辺は訂正前と同じだよね」
答案の前半を指すと、エヴァンが頷く。
「だから俺は、先生が変えた条件を先に確認して、それを使ってる場所から直した。ここまではそのまま使えると思ったから」
自分の答案も横に置き、どこから修正したのかを示す。
エヴァンは二枚を見比べながら、しばらく黙っていた。
「先に影響する範囲を絞ったのか」
「うん。その方が早いから」
「ただ、それで一か所抜けた」
「そう」
エヴァンはもう一度、俺が見落とした部分を見る。
「なら、修正したあとに全体を確認すればいい」
確かに、それなら両方の欠点を減らせる。
変更された条件から影響する場所を辿って直し、最後に答案全体を読み直す。最初から全部計算し直すよりは速く、途中の見落としも拾いやすい。
「次からそうする」
俺が言うと、エヴァンは鞄から小さな手帳を取り出した。
予定でも確認するのかと思ったが、開いた頁に今話した内容を書き始める。
条件が変わったら、まず変更点から影響する範囲を確認すること。必要な部分を直したあと、最後に全体を確認すること。
短くまとめ終えると、エヴァンは手帳を閉じた。
本当に次から使うつもりらしい。
「俺も、いきなり全部やり直す前に確認してみる」
「その方が早いと思う」
「ああ」
エヴァンは俺の答案を返し、自分のものも揃えて鞄にしまった。
「ありがとう」
「こっちも。見落とし、気づかなかった」
それで話は終わった。
前みたいに言い争うこともなく、だからといって無理に話を続ける理由もない。
「じゃあ、また」
「うん」
エヴァンはそのまま席を離れていった。
俺も答案をしまい、次の授業の準備を始めた。
* * *
放課後。
俺は研究棟の前に立っていた。
学院に入ってから何度か近くまでは来ているけれど、きちんと目的を持って中に入るのは今日が初めてだった。
研究棟は講義棟とは雰囲気が違う。
廊下を歩いているのも学生ばかりではなく、書類を抱えた教員や、見たことのない器具を運ぶ上級生が混じっている。
開いた扉の向こうから何人かが議論する声が聞こえる部屋もあれば、誰かがいるのか分からないほど静かな部屋もあった。
入学したら、もっと早く来るつもりだった。
そう思っていたのに、学院生活が始まると、授業や寮での生活に慣れるだけでも思った以上にやることがあった。
そのうえ特別選抜のことで騒ぎになり、気づけば今日まで延びてしまっている。
案内を確かめながら研究棟の中を進み、ようやく目的の表示を見つけた。
術式構造学研究室。
その文字を見たところで、足が止まる。
二年前。
まだ学院に入るかどうかも決めていなかった頃、アストリア家の屋敷でマルティナ教授と話した。
俺の魔法を見てもらって、セレナの学生時代の話を聞いて、その最後に言われた言葉がある。
『必要なら、研究室の机くらい用意します』
あの時、学院はまだずっと先にある場所だった。
今となっては、そこで授業を受け、寮で暮らし、同級生と課題を見せ合って、その帰りに研究室の前に立っている。
当時はまだ、そこまで具体的には想像できていなかった。
今は、その研究室が扉一枚の向こうにある。
(やっとだ)
少しだけその表示を見てから、扉を叩いた。
「どうぞ」
聞き覚えのある声が返ってくる。
扉を開けると、室内にはいくつもの机と棚が並んでいた。
資料や術式図らしい紙が積まれた机もあれば、器具だけが置かれている場所もある。
その奥で、灰色がかった金髪を後ろでまとめた女性が顔を上げた。
細い銀縁の眼鏡。
二年前、向かいに座って俺の魔法を見ていた時と変わらない。
少し離れた机には、見覚えのある金色の髪もある。
リアだ。
何枚かの紙を広げ、こちらに背を向けて何かを書くのに集中しているようだった。
マルティナ教授は手元の書類から俺に視線を移すと、すぐには何も言わなかった。
俺も扉の前で立ち止まる。
二年ぶりに会ったのだから何か言うことはいくらでもあるはずなのに、顔を見た瞬間、最初に何を言えばいいのか分からなくなった。
「……お久しぶりです、マルティナ教授」
「ええ」
教授は眼鏡越しに俺を見る。
「久しぶりですね、レイン・アストリア君」
落ち着いた声も変わっていなかった。
「入学した時に、ご挨拶に来ようとは思ってたんですけど」
「遅かったですね」
「……はい」
思ったよりはっきり言われた。
マルティナ教授は俺を見たまま、少し間を置く。
「二年待ったぶん、入学したらもう少し早く顔を見せるかと思っていました」
「ああ……そっちもですか」
「そっちも、です」
二年前から今日までの二年と、入学してから研究室に来るまでの時間。その両方を言われているらしい。
「すみません。入ってから、思ってたより色々あって」
「それは知っています。色々と大変でしたね」
マルティナ教授は特別選抜の件で評議会の議長をしていた。
あのごたごたを知らないはずがない。
マルティナ教授は手元の書類を揃えて脇に置いた。
「学院生活はどうですか」
「まだ慣れてないこともありますけど、面白いです」
「授業は?」
「それも。知らなかったこともかなり多くて」
「そうでしょうね」
今も、話したいことはいくつもある。
学院で受けた授業のことも、実技で見た術式のことも、東部にいた頃には知らなかった考え方も。
けれど、今日は別に目的があった。
どう切り出そうか考えていると、マルティナ教授の視線が俺の手元に落ちた。
持ってきた紙束を抱えたままだった。
「今日は、挨拶だけではなさそうですね」
「はい」
俺は紙束を持ち直した。
* * *
「魔力視を、ですか」
「はい」
研究室の中にある打ち合わせ用の机に移り、俺はここに来た理由を説明した。
「俺が見えている魔力と、観測器で測った結果を比べてみたいんです」
マルティナ教授はすぐには答えず、俺が持ってきた紙束に目を落とした。
「具体的には?」
「同じ人に同じ魔法を使ってもらって、使う魔力量だけ変えます。俺は観測器の数値を見ないで魔力を見て、多い順に並べる。それをあとで実際の測定結果と比べます」
「なるほど」
これは以前、リアと話した方法だった。
同じ術者に、同じ魔法を何度か使ってもらう。変えるのは使う魔力量だけにして、観測器で実際の値を記録しておく。
俺にはその数値を見せず、魔力視だけで多い順に並べる。
それが繰り返し測定結果と一致するなら、少なくとも俺が見て判断しているものと実際の魔力量には、何かしらの関係がある。
さらに差を小さくしていけば、どの程度まで見分けられるかも確かめられる。
「それと、俺が何を見て多いとか少ないとか判断しているのかも、記録しようと思ってます。濃さなのか、流れてる量なのか、それ以外なのか」
「それも自分で?」
「はい。ただ、まだちゃんと言葉にできるかは分からないです」
「最初から正確な言葉にする必要はありません。あとから比較できる形で残せればいいでしょう」
マルティナ教授はそう言ってから、研究室の奥に視線を向けた。
「リアさん」
「はい」
返事がして、俺もそちらを見る。
琥珀色の目がこちらを見る。
「こんにちは、レイン」
「ひさしぶり、リア」
「ええ」
机の上には本と紙がいくつも広がっていた。
「リアさんは、もう何度かここに来ています」
マルティナ教授が言った。
「そうなんですか?」
「聞きたいことがあったから」
リアは自分の机に戻ると、何枚かの紙を持ってきた。
「この前話した実験に使えそうな観測器があるか、調べてたの」
「もうそこまで見てたんだ」
「使えるものが分からないと、できる実験も決められないでしょう」
紙には、器具について確認した内容らしいメモが並んでいる。
「ちょうどよかったですね」
マルティナ教授が俺とリアの紙を見比べる。
「ですが、実験器具を使っていいとはまだ言っていません」
俺とリアの視線が教授に戻った。
「まず、計画を整理してください。何を固定するのか、何を変えるのか、何を記録するのか。他人が読んでも分かるようにして持ってきてください」
俺は自分のメモを見る。
術者は固定する。
使う魔法も固定する。
変えるのは魔力量だけ。
以前リアと話した時点で、そこまでは決めていた。
「それから、変わるのは本当に魔力量だけなのかも考えてください」
マルティナ教授が続ける。
「例えば、同じ人が同じ魔法を使っても、毎回まったく同じように制御できるとは限りません。ある時だけ魔力が多く漏れたり、発動する範囲が少し変わったりすれば、レイン君にはそちらの違いが見えている可能性もあります」
「ああ……」
言われてみれば、魔力量だけを変えたつもりでも、それ以外まで変わっていたら区別できない。
「魔力量による違いを調べたいのなら、それ以外に結果へ影響しそうなものは、できるだけ揃える。それが難しいものは、少なくとも記録しておく必要があります」
リアがすぐに手元の紙へ書き込む。
「魔力の漏れと、発動した魔法の状態も見た方がよさそうですね」
「そうですね。何を記録する必要があるかも含めて、まず計画にしてください」
もう確認することが増えてしまった。
(実験一つするにも、こんなに考えることがある)
俺もメモに書き足そうとして、余白がほとんど残っていないことに気づく。
それを見たマルティナ教授が部屋の端を指した。
「そこの机を使ってください」
「いいんですか?」
「実験器具を使わせるかは計画を見てから決めます。ただ、資料を読んだり計画を立てたりする分には構いません」
示されたのは、今は誰も使っていない机だった。
椅子が一脚あり、資料や紙を広げるには十分な広さがある。
その机を見て、二年前の言葉を思い出す。
「あの」
「はい」
「二年前に言ってた机って、これですか?」
マルティナ教授も一度机を見た。
「一応、約束でしたから」
その返事も、二年前と変わらない調子だった。
「ありがとうございます」
「ただし、研究室の決まりは守ってください」
「......はい」
二年前にも、机を用意する代わりに閉室時刻は守るよう念を押された記憶がある。
セレナの弟子ということで、少し警戒されているらしい。
机まで行って椅子を引く。
鞄を脇に置いて座ると、それまでただ研究室の一部だった机が、今日から自分も使っていい場所になった。
リアも資料を持ってくる。
「ここで考える?」
「うん」
リアが向かいに座り、白紙を一枚、俺たちの間に置いた。
俺はその上に、まず三つの項目を書く。
固定する条件。
変える条件。
記録するもの。
そこまで書いたところで、すぐに次が気になった。
「同じ魔法っていうのも、どこまで同じならいいのか決めた方がいいよね」
「ええ。術式が同じならいいのか、それ以外も揃える必要があるのか」
「観測器で何が記録できるかも先に知りたい」
「それは少し調べてる。全部じゃないけど」
「見せて」
リアが持ってきた紙をこちらに寄せる。
俺も自分のメモを横に広げた。
まだ一度も実験していないのに、確認したいことはすぐに増えていった。
どこまで条件を揃えられるのか。俺が見ている濃さは何なのか。流れている量に見えるものは、観測器の数値とどう対応するのか。
それを確かめるには、どんな順番で試せばいいのか。
「レイン」
「ん?」
「楽しそう」
リアが俺の紙を見ながら言った。
気づけば、最初の白紙はもうかなり埋まっている。
「リアも人のこと言えないでしょ」
「私は普通よ」
そう言いながら、リアは俺より先に次の紙を取った。
その様子を見ていて、ふと思う。
「でも、いつも前みたいな感じじゃないんだね」
「前の感じって?」
「初めて話した時。魔法理論の授業のあと」
リアの手が止まる。
「魔力視について、質問が止まらなくなってた」
「私……そんな感じだったの?」
リアの頬にうっすら赤みが差した。
「魔力視なんて初めて見るものだったから、つい興奮しちゃって……」
そこまで言ってから、リアが顔を上げる。
琥珀色の目が、今度はまっすぐ俺を睨んだ。
「いつもあんな感じだと思ってもらったら困るわ」
「そうなんだ」
「そうよ」
言い切ると、リアは何事もなかったように紙へ視線を戻した。
その手元には、もう次に確認することが一つ書き足されている。
二年前。
学院の研究室に自分の机があって、そこで魔法について調べている姿を想像したことがある。
でもその時は、向かいに同い年の学生が座って、一緒に実験のやり方を考えているところまでは想像できなかった。
こっちのほうが楽しい。
俺は新しい紙を手元に引き寄せ、次の確認項目を書き始めた。




